第五話
第五話 女教師の憂鬱
「日本史と現国はほぼ満点。数学と物理は学年一位。凄いわね。現代社会も良好。なのに英語は赤点って、どういう訳? 得意科目ばかり勉強してちゃダメよ。それとも実力テストは通知表に加算さえないからって手を抜いてる?」
悠輔の担任教師の青山光里は、先週結果の出た実力試験の結果を指さしながら、溜息交じりに言う。これが中間試験や期末試験なら、補修と追試の対象になる。自分が英語教師だから言うのではないけれど、どこの大学でも英語は入試の必須科目だ。
「英語は苦手なんです。一番、時間を取って勉強してるのは英語です。日本史は試験前に、教科書に何が書いてあるのか確認するぐらいで、勉強してないです。現国は授業を聞いてるぐらいで、家で教科書を開くこともないです。」
すまなそうに言う悠輔に、光里の目がつり上がる。
「そんなことないでしょ。日本史の瓜生先生が言ってたわ。間違えて教科書に載ってないこと――好太王碑だっけ――を試験に出したのに、正解した生徒がいたって。どれだけ勉強してるのかって感心してたわ。」
「いやそれ、たまたま知ってただけです。授業で言ったのかもしれないけど。悪いけど、瓜生先生の授業はつまらないから聞いちゃいません。
僕、子供の頃から歴史小説とか好きで、司馬遼太郎や吉川英治とか、ほとんど読んでます。だから教科書はどの学説に沿って書いているのかを確認するために見るぐらいで、そこをミスしなければ試験問題は大体解けると思います。
あと、年号が出されると辛いです。西暦の数字四ケタって、語呂合わせでもしなくちゃ覚えられない。たまにいるんですよね、年号を答えさせるのは問題にしやすいから、試験に何問か入れる先生って。瓜生先生はそのタイプですね。
現国も、夏目漱石や太宰治とかの、教科書に載るような有名な作品はだいたい諳んじてます。苦手な志賀直哉とか宮沢賢治とかは覚えられないけど。試験問題は読めば、たいがいの文章は理解できるから、読解問題を間違えたことないです。そもそも現国って、どうやって勉強すればいいのか分からないから、勉強のしようがないです。
同じ言語でも、英語はダメです。単語を覚えられないんです。文法とか、何が何だか……」
光里は呆れる。とんでもない高校生がいたものね。
「じゃあ、数学はどうなの?」
「数学は好きです。順序立てて問題を解いていくのは苦しいけど、正解に達したときの満足感がいいです。
物理はもっと好きです。数式は覚えられないけど、理解できると世界の仕組みを少しずつ知っていけるような気がします。だから勉強が楽しいです。」
「一日に家で、何時間ぐらい勉強してるの?」
「平日は五時間か六時間ぐらい、かな。休日は一〇から一二時間ぐらい。」
嘘つけ、と光里は思う。それでは生活のほとんどが勉強に費やされてしまうではないか。部活動はおろか遊びも余暇もなく、ひたすら教科書と問題集に向かい合う日々。そんな日常に耐えられる高校生がいるものだろうか。
もし本当なら、よほど勉強の仕方が下手なのだ。それを改善して英語の成績を上げれば、この子は旧帝国大学や有名私立大学に、楽に入学できる。
「分かった。英語の補修をします。今日から放課後一時間。」
この熱心な教育のおかげで、悠輔は同級生から、美人教師の個人授業を受けている、とのやっかみを受けることになる。だが本人はそれどころではない。
悠輔は溜息をつく。「無駄だと思いますけど」とのつぶやきを光里は聞き逃さなかった。
「厳しく指導しますからね。」
光は考えた。真面目に勉強する生徒だから、補修で成績が上がるだろう。可愛い男の子に感謝と尊敬の目で見られる。楽しい補修になるだろうと。
県教育委員会始まって以来の才媛と云われるほどの好成績で、教員採用試験を一発合格した新任英語教師は、優秀ではあるが経験が足りなかった。
悠輔は「厳しい」指導に応じたものの、英語の成績は一向に上がらない。いくら教えても、単語や文法を覚えない。宿題で英単語の書き取りをさせても、――一〇回書いてこいと言えば二〇回以上書いてくる――一向に効果がない。業を煮やして補修中に何度も発音させて、ようやく読み取れるようになった文章が、次の日には読めなくなっている。
読み方がまた酷い。辞書の発音記号そのまま、単語をぶつ切りにして読む。おまけに遅い。
更に酷いのはリスニングで、教科書を光里が読み上げると、教科書を押さえている指先が、時々ズレている。見かねて光里が正しい箇所を指さすと、困惑した表情でこちらを見る。まるで聴き取れていない。
悠輔の悪気のない真っ直ぐな視線にドキリとする。「出来の悪い子ほど可愛い」を実感した。抱きしめたい衝動に駆られる。
これまで人並みには恋愛経験もあった。むしろ言い寄ってくる男は多い方だった。きれいだ、かわいいと言われるのに優越感を感じなから、ウンザリしたことも少なくない。
この子はそういう男たちとは違う。
光里は自分に言い聞かせる。これは教え子、高校生のガキに特別な感情を持つなどあり得ない。
真面目に勉強してるのに、一向に学力が向上しない--それに悩んでいる姿がまた、頭をなでてやりたくなるほど可愛い--むしろ、授業に付いていけないから、成績は悪くなっている。成績向上の対策を冷静に考えなければ。
焦った光里は課題を増やす。悠輔は真面目に英訳や和訳の問題を解いてくるのだが、前日の補修で教えたことが、まったくできていない。同じことを何度も繰り返すのに覚えられない。ついていけない授業のぶんも加わって課題が増える。更に間違いが多くなる。悪循環が繰り返される。
この子は記憶に何らかの障害があるのではないか? いや、そうではない。
気分転換にと得意な日本史の話をしたら、古代なら平家物語が好きだという。「どんなところが?」と、尋ねたら「冒頭が美しい」。
悠輔は諳んじる。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理ことわりをあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵におなじ。…………」
英語のぎこちない発音とはまるで違う。流暢とはこういう発声を言うのだろと感心する明瞭な口調で、情感もこもっている。
光里は思わず聞き惚れた。我に返って止めなければ延々と続き、英語の補修が古文の暗唱で終わるところだった。
この子の記憶力はいい。理解力もある。誰でも、関心がないことは覚えが悪くなる。その差が極端なのだ。
光里はもう一つ見落としていた。悠輔は、数学を細かく勉強するから成績を保っている。むしろ時間をかけて勉強しないとダメになってしまうのではないかと恐れる勉強依存症の傾向がある。一日に五~六時間勉強しているのは本当なのだ。
悠輔は真面目だから、教師に与えられた課題は達成しようとする。英語の過大な課題に時間を取られ、それを補うために睡眠時間を削っても追いつかないので、体力的にも精神的に負荷ががかった。
六月の中間試験は散々な成績になった。理数系は成績を下げ、得意な日本史はケアレスミスを連発した。英語は欠点となり、追試を受けることとなった。