ブラック職場への出社を拒否します
今日から春休み。
わたしは料理の本を買って、先生のお家を訪ねた。今日から一ヶ月、ユガリノス先生の妻体験をしちゃうぞ。
まずは美味しいお料理を作って、先生の胃袋を掴んだ。それから、お掃除。洗濯。肩たたきも頑張った。子供大好き発言をして、良妻賢母をアピールしたぞ。
先生はとっても喜んでくれた。よし、妻体験から本物の妻へと昇進だ☆
──なんてこと、あるわけがないっ!!
「恐ろしい想像をしてしまった。ブルブルっ!!」
春休み初日の午前。
ベッドの中から手を伸ばして、昨日ユガリノス先生からもらったメモ紙を開く。
『西公園の時計台の下。十時』
公園で待ち合わせをして、それから先生の家に行く約束をした。
それなのに、時計の針は十一時を指している。完全に寝坊した。昨夜は音楽を聴くのに夢中になって、寝たのが三時だった。
「先生の妻体験なんて、罰ゲームだよね。せっかくの春休みが台無し。ルーチェの言ったとおり、人差し指で埃の確認をされて、ネチネチと嫌味を言われるんだろうなぁ」
窓から差し込む太陽の日差しはポカポカとしていて気持ちが良い。それでもわたしはベッドから抜け出せない。布団の中に潜り込む。
「ブラック職場への出社を拒否する。行かなーい!!」
宣言をした直後、玄関の扉が激しく叩かれた。
「ノアナ、いるんだろう! さっさと出てきな!!」
「このダミ声は、ラテルナお婆ちゃん!」
渋々起きあがる。
玄関横にある小窓から外の様子を伺う。日の差さない廊下に立っているのは、案の定、大家のラテルナお婆ちゃん。
「家賃の催促だ。どうしよう!」
母はある程度の財産を残してくれた。本当だったら、その財産で家賃を払っていく計画だった。
けれど母が亡くなった際、思い切って、見晴らしの良い丘の上にお墓を移した。
仲の良かった両親が、四季折々の花に囲まれた丘の上で安らかに眠れるように。そう、祈りを込めて——。
しかし墓を新しくした三ヶ月後に、大嵐で墓石が倒れて角が割れた。その修復にまたお金がかかってしまった。
つまり、母が残してくれた財産のほとんどを使ってしまったのだ!!
「ノアナ! そこにいるんだろう。わかっているよ。さっさと開けな!」
ラテルナお婆ちゃんの不機嫌なダミ声が響き、またもや玄関扉が強く叩かれた。
こうなったら、最終奥義を使うしかない──。
「居留守を使っちゃおう!」
わたしはオンボロ集合アパートに住んでいる。壁が薄いせいで、周囲の部屋の音がダダ漏れ。さらには、隣室に住むレマー爺さんは粘着質で変人。
ラテルナお婆ちゃんが諦めることなくわたしの名を呼び、ドアを叩き続けるものだから、レマー爺さんの怒りを買ってしまった。
居間の壁がドスンドスンっと、重く、激しく鳴る。レマー爺さんが足蹴りをしているに違いない。
「うっさいぞ、小娘! さっさと出ろ!!」
「壁が壊れちゃう! やめて!!」
壁が足蹴りされていることに悲鳴をあげると、それがラテルナお婆ちゃんの耳に入ってしまったらしい。
「あぁ? その声は、ノアナかい?」
「ち、ちち、ちがいますっ!!」
「じゃあ、あんたは誰だい?」
「にゃ、にゃあ〜ご」
「猫を飼っているのかいっ⁉︎ ペット禁止のアパートなのに、規則を破るとはいい度胸だ。罰金を払いたいようだねぇ!!」
「違いますっ! 猫真似をしたノアナです!!」
最終奥義破れたり──。
仕方なく、玄関の鍵を開ける。
扉を半分ほど開けると、ラテルナお婆ちゃんのしわくちゃの手が戸にかかって、玄関を全開にした。
昼でも暗い廊下に立っているのは、杖をついたラテルナお婆ちゃん。小柄だが、頑固な顔をしているため迫力がある。
「大家さん、おはようございます!」
「なにがおはようだ! もう昼間だ!! ……って、あんたパジャマじゃないか。今まで寝ていたのかい? やだねぇ。みっともないったらありゃしないよ。最近の若い者はだらしがないねぇ。あたしの若い頃は太陽と共に起床し、身だしなみを整え、客人には手厚くもてなしたもんだ。あー、大声出したら喉が渇いたよ。茶を出しとくれ。あんたは掃除ができないから、湯呑みに茶渋がついていそうだ。新品の紙コップにしておくれ。それと、そろそろ昼食の時間だ。ノアナ、一緒にお昼を食べようじゃないか。美味しいものが食べたいねぇ。なにを出してくれるんだい?」
ラテルナお婆ちゃんは、ドケチの達人。集合アパートの各部屋を回っては、食事を催促し、食費を浮かせている。
茶を出すとも昼食を出すとも言っていないのに、強欲に話を進めてくるラテルナお婆ちゃんに、わたしは引き攣った愛想笑いを返しつつ、さりげなくドアノブに手をかけた。
「ゴホンっ! 悪い風邪を引いたので、寝ていたんです。ゴホンゴホンっ! 移ると悪いので、これで失礼します。さようなら!!」
扉を完全に閉めるより早く、ラテルナお婆ちゃんが足を挟んだ。頑丈な木靴に阻まれて、扉を閉められない。
ラテルナお婆ちゃんは、悪魔みたいにニヤぁっと口角を上げた。
「あんたみたいなツヤツヤした顔の病人がいるもんか! あたしを騙そうたって、そうはいかないよ!! 今すぐに家賃を払うか、それとも高級店のランチをテイクアウトしてくるか。どっちか選びな!」
「わたしの手作り料理を……」
「断固拒否する! この前、あんたの料理を食べてひどい目にあったからね。トイレに一日中閉じこもったよ。もういい、今月分の家賃を払いなっ!」
「あ、あのですね。新学期っていろいろとお金がかかるんです。なので、ちょっとだけ待ってほしいんです」
「学校と家賃と、どっちが大事なんだい!」
「もちろん、がっこ……」
「家賃が大事ってもんだ! よくわかっているじゃないか。だったら今すぐに払いな! 五分だけ待ってやる。五分過ぎたら、家賃を三倍にするよっ!」
「きゃあーーっ!!」
すぐさま家の中に引っ込むと、台所の棚からクッキーの絵がプリントされた丸缶を出す。丸缶の蓋を開け、お札を三枚取り出した。
丸缶の中に残っているお金は、紙幣が十二枚と硬貨が三十枚。これがわたしの全財産。
「この先どうしよう。やっぱり、学校を辞めて働くしかないのかな……」
残金が厳しい現実を突きつける。
父親の両親は亡くなっていて、母親の両親は貧乏。親戚は当てにならない。友達からお金を貸りるわけにはいかない。
頼りになる人といえば、学費を出してくれると言ったユガリノス先生だけれど……。生活費もください、とはさすがに言えない。
先生が「私の妻という職業を極めるには、三年は必要だ」と話していたことを思い出す。
「先生の妻として、働いてみる? でも、三年って長すぎっ! 無理!! せめて、三ヶ月にしてくれないかな。三ヶ月なら、なんとか頑張れると思うんだけど……」
重い足取りで玄関に戻ると、ボソボソとした話し声が聞こえてきた。うす暗い廊下に、モジャ髪男が立っている。
「ユガリノス先生……? どうしてここに?」