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第八話

 第八話 母親と女教師、あるいは女教師対生徒会長 

 中間テストの成績が落ちたことを嘆いたのは、悠介本人よりも母親の美幸だった。勉強しか取り柄のない子が、あれだけ勉強して成績を下げた。どれほど落ち込むのかとオロオロと心配する。

 本人は英語の時間を取られてほかの教科の勉強ができないので、テストで点が取れないのは予想どおり。ショックは軽かった。寝不足もあって元気はないが。

 当惑したのは、英語の補習など悠輔を指導した担任の光里だった。あれだけ勉強しているのに英語は欠点になった。

 実力試験後の補修は自主的だったのが、中間試験で欠点となれば義務になる。すでに十分な指導をしてきたつもりなのに、これからどう進めればいいのか。追試は本試験と同じような問題になるのが通例なので、丸暗記すればなんとか合格するものだが、悠輔を合格させられる自信がない。

 得意なはずの社会科、数学や理科の成績まで落ちてる。数学教師からは嫌みを言われた。「東山君の授業態度が悪い。前は熱心に授業を聞いていたのが、最近は居眠りしかかっている。注意したら英語の課題が多くて睡眠時間が三~四時間ぐらいしか取れないと言う。『言い訳するな』と叱りましたけど、どうも本当のようです。ほとんど完璧に仕上げていた数学の宿題は間違いだらけになりました。聞けば、物理も似たようなものらしいですね。担任なのですから、自分の教科だけでなく、全体を考えてあげてください。」

 優秀な頭脳を持ち、英単語は何回かの読み取りで覚える光里には、何度書き取っても次の日には忘れてしまう悠輔の苦労は理解できない。『ちょっとした』努力を惜しんでいる怠惰のせいだと思う。あるいは勉強方法が悪いのではないか。

 光里は、家庭環境に問題があるのではないか、と推論した。

 「家庭訪問、ですか」。光里の提案を悠輔は問い直す。

「そうです。保護者の方の都合の良い日を聞いてきなさい。」

「親父は出張でしばらく帰ってこないけど――まあ、しょっちゅう出張してるけど。母さんは最近、仕事が落ち着いてるみたいで家にいることが多いです。いつでもいいんじゃないかな。今晩、聞いてきます。」

「立ち入ったことを聞くけど、ご両親のお仕事は何?」

「親父は食品輸入の代理店だか商社だかで買い付けしてるんで、あちこち海外を飛び回ってます。母さんはいくつかの会社の顧問だか相談役だかで、昔は大忙しだったけど、最近は時々出かける程度で、だいたい家で仕事してるみたい。具体的な仕事内容は、僕もよく知りません。」

 光里は、裕福だが仕事にかまけて子供を放任する両親を想像した。

 翌日、光里に悠輔の母の美幸から電話がかかってきた。すぐにでもお越しください、と。

 その日の放課後、光里は悠輔に道案内させて東山家を訪問した。家構えは光里の想像と違っていた。仕事ばかりの成金趣味から思っていたら、これといって特徴のない、地味な一軒家。こぎれいな玄関から、飾り付けの少ない応接間へ。

 光里はだいぶ後で、悠輔から聞いた。家に装飾が少ないのは父、東山剛ひがしやまたけしの考えだと。『家は日常を過ごすための場所だ。家族の生活に余計な飾りなどいらない。高価な骨董品の管理で神経を減らすなど愚かだ。そういう調度品は壊してケンカになる。俺は家族で仲良くしたいから、家にそんなものは置きたくない。』

 光里はなるほどと思った。思春期の男の子は異性に好かれようとオシャレに気を配るのに、悠輔が外見にこだわらないのは、父親の影響か。

 出迎えた悠輔の母親に驚いた。見た目は二十歳代中頃から後半、とても高校生の子供がいるとは思えない。しかも目鼻立ちの通った美人。これも後になって納得した。こんなきれいな人がいるなら、家に美術品はいらない。

「東山の母です。本日はお忙しい中、ようこそお越しくださいました」。落ち着いた挨拶は年相応なのだが、容姿とのギャップが光里を戸惑わせる。

 挨拶もそこそこに、光里は本題を切り出す。

「中間試験で東山君の成績が落ちました。特に英語は欠点です。家庭での勉強方法に改善の余地があるのではないかと、お母様に相談したくて参りました」

見た目、担任教師とさして年齢が変わらなく見える母親は切り返す。

「家庭での勉強時間が足りないとおっしゃるのなら、違います。この子は家に帰ってからほとんど勉強ばかりしてます。幼い頃からこの子に、『勉強しなさい』と言ったことは一度もありません。むしろ本ばかり読まずに、少しは友達と遊びなさいと叱っています。後で部屋をお見せしますが、本や参考書ばかりで、遊び道具がほとんどありません。最近は英語の宿題が多いからと睡眠時間を削っているので、病気になるのではないかと心配です。

 この上、更に勉強しろとおっしゃるのは無茶です。悠輔の成績が下がったのは、失礼ながら、先生の指導方法に問題があるのではないですか。」

光里はむっとする。

「東山君が真面目で長時間の勉強しているのは存じています。私が申し上げたいのは、勉強方法の効率が悪い、ダラダラと時間ばかりをかけているのではないか、その改善をお母様にもご協力いただきたい、ということです」

光里の物言いが美幸の勘に障る。教育熱心なのは好ましい。だが、自分の想像だけで原因を考えて、実態を把握せずに父兄を指導しようとする態度が気に入らない。頭の良い人が陥りやすい状況だ。

「どうも問題の根幹で、考え方に齟齬があるようです。悠輔、先生に英語の辞書をお見せなさい」

 悠輔の辞書を光里は受け取る。

「前から学校推薦の辞書ではないと思っていたけれど、随分と使い込んでますね」

「中学一年生から使っています。」

光里は驚く。

「これ、高校かそれ以上で使う物ですよ。」

「辞書は使い慣れてないと役に立たない。最初からちゃんとした物にしろ、って親父が」と悠輔。

 パラパラとめくった光里は、更に驚く。ほとんどのページに下線や書き込みがある。

「この「正の字」は、何を数えてるの?」

「その単語を引いた回数。多いほど頻度が高いから、重要だと分かる。」

「五回も引けば意味は覚えるでしょ。なにこれ、「take」は四十回?」

「それ、書き込む余白が無くなったから数えるのやめたんです。たぶん、百回ぐらいは引いてると思う。英語の動詞は助動詞が付くと色々な意味になるから、わけが分からない。」

「そこでつまずいてたの……」

呆れる光里。美幸が口を挟む。

「努力の甲斐あって、随分と進歩したんですよ。最初は酷いものでした。悠輔、中学一年の頃、「I studied English last night」を和訳するの、どのくらいかかったっけ?」

「一時間ぐらい、だったかな」

「嘘でしょ……」

「まず動詞の活用で引っかかったんです。「studied」が過去形だと分かって、それを示す日本語が「勉強した」でいいのか悩みだす。「last」でつまずき、「last night」は「最後の夜」が「昨日の夜」になるのが理解できない。教えるの、苦労しました。」

「お母様がご家庭で英語を教えたのですか。それ、ちゃんと授業を聞いていれば覚えられるのでは?」

「この子がいい加減に授業を受けていたと思いますか?」

光里は言葉に詰まる。

「聞いてはいるのです。でも、意味が分からない。

 数学は難問に当たっても、内容を分解して、順序立てて解き明かしていけば、手間はかかっても問題は解けます。でも、英文法は、根本のところは覚えるしかない。この子はそれが不得手なのです。中学の時の英語教師が、先生のように頭の良い方で、悠輔の苦労を理解できませんでした。」

「お母様、もしかして教育の経験があるのですか?」

「高校の教員免許、数学と理科は取りました。社員教育をする必要から、教育論は勉強しました。学校の教壇に立ったことはありませんけど。失礼ですが、教育者としての経験は若い先生よりありますよ。」

 さすがに光里の語気が荒くなる。

「でも、東山君の英語教育はできなかった。」

「悠輔の成績を落とした先生がおっしゃいますか。悠輔の問題点を把握しようともせず、言うに事欠いて、家庭に問題があるような考えは納得いきません。」

二人の女がにらみ合う。

 結局、家庭訪問は何の進展もないまま終わった。光里を見送った後、美幸はテーブルに突っ伏した。

「悠輔、ごめん」

「生徒の心配して家庭訪問してきた担任とケンカする母親が、どこにいるんだ。」

「そうだよねえ。でも、お前の努力を認めない物言いに腹が立って、つい。これでも押さえたのよ。追い詰めて泣かせてやろうかとも思ったんだけど。」

「頼むから、やめて。先生が学校やめると、俺が困る。」

「美人だものねえ。」

「そういう問題じゃない!」

呼び鈴が鳴る。美幸は玄関に出る。

「あら、多喜ちゃん。」

「家庭訪問、いかがでしたか?」

「ちょっと面倒を起こしてしまったわ。まあ、上がって。」

美幸は多喜を上げ、先ほどの内容を説明する。

「そんなことだと思いました。青山先生は優秀で教育熱心ですけど、悠輔のような特殊な子を指導するには、まだ経験が足りません。美幸お母様は会社経営では優秀なのに、悠輔のことでは冷静さを欠くことがありますもの。母親というより、愛しい殿方に一所懸命になる乙女のよう」

「あなたの方が母親っぽいわね。」

 悠輔が幼い頃、美幸は多忙だった。一番母親を必要とする時期に息子の世話を充分に出来なかった引け目がある。多喜がその代役を務めたといってもいい。美幸は多喜を信頼し感謝しながら、可愛い時期の息子を取られともいえるから、今でも悠輔が懐いている多喜への嫉妬もある。

 美幸は一〇年かけて社内の人材を育て、会社を安定させた。ようやくゆとりの出来た美幸は、幼いころ世話が出来なかったのを取り戻すかのように、高校生になった息子にべったりになっている。

「わたくしは母親ではありません。姉です。でも「姉」いるのも、そろそろ厳しいのですよ。わたくしも、悠輔のために一所懸命の乙女ですわ。」

「さらっと、重大発言したわね。最近、三人で悠輔の取り合いしてるとは聞いてたけど。」

「まあ、その話は別の機会に。最優先は悠輔の英語です」

「考えがありそうね。」

「これはちょっと、キツい手段を取らねばなりませんね。」

多喜が静かに微笑む。

「教師相手に、あんまり手荒なことはしないでね。」

そう言いつつ、美幸の表情は「やっておしまい」と語っていた。こういうとき、多喜は頼りになる。年は離れているけれど、二人はお互いを尊敬し合っている親友ともいえる。以心伝心で考えていることが分かる。

 その様子を見て、悠輔はオロオロするばかり。

 ほどなく、多喜は帰る。美幸は見送りに出ながら、多喜に声をかける。

「悠輔の前では、ああは言ったものの、ちょっと嫌な予感がするの。最近、悠輔は心身ともに消耗している。面談で負荷がかかると、発作を起こすんじゃないかと心配。」

「中学のころから落ち着いてるし、高校に入ってから随分と明るくなりましたけど。」

「そうなんだけど、このところ英語で憔悴してるから。母親の私があれこれ言うと、悠輔の負担がもっと増えそうだし。」

「気をつけておきます。」

 翌日。登校した悠輔は見るからにやつれていた。

「大丈夫?」

都子が声をかける。

「あんまり大丈夫じゃない。」

悠輔は昨日の経緯を説明する。

「お母さんや青山先生の感情はさておき、要は英語の追試を合格すればいいのね。」

「ザックリまとめすぎだと思うけど、確かにいちばん急ぎの問題は追試だな。」

「東山君って不思議よね。国語は私より成績がいいのに、なぜ英語は欠点なの?」

中間試験で、都子は総合で学年一位の成績を収めている。

「それが分かれば苦労はないよ。とにかく覚えられないんだ。多喜姉さんが言うには、アルファベットの苦手意識が強すぎて、英語に関してはほとんど記憶障害なんだって。言われてみれば、他の教科は楽しいけど、英語は苦痛しかないな。」

「乙原先輩も酷いこと言うわね。良かったら、私、教えてあげようか?」

憔悴した悠輔は、顔を赤らめた乙女の告白に気が付かない。

「ありがとう。でも、青山先生の補習が増えるんだ。多喜姉さんはその方針に異議があるって、今日の放課後は三者面談。」

「三者面談って、乙原先輩は保護者じゃないでしょ。」

「姉のようなものだから、母親の代理って、ねじ込んだらしいよ。母さんも承諾してるって。」

「おとなしい御嬢様かと思ったら、無茶を言うわね。」

「おっとりした外見に騙されちゃいけないよ。多喜姉さん、旧家のゴタゴタで鍛えられてるから、大人相手でもディベートとポーカーで負けたことないって。今度も何を言い出すことやら。」

「ポーカー? トランプなんてしそうに見えないのに。」

「滅多にしないけどね。手札が弱くても、ハッタリで相手を恐がらせる駆け引きが天才的に上手いんだ。あの優雅な表情に、みんな騙されちゃう。親戚の博打打ちに言われたらしいよ。『カジノに行っちゃいけない。勝ちすぎて身を持ち崩す』って。」

「そりゃ、青山先生の方が心配ね。」

「おまけに、家の人脈を使うのが上手いって、亡くなったお婆さまが言ってた。親戚の大人たちは、みんな多喜姉さんが大好きだから、たいがいの無理は聞いてくれるらしい。

 でもね、母さんよりはマシなんだ。あの人、気に入らない相手だと、容赦なく人を圧迫することがあるから。むかし、気に入らない役員を合法的に退職まで追い込んだこともあるって。さすがにやり過ぎたって、最近はなるべく人と議論しないようにしてるらしい。で、今回は多喜姉さんに任せた。」

「熱血教師vs乙姫様。なんとかしてあげたいけど、委員長権限では参加できないわね。」

「勘弁して。」

 放課後、三者面談が開催される。

 光里は来週の追試まで、悠輔を毎日補修するとした。多喜は異議を唱えた。

今までのやり方の延長では、悠輔の成績は更に落ちる、と。

「では、代案があるの?」

「追試は本試験と同様の問題ですから、その対策に絞ります。

 まず、長文問題は捨てます。時間の無駄です。」

 多喜の口調は穏やかだけど、内容は過激だ。思わず口を挟みかけた光里を、多喜は手で制した。

「次に助動詞の穴埋め問題。よほど自信があるところ以外は全部「to」と答えます。一番多い助動詞だから、一つ二つは当たるでしょう。。

 選択問題は鉛筆を転がしなさい。六面に数字を書いておいてね。五択でしょうから、六が出たらやり直しね。確率的に約二十パーセントの正解になる。

 これで時間が稼げる。日本語訳は、知っている単語を拾い出しなさい。四分の一ぐらいは意味が分かるでしょうから、文章の意味を推定しなさい。部分点がいくらかもらえるでしょう。

 英訳も同じです。分かる英語を書き出して、知っている構文のとおりに並べなさい。上手くすると部分点になるかもしれない。

 具体的な勉強は、中間試験の問題を繰り返し練習する。一週間それだけをすれば、追試当日に一割ぐらいは覚えてるでしょう。似たような問題が出れば、それで何点かは稼げるでしょう。」

「そんなやり方では、英語の勉強にならない。」

「目の前の追試に合格するのが先です。先生のやり方では、何度追試を繰り返しても欠点のままです。」

「たとえ追試に合格しても、きちんとした勉強方法でなければ、役に立つ英語にならないわ。」

「授業の英語など、将来、何の役にも立ちません。かなりの高学歴の方でも、英語が必要になったときに勉強しなおす人が大半でしょう。こうも英会話教室が流行るのは、学校教育の無能を示すものです。

 あえて言います。高校の英語など、受験で点を取る意外に意義はありません。」

「そこまで言う?」

「追試を合格してみせればよろしいのでしょう。先生は一度失敗しているのです。わたくしのやり方を試すべきです。」

 おっとりした御嬢様で生徒会長かと思ったら、言ってることは学校教育を否定するような過激派だ。英語教師は生徒会長をにらみつける。生徒会長は涼やかに受け流す。その態度に光里は慄きかける。この子、何者だ?

 この子のペースに乗せられてはいけない。話の流れを変えなければ。

 「東山君が英語を苦手なのは理解したわ。勉強が苦しいから覚えられないのね。もっと楽しく学びましょう。音楽を聴くのはどうかしら。発音が綺麗なカーペンターズとか、と言いたいところだけど、この際、洋楽なら何でもいいわ。東山君、好きな歌手は?」

悠輔が引きつる。

「いや、僕は、音楽は駄目なんです。」

「そんなことないでしょ。歌っていたら、英語はリズムで覚えられるわ。」

「先生、やめてください。」

冷静だった多喜の声に焦りがにじむ。悠輔の顔から血の気が引いていく。自分の思いつきに気を良くした光里は、二人の変化に気が付かない。

「先生がギターを弾いてあげる。けっこう上手いのよ。そうね、ギターも教えてあげる。」

これは楽しいだろう。素直で可愛い男の子と二人で歌う。ギターは学生時代にたまに弾いていたのを学校に持ち込めばいい。代わる代わる弾けば息抜きにもなる。

 光里の妄想は、多喜の悲鳴に破られる。

「お願いだからやめて。」

ふと見れば、悠輔の息が荒くなっている。真っ青になった唇が震えている。

「いやだ。音楽は嫌だ。楽器なんか見たくない。」

「悠輔、しっかりしなさい。もう音楽なんかしなくていい。あなたを苦しめる楽器なんか、どこにもない。」

多喜は悠輔の頬に手を当てて語りかける

「姉さんも僕をいじめるの? 無理矢理リコーダーを吹かせるの?」

「ああ、二度とそんなことしない。何があっても、わたくしはあなたの味方よ。」

多喜は悠輔の顔を抱き寄せる。悠輔は幼い子供のように嫌々をする。

 何が起こったのか理解できない光里は傲然とする。

 多喜はポケットからスマホを取り出すと、素早く電話をかける。

「多喜姉ちゃん、なにごと?」

スマホに入ってくる音から、ただならぬ気配を察したあさ美が緊張気味に尋ねる。

「悠輔が引き付けを起こした。すぐ来れる? 高校の生徒指導室、職員室の隣。」

「すぐ行く。いま、お兄ちゃん家だから、美幸おばちゃんに車を出してもらう。」

多喜のスマホから廊下を走る音が聞こえる。美幸が自家用車に駆けていくのだろう。

「お姉ちゃん、スマホをスピーカーにして、お兄ちゃんにあたしの声を聞かせて」

スマホからあさ美の声が流れる。

「お兄ちゃん、大丈夫よ。あたしがいる。一緒に歌おう。」

あさ美は幼い声で、日本初のテレビアニメの主題歌を歌い出した。多喜を振りほどこうとぐずっていた悠輔の動きが緩慢になっていく。同じ歌を三回ほど繰り返す頃には、調子はずれながら、あさ美に合わせて歌い出す。

「悠輔」多喜は悠輔の頭を抱きしめる。

「姉さん、苦しい。」

「大丈夫? 落ち着いた?」

「うん」

「よかった」多喜はもう一度悠輔を抱きしめる。

「だから、苦しいって。」

「そうよ。あたしの胸の方が大きくて柔らかいんだからね。」

生徒指導室に飛び込んできたあさ美が、多喜から悠輔を奪い取る。

「今回は譲らざるを得ないわね。あさ美、ありがとう。」

「どういたしまして。お兄ちゃん、気持ちいいでしょ。」

あさ美は悠輔の顔を胸に押しつける。

「お前の胸が大きいのは分かった。放して。息ができない。」

そう言いながら、悠輔はあさ美から離れようとしない。

「あ、ごめん。」

「はいはい、それくらいにして。とりあえず、帰るわよ。」

捕まれば免停を食らったであろう速度で飛ばしてきた美幸が、あさ美を悠輔から引き離す。

「そうね。悠輔、今日はゆっくり休みなさい。美幸母さま、お願いします。」

完全に無視された光里が何か言いかけるのを、多喜が手で制する。

「こちらの始末は、わたくしがつけます。」

うなずく美幸。光里を見ようともしない。

 まだ足元が不安定な悠輔を支えるようにあさ美が寄り添い、生徒指導室から出て行く。

 呆然としたままの光里は、残った多喜に問いかける。

「何が起こったの?」

「悠輔は音楽、特に楽器が死ぬほど嫌いなんです。」

「そんな、大袈裟な。そもそも音楽が嫌いな人なんているの?」

「今のを見て、よく、そんなことが言えますね。」多喜の語気が荒くなる。一つ息を吐き、静かに語り始める。

「あの子は音痴で、音程とは何なのかが理解できない。それで小学校の最初の授業から、音楽は落ちこぼれました。ハーモニカとかリコーダーとか、悠輔には無意味に口や指を動かすのを強要される苦行です。音楽教師はそれが理解できなくて、怠惰で練習しないと思って課題を増やす。悠輔は練習するほどに苦痛が増す。悪循環でした。」

 多喜は光里を見つめる。『英語の課題を増やすばかりで成果が上がらない今と同じですね』、とは言わないものの、非難する目線がそう語っている。

「音の高い低いが分からないから、リコーダーを吹き間違えているとの指摘が、悠輔には意味不明です。一曲吹けるようになるには、指が覚えて勝手に動くようになるまで練習してるから、おいそれと修正できない。何度も同じ間違いをする。その度に教師に叱責される。何十時間もかけて出来るようになったのにね。音楽はますます苦痛になる。その繰り返しです。

 小学校三年生の時に泣きながら訴えた。『国語や算数は九十点なら先生は誉めてくれる。なぜ音楽は一つ違っていると先生は怒るの? 何が違っているのか、オルガンを叩いてこれだって、全然分からない。国語や算数ができないと大人になって困るのは分かる。でも音楽なんて、苦しいだけで何の役にも立たないのに、どうして勉強しなきゃならないの?』

 わたくし、悠輔に音楽を教えました。評判のよい音楽教室にも通わせました。失敗でした。音階が分からないあの子と、絶対音感を持つ音楽家とでは、お互いが理解不能です。音楽教室に通わせたのは、あの子にはいじめでした。いまだにトラウマになるほど苦しめたのですね。

 決定的だったのは小学校五年生の時です。校長が音楽教師で、音楽教育で人格形成とか言い出した。毎月、演奏会を開くために、毎日二~三時間、楽器の練習をすることになった。音楽が好きな教師や児童は楽しかったでしょうけど、悠輔には地獄でした。

 ちょくちょく引き付けを起こしました。その度にあさ美が助けた。

 音楽嫌いの発作が、歌で落ち着くのは不思議でしょ? あの歌は幼稚園の頃、まだあの子を苦しめる音階や音符などなしで、気ままに歌えていた頃に、二人が好きで一緒に歌っていた曲。楽しく歌えていた頃が蘇って気が楽になるらしい。学術的な解釈なんか知らないけど、あさ美は直感でそれを見抜いて、悠輔を静めた。四年ぶりに聞いたけど、驚きました。まだ、なんな幼い声で歌えるなんて。そうした方がいいと、これも感覚で分かるのね。

 中学校に入学してからは、音楽教師が鷹揚というか、物わかりのよい方で、音楽は楽しむものだから、無理にリコーダーが吹けるようにならなくてもよい、との方針で、悠輔も楽になった。高校の音楽は選択科目だから、もう音楽に苦しめられることはない。随分と明るくなっていたので、油断してました。最近、英語の勉強で心身が弱っているから、今日はショックに耐えられなかったのね。」

「私のせいだと?」

多喜は返事をせず、話を続けた。

「あさ美の機転で、小学五年生の悠輔は最悪の事態を避けた。校長は悠輔の苦しみを無視した。自分の考えに固執して、異質なものを受け入れない。今でも許せない。一年で校長を辞めていただきました。」

「『辞めていただきました』って、あなた、その頃はまだ小学生……」

「口が滑りました。今のは忘れてください、先生」

嘘だ。意図的に言っている。顔は静かに微笑みながらも、目には怒りがある。またこんなことが起きたら、どうなるか分かっていますね、と言っている。

「あなた、何者なの?」

「ただの高校生です」

 ともかくも。

 教師が多喜の教育方針を認めるわけがない。しかし、このままでは全教科の成績が落ち続けるとの脅しは効いた。なし崩しに英語の課題は減り、悠輔の数学と理科の学習時間はもとに戻った。

 英語の補修だらけで本を読む時間もなくなるぞ、と多喜に脅された悠輔は頑張った。都子が英語の要所要所を教えて、理解するまでの時間を節約できた効果も大きい。

 結果、英語の追試は三〇点。合格点二十五点だから、ギリギリとはいえ、合格ではある。 七月の一学期の期末試験では、全教科の成績が向上した。


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