第1章 はじまりはあらし
§1 気がかりなこと
気象予報士は、超大型台風だと、台風が日本に近づく何日も前からアナウンスしていた。
気象庁では緊急会見を開いた。
「命を守る行動を取ってください」
と、注意を呼びかけていた。
「今日は、学校、行ったわ」
息子の隆を小学校に送り出し、妻の明子が戻ってきた。
「これじゃ、四国直撃ね」
食器を片付ける手を休め、明子はテレビの画面を見つめた。
「だけど、これが週末だったら、予約のお客さんもあったし、大変なことになってたね」
漣も仕事に行く時間になった。いつものように玄関を出た。四国から遠く離れた東京では、今日も空は晴れ、強い陽射しが降り注いでいた。
(台風が通り過ぎたら、四国へ行って見るか)
漣には気がかりなことがあった。
§2 通行止め
四国を代表する川、吉野川に架かった橋を渡るとすぐ、ガードマンが近づいてきた。
「高知方面は通行止めや」
橋の下はまだ濁流が渦巻いていた。水をかぶった岸の草木はうなだれ、橋げた近くまで水位があがっていたことを、うかがわせている。
「いや、ずっと手前の方なんです」
漣は言ったが、ガードマンは首を横に振った。高知方面への道路はガラガラだった。
§3 山を越え
仕方がないので、漣はクルマをバックさせた。
「こうなったら、山越えしかないな」
漣はクルマを停められそうな場所を探した。県道の脇に治療院があり、駐車場の空いたところにクルマを入れた。中でイヌがウォンウォンと激しく吠えている。「NO!」と、なだめる声が聞こえた。静かになったところを見ると、イヌに英語が分かるらしい。
「いいですよ。そこに停めておいてください。しかし、山越えしてタヌエの森方面に行くのは大変ですよ。地図を描いてあげられればいいが、私は目が見えません。確か、一キロほど先に赤沢方面という案内が出ているはずです。そこから山道を登って行ってください」
親切な鍼灸師だった。イヌは、目の悪い人を道案内する盲導犬だった。
§4 地上の楽園
漣たちはこれまで何回か、赤沢高原にハイキングで行ったことがあった。
赤沢高原は海面から八〇〇メートルほどの高さにある。
高いところに位置しながら、田んぼがあり、昔は米もつくられていた、と聞いたことがあった。
漣たちがきた時には、きれいな水が湧き出て、サギソウの花が咲いていた。その名のとおり、二〇センチあまりの茎の先に、三センチほどの白鷺そっくりの美しい花をつけていた。
オオミズゴケ、キセルアザミなどのめずらしい植物が生い茂り、水辺にはメダカやドジョウが泳ぐ。ミズスマシが水面をスイスイ滑り、その上をトンボが飛んでいる。小さなトンボの群れと離れたところで、大きなトンボが羽音を立てている。オニヤンマだった。
夢のような風景だった。
§5 あらしの爪跡
ところが、赤沢高原への道は険しかった。舗装されていない道路は大雨によって、道がけずられ、岩がむき出しになっていた。杉の木は折れたり裂けたりして、ひどい台風の跡を残していた。
高原の木々も同じだった。草は一方向に倒れ、生き物たちの姿はなかった。
赤沢高原から眺める周りの山も、いたるところでがけ崩れが起き、山の様子をすっかり変えていた。
漣は悲しさで心がいっぱいになった。見ていることができず、高原からタヌへの森に向けて、山道を足早に下った。
高原の南側は、さらにひどい被害を受けていた。強い風により、杉の多くは倒れ、道をふさいでいた。漣は遠回りするしかなかった。
§6 消えた村
思えば、漣が四国の山奥に民宿を始めてから、二年が過ぎようとしていた。
村にひとり残って住んでいたおばあちゃんが亡くなった。これで村は消えた。人がいなくなった村は「消滅集落」と呼ばれる。
漣のお父さんは東京で生活していて、おばあちゃんの家は手入れされないまま、ずっとほったらかしになっていた。そのお父さんも一昨年の春、亡くなった。
村のことは、お父さんから時々聞いていた。お父さんは目をキラキラさせながら、山を走り、川で泳いだ話をした。しかし、お父さんは決まって
「もう、田舎はなくなった。人が都会へ出てきて、田んぼや畑や山は荒れはて、動物の王国になってしもうた」
と、暗い顔になった。
§7 隆の病気
隆に喘息の症状が出てきたのは、漣のお父さんが亡くなる前の年だった。風邪がなかなか治らない。苦しそうに咳をすることが多くなった。
「お父さんに似たのかもね。お父さん、気管支が弱かったもんね」
明子は、咳込む隆の背中をさすりながら言っていた。
「ねえ、一度、四国の村へ行ってみない。空気はきれいそうだし、隆もきっと元気になるわ」
四国の山や川はたまに、テレビで見たことがあった。なんだか遠い世界のことに思えてしかたなかったが、明子に言われて、漣は改めて考えこんだ。
漣が口を開くより先に、隆が言った。
「ボク、四国、行ってみたい」
§8 おばあちゃんの村
隆を連れ、おばあちゃんの住んだ村に行くことになった。
JRの駅でレンタカーを借り、吉野川に沿って高知方面に向かう。途中で狭い道に入ると、左右に山が迫り、はるか下を細い川が流れる。
おばあちゃんの住んだ村は、この付近の中心地、出合から、さらに小さな川をさかのぼったところにあった。
おばあちゃんの家は長い間、人が住んでいないので、壊れかけていた。石垣は崩れ、大きな杉が枝を広げていた。
この様子に、漣は気持ちが落ちこんだ。しかし、明子と隆は、はしゃいでいた。
家のまわりを見回った後、バーベキューをするために、河原に降りて行った。
「温かい水が出てるよ」
隆が漣たちに知らせにきた。
行って見ると、河原に水たまりがあり、湯気が立っていた。
「これ、お父さんが言ってた温泉じゃない!」
濡れた手を嗅ぎながら、明子が言った。
食事を済ませ、温泉に入った。少しぬるかったが、肌がすべすべになった。
「ここで、お休みの日だけ、温泉付きの民宿をやるのはどう?」
漣も明子と同じことを、考えていた。
§9 変な動物たち
バーベキューセットをクルマに積み込んでいて、漣の心臓は止まりそうになった。
キジとイヌ、サルに取り囲まれ、なんとジキータというキジが、人間の言葉で話しかけてきたのだった。漣たちが悪いことでもしているみたいな口ぶりだった。サルとイヌは身構え、戦闘モードになっていた。
「変なタヌキが、ボクたちを見ている」
とは、村に着いてからずっと隆が言っていた。
ここは徳島、タヌキが多いことで有名だ。漣のお父さんも田舎は動物の王国になっているとは言っていたが、中には驚くほどの進化をして、人間語をしゃべるものも現れたのだ。
これらの動物たちは敵ではなかった。それどころか、温泉付き高級別荘を建設しようという会社が現れた時など、キジ・サル・イヌ、つまりバスターズは力づよい味方になって助けてくれた。
また、森に棲む動物たちは漣たちを仲間のように迎えてくれた。動物の子供たちは、民宿の大切なスタッフになっている。川に設けた小型水力発電機の見回り役も、きちんと果たしてくれているのだった。
歩き通しで、漣の足は棒のようになっていた。しかし、これら友達のことを思うと、くじけるわけにはいかなかった。
漣がタヌエの森にたどり着いた頃には、すっかり暗くなっていた。