田中健三、卵焼きを焼く
午前8時45分。田中健三、52歳。綺麗に整えられた短い髪、剃り残しのない髭、登庁スタイルは毎日、紺のスーツに白のYシャツ、緑のネクタイ、履き込まれた革靴だ。夏場はクールビズが認められている。彼はいつも通り、正確な足取りで「第二公務員特殊労働局 第七課 卵黄分室」の、錆びかけた鉄扉の前に立っていた。
扉の上部には、古めかしいフォントの表示。
――本室は極秘業務を司る。部外者の立ち入りを厳禁する――
そう書かれたプレートが、薄暗い蛍光灯の光を反射している。彼の手に握られた鍵は、長年の使用で表面が摩耗し、指紋の凹凸さえも滑らかになっていた。鍵穴に差し込み、わずかに重い手応えを感じながら回すと、カチリ、と硬質な音が室内に響いた。この音は、彼にとって一日の始まりを告げる、静かな号砲だった。
室内は、想像を絶するほど殺風景だった。壁は白く塗られているが、長年の油汚れと煤で黄ばみ、ところどころ塗料が剥がれ落ちている。床はコンクリート打ちっぱなしで、中央に業務用シンクと、ずらりと並んだガスコンロが置かれている。ガスコンロは全部で12口。しかし、稼働するのは前列の右から数えて5番目のコンロだけだ。その上には、業務指定の「特務支給品・焦げ付き防止加工卵焼き専用フライパン」が、静かに鎮座していた。フライパンは、新品のような輝きを保っている。毎日の手入れの賜物だった。シンクの横には、高さ1メートルほどの銀色の業務用冷蔵庫がそびえ立ち、その中には、本日分の業務に使用されるであろう、大量の鶏卵がぎっしりと詰め込まれていた。他に家具といえば、使い込まれた金属製の緑がかった事務机が一つと、座面の擦り切れた黒の回転椅子があるだけだ。窓はない。外界との接点は、この鉄扉のみ。完全に隔離された空間だった。
田中はまず、上着を椅子の背にかけ、真新しい白い割烹着を身につけた。背筋を伸ばし、軽く両肩を回す。次に、シンクに向かい、業務指定のハンドソープで入念に手を洗った。指の間、爪の先まで丁寧に。この一連の動作は、彼にとって瞑想にも似た、精神統一の儀式だった。
午前9時00分。定刻。 田中は冷蔵庫から、その日の業務に必要な数の卵を取り出した。業務日報には、「特Mサイズ卵、一日あたり200個」と明確に記されている。彼は一瞬たりとも迷うことなく、正確に200個の卵を専用のボウルに移した。卵は、薄いクリーム色の殻に覆われ、それぞれが均一な大きさだった。まるで、世界屈指の養鶏場から、彼の元へと届けられる特別な卵であるかのようだ。
彼は卵を一つずつ手に取り、その重みと、かすかな温もりを感じ取った。そして、流れるような動作で、シンクの縁にコン、と軽く打ち付ける。殻が均等にひび割れ、指の間に力を込めると、薄い膜が破れ、黄金色の卵黄が、透明な卵白の海にゆったりと沈んでいった。パチン、パチン、と規則正しい音が室内に響く。200個の卵を割り終えるまで、およそ40分。急ぐわけではない。一つ一つ丁寧に行う。この間、彼は一切の無駄な動きをしない。まるで、千年の歴史を持つ茶道の宗匠が、一服の茶を点てるかのような、淀みのない所作だった。
全ての卵がボウルに収まると、彼は次に、業務指定の調味料棚から、真新しい業務指定の塩の袋と、業務指定の特製だしを取り出した。塩は、粒子の一つ一つが均一で、まるで結晶のように輝いている。だしは、深みのある琥珀色をしており、ボトルからは、かすかに海の香りが漂ってくる。ただ、中身についての詳細な記載はない。計量カップとスプーンを手に取り、日報に記載されたグラム数を正確に量り取る。塩は12グラム、だしは30ミリリットル。この比率は、私が携わる前から数十年、一日たりとも変わったことがない。わずか0.1グラム、0.1ミリリットルの誤差も許されない。それが、彼の「公務」だった。
調味料が加えられた卵液を、彼は業務指定の泡立て器で攪拌し始めた。最初はゆっくりと、卵黄と卵白が混ざり合うように。その後、少しずつ速度を上げ、全体が均一な淡い黄色になるまで混ぜ続ける。泡立て器がボウルに当たる音は、まるで静かなジャズのビートのように、心地よく室内に響いた。泡立ちすぎず、かといって混ざり合わないまま放置することもなく、黄金の液体は、やがてまるで滑らかな絹のような光沢を帯びていった。
「よし。」
彼は呟くと、換気扇のスイッチを入れ、 ガスコンロの火をつけた。青い炎が、シュッと音を立てて燃え上がる。フライパンを火にかける。彼の右手の親指と人差し指の間の筋肉は、長年のフライパンさばきで、まるで岩のように硬く隆起していた。フライパンが温まるのを待つ間、彼は壁にかかった業務指定のタイマーをセットする。2分。フライパンが最適な温度に達するまでの時間だ。
2分後。タイマーの電子音が鳴り響く直前、田中はまるで予知していたかのように、業務指定の菜種油をフライパンにひいた。油は、フライパンの底で均一に広がり、わずかに煙が立ち上る。そして、おもむろに最初の卵液を注ぎ入れた。ジュワッ、という心地よい音と共に、黄金の液体は瞬く間に固まり始める。彼は間髪入れずに、業務指定の菜箸を使い、手際よく奥から手前に卵を巻き込んでいく。一層、また一層と、丁寧に。
彼の眼差しは、フライパンの上の卵焼きから一瞬たりとも離れない。炎の揺らめき、卵液の固まる速度、巻き込むタイミング。全てが彼の長年の経験と、公務員としての献身によって培われた、精緻な計算と感覚に基づいている。一層巻き終えるごとに、彼は再び少量の油をひき、卵液を注ぎ入れる。この動作を、卵液がなくなるまで繰り返す。卵焼きは、彼の右腕とフライパンが織りなす、流れるような舞によって、徐々にその形を成していく。焦げ付くこともなく、生焼けになることもなく、完璧な黄金色の長方形へと変化していく。
彼の仕事は、まさに時間との戦いでもあった。一つの卵焼きを焼き上げるのに要する時間は、正確に8分。彼は、業務日報の通り、この卵液を50等分きっちりと分け、一回あたり3~4個分の卵を使った、厳格なサイズの「公務卵焼き」を焼き続ける。それを繰り返すこと、一日あたり正確に50回。休憩時間は午後1時からきっかり1時間。その間、フライパンは火から降ろされ、静かに冷まされる。
彼自身も、事務机の前に座り、業務日報の空白を埋める作業を行う。消費した卵の数、焼き上げた卵焼きの個数、特記事項。全てが簡潔に、しかし正確に記される。彼はコーヒーを淹れることもなく、ただ静かに数字と向き合う。休憩時間の終わりを告げる、室外の時報が鳴るまで、彼の視線は日報に釘付けだった。
田中は、この仕事に就いて30年になる。最初は研修という名目で、先輩公務員に教えられた。その先輩もまた、無言で卵焼きを焼き続ける人物だった。質問は許されず、ただ見て、真似て、繰り返すだけ。なぜ卵焼きを焼くのか。その問いは、彼の心の中で何度も渦巻いたが、誰も答えてはくれなかった。やがて彼は、その問い自体を心の中に封じ込めるようになった。これは「公務」であり、公務員である自分が全うすべき「義務」なのだと。
しかし、30年という歳月は、人の心に小さな波紋を立てる。特に最近、彼の心には、これまでになかった微かなざわめきが生じていた。
その日の午後。外は激しい雨が降っていた。鉄扉の向こうからは、雨粒がコンクリートの地面を叩きつける音が、微かに聞こえてくる。彼はいつものように、完璧な卵焼きを焼き上げていた。黄金色の表面は、しっとりと輝き、見る者の食欲をそそる。だが、その時だった。
ジュッ、という、普段とは異なる、わずかに高音の焦げ付くような音がした。 田中はハッと顔を上げた。フライパンの上の卵焼きの、ごく一部が、普段よりも濃い茶色に変化していたのだ。わずか数ミリメートル。だが、それは彼にとって、青天の霹靂だった。彼は即座に火加減を調整し、焦げ付きを最小限に抑えた。フライパンの柄を持つ右手が、かすかに震える。30年間、一度たりとも焦げ付かせたことなどなかったのだ。
その日の業務を終え、いつものように鍵をかけ、鉄扉を閉めた後も、焦げ付いた卵焼きの残像が、彼の網膜に焼き付いていた。自宅に戻り、食事を済ませ、慣れ親しんだテレビを点けた時だった。
「…速報です。本日午後、世界的な気象観測網において、地球を覆うオゾン層に原因不明の小さな亀裂が複数確認されました。専門家は、直ちに調査を開始するとしています…」
ニュースキャスターの冷静な声が、田中健三の耳に届いた。オゾン層。地球の大気を守る、不可欠な膜。彼はその言葉を聞いた瞬間、なぜか分からないが、今日の焦げ付きが、まるで頭の中で稲妻のように閃いた。まさか。そんな馬鹿な。自分の卵焼きと、オゾン層に、一体何の関係があるというのか。彼はすぐにその考えを打ち消した。単なる偶然だ。そうに決まっている。だが、一度生じた疑念は、彼の心の中で、小さなトゲのように刺さったままだった。
翌日。田中はいつも通り登庁し、いつも通りに卵を割り、卵液を混ぜ、フライパンを火にかけた。彼の動作は、昨日と何一つ変わらない。しかし、心の中には、微かな焦燥感が渦巻いていた。
昼休憩の直前。鉄扉がノックされ、彼の業務を監督する直属の上司、天王寺詩織が、珍しく室内に入ってきた。彼女は30代前半、おしゃれなブランドメガネをかけ、ライトブラウンのボブ、発色のいいリップとネイルをしている。また、白衣を纏い、まるで研究者のような風貌をしているが、彼女がやっていることは、ひたすら数字を記録するだけの、無意味としか思えない業務だった。天王寺は、いつになく厳しい表情をしていた。
「田中さん。」
天王寺の声は、普段よりも数段低いトーンだった。
「最近、あなたの卵焼きの塩分濃度が、わずかに規定値を下回っているという報告があったの。0.01パーセントだけど、これは由々しき事態なのよ。早急に改善して。」
田中は驚き、目を見開いた。塩分濃度。彼は毎日、正確に12グラムの塩を計量し、卵液に加えていた。誤差など、ありえないはずだ。
「しかし、天王寺さん、私は…」
「言い訳しない。記録は正確よ。これが続くようなら、あなたの業務評価にも影響するわ。世界のためにも…ね。」
天王寺はそう言い残し、足早に鉄扉を出て行った。
「世界のためにも…?」
田中は、フライパンの柄を握りしめたまま、その言葉を反芻した。無意味な業務だと思っていた卵焼きに、「世界」という言葉が結びつけられる。昨日のオゾン層のニュースと、今日の塩分濃度の注意。彼の心の中で、点と点が結びつきそうになるが、どうしても確信が持てない。
その日の午後。田中は、卵液をボウルに注ぎ、いつものように泡立て器で混ぜ始めた。その時、彼の目に、信じられない光景が飛び込んできた。
卵黄の色が、わずかに青みがかっている。
ボウルの中の卵液は、確かに黄金色をしているはずだった。しかし、角度を変えて見ると、深みのある黄色の中に、ごく微かに、淡い藍色が混じっているのが見て取れた。まるで、遠い海の底から差し込む光のような、幻想的な色合いだ。 恐怖が、田中を襲った。鳥肌が全身に立ち、右手は震えが止まらない。卵黄が青いなど、聞いたこともない。これは異常だ。何かの病気なのか。それとも、自分が、ついに疲労で幻覚を見ているのか。
「いや…」
彼は首を激しく横に振った。これは現実だ。この「青い卵」を、彼は焼かなければならないのか。公務員としての「義務」が、彼の思考を支配する。もし、この卵を焼かなかったら、何が起こるのか。彼には想像もつかなかった。
彼は深呼吸をした。震える手でフライパンに油をひき、いつもより慎重に、青みがかった卵液を注ぎ入れた。ジュワッ。普段通りの音。だが、彼の心臓は、激しく鼓動を打っていた。
一層、また一層と、青みがかった卵焼きは、ゆっくりと形を成していく。焼き上がった卵焼きは、見た目には普通の黄金色と変わらない。しかし、田中には、その奥に潜む、わずかな青い輝きが見て取れた。
その日の夕方。業務を終え、重い足取りで鉄扉を出た時、田中は空を見上げた。外は雨が止み、雲間から夕日が差し込んでいる。しかし、その空の色は、普段の茜色ではなかった。 薄い藍色。 まるで、彼が今日焼き上げた卵焼きの、奥底に潜む色のような、どこか物悲しい藍色が、空全体を染め上げていた。街を行き交う人々は、みな空を見上げ、不安そうに顔を見合わせている。
「なんなんだ、一体…」
彼の心は、これ以上ないほど掻き乱された。自分の平凡な業務が、本当に世界に影響を与えているとでもいうのか。もしそうなら、自分は、とんでもない責任を負っていることになる。
その夜、田中は一睡もできなかった。これまで封じ込めていた「なぜ」という問いが、洪水のように彼の心に押し寄せた。公務員としての義務感と、得体の知れない真実への恐怖。彼の心は、二つの力に引き裂かれそうになっていた。
翌朝、いつもと同じ時間。鉄扉を開け、いつものように割烹着を身につける。そして、いつも以上に丁寧な手つきで、卵を割り始めた。今日の卵黄は、幸いにも通常の黄金色に戻っていた。
午前11時。 彼は、昨日の眠れない夜、頭の中で巡らせた、塩分を増やし、だしを減らすといった「改善策」を、きっぱりと捨てた。
彼は、業務日報に記載されたグラム数を正確に量り取る。塩は12グラム、だしは30ミリリットル。この比率に、彼の意思や感情が入り込む余地はない。
(俺の業務は、これだ。)
彼がすべきことは、世界の異変を「正す」ことではない。彼がすべきことは、「業務指定」された、いつも通りの卵焼きを、ただ完璧に焼き上げること。それが、この世界のルールだと、彼は直感的に理解した。
彼は、いつものようにガスコンロの火をつけ、業務指定のレシピ通りに、卵液をフライパンに注ぎ入れた。ジュワッ、という音。彼は一心不乱に菜箸を動かす。一層、また一層と、30年間焼き続けてきた、いつもと変わらない、黄金色の長方形が完成していく。そこには、彼の個人的な感情や、世界の異変に対する恐怖は、一切反映されていなかった。
最後の卵焼きが焼き上がり、彼が火を止めた瞬間、彼の卵焼きから立ち上った湯気は、普段と何ら変わりない、ごく微かな湯気だった。その湯気は、すぐに室内全体に広がり、あっけなく消散した。
田中は、無言でその消散を見届けた。特にこれと言った変化はない。ただ、「業務は完了した」という、長年の業務における単純な確認作業が完了したかのような、乾いた了解だけが、彼の胸に残った。
――俺のすべきことは、変わらない。
彼は、いつも通り、白い割烹着を脱ぎ、正確に畳み、そして机に向かって業務日報の「特記事項」欄を埋めた。
『特記事項:特になし。』
彼は、翌日の業務計画を、鉛筆で小さく書き込んだ。
「明朝9時。特Mサイズ卵、200個。塩12g、だし30ml。規定通りに遂行すべし。」
それが、公務員・田中健三の、導き出した答えであった。
その日。彼の業務が終わった数時間後。テレビのニュースが、興奮気味にこう報じた。
「…速報です!世界各地で異常気象が相次ぐ中、驚くべき報告が入ってきました。専門機関の観測により、地球を覆うオゾン層の亀裂が、昨日から急速に修復に向かっていることが確認されました。同時に、不安定だった世界的な気温も、一時的に安定に向かっているとの見方が出ています…」
田中は、無言でテレビ画面を見つめていた。彼の心の中には、もう何の疑念もなかった。
――業務は正しく遂行すること。
彼の頭をよぎったのは、それだけだった。
自分の焼く「変わらない卵焼き」が、なぜ世界を支えているのか。そんな哲学的な問いは、彼の業務範疇ではない。重要なのは、「いつもの業務を正確に遂行すれば、何も問題など起きない」という事実だけだ。
それが、公務員・田中健三の、世界の裏側で起こった大事件に対する、唯一の、そして変わらぬ応答だった。
翌朝。登庁途中、天王寺詩織に出くわした。
「あら、田中さん。おはよう。今日はいい天気だわ。」
いつになく機嫌が良さそうだった。そんなこと、彼にはどうでもよかった。
午前8時45分。 田中健三は、いつも通り、正確な足取りで「第二公務員特殊労働局 第七課 卵黄分室」の鉄扉の前に立っていた。
彼は鍵穴に差し込み、カチリ、と硬質な音を立てて扉を開ける。室内は昨日と何一つ変わらない。殺風景な壁、ガスコンロ、そして、静かに鎮座するフライパン。
――午前9時00分、業務開始。
(終)
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―注意事項―
物語の卵焼きは、とても薄味なので、お気をつけ下さい。
美味しい普通の卵焼きは、卵200個でしたら、塩110g程度、だし1800mlくらいがよろしいかと思われます。
卵3〜4個でしたら、塩小さじ1/3程度、だし50ml程度、お好みでお砂糖小さじ1〜3入れますと、甘味が出て美味しいです。
なお、市販の白だしなどは、濃縮タイプもございますので、お気をつけ下さい。
色々書きましたが、目分量でも、美味しくできますよ。
おそまつさまでした。




