妻体験の相手は……
「妻って……どういうこと?」
ベルシュから、当然であろう疑問が投げられる。
「天職検査で、わたしには妻の才能があることがわかったんだ。逆に言えば、妻の才能しかないとも言える……。えぇいっ! こうなったら、妻の道を極めてやろうじゃないの!!」
わたしは両手で机をバンっと叩くと、勢い良く立ち上がった。
吹っ切れた。迷いは微塵もない。天職結果に従ってみよう! ……ただし、ユガリノス先生じゃない相手と。
「実習内容は『妻』。実習先は『ベルシュパン屋』。これで決まり!! 運命は自分の手で切り拓くのだ。えいえいおー!!」
「なにを突然っ⁉︎ オレ、ノアナのこと友達としか思っていないし!」
「わたしはベルシュのこと、美味しいパンをくれる人だと思っているよ! 他のパンを見るな。オレのパンだけを見ろって言うなら、他のパンに浮気せず、ベルシュパンだけを食べ続けるから!」
「はぁ? オレじゃなくて、うちのパンを気に入っているだけじゃないかよ!」
「そうですけれど、なにか問題でも? ベルシュパン屋のパン、どれも美味しい。大好き。毎日食べられる。これはもはや、愛と呼んでいいレベル」
わたしの人生を方向づける重要な話をしているというのに、ルーチェは腹を抱えて大笑いし、ベルシュは困惑したように顔を擦った。
「パンが好きだって言うならさ。確認させてくれ」
「いいよ」
「どうやってパンを作るか、知っている?」
「簡単簡単。小麦粉を練って、形にして、焼けばいいんでしょう?」
「どうやって小麦粉を練るわけ?」
「ええっ⁉︎ 考えたことがなかったけれど……。両手でこうやって擦り合わせて」
両手を合わせ、前後に動かして擦る動作をすると、ベルシェの頬が引きつった。
「言い方が悪かった。材料を聞いたんだ。小麦粉はそれだけだとサラサラしていて、まとまらない。パンを作るには他の材料が必要だ」
「ああ、材料の話ね。最初からそう言ってよ。えぇと……クリームパンにはクリーム。チョコパンにはチョコ。もちもち白パンにはもちもち。メロンパンにはメロン」
「…………。パンを焼くときの温度は?」
「六千度」
「太陽かっ⁉︎」
ルーチェからツッコミが入る。呆れ顔でため息をつくベルシュ。
「不合格。ベルシュパン屋とは破局だ」
「なんでっ⁉︎」
「パン職人になるには、知識と技術と経験が必要だ。それに、朝早く起きなくてはならない。お寝坊ノアナは、パンを食べる客にしかなれない」
「ガーン!!」
朝に非常に弱いわたし。ベルシュパン屋に嫁ぐ夢は跡形もなく散った。
「まだ残っていたのか」
死神の仮装をしているかのような、全身黒服男が教室に入ってきた。
ユガリノス先生である。
「下校時刻はとうに過ぎている。早く帰りなさい」
「ノアナが、春休みの実習先を書けなくて困っているんです。妻体験をしたいようなんですが、家事ができないズボラなノアナでも、受け入れてくれる男っていますか?」
「ルーチェ、勝手に話さないでよ!!」
「しょうがないじゃない。職場体験実習をしないと、単位をもらえないんだよ。ノアナが二年生にならないと困る」
「自分ファーストのドライな人間だと思っていたのに……。わたしに熱い友情を感じてくれていたんだね」
「勉強嫌いなノアナのおかげで、試験で最下位にならずに済んでいるんだもん。ノアナが留年しちゃうと、あたしとベルシュで試験の最下位を争うことになっちゃう。万年最下位のノアナが必要なの」
「それが理由⁉︎ 友情はどこにいった!」
「友情ね。はいはい。ここにあるある」
「なんか適当! 流されている!」
わたしとルーチェが騒ぐのを、ベルシェがニコニコ顔で見守っている。
いつもの構図だけれど、違うのは、ユガリノス先生がこの場にいること。先生は、わたしの実習計画書を手に取った。
「体験職業……妻?」
「あ、あのっ! 特定の誰かの妻というわけではなくてですね。全世界に向けて発信しています。妻体験をさせてくれる人を、年齢限定で募集しています!」
「年齢限定?」
「はい。同級生限定です!」
視線でベルシュを絡めとるかのように、じっと見つめる。
ベルシュは青ざめ、鞄を抱えた。
「帰って、パンを作らないと!」
ベルシュは駆け足で教室から立ち去った。
わたしの前には運命の分かれ道がある。ベルシュの逃亡によって、ベルシュパン屋で実習する道は閉ざされた。残りの道は、三つ。
ユガリノス先生の妻体験をするか。それとも、人気のないブラック会社で職業体験をするか。はたまた、もう一度一年生をやるか。
重い沈黙を破ったのは、陰気な低音ボイスだった。
「家事能力の低そうな君を、体験とはいえ、妻をして歓迎する男がこの世にいるだろうか。爪楊枝のほうがまだ、需要があるだろう」
「なんて嫌味な発言! きぃーっ!!」
「それよりも、体験職業欄に妻と書くのはやめなさい。家事を体験したいなら、家政婦や清掃業務や料理アシスタント。はたまたベビーシッターなど、いくらでも書きようがある。なのに妻とは……。夫婦にしかできないことを体験したいのか?」
「夫婦にしかできないことって、なんですか?」
「私に聞くな」
だったらルーチェに聞くしかないと顔を向けると、「知らないなんて五歳児か!」とのツッコミが入った。どうやらわたしは五歳児以下らしい。
「残念だが、一般企業は体験者募集を締め切っている。融通の効く個人事業主も、今から面接となると渋い顔をするだろう。人が寄りつかないブラックな職場しか残っていないぞ。労働条件の悪いところにいると、働くことが嫌いになり、生きること自体がつらくなる。労働環境は大切だ」
「だったらどうすれば……」
先生は長いため息をついた。モジャ前髪が、吐息でふわっと浮いた。
「君はまったくもって、手のかかる生徒だ。仕方がないから、実習先に私の名前を書きなさい」
「は?」
「問題児の君を留年させたら、来期一年五組を担当する先生に迷惑がかかる。不本意だが、私が君の相手になろう」
おとなしく聞いていたルーチェが悲鳴をあげた。
「ちょちょ、ちょっと、ノアナできるの⁉︎ 先生って極度の潔癖症だよ! チョークの粉が服にかかるのが嫌で、ほとんど板書しないっていうのに。人差し指で埃チェックされて、ネチネチと嫌味を言われるのが目に見ているよ!」
「…………」
だが、他に道はなし。渋々、実習先の欄に『ユガリノス先生』と書く。
運命に逆らおうとしたのに、結局、ユガリノス先生の妻体験をすることになってしまった。