第8章 逃げろ! ツチノコ
§1 受け入れ準備進む
手始めに、全国の保育所や幼稚園、小中学校に呼びかけ、ツチノコのイラスト・作文コンテストが行われることになった。盛り上げようという村長の提案だった。
観光客を受け入れるために「ふるさと創生基金」を使って「ツチノコ舞台」という名の臨時の立体駐車場の建設も進められた。
ライブカメラの映像がドライブインシアターに刻々と流される。展望台には望遠鏡が何台も設けられる。村長自慢の、水も漏らさない監視システムだった。
途中の出合とツチノコ舞台には、ファミリーレストランと土産物屋もできた。
地域に店が新しくできるなど何十年ぶりかだった。過疎化で灯が消えかかっていた村に、明らかに新しい時代が、訪れようとしていた。
土産物屋には饅頭や羊羹、煎餅、クッキー、それにキーホルダーやボールペン、絵葉書、ぬいぐるみ、ストラップなどが賑やかに並んだ。ただ、どれも徳島県内ではなく、東京や大阪などで作られたものだった。
また、店の従業員の多くは人材派遣会社から派遣されてきた人たちで、村人はほとんど働いていなかった。
何よりも、道路はそのままだった。これだけは簡単に整備できるものではなかった。
§2 変わる村の生活
狭い道に、クルマが数珠つなぎになった。休みの日には大型観光バスが道をふさいだ。山道に慣れていないドライバーたちは、前進もバックもできず、立ち往生するだけだった。
タクシーを呼んでも時間がかかった。歩いた人が先に着いていたことはざら。救急車がやっとの思いで着いた時には、病人がすっかり回復していて、救急隊員をがっかりさせたこともあった。
交通渋滞は深刻だった。近くの村の人たちはこれまでのような生活ができなくなった。
通勤にはマイカーからバイクや自転車に切り替える人が増えた。路線バスはいつくるか分からず、買い物や学校・病院に通う人たちは困り果てていた。
§3 騒ぎをよそに
漣たちの民宿は毎週、満員だった。半年先まで予約が埋まり、待ちきれずに河原でキャンプするものも出てきた。夜遅くまで花火などをして騒ぎ、タヌエの森では不眠に苦しむ動物が増えた。
漣は週末だけの民宿という初めの方針を堅く守っていた。
土曜の夕方、河原で環境保護教室を開いたところ、ほとんどの生徒はツチノコ探しを止め、杉の枝打ちや下草刈りなどを進んで行い、帰る前に必ず村を掃除した。
しかし、数の上ではかなわなかった。
赤沢高原の貴重な植物は採集されてしまった。タヌエの森にも観光客はズカズカと踏み込んできた。大きな虫取り網の柄で、洞穴や草原を突っついては、ツチノコを探し回った。
§4 金持ち村へ
マスコミの取材も毎日のように入った。テレビ局の中継車がいない日はなかった。タヌエの森の動物たちより、記者やレポーターや観光客の方がはるかに多くなっていた。
村役場も大忙しだった。
特に、ほかの地域からも税金の一部を納めることができる「ふるさと納税」では、集まった税金額は県下ナンバーワンとなった。納税者に対するお礼の品に、ツチノコグッズのほか、見学ツアーが入っていたことから人気を集めたものである。