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盆に流るる  作者: ねむ
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タイトル未定2024/08/22 00:24


第一章 独りよがりの狢


蝉の鳴く鬱蒼とした夏の終わりに私のクラスメイトは四階のベランダから飛び降りた。

 原因は明白。転校してすぐの私にもわかるようなあからさまないじめ。だけど、クラスの人々は彼女の訃報を聞くなりいじめを揉み消すために悲しみに暮れたふりをした。それはもちろん私も同じ。いじめがあった事実に目を逸らして窓の外を見る。触らぬ神に祟りなしなんて言うし、生憎私は無闇矢鱈に振りかざす大それた正義感なんて持ち合わせていない。他の生徒もみんな同じ。事を荒立てないように、問題が起こらないように、事実を虚偽へとすり替える。私が転校したこの学校には醜悪な空気がこびりついていた。いや、この学校がおかしいなんてことはなくて、きっとどこにでも起こりうることなんだと思う。学校だけじゃない、社会全体が醜悪なんだ。亡くなったあの子はそれに絶望したのかな。醜悪な空気を拒み、はみ出て、不意に息が続かなくなる。いじめられても痛々しい笑顔を張り付けていたあの子はもがき苦しんでいたのかな、なんて考えたけど、正直私のことじゃないしどうでもいい。所詮は他人事でしかない。バカだなぁ。醜悪な空気でも吸って呼吸をしなきゃ生きていくことなんてできない。結局世の中を上手く生き抜くためにははみ出ないように常に人に合わせ、適応し続けるしかない。私は昔からそうやって必死に生きてきた。幸いにも私は人の考えを見抜くのが得意だったからその分他の人より上手く立ち回れた。でもそれは先天的なものなんかじゃない。それは嫌というほど自分が一番よく分かってる。

 私は、父を幼くして亡くした。死因は工事現場での転落死。相当高いところから落下したらしく、四肢の至る所があらぬ角度に曲がって折れていたらしい。母は、その後も私を養うために必死に働いてくれたが、元々借金があったこともあり、生活は困窮を極めた。働いても働いても一向に改善しない生活に母は精神を病んでいった。それでも母はいつも私を優先して無理して元気に振る舞ってくれていた。父が亡くなって一年が経とうとしていた蒸し暑い夏の日、母はいつもの明るい微笑みを浮かべて「久しぶりに海に行こうか。」そう私に語りかけた。その日私は大喜びで朝から支度を始めたが、母が昼は暑いから嫌だと言うので海に着いたのは結局夕方になってからだった。海といっても、地元のちょっとした砂浜海岸だったから人は誰もいない。寂れてはいたが、それでも久しぶりの母との遠出は私にとってかけがえのない時間だった。私は砂浜で砂遊びをしたり、貝殻を拾ったりと海を満喫していた。茜色の夕日に反射した海辺は今までにないほど輝いて見えた。「ママもこっちおいでよ。」遠くから眺めていた母を呼ぶと、母は手を繋いで一緒に海辺を歩いてくれた。すると突然母は、「夕陽が綺麗ね。もっと近くに行こっか。」そう言うと素早く繋いでいた手を離したかと思うと私の手首を掴み服を着たままザブザブと海の中へと入っていった。「ママ痛い…」そんな声も届かないのか母はひたすら夕陽に向かって歩みを止めない。私は怖くなって泣きじゃくりながら母に帰ろうと懇願し続けた。母は「ごめんね、ごめんね」そう繰り返し、苦しそうに笑って一粒の涙を流していた。私は必死の抵抗を繰り返したがついに底に足がつかなくなってしまった。母も私もいつしか同様に水中へと放り出されていた。無我夢中でもがく私の鼻や口に水は大量に流れ込み、水中深くへと引きづり込む。掴まれていた手はいつのまにか遠のく。視界が歪んで、意識が途切れる。暗闇が私を包み込んでいた。

 目を覚ますと、私は体に点滴を刺されて、ベッドで寝ていた。てっきり私は海で死んだものかとばかり思っていたが、実際は、近隣に住んでいた老夫婦が散歩中に沖へ沖へと歩いていく私達を見つけ、警察に通報したらしい。発見は早かったものの、助かったのは私だけ。私が5歳の時の出来事だった。その後私は母の妹の智美さん一家に引き取られた。最初は温かく迎え入れてくれたが、そんな状況が長く続くことはなく、父の遺伝子よりも母の遺伝子を濃く受け継いでいた私は成長するにつれて、姉を見ているようだと忌み嫌われるようになった。智美さんは昔から母のことが嫌いだったらしい。少しずつ私の皿からおかずが減り、現金へと変わっていった。少しずつ智美さんの憎悪が拳や物に宿り、私の血やあざへと変わっていった。

そんな智美さんに比べて、智美さんの夫の洋輔さんは普段寡黙で無表情な人だった。しかし、酒癖が悪く一度キレてしまえば暴れ出して止まらない。そんな人だった。それでも洋輔さんは家族のことは大切に思っていたらしく、彼の怒りの矛先は常に会社の人間と私に向けられた。だからいつも私は誰も刺激しないようにひっそりと生活していた。ここまで悲劇のヒロインのテンプレを見事に辿るなんてもはや笑うしかない。こんな不幸テンプレを辿る人は大方、人の心が読めるようになる。生き延びるために、死なないように人の言動や表情から相手の気持ちを読み取り、相手の望む言葉を発する。そうする他ない。自我を持つ前に自我を失った子供は虚しくぬいぐるみを抱き抱えた。人としてではなくヒトとして生きる。ヒトとしての生存本能。相手を伺う。空気を読む。そして毎日息をする。生きるをする。

 息が詰まるような家での生活の分、学校は天国だった。学校へ行けば、どんな人も私を肯定してくれた。だから、友達と同じ高校に行くためならいくらでも頑張れた。私は彼らから得られなかった愛情を外に求めたのだ。学校で友達と話すそんなたわいもないことが私の幸せだった。しかし、洋輔さんの会社が倒産したことで事態は急変する。お金がなくなりとうとう家も売らなければいけなくなった。そんな家に私立に通うお金などあるわけもなく、私は底辺のバカ公立に通うことになった。家庭環境はさらに悪化した。あんたが来たせいでこんなことになったのよ。私の家を返してよ。返せないなら死んで詫びろ。そうやって包丁を向けられたこともあった。悲劇のヒロインは悲劇の末に死んでいく。ハッピーエンドなんてものは幻想でしかない。世の中は常に理不尽だ。不幸な星の元に産まれた人は高望みしてはいけない。一体自殺してしまったあの子は何を高望みしたのだろう。

 転校初日に先生は私に、今は菊の飾られた机の斜め後ろの席に座るように言った。私はあの子の顔に張り付いた作り笑顔を気味悪く思ったことを覚えている。そして直感的にきっといじめられてるんだろうな、そう思った。授業が始まり、ふと視界にあの子が映る。あの子は何を思ったか、死にかけの飛べなくなった蚊をじっと見つめ、しばらくして息耐えた虫をボールペンでぐりぐり潰していた。そんなあの子の顔は使命感に取り憑かれているように見えた。虫が余程嫌いなのかと思ったが、次の瞬間その考えは間違いであったと気がついた。あの子はノートをしまおうとして蚊がその上にのっていることに気づくと怪訝そうな顔をして蚊を払ったのだ。私は気がついた。あの子は無意識のうちに、卑屈になって自分に自信がない自分自身を、人ですらない虫に投影して同族嫌悪を抱いて虫を潰した。ところが、二匹目の蚊を見た時に我に返って罪悪感や背徳感におそわれた。きっとそうに違いない。私はその滑稽さに今にも笑い出してしまいそうなのを必死に堪えた。あの子はそんな私の馬鹿にした態度を見抜いたのか、「あれ?そっちの蚊は潰さないんだ」そう呟いた私に、嫌そうな、そしてどこか怯えたような目で一瞬私の方を見たかと思うとすぐに目を伏せまたあの気味の悪い笑顔を貼り付け、小さな声で「見てたんだ」そう言った。お昼休みになって真っ先に「雪ちゃんちょーかわいい。仲良くしてね。」そう言ってやってきた数人はいわゆる一軍系の女子だった。彼女らは私を仲間に入れるに値する存在か見定めにきたのだ。自分たちと同じであるか、少しでも自分たちが定めた枠からはみ出ていないか。カラーコンタクトの入った光のない大きな瞳でまじまじと審査する。ファンデーションと香水の香りが入り混じった空気が充満している。私は息が詰まりそうになりながらも、「ほんと⁉︎そんなこと全然言われたことないからめっちゃ嬉しい。藤城さんだよね?話してみたかったから授業中に聞いた名前覚えちゃった笑」そうやって照れくさそうに笑って見せる。その緻密に計算された一連の仕草は彼女の満足させるには十分だったようで、「なにそれ雪最高すぎ‼︎私のことは薫って呼んで。」そう言うと周りにいた他の女子にも「自己紹介しなよー」なんて言いながら身内でワイワイ盛り上がっていた。昼休みも終わりが近づき、ワイワイしていた空気にもお開きムードが漂い始めていた時、薫はにこやかな笑顔崩さずに「そういえばあの子にはあんまり関わらない方がいいよ。」そう言って私の斜め前の席を指差した。周りの女子たちもニヤニヤしながらその様子を見てる。私も笑顔を崩すことなく「そうなんだ。教えてくれてありがと〜。」そんなことを返した。郷に入れば郷に従え。中途半端な偽善で暗黙の了解に立ち入るなんて完全なお門違いだ。私は安全に狡猾に生き延びる。そのために私は一軍女子と友達ごっこを始めた。

 あの子が自殺したと担任から伝えられた時、流石に薫は顔を引き攣らせていたが、放課後には「学校側がいじめがあったなんて報告するわけない」「ってかそもそもあいつのメンタルが雑魚なのが悪くね?笑勝手に死んだだけじゃん笑笑」グループラインでそんなやりとりが飛び交っていた。真っ黒に染まった悪を、自分達のいいように歪曲させた真っ白な事実で塗り潰す。下から滲む黒は真っ白を許さない。しかし繰り返すうちにグレーは白へと変貌する。遂には黒さえもが白に成り変わる。盲目である自覚が無い彼女たちは一生色の違いに気がつくことなどないのだろう。だから悲劇は繰り返される。また彼女はたわいもない暇つぶし相手を探し始める頃だろう。しばらくは特に薫の動向に気をつけてないと。少し気が重いと感じつつ帰宅する。大きなため息と共に智美さんが私を上から下まで舐め回すように睨みつける。かと思うと、奥の襖から私が昔使っていた高校の参考書が飛んでくる。「おい、雪。冷蔵庫のビール持って来い。」洋輔さんは会社が倒産してからは、酒に溺れて現実を見なくなった。「そこの机にビール置いたらさっさと二階に消えろ。お前の顔なんか見てたら酒が不味くなる。」そんな言葉を聞くたびに、周りの友達からよく聞いていた、食卓を囲み、共に泣き、共に笑うみんなにとっては当たり前の家族が羨ましくて妬ましくてたまらなくなる。私のことを見て。そんな言葉が永遠と喉に引っかかって私を苦しめる。でも、そんな言葉を認めてしまえば、強がって必死に自分を偽って生きてきた自分を自分自身が全て否定する事になる。それが、すごく怖くて、辛い。重い足取りで階段へ足をすすめると、「なんだ。なんか文句あるのかよあぁ?」後ろから怒声と共に洋輔さんの手元にあった様々なものが私の元へ飛んでくる。「そんなわけないです。ごめんなさい。」そう叫んで、自分の部屋に駆け込む。そして、布団に顔を埋めて、泣く。悔しくて、悔しくて、自分が情けない。こんなどうしようもない現実の理不尽さ、そしてそんな現実を甘んじて受け入れている自分の惨めさ。これじゃああの子と一緒じゃん。所詮自分よりも下の存在に自分を投影して同族嫌悪を抱いていたのは私も一緒だ。滑稽なのはどっちだ。嘲笑っていた存在と自分が同じだなんて、こんな話馬鹿げてる。結局あの子も私も理不尽な現実に太刀打ちできず、現実逃避してるだけなのかもしれない。いや、違う。そんなことない。私は違う。私はあんな子よりももっと上手くやれる。それに今は手立てがなくても、私は一生こんな現実にじっくり蝕まれるつもりなんてない。あと二年ちょっとの辛抱だ。高校を卒業したら絶対に家を出る。何がなんでも、何をしてでも。絶対に。握った拳に思わず力が加わる。爪が肉を突き刺した。

 

 ゴポッ…。「ママ、痛いよ。帰ろう。」「ごめんね。ごめんね。ごめんね。」ゴポゴポ…。ママ。ママ。ねぇ、なんで手を離したの?

 

 ハッと目を開けると、時計の針は七時を指している。秒針が動く一定のリズムだけが静寂の中に響く。憂鬱な体をどうにか動かして学校に行く準備をする。鏡を前に座って酷いクマを下地やらファンデーションやらで誤魔化す。慢性的な悪夢は中々に悪い私の寝起きをさらに悪化させる。私は大好きなクラッシックを聞きながらやけに冷たいドアノブにひっそりと鍵をかけて家を出る。早朝の通学路は空気が澄んでいて心地がいい。小さな金木犀の花一つ一つが絨毯のように地面に敷き詰められた坂道を登っていくにつれて、木々が立ち込め道端に草や花々が更によく茂っていくのだが私はそんな空間が随分好きだった。木々の中から差す一筋の光や、枝や木の葉が風に吹かれてわずかに揺れる音、朝露に濡れた朝の妙に神秘的な雰囲気はただの山道でさえ、フレデリック・チャーチの描く優雅で美しい自然の壮大さを彷彿とさせる。ここを通る時だけは音楽を止めて、ペースを落としてゆっくりと歩く、それが私の日課だった。

 坂を登り終え、学校に着くとしばらくして気怠げな先生がやってきて一言二言喋るとホームルームを終了しそのままそそくさと教室を出ていく。その後クラスメイトたちはホームルームによって中断された話の続きを始める。実に至ってごく普通な日常が始まる。一昨日クラスメイトが自殺したことなど無かったかのように。所詮彼女の死を受け止める人など誰もいないのだ。結局彼女は死してなお、その境遇が変わることなど無かった。みんな目を逸らし、突き放し、見捨てる。何事もなかったかのように過ごす日常によって罪悪感は薄れゆき、いつしか何事もなかったことになる。

そして罪はまた繰り返される。


「真紀って笑い方やばくね?笑」

 

 きっかけなんてどうでもいい。彼女たちはただ遊び道具が欲しいだけ、おもちゃが壊れたならまた新しいのを探せばいい、きっとそれだけのことなのだ。

 その日は朝からずっと曇り空だった。「おはよう。」快活な性格の彼女はにこやかな笑顔と共に薫や私たちへ向けて挨拶をする。だが、いつまで経っても返事が返ってくることはない。彼女の発した言葉だけが虚空を彷徨う。真紀の無垢な笑顔がみるみる引き攣っていく。「ひゆっっ…」声も無く、空気だけの悲痛な叫び声が漏れたかと思うと、近くの机や椅子に体をぶつけつつも構うことなく廊下へと走り去り、その日彼女が教室に帰ってくることはなかった。学校が終わってから、スマホの通知を見てみると、薫が真紀をメンションしていた。思わず息をのむ。通知がもう一件届く。「今日のアレ軽い冗談のつもりだったのに真紀全然帰ってこないからすっごく心配してた。また明日話そうね。」すぐに真紀からの返信が来る。「そっか、私馬鹿すぎるー。もう体調良くなったから明日は行けるよ。」私はスマホをポケットに戻し、ため息とともにイヤフォンに手をかけた。

 朝、呟くような挨拶とともに真紀が教室に入ってくる。薫が何事もなかったかのようにいつもの場所から「おはよ」と手を振る。真紀は少し顔をあげて駆け寄る。しかし、そのいつもと変わらない姿はおどおどしている彼女の本心を隠すための虚像のように見える。「昨日はごめんね。」謝る真紀に薫は「心配したよ。元気そうでよかった。」そう微笑んだ。一時間目の準備をしようと一度自分の席に戻った真紀が小さな悲鳴を上げたのはそのすぐ後だった。何があったのかと薫らとともに駆けつけると、そこには黒々としたマッキーペンの先から溢れた罵詈雑言の数々が白の教科書の上を踊っていた。真紀の顔に浮かんでいた安堵の表情が一瞬にして覆る。するとすぐに横から薫のわざとらしい声が聞こえる。「なにこれ、こんなの誰がやったの?犯人誰かわかったらいいけど…」そして片方の口角を僅かに吊り上げて「でも犯人が誰かわかる証拠なんて一つもないもんね。先生も取り合ってくれないだろうなぁ…」そう付け加えた。

近くにいる私たちを除いては誰もこっちを見ない。微かに聞き耳をたて、一定の緊張感をあらわにしながら各々の会話に専念している。関わりたくたくないと彼らの背中が語っていた。 

厄介ごとをを持ち込むな。そっちで勝手にやってくれ。

傍聴席に座ったクラスメイトは重い腰を降ろして動かない。でも薄々みんなわかってる。机との距離が違うだけ。薫と自分は何も変わらないのだと。でもあくまで自分は第三者。そうやって背を向けたまま同調する。実際はみんな同じ裁判員のくせに。裁判官は薫、被告人は真紀。たった今、ただただ被告人が淘汰されるだけの法廷が開廷してしまった。テミスの掲げる天秤は悪意の重さに傾き、崩れ落ちる。

教室にいる全員の黒目が濁っていた。

それはもう、真紀なんか映らないほどに。

「大丈夫、大丈夫だから。」掠れた声で真紀は必死に呟く。ああ、痛々しい笑顔。あの子と同じ。可哀想。でも、私じゃなくて良かった。当たり前のことだけど、誰かが幸せになればその裏で不幸せになる人が生まれる。何事にも犠牲はつきものなわけで、「世の中トレードオフ」とはよく言ったものだ。実際社会はその通りにできている。誰かを救うには自分を擲つしかない。私はそんな利他的になれない。自分が生き延びることで精一杯。他を救う余裕なんて持ち合わせてない。それに余裕があったって私はそんなことしない。私は私より幸せに生きている人が許せない。不公平な世の中が許せない。みんな不幸せだったらいいのに。幸せな人が嫌いで不幸せな人が好き。自分を不幸せだと思っている幸せな人はもっと嫌い。そんなことを私が考えてるなんてみんな気づかない。理解されない。されたくない。私の心は私だけの世界。誰にも立ち入られてはいけない。だから、本心を隠してみんなに好かれる理想の宮下雪になりきる。私のためのみんなの私。とはいってもみんなの中にはもちろん優先順位は存在するわけで、特に好かれるのは私にとって有益な立場のみんなだけでいい。二方は完全に切り捨てた六方美人くらいがいい塩梅。真紀は当然切り捨てられた二方側。だからこっち側にいる私のことを彼女がどう思おうと、私の知ったことじゃない。

いつもの癖で廊下側の窓に目線を逸らした。窓に反射した私の顔はどこまでも冷たかった。

号令がかかってももクラスの淀んだ空気は変わることなく、スターリンについてを熱弁する先生の話など誰も聞いていない。どこか上の空。それは私も同じ。先生が黒板を強く叩く。緑の板に乗ったチョークの粉が宙を舞って、ほろほろと床に白い粉が落ちる。大きな音に驚いて、反射的に顔を上げすぐにまた目を伏せる。そんな45分。教室のクーラーが唸ってる。生臭い匂いと冷気が周辺に漂う。この教室によくお似合いだ。

冷気に耐えかねた私は身震いを一つすると、紺のカーディガンを上から羽織った。授業終わりに教科書を片付けていると、生地が肌に当たって少しチクチクした。それが痒くて少し不快。そして休み時間になった途端活き活きと大声で笑ってる薫も少し不快。真紀をいじめる姿はまるで格好の標的を屠るドブネズミみたい。ドス黒い悪意で丸々と肥えたドブネズミ。でも、そんな奴に限って、見た目は案外普通に可愛いっていうところがとてつもなく皮肉な話。可愛い女の皮を被ったドブネズミ。一枚の皮では隠しきれなかった彼女の心に巣食う邪心が私の足元にまで滲み出る。どこまでも醜く、卑しく、そして汚らわしい。「駅前のとこにできたカフェ今日いつものメンツで行くんだけど雪もくるでしょ?」首元のリボンをいじりながら、私を指差して近づいてくる。「あそこってソーダの色味めっちゃ可愛いとこでしょ?行くに決まってる〜」「おけ。じゃあ放課後ね。」いつものメンツから真紀が消えてもいつものメンツは続く。大量のキーホルダーで埋め尽くされた鞄を揺らしながら、どうでもいい話に笑って坂道を下る。朝の自然の美しさは色褪せ、ピントのボケた話題の背景に成り下がる。正直ソーダなんてどうでもいいけど、家に帰りたいかと言われればそんなこともない。運良くすぐにやってきたバスに乗り込み、数キロ先の10代に人気なお店が多く立ち並ぶ駅で降りて、ウィンドーショッピングにいそしみながらお店へ向かう。カランコロンカランという心地よい音色のドアベルが私たちを迎えた。みんなでソーダを頼んで、恋バナに花を咲かせる。そんな一連の出来事を低俗だなと他人事のように受動する。運ばれてきた5人分のソーダ。なんとも言えない斬新な形の容器に注がれた多種多様な色のソーダ。ソーダが天井の照明に反射してキラキラ輝いてみえる。「やばっ、映えまくりじゃん。」横からの絶え間ないシャッター音が私の思考を遮る。私もスマホの待ち受けを横にスライドして写真を撮って見るけど、実際よりも色褪せた画面の中のソーダは少し物悲しい。薫がスマホを下ろしたのを確認してソーダを一口飲んだ。思わず顔を上げた。少し強めの炭酸のほろ苦さとラムネの爽快感と同時にくるラズベリーシロップの甘酸っぱさのどれもが私に幸福感を与える。「おいしい…。」口から思わずこぼれた本音。あぁ、これだ。私に足りない物。私にはこれがない。爽やかなシュワシュワ。周りと線を引いて諦観して、アオハルなんて馬鹿馬鹿しい。そういうスタンス。なーんだ私の方がよっぽどテイゾク笑。視線の先のソーダがキラキラを翻して(と音を立てて)私を嘲笑っていた。

帰り道通知音が立て続けに何回も鳴る。「今日まじ楽しかったね。このメンツさいきょー。」そんな言葉とともに5人で一緒に撮った写真がグループに送られる。わざわざこのグループに送るあたり、薫はとことん彼女を貶めることに夢中なのだろう。私を含めた残りの4人も各々のアルバムに保存された今日の写真をグループに送る。既読5。容赦なく続く今日の思い出話。いつしか表示される既読の数は4に減っていた。

「ってかさってかさ、二限目のアイツの発表みた?下手すぎて逆に心配〜。」メイク道具を片手にギャハギャハと品のない笑い。薫は真紀がトイレに入るのを目で追ってから私たちをトイレに誘った。きっと個室の中には出るに出られない真紀がいるのだろう。休み時間が後半に差し掛かって、トイレを出た先の階段で薫は突如足を止めた。「あっ、美華子せんぱーい」甘ったるい声を出しながら二、三歩階段を登る。「薫ちゃん、こないだはあの話教えてくれてありがとね。部内のみんなに回しといたから。」「いやいや。私は先輩方を騙そうとするなんてことが許せなかっただけですよ。」ニコニコ笑いながら手を振って先輩と別れる。「こないだのあの話って何したの?また悪だくみ?」涼香が聞いた。「も〜さすが涼香!うっかり口が滑ってアイツの悪い噂先輩に教えちゃった。」手を口に当てておどけて見せる薫。多分噂の内容は全部嘘。先輩もきっとそれをわかってて薫の話に乗ってる。何にも知らないのは真紀だけ。昼休みの後の彼女は目元が赤く腫れていた。私はやはり目を逸らして窓を見る。窓の内側の事象を窓の外側の景色で飽和したかった。それが無駄な行為とわかっていても。もはやクラスだれもが真紀を気にかけることなどない。腫れ物のように、はたまた最初からいなかったかのように。

薫の決定はクラスの決定。逆らうことは許されない。薫に備わった特有の支配力とカリスマ性によって、気がつけば薫の考えがみんなの考えへと変わり、薫と同じでないことが罪とされた。原初の罪は彼女自身であるのに、彼女は楽園を掌握した。楽園は彼女の毒によって麻痺していく。ゆっくりと、着実に。それは、逃れられるものなどではなかった。

昼休みから降っていた雨は放課後になる頃にはさらに強く降りしきって、雷までもが鳴っていた。私は委員会が終わって静まりかえった教室を出て、黒雨と雷霆にまみれた空を廊下の窓から横目に眺めていた。なんで委員会の教室まで傘を持っていくのを忘れてしまったのだろうとため息をひとつ。階段を登って右側をまっすぐ、クラスの傘立てからグレージュの傘を手に取ろうとした時、視界の端からもう一つ手が伸びて私の隣の傘を掴んだ。真紀だった。おそらく部活の帰りなのだろう。ボロボロになった部活のシューズを履いている。つい最近買い換えたばかりだと自慢げに話していたシューズ。よく見ればラケットを入れる袋も薄汚れて、土気色の足跡がいくつもついている。反射的に顔を上げる。目が合った。真紀の顔は歪んでいた。怒りをあらわにしつつも、哀しそうな、淋しそうな、縋るような、そんな顔。何事もなかったかのように踵を返した私の耳に真紀の張り上げた声が入ってくる。「みんなが薫を選ぶのは分かってた。それでも…それでも私を選んで欲しかった。友達だと思ってたのに。」私は歩くのをやめない。私は彼女と話す資格なんてないし話す気もさらさらない。やっぱり私はヒトなんだ。人にはなれない。真紀のすすり泣く声がいつまでも廊下に響いていた。


メンバーなし(1)


、、、は?

傘をさしながら開いたLINEのピン留め一番上。そこには真紀以外のイツメンのグループ。この間の遊んだ時に撮った写真のアイコンが初期アイコンに変わっている。慌ててタップしてトークを開く。

トーク相手がいません

いつもなら文字が打てるはずのところにそんなことが書かれていた。

すぐ上に目をやる。


               18:16

薫がゆきをグループから削除しました。グループ名は自動で更新されません。

           グループ名を変更する。



なんで?私はこれまで何一つ間違いなく上手く薫に合わせてきた。それなのにこんなの絶対間違ってる。呆然としながら立ち止まる。雨は更に強まり私に容赦なくその小さな大量の鞭を打ちつける。足がじわじわ水に侵されていくのがわかる。寒い。凍えてしまいそうだ。早く帰らなきゃいけないのに、足が動かない。今日が終わって明日が始まってしまうのが怖い。傘の中から見た空は半分も見えなかった。

登校中の綺麗な自然の風景とは一変した坂道。花々が雨に強く打たれていた。私は特に気に入っていたイヌサフランの花々に向けて傘を差し出した。直後、全身に雨粒が降り注ぐ。「っふふふふ、あははっ。」涙が出るくらい笑った。昔花の名前を調べた時にイヌサフランの"イヌ"は本物になりきれない偽物につけられる不名誉な称号なのだということをウィキペディアで読んだことがある。私も同じだったのかもしれない。認める。認めざるを得ない。結局私はあの子達と何にも変わらない。自分より下の存在を馬鹿にして安心して、そして自分を重ねてる。私は何も高望みなんてしてないのに。それなのに、まだ私の不幸は増幅することをやめない。あー、世の中ってほんと理不尽。空を見上げて、数多の十字架を全身に受ける。雨粒が涙をも掻っ攫って私を飽和していく。海水に沈むよように、羊水に包まれるように。そうして私は己の骸を拾い上げて足を踏み出すのだ。


第二章 暁の寒月


「おはよう」一応一声かけてはみるけど、案の定誰からの返事もない。真紀だって薫達と共に無視を貫いてる。「ほらね」そうやって私は少し口の端を吊り上げてみた。真紀は目は怯えていた。ざまぁみろ私は心の中で呟いた。

グループから削除された時に既にわかってはいたが、これで私は完全にどこにも居場所がなくなってしまった。内側からどんどん空洞が広っがて行くような、そんな感覚に囚われる。虚無感。私は何のためにここにいて、何のために息を吸って、何のために生きているんだろう。どうしても考えずにはいられない。正解なんてない愚直で惨めな疑問。家と学校の往復を繰り返し続ける毎日に生きる希望や意義なんてものはなくて、ただひたすらになんとも言えない絶望が私を襲ってぐちゃぐちゃにする。あれ、生きるって何の意味があるんだろう。そんな思考を必死に遮ってはぐらかす。私はきっと死なないように惰性で日々を生きてるに過ぎない。バカみたい。こんなしょうもない日常に執着するしかないなんて。でもそんな日常だって辛くて苦しくて悔しいのはその時だけで、過ぎてしまえばそれはただの過去でしかない。どんなに相手に恨みを抱いたとしても、私の過去と心が結びつく事はなく、所詮過去は単に出来事がバラバラと連続しているだけの事実の時系列に過ぎない。私はそうやっていつも耐え忍んできた。こんなの昔から慣れっこ。それなのに、全てはなんでこんなに虚しいのだろう。私に存在価値をください。視界の何もかもが傾いて何が何だか分からなくなっていく。目の前の机の上に散らばったゴミだけが真っ直ぐとこちらを見据えていた。

「それでは最後に今日の振り返りを6組代表 藤城薫さんお願いします。」「はい。私は今回の学習でいじめはする側もされる側も癒えることない大きな傷を抱えてしまうとても恐ろしい行為だと改めて理解することができました。だからこそ、私達は絆を大切にし、互いに寄り添い合える学年にしていきたいです。」

四限目の終わりに手から弾ける騒音。私は次第に鼓膜が遠くなっていって、自分1人だけが別世界にいるかのような思考に陥る。

空いた口が塞がらない。頭が真っ白になった。膝の上に置かれた手をじっと見ていた。目の前がぐるぐる回りだす。「死ねばいいのに」飛び出そうになった言葉を必死に飲み込んだ。毎朝掃除が日課になってしまったゴミだらけの机、落書きの量に反比例して減っていく持ち物、学年中の女子に共有されたあらぬ噂と陰口。全ては目の前でマイクを持って話しているコイツのせいなのに。苦しくて苦しくてたまらないそんな私の現状を彼女は楽しんでる。薫を殺して私も死んでしまおう。本気でそう思った。私はきっとこの日の手の震えと噛んだ唇の痛みは一生忘れないんだろうと思った。

その後にクラス全員のプリントを集めて職員室に持って行っていたら、少ししてから同じクラスの男子が私の方に走ってきた。「見て見ぬふりして助けられなくてごめん」彼は小声でそう言った。「そんなこと言っていいの?私が薫達に告げ口するとか思わなかったの?」いじめ防止教育に感化されて私を自分の偽善の道具にでもしようとしてるのかと思ったら心底腹が立った。でも違った。「宮下さんはそんなことしないでしょ?」彼はさも当然かのように冷静に呟いた。私には生粋の屑に成り下がる覚悟がない。それを彼は見抜いてる。嬉しくもあり恐ろしくもあった。「結局みんなそんなもんだよね。許さないよ。君も、私自身も。所詮自業自得だから」私は後ろを振り返らずにそう答えた。わずかに涙がこぼれそうだったから出来るだけ走ったが、彼はもう追いかけては来なかった。涙で歪んだ視界のせいでつまずいて辺りに数枚プリントが散らばる。一枚一枚拾い拾い集めていると重力を纏った涙がプリントに引き寄せられて、小さな丸いシミに変わった。自分の惨めさが際立っているような気がして余計に悲しくなった。ひとしきり泣いたらお腹が減って今日は購買でパンを2つも買った。悲しくてもお腹はすくんだ、なんて言うけど、悲しいからお腹がすくんだ。悲しいってだけで疲れて、虚しくて、その虚しさを埋めるためにひたすらにいろんなものを詰めていく。寝ても食べても何か足りない。悲しいって際限のない空腹。2つのパンを持って購買から歩いて旧校舎へ向かう。廊下の一番奥の右側にある非常階段。そこが私の特等席。人通りが少なくて気兼ねなく食事ができる。クラスに居場所のない私にはここほどありがたい場所は他にない。私は階段に腰掛け買ったパンをひたすら胃に押し込んでいく。美味しいから食べるんじゃない。生きるために食べる。これもまた生存本能。私にはやっぱり人という存在が遠いように感じて自嘲的な笑みを浮かべた。昼下がりの曇天に鳥がちらほら飛んでいて、風もそよそよと流れている。そんな世界に私、独り。ワイヤレスイヤホンが私の耳に甘美な音の旋律を伝える。ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーベン「ピアノソナタ第八番 ハ短調 作品13」やはりそういうことなんだ。私はまた少し笑った。


   

その次の日の朝はやけに騒がしかった。

「お前宮下に駆け寄って話しかけたんだろ?」「3組のもかちゃんが見たって言ってたよねぇ」「え、好きなんじゃね?」「何それまじウケるんだけど」そんな言葉が教室の中から廊下に漏れ聞こえる。廊下の木目としばらく睨めっこしていたら、後ろから足音が聞こえて慌てて教室へと足を踏み出す。「あ、宮下来たじゃん」「で?お前どうなの?」

 うるさい。五月蝿い。

「昨日だろ?あれはちょっと冗談言ってからかってただけだって。あ…あんときの顔面白かったわ」そんな声が聞こえてきて数秒後頭に何かがあたる。小さくクシャクシャに丸められた紙屑。地面に落ちていた。「い、いい気味だよ」私は立ち止まって彼の方を見た。そしてまた目を伏せて机に向かった。彼の顔を見た。笑っていた。目は一本の曲線を描き、広角をこれでもかと引き上げて笑っていた。でも、私には同時に泣いているようにも見えた。閉ざされた瞼で必死に涙を隠しているように見えた。そんな彼を見ていたら、私は彼に怒りをぶつけられる立場なのだろうか、私が彼の立場なら同じ事をしたのではないか、そんな考えが頭に浮かんでは消えて、途端に分からなくなった。私はただ、口を固く結んだ。フタを開ければみんな自分が可愛くて仕方ない。自分を守るのに必死。私が一番分かってる。彼の顔をもう一度見た。加害者のくせに被害者みたいな顔しないでよ。心が荒波をたてる。私は思わず目を背けた。

***

木枯らしが頬を撫でる。非常階段でご飯を食べるには少し寒い季節だ。階段に座って、スカートを整えて、足を少し斜めに折り曲げる。慣れた手つきでケースからイヤホンを取り出す。一人の時間ばかりになってからイヤホンは私の日常に溶け込んで、当たり前の存在になっていた。現実の嫌なこと、ぐちゃぐちゃした頭、そんな全てがイヤホンから注がれるバリケードによって和らぐ。そうやって信じて、錯覚して、偽って、一日をやり過ごす。そんな毎日。


...ぇ。ねぇ。


ふと頭上で声が聞こえた。慌ててイヤホンを外して顔を上げる。「そんなとこで寒くないの?」パンを片手に不思議そうに笑って彼は首を傾げる。1組の立花君。話したことは無かったけど、美男子として名を馳せている1人である彼の名前は、女子の会話に登場することはしばしばあった。「別に大丈夫なので、お構いなく。」

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