高校編2
「とにかく、これ以上追い回さないでくれ。あと教室にも来ないでほしい。全員、受験前でピリピリしている時期なんだから、こんなくだらないことで受験生の集中を妨げるのはどうかと思う」
さすがに七季が正しかった。
彼らの行動について楽しむ者もいれば、当然疎ましいと思った者も少なくはない。もっともな事を言われた要は差し出した手紙を自分の胸元に寄せながら「すみません」と静かに謝罪して見せる。そんな彼女の態度にも眉間のシワを消さないまま、七季はもう一度メガネのブリッジを持ち上げてみせた。
「では、いつなら良いですか?」
「……は?」
謝罪の態度から見て、ようやく諦めてくれると思っていた少女の口から新たな質問が繰り出されたことに、七季は素直に唖然とした。
「先輩の教室には行きません。私の配慮が足りないせいでご迷惑をおかけしてしまって申し訳ありませんでした。けれどお手紙の事は別と考えています」
わー、神経図太~い。
とか周囲が思っていたのはこの際無視しよう。確かにそれとこれとは話が違うな、と頷く者も中にはいたが、それもこの際は無視だ。互いに一歩も引かない攻防戦に周囲が一番ハラハラしているのは当事者の知らないことではあるが。
丁度タイミングが良いと言えばよいか、悪いと言えばよいかは分からないが、無言で見つめ合う――否、にらみ合う二人の間に予鈴のチャイムが鳴る。互いにハッとした表情を浮かべると真っ先に動いたのは意外にも要の方だった。
「移動教室のため、お先に失礼いたします。では、また」
そう言って深々とお辞儀をして見せた要であったが、次の瞬間には踵を返してスタスタと自分の教室がある離棟へと歩みを進めだした。そんな要の背中を見つめながら、七季は自分の額を押さえて大きくため息を漏らす。
「……またって何だ、またって」
今後も続きそうな子の展開に七季はただ頭を抱えたのだった。
◇◆◇
こういう時は趣味に走る。
七季にとっては写真撮影がそれだった。もともと帰宅部だった七季が写真部に入ったのは二年に進級した頃だった。七季が勉強に打ち込んでいるのは決して親が厳しいとか、将来に目標があるとかという明確な理由はない。自分に自信を持つことができない七季が選んだのが勉学だった。運動はいくらやっても不得手だったため、それであればそれほど苦手ではなかった勉強に専念しようというのがそもそもの始まりだ。突起した得意分野もなければ才能もない凡人過ぎる自分に嫌気が差して勉強に励むようになったのだ。
知識を身に着けること自体嫌いではなかったし、むしろ新しいことを知るという行為は楽しいとさえ思えた。励めば励むだけ結果がついてくる楽しさを知っていたはずが、いつの間にか自分に貸せた目標がどんどん重くなっていったのは彼の不器用さでもある。両親は現在の成績でも充分に満足してくれていたし、少しくらい肩の力を抜いてもいいとさえ言ってくれるほどだ。それでも七季の中に溢れてくる向上心はやがてプレッシャーと言う名を名乗り始め、自身で身動きが取れなくなってしまったのは悲しい性というべきか。
真面目からくる完璧主義が自分自身を苦しめ始めてしまったのだ。
成績が伸び悩み、途方に暮れていた七季に声をかけてくれたのは一つ年下の後輩、今田蝶子だった。
「よかったら、写真部に入りませんか?」
少し気分転換にと、グラウンドを見渡せる校庭のベンチに腰掛けて参考書と向き合っていた時、突然話しかけてきたのが蝶子だった。最初こそ驚いたものの、自分と同じような優等生の身なりをした蝶子の姿にすぐ警戒心を解く。
この学校は校訓が自由であるがゆえに、制服を着崩して着用する生徒が非常に多い。その中でもきっちりと模範のように着こなすのは珍しい方で、蝶子はその数少ない方に部類されていた。
「写真部?」
と怪訝な表情のまま、なぜ自分に? という疑問を抱きながらも聞き返せば、蝶子は柔らかに微笑んで静かに頷いて見せた。
「私、好きなんです。ファインダー越しに見える世界。もちろん、肉眼で見た方が素敵なものもありますが、その素敵だと思えたものを残せるのは素敵と思いませんか?」
そう言って自分の立っていた校庭からグラウンドを見渡して、七季はようやく自分が立っている場所を実感した。
部活動の掛け声や、夕日に照らされた街並み。帰宅する生徒達のくだらない会話。
さわわと鳴る木々の囁きと、対照的に子供達の笑い声が遠くから耳に届く。
空が青から赤へとゆららかに変色し始め、そこを散歩する雲は穏やかに笑う。
――ああ、自分はなんて狭い世界に生きていたのだろうか。
顔を上げれば当たり前にあった世界を、当たり前と思っていなかった蝶子の感性に心が揺らぐ。そうして誘われるがままに写真部への入部を決めた七季だったが、自分が想像していた以上にその世界へとのめりこんでしまった。
いつも参考書に視線を落として歩いていた通学路でさえも、被写体になるものを探しながら歩くのは気分転換にもなった。最初こそ部が所有する古びたカメラを使っていたものの、自前のモノが欲しくなった。今時、スマホでもデジカメでも充分だ。けれど写真部全員が一眼レフなんて立派なカメラを持っていて、ネットで確認をしてみれば高価過ぎる価格帯に七季を驚かせた。
部員が全員自前のカメラを持っていることは七季を二重に驚かせる。唯一の女子部員である蝶子でさえ自前のカメラを持っているのに対し、自前でないのは七季だけだ。部活上、絶対自前を用意しろというわけではないが、欲というのは一度湧き出てしまうとなかなか落としどころがない。
フリマアプリでも探したけれど、やっぱり最初に自分で持つものが新品がいいなとも思う。自分の小遣いだけでは到底手が出せない物だったために、恐る恐る親におねだりしたのも懐かしい。
そんな高価なものをと突っぱねられる前提でお願いすれば、両親は少しだけ考えたようではあったものの、「いつも勉強を頑張っているから」という理由で買い与えてくれた。自分で貯めていた小遣いも足しにして、きっと足しにもならなかっただろうけれど、親が奮発してくれた時は滅茶苦茶嬉しかったのを覚えている。勉強を頑張っていて本当に良かったと思った瞬間でもある。こうしてめでたく自前のカメラを手に入れた七季はますます夢中になった。
勉強の合間に息抜きでカメラ片手に自宅近くの公園へと足を運び、木々や無機物を撮る。なんでも目に留まったものを写真に残し、それを後から確認して、気に入ったものを現像する。現像もまた先に所属していた部員達に教わりながら自身で行うとますます面白さがわかってくる。
現代において写真画像をデータで保存し、プリンタで印刷するのが主流であるのはわかっているが、写真部はあえてアナログな現像方法を使っている。
薬品に付けた紙にうっすらと浮き上がってくるのは、自分視線の代理とも呼べる風景。このワクワク感は七季が今まで感じたことのない昂揚そのものだった。だから、と言えばいいだろうか。彼にとって写真は唯一の趣味と呼べるものになった。
それほど技術力はないにしろ、今まで趣味は何と聞かれ、勉強としか答えられなかったつまらない人間を脱却できたのは言うまでもない。あの時、蝶子がなぜ自分に声をかけたのかは未だに理由を知らないままであったが、それでも蝶子には感謝してもしきれない。
彼女に淡い想いを抱くのもまた必然だった。
その想いを誰かに教えたことはないし、態度に出したことも、本人に言うつもりも毛頭ない。異性との付き合いは勉強の邪魔でしかないため、想うだけで充分だというのが七季の持論だ。自分の不器用な性格をよく知っているからこその判断だが。
そういう経緯から、七季はその日のHR終了後、参考書や教科書が入った重たい鞄とカメラをぶら下げて下校途中の小さな公園に立ち寄った。凍てつく両手をこすりながら、冷たい風が吹く公園をぐるりと見渡す。すでに冬の暗い夜空が覆っていたため、この時間帯はあまりカメラにとって好条件とは言えない。それでもカメラを構えたい衝動を抑えきれなかった七季は、人気のないベンチに鞄を置いてカメラを自分の顔の前に据える。無我夢中になってどんなものでも撮影した。
液晶モニターもついているけれど、ファインダー越しに覗く世界が七季は好きだ。
崩れた砂山に残された小さなプラスチックのスコップや、寂れたブランコ。コンクリートの隙間から覗く雑草も彼にとっては被写体だ。
七季は人物を撮らない。自分に向けて笑顔を振りまいてくれる人は限られてくるし、七季自身、撮影させてくれる人に対して気の利いた言葉を言えない。自然な表情を撮りたいと思っていても、七季の馬鹿正直な口では到底撮りたいものが撮れないからだ。
無我夢中でカメラのシャッターを押し続けた七季が、何もない花壇の前にしゃがみながら小さな雑草を撮影し、自分の中でそれなりに満足したかのようにふぅと小さな息を吐いてカメラを下した時だった。
「お疲れ様です」
「どわああああああ!!」
唐突に真横から話しかけられた事に七季は尻もちをついて答えた。両手で持っていたカメラを離さなかったのは無意識から来る意地だ。自分以外の気配など全く感じていなかった七季を驚かせたのは、自分を追いかけまわす要の姿だ。
いつの間にか同じ体勢で真横に居た要に一切気づかないほど夢中になっていたらしい。尻もちをついて目を白黒させていた七季に対し、要は相変わらずの無表情なままゆっくり立ち上がると、制服のスカートを直しながら、尻もちをついたままの七季に手を差し伸べた。




