存在の証明
第1章:奇妙な動画
高倉憲吾は、ぼんやりと天井を見つめながら、ぬるい缶コーヒーに口をつけた。
使いかけの加湿器と、万年床の布団。仕事部屋というには無理がある六畳一間のアパート。
パソコンのディスプレイに並んでいたのは、再生数が伸びない過去の自作記事と、次の依頼がこないライティング会社のメールボックスだった。
高倉はフリーライターだった。いや、かつてフリーライターだったと言ったほうが正確だろう。
肩書きだけは保っていたが、ここ数ヶ月、まともな依頼はない。クラウドソーシングの仕事ですら落ちる。
ため息交じりにYouTubeを開き、無意識に“都市伝説”系のサムネイルをスクロールする。
ネットの片隅にはいつも、どこか不穏で、しかしどこかワクワクさせる“胡散臭い話”が転がっている。
そのときだった。
画面の中央にふと現れた一本の動画が、彼の視線を止めた。
【戸籍のない男「田中誠」を探しています|報酬:3000万円】
投稿者名は英数字の羅列で意味をなしていない。再生回数はわずか400。
だが、タイトルには明らかに“素人のイタズラ”以上の何かが滲んでいた。
高倉はためらいながらクリックした。
画質は悪く、映像は夜の森をバックに揺れている。
暗がりの中、震える手でカメラを持っているのか、焦点は合っていない。
「この男を探しています。田中誠。1987年生まれ。身長は170cm前後、やせ型」
「戸籍がなく、どこにも記録がありません」
「彼に繋がる情報をくださった方には、3000万円をお支払いします」
声は低く、抑揚がなかった。機械音声ではないが、どこか“人間離れ”した無機質さがあった。
映像の最後には、ぼやけた写真のような影が一瞬だけ映り、すぐに暗転した。
高倉は無意識に巻き戻し、スクショキーを叩いた。
その写真のような影──白黒の粗いピクセル──は、まるで墓標のように沈黙していた。
「なんだこれ……」
興味本位と、わずかな“直感”が頭をもたげる。
誰かの創作か、あるいはキャンペーンか……もしくは本当に“何か”なのか。
――いや、そんなことはどうでもいい。
高倉は立ち上がった。
この動画が本物であろうと偽物であろうと、今の自分にとっては関係ない。
「これが、俺の人生を変える最後のチャンスかもしれない」
机に転がっていたノートを開き、動画内の情報を書き起こし始める。
画面に映った背景、声の周波数、服のしわ、タイムスタンプ。
小さな炎が胸の奥に灯った。
長いあいだ感じなかった“高揚”という感情だった。
まだ誰も見つけていない謎。
それを自分が最初に暴くことができたら――
高倉はペンを止めず、パソコンのタブに“田中誠”という名を入力した。
第2章:微かな痕跡
「田中誠」。
それは、日本に数千人は存在するであろう、ありふれた名前だった。
検索エンジンの候補は、どれも無関係のFacebookアカウントや同姓同名の著名人ばかり。
だが“戸籍がない”という前提で検索するだけで、途端に情報の海はざらつき始める。
高倉はまず、匿名掲示板とSNSを掘り始めた。
一見無意味なスレッドも、過去ログも、地方紙のアーカイブも。
「田中誠」「戸籍なし」「失踪者」「裏社会」「都市伝説」「生まれなかった男」……
あらゆるキーワードで繋がりそうなものをかき集めていく。
やがて一つの書き込みが彼の目に留まった。
数年前の掲示板、スレタイは「存在しない村で生まれた友人」。
「小学生の頃、転校してきた奴がいた。親もおらず、出生も不明。
田舎の“神室村”ってとこで育ったらしいけど、地図には載ってないんだよな」
(2017年投稿)
高倉はすぐさま“神室村”を検索した。
ヒットはゼロ。グーグルマップにも、地名辞典にも載っていない。
だが、その“無”こそが、逆に彼の心を掴んだ。
「実在しない……? 本当に?」
次に、高倉は図書館の郷土資料室に足を運んだ。
歴史や民俗関連の書籍を片っ端から漁り、廃村記録の目録をひとつずつめくっていく。
そして、ようやく一冊の古い冊子の中に、「神室」という記述を見つけた。
「かつて山梨県の奥地に、戸籍制度導入前の“無籍集落”が存在していたとの噂がある。
神室──記録上の存在は認められないが、地元の古老の証言では……」
ぼやけた記録。残されていない地図。噂話の延長線上にあるような村の名前。
それでも、高倉の中では「何か」が確実に形を帯び始めていた。
さらに検索を進めると、10年前に発行されたある週刊誌のバックナンバーにたどり着いた。
“無戸籍問題”を特集した特集記事。その中に掲載されていた小さな写真──
やせ型で短髪の、目元を隠したモノクロの人物写真。
そこには、どこかで見たような既視感があった。
高倉は一瞬息を止めた。
それは──あの動画に映っていた、最後のぼやけた“影”に似ていたのだ。
偶然なのか? こじつけなのか?
いや、そんなことはどうでもいい。
「神室村に行こう」
高倉はその夜、バックパックに荷物を詰め、地図に載っていない場所への旅を決めた。
それが、戻れない探索の始まりになるとも知らずに。
神室村
山梨県の山奥、鉄道駅からバスを乗り継ぎ、そこからさらに歩いて数時間。
登山道とは名ばかりの、獣道のような細い山道をひたすら進む。
高倉は、手に入れた古い郷土誌に載っていた断片的な地名と、匿名掲示板に書かれていた曖昧な方角、そしてGoogle Earthの航空写真を頼りに、“地図に載っていない場所”を探し続けた。
道はやがて途絶え、木々に覆われた静寂だけが残る。
だがその奥に、それはあった。
朽ちかけた鳥居。
崩れかけた民家の礎石。
そして、木の根に覆われた、手彫りの石碑。
「……ここが、神室……?」
高倉は息を呑んだ。
確かに、誰かがここに住んでいた“気配”がある。
だが、それは“今”ではない。
過去の誰かの痕跡だけが、静かにそこにあった。
──その夜、村跡から少し離れたテントで眠っていると、外からカサッと音がした。
風か、動物か、あるいは……
高倉はヘッドライトを持って外へ出た。
周囲には誰もいない。ただ、静寂だけがある。
だが、翌朝、奇妙なことに気づいた。
テントの前の地面に、足跡が残っていたのだ。
ひとつだけ。人間のものに見える、泥のついた足跡が。
「誰かが……いた?」
恐怖と興奮が入り混じった感情が胸を突いた。
ここは誰も来ないはずの場所だった。
もし本当に“誰か”がいるなら、それは──
その日の午後、高倉はふもとの小さな商店で情報を集めていた。
「神室村」という言葉を出すと、店主の顔がわずかに曇った。
「昔な、そう呼ばれてたとこがあるよ。今はもう廃墟だけど……」
「行ったんですか? あそこに」
「……やめたほうがいいよ。あの辺には、変な話が残ってる」
変な話?
「村でね、誰にも存在を知られずに育った子どもがいたって噂があったのよ。
戸籍も、記録も、学校にも行ってない。だから“いなかった”ことになってる」
「……でもさ、昔あのへんにいたっていう年寄りは、みんな口をつぐんでてね……」
その夜、高倉は車中泊をしながら、これまでの取材ノートをめくっていた。
週刊誌の写真、動画の影、村の伝承……
断片が、じわじわと繋がってくる。
「……田中誠は、本当に、実在したのかもしれない」
彼の中で、現実と物語の境界が少しずつ曖昧になっていく。
第4章:再燃と失速
帰宅した高倉は、すぐに取材内容を整理し、ネットに投稿した。
「地図にない廃村・神室村に足を踏み入れた」「そこで“田中誠”の痕跡を見つけた」
そんなキャッチーなタイトルとともに、崩れかけた鳥居や石碑、足跡の写真を添えて。
投稿は思った以上の反響を呼んだ。
「本当にあるんだ、神室村って……」
「これ、映画のプロモーションじゃないの?」
「この男、マジっぽくて逆に怖い」
「田中誠、都市伝説からリアルに?」
数日間、高倉はまさに“時の人”だった。
ネットニュースに取り上げられ、フォロワーは1万人を超えた。
中には「手伝いたい」「探している場所を一緒に調べよう」と連絡してくる者もいた。
高倉は夜な夜なDMに目を通し、取材範囲を広げていった。
中でも1通のメッセージが目を引いた。
──「田中誠、昔見たことある。写真の男に似てる。あんたが正しければ、すごい話になる」
高倉は震えながら連絡を取った。
相手はかつて新宿でホームレス支援をしていたという中年男性だった。
「似てる男がいたんだよ。何年か前まで西口の地下通路にいた。
名前も名乗らず、他人と口をきかず、すぐどこかへ消えたけど……」
「今思えば、あの写真の影と、どこか重なる気がしてさ」
高倉の中で、確信が芽生えていった。
神室の廃村、動画の影、週刊誌の写真、足跡、そしてこの目撃証言。
どれも単なる偶然の積み重ねに見えるが──それでも彼は信じた。
「この男は、存在している」
そして彼は宣言した。
「田中誠を、必ず見つけます」
「彼の存在を、証明してみせる」
だが、ネットの世界は残酷だった。
次第に世間は、別の話題へと移っていった。
俳優の薬物スキャンダル、総理のスピーチ、人気アイドルの脱退──
“田中誠”の名前は、数週間のうちに誰も口にしなくなった。
「もういい加減、嘘だってわかってんだよ」
「最初はワクワクしたけど、最近の投稿は全部ポエム」
「田中誠とか、もう忘れろよ」
高倉のDMは鳴らなくなり、フォロワーは少しずつ減っていった。
広告収入も尽き、彼はまた元の部屋で、缶コーヒーと格闘する毎日に戻っていた。
だが──彼は、諦めなかった。
テレビやSNSに取り上げられることはなくなっても、
彼の“中”では、田中誠は依然として「存在していた」。
ある夜、自宅で古い映像素材を見直していたとき、
高倉はふと手を止めた。
ノイズ交じりの1カット。神室の村を撮影した初期の素材。
そこに、微かに“人の目”のような光が写っていた。
ビデオ編集ソフトで数分間調整を加えると、確かに“何か”がいた。
高倉は、加工したその一枚を“匿名アカウント”からネットに投稿した。
「【拡散希望】田中誠の姿を捉えた決定的写真」
「真実は、すぐそこにある」
それは一時的に拡散された。
再び注目が戻ってくるかのように見えた。
だが──24時間後、人気俳優の不倫が報じられ、
すべては瞬時に“埋もれた”。
画面の前に座り、虚空を見つめる高倉。
その瞳は、なおも何かを探していた。
5章:存在の証明
「人の目」を映した画像が、話題にすらならなくなった頃。
高倉は、最後の手段を選んだ。
彼は近所の公園で、顔に深い皺を刻んだホームレスの男に声をかけた。
「ある男になってほしいんです。
田中誠。動画の、あの影の“中身”になってほしい」
最初、男は訝しげに笑った。
「で、いくらくれるんだ?」
「今は少ししか出せないけど、世間が騒げばすぐに……。
騙すんじゃない。証明するんです。世の中に、まだ見ぬ人間が“いる”と」
その数日後。
高倉のSNSに投稿された動画が、再び界隈をざわつかせた。
《田中誠、生きていた》
老いた男が川べりを歩くモノクロームの映像。
口数は少なく、名前を呼ぶとただうなずく。
背後には廃墟、わずかに「神室村」と記された石碑が映り込む。
「これは本物か?」「嘘だろ?」「演出にしては雑すぎる」「でも……怖いくらいリアル」
──拡散された。
テレビ局が取材依頼を寄越し、再びインフルエンサーが乗っかり始めた。
高倉は手応えを感じていた。
“存在の証明”は目前だ、と。
しかし、崩壊は早かった。
匿名掲示板で男の素性が暴かれた。
過去の路上生活の様子、交番に保護された記録。
さらには男自身が「あれ、作り話だよ。金もらっただけ」と語る音声までが流出した。
そして、今度こそ完全に、終わった。
「やっぱり詐欺じゃん」
「くだらねえ演出に騙された」
「田中誠って、結局誰だったの?」
高倉の家には、嫌がらせの手紙と、出版社からの契約解除通知が届いた。
支援者も、フォロワーも、もういない。
口座にはほとんど金が残っていなかった。
だが──高倉は、それでも諦めていなかった。
「まだだ……まだ、終わってない……」
彼は再び、神室の山奥へ向かった。
今回の旅には、撮影機材もなく、ただ紙とペンだけを持っていた。
朽ちた石碑の前に立ち、風に吹かれながら、
彼はひとり、何かを“記録”し続けた。
目を凝らし、耳を澄まし、シャッターを押さず、録音せず、ただ感じたものを言葉に変えていく。
誰かに見せるためではない。
自分の中にある“存在”を、確かめるために。
ある夜、彼は村の跡地で、ぼんやりと立ち尽くしていた。
ふと、木々の隙間から、人影のようなものが見えた気がした。
──それは、こちらをじっと見ていた。
次の瞬間、風が木々を揺らし、光がその影を覆い隠した。
高倉は目を閉じた。
「……いたんだな。やっぱり」
それが幻覚か、気のせいかは、もうどうでもよかった。
田中誠は、自分の中に存在していた。
それだけが、確かだった。
──その後、高倉憲吾は消息を絶った。
SNSも、執筆活動も、すべての痕跡がネット上から消えた。
ただ、神室村近辺の郵便受けに、時折“無記名のノート”が投函されるという噂がある。
中には、こう書かれていた。
「この世界に、本当に“存在していない”人間など、いるのだろうか?」
「誰かの記憶の中に残れば、それはもう、確かに“生きている”のだ」
それが真実かどうかは、誰にもわからない。
だが──いま、あなたの心に「田中誠」という名前が残ったなら、
その存在は、確かに“証明”されたのかもしれない。
⸻
完。