閑話休題 舞い上がれ
七月にカンナが帰国すると、日本文化同好会は事実上活動が止まった。
もともと留学生のカンナに日本文化を紹介する場を作る目的で設立したのだから、肝心のカンナがいなければ会を続ける意味がない。
週二回の理科準備室での会合は、悠輔が一年生の蔵人に日本史を教えるというか講談を聞かせる場に様変わりした。会の設立時、蔵人は瓜生先生の顧問就任を阻止する仲間となった。教師に公然と刃向かえば、瓜生先生は腹いせに蔵人の評価が落とすかもしれない。それに負けない試験成績を取らせるために日本史を教える約束を、悠輔は守った。
もっとも、悠輔の講談は試験対策ではなく、面白おかしく日本史のエピソードを紹介するものだ。蔵人は毎回喜んで講談を聞き、日本史の楽しさにのめり込んでいく。結果的に試験に出るような基本事項は覚えるので成績が良くなる。
逆に、瓜生先生の日本史の授業は教科書に事項を並べるだけだから面白くないのがあからさまになる。蔵人は授業中、無味乾燥な説明への不満が表情に出てしまう。元々日本の「侵略」で考え方の違う二人の仲は、授業の度に悪化している。
それはともかく。
もやは同好会の活動目的はなくなっているのに、あさ美は「妻の私は同行します」と、当然だという顔をして、蔵人と一緒に悠輔の講談を聞いている。
都子は「監督です」と称してやって来る。何を監督するのやら。
そのうえ、会員でもない多喜までもが帰国以来悠輔にべったりで、同好会にやって来る。
顧問の野口先生は
「まあ、いいでしょう」と黙認している。「同好会の活動でなくなれば、場所は提供するが、自分の管轄ではないので口は出さない」とも言う。自分もすきにするとばかりに、時々理科の教材づくりをしている。
それは忙しいせいもあるのだが、このところ作業ペースが落ちて、以前より教材作りに時間がかかるためだ。が、野口先生がそれを口にすることはない。淡々と細胞に見立てた台紙に、コミカライズした核やミトコンドリアを貼り付けたりしている。
が、講演で調子に乗った悠輔が瓜生先生の悪口とかに脱線すると、野口先生は手を止めてじっと見つめていたりする。止めはしないが目的を忘れるな、とその目が言っている。悠輔は慌てて話を元に戻す。
「やりにくいなあ」と悠輔は軽口をたたく。
「野口先生はあなたと一緒にいるのが嬉しいのですよ。愛弟子の立派な姿が見られてね。」と多喜。
野口先生は苦笑している。図星らしい。
「何で姉ちゃんがお兄ちゃんと野口先生の関係を知ってるのよ。アメリカにいたのに。」とあさ美。
「悠輔は家族ですもの。」
多喜は平然と返す。
帰国した多喜はちょくちょく東山家を尋ねている。悪阻が酷くて、誰彼かまわず当たり散らしていた美幸も落ち着いてきたので、このごろはにこやかにお茶している。悠輔の近況はそのときにも聞いているのだろう。
「姉ちゃん、ずるい。機嫌の悪いときの美幸おばちゃんのお世話をしたのはあたしなのに。」
あさ美が膨れる。
「姑との関係に苦労するのは嫁の務めです。」
『嫁』と言われるとあさ美の怒りは腰砕けになる。
「東山家の嫁はあたしだって、姉ちゃんも認めるの?」
多喜は静かに微笑む。
あさ美はガッツポーズを取る。「結婚」の障壁が一つ取り除かれた。
(なら、乙原先輩も子離れというか弟離れした方がいいんじゃないかしら)と都子は思う。
「そもそも、なぜ姉さんがここにいるの?」と悠輔。
「受験生なんだから勉強したら?」とあさ美も続ける。
「お慕いする殿方の側にいたい、けなげな乙女心です。三ヶ月も会えなかったのです、甘えさせてください。」
さっきと真逆のことを平然と言う。あさ美が怖い顔になって多喜をにらむ。
「……冗談、だよね?」と、こわごわ悠輔は尋ねる。
「さあ、どうかしら」と多喜は静かに微笑む。
「乙原先輩、アメリカで何かあったのですか?」と都子。
「海の向こうに行っても、悠輔ほど気心が通じる愛しい殿方はいなかった、ということです。」
あまりの明け透けに蔵人が目を白黒する。この先輩は幼顔と落ち着いた立ち居振る舞いとのギャップだけでもに戸惑わされるのに、時々過激な発言をする。
多喜は真っ直ぐにあさ美を見る。
「けど、あさ美、安心なさい。悠輔を取ったりしませんから。他の女が何を言おうと、あなたは堂々としていればよいのです。『東山祐輔の妻はあたしです』と、」
あさ美は憮然と安心が混じり合った複雑な表情になる。
「今日の講義、初めていいかな?」と、こわごわ悠輔が言う。
「もちろんです」と多喜。
「なんで多喜姉ちゃんが仕切るのよ」とあさ美は膨れる。
蔵人が何か言いかけたとき、廊下に荒々しい足音が響き、勢いよく戸が開かれて光里が飛び込んでくる。
「こんなところにいた。東山くん、進路相談の時間よ」
怒声に「あっ」と 返したのは野口先生だった。
「今日でしたっけ?」
「物忘れするお年じゃないでしょ。」と光里。
「野口先生、どこかお加減が悪いのでは」と多喜。
かすかだが顔色が優れないように感じる。
「大丈夫です。有り難う。」
と野口先生は静かに返す。あまり調子がよくないと言っているようなものだ。
怒り気味の光里はかまわず続ける。
「日程が取れないから同好会の活動日と重なることは、了解いただきましたよね。三〇分だけでも時間をくださいって。」
野口先生が口を開く前に悠輔が言い訳する。
「ごめんなさい。補修でいつも一緒で、身の上話もしてるから、進路相談で特に伝えることはないかと思ってたら、つい忘れてしまった。理系クラスに進むってのは青山先生も知ってますよね。--やらないと、ダメ?」
「これから先輩の太平記の講演なんですけど、終わってからじゃダメですか?」と蔵人。
「ダメに決まってるでしょ。三年生になったら理系と文系に分かれるだけの話じゃない。君の英語の成績では入学できる大学は限られるから、その相談よ。」
「受験科目が少なく英語のウエイトが高い私立大学は、ハナからダメです。共通テストで全科目が試験される国立大学しかないでしょう。英語が壊滅しても他の科目で埋め合わせをします。
しかし、旧帝国大学は二次の個別試験も科目が多くて、理系でも英語があります。帝国大学を受験する生徒はみな偏差値が高いでしょうから、一科目でも得点できない東山くんには無理ですな。
理科の教員志望なら、個別試験に英語がない地方国立大学の教育学部か理学部を狙うのが良いでしょう。」
野口先生がしれっと説明する。
「そういう話は担任の私がします。」
と、光里は野口先生をにらむ。野口先生はどこ吹く風だ。
光里はため息をつき、悠輔を見る。
「君もこういう朴念仁の教員になるのかしらね。四の五の言わずに進路相談室に来なさい。それとも、ここで「お師匠様」と「奥さん」にも進路相談に入ってもらう?」
あさ美が口を開く前に光里が言う。
「『夫婦は一心同体』でしょ? 『「夫」のことは何でも知ってます』って?」
あさ美は嬉しそうにうなずく。
「相変わらず、嫌みも通じない……」
「いや、学業に関してなら、僕のことを一番理解してくれてるのは青山先生です。先生は親身になって指導してくれる、大切な人です。」
悠輔の真っ直ぐな視線に光里の頬が染まる。教師にまでラブコメする展開に都子は「ハイハイ」と言いたげな顔になる。
その空気に慣れすぎてきた蔵人が話を戻す。
「あのー、素朴な疑問なんですが、東山先輩って理科の先生になるんですか? 社会科でなくて? 国語だって優秀ですよね。」
「君は黙ってなさい!」
と光里。英語が人並みの偏差値だったら、そういう選択肢もあるのだが。
「英語ができないと入学後が大変なのです。文系学部はどこの大学でも英語の文献を読みますから、文章の単語のほとんどを辞書で引く悠輔はゼミについていけなくて悲惨なことになります。
こうも極端な成績だと、悠輔の進路は限られているのです。青山先生の苦労を察してあげてください。」と多喜。
これまで厳しい接し方しかされなかった多喜の優しい言葉に、光里は目を見張る。幼いころから家を守る務めを負わされたこの少女は、こうやって人をたらし込んでいくのか。
「勝ち目のない僕の英語を諦めてくれたら、青山先生も楽になると思うんだけど。」
感嘆をぶち壊しにする悠輔のつぶやきに光里は真っ赤になって怒る。
「君の進路指導は負け続きよ。けど、勝つまで続けなければならない勝負なの。ええい、とっとと来なさい。」
光里は悠輔の襟首を握るようにして連れ出していく。
「うわっ、入試で勝ち負けが決まるのは僕でしょうに」
「うるさい!」と光里。
「先輩、その前に青山先生に勝てるんですか? ていうか、僕は今日どうすればいいんです?」と蔵人。
「百戦百敗、どれほど絶望的な状況でも、東山が生きていると聞かれたなら、決して望みは捨てなさるな。この東山が、必ず帝の悲願を果たします。」
講談調の悠輔は光里に引きずられていく。
多喜が吹き出した。このお嬢様は笑い転げている姿も上品で絵になる。
「多喜姉ちゃんが大笑いするなんて珍しい」とあさ美。
「祐輔くんの災難がそんなに可笑しいですか?」と都子。
「ごめんなさい。可笑しかったのは青山先生の方よ。悠輔に困らされて、一年半で随分と強くなられた。その変わりようが面白くて、つい。」
「面白くないわよ。苦労しているのはお兄ちゃんの方」とあさ美はむくれる。
「妻のあたしもね」と加える。
「あさ美、人生は辛いことばかりです。悠輔と連れ添うからには、この程度は苦労のうちに入りません。それが嫌なら夫婦などやめなさい。いつでも代わってあげます。」
「べー」とあさ美は舌を出す。結局、隙あらばお兄ちゃんを取りにくる。負けるもんか。
あさ美は芝居がかった顔になる。
「お兄ちゃんと連れ添えるなら、あたしはどんな苦労にも耐えます。あたしがお兄ちゃんを日本一の男にしてみせます。」
「なにわ恋しぐれ……」と蔵人がつぶやく。
野口先生は、(よくそんなの知ってますね)という顔つきになる。
飲食店は酔客が自慢の喉を披露したりする。店の手伝いで幼いころからそういう老人の相手をしている蔵人は、若いくせに昭和の歌謡曲を知っている。
「はいはい。すきなだけ惚気なさい。で、今日はこれからどうします?」と都子。
「太平記、楽しみだったんですけど。ところで、東山先輩が最後に言ってたの、何です?」と蔵人。
「それこそ、太平記ですよ。」と多喜。
「後醍醐天皇が鎌倉幕府に反旗を翻そうとしたとき、楠木正成に「勝てるか?」と問うたの。衰えたとはいえ武士の元締めである幕府の武力は圧倒的で、文人ばかりの皇族はあっという間に蹴散らされてしまうのではないか? 土壇場で後醍醐天皇も弱気になったのね。
そうしたら楠木正成は大見得を切ったの。どんなに負け続けても、正成が生きていると聞かれたなら、決して諦めないでください。この正成がいる限り、最後には必ず帝を勝たせてみせます、と。
そして元弘の乱が起こります。「帝の反乱」です。日本の統治者であるはずの天皇が、部下の幕府に反乱を起こす、日本史の異常事態が太平記前半のクライマックスです。
だけど、予想された通り幕府は圧倒的な武力で、あっさりと後醍醐天皇たちを捕らえます。後醍醐天皇は隠岐島、今の島根県に流罪島流しされる。
けど、楠木正成は粘り強く戦い続ける。特に籠城戦に強くて、勝ち目のない戦でも幕府軍を苦しめ続け、ついには鎌倉幕府は滅びるの。」
「へー、そんな凄い英雄が日本にもいたんですか。」
「ええ、「太平記」は楠木正成を最大級に賛辞しています。でも、鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇は、その功労者たちを軽視したから武士たちの不満が高まって、その代表である足利尊氏が天皇に反乱を起こすの。
楠木正成は苦悩したでしょう。自分も武士だから足利尊氏の不満は理解できる。そもそも楠木正成が天皇方についたのは「悪党」と呼ばれる自分たち新興勢力の権利を守って欲しいから。だから武士なのにその統領である幕府を見限った。
なのに後醍醐天皇は自分に近しい貴族や皇族ばかりを優遇する。建武の中興で後醍醐天皇が目指したのは天皇中心の政治体系。これは鎌倉幕府よりも時代錯誤で、世の中が治まるはずはない。
だからといって、正成は新しい時流に乗って、足利尊氏のように天皇を裏切ることはできない。
尊氏はもともと「高氏」だったの。鎌倉幕府の北条氏惣領の家系である北条高時から「高」の字をもらった名です。それが幕府を滅ぼした功績を認められ、後醍醐天皇の諱の尊治から「尊」の字をもらって、、尊氏に改めたの。」
多喜は黒板に字を書きながら説明する。
「足利尊氏は必要であれば、そのくらい恩義があっても裏切ります。卑怯とも取れるけど、多分そうじゃない。世の中に不満のある人が尊氏を慕ってきて、その期待に応えざるを得なくなる。そのくらい人望がある大人物だから、室町幕府を開けたんじゃないかしら。」
蔵人は感心した顔になる。さすが、東山先輩の「お姉さん」だ。
「それ、お兄ちゃんの受け売りだ。」
あさ美がふくれっ面になる。
「バレましたか」多喜は微笑む。
「太平記ぐらい有名な文献だと、題材にした時代小説がいくつもあります。古いところだと山岡荘八とか吉川英治の「私本太平記」とか。祐輔が小学校四年生の時、宅にあるそれらを読破して、作者ごとの解釈の違いから自分の考えをまとめました。それを楽しげに語るのが可愛らしくて。あさ美、あなたも聞いてましたものね。」
「あたしは布団の中でも聞いたもん。寝かしつけてもらうのにワクワクして、お兄ちゃんにしがみついた。お姉ちゃんはそんなのないでしょ。」
「それは、流石にありませんね。でもそれは小学生の時でしょ」
「べーだ。でも一緒に寝たのは事実。お兄ちゃんの最初の女はあたし。」
「またこの子は話をややこしくする。やめなさい、男子もいるのよ。」
呆れて都子が止めにはいる。
「いや、もう慣れましたよ」と蔵人。
「僕は東山先輩を尊敬してます。一心同体の「奥さん」の暴走も含めて、東山先輩と付き合っていきたいです。」
あさ美は鼻高々になる。
「あなたを誉めてない!」と都子。
多喜はウルウルとした目で蔵人を見ている。
「どしたの?」
こういうのには鋭いあさ美が尋ねる。
「嬉しいのです。悠輔は人付き合いが下手で友達の少ない子です。それがこのように良い後輩ができました。蔵人さん、これからも、どうか悠輔と仲良くしてください。」
愛しげな美少女に手を取らんばかりにして見つめられ、蔵人は赤くなり、コクコクとうなずく。
(本当に、アメリカで何があったんでしょうね)
都子はいぶかしむ。多喜はあまり感情を表に出さない、どちらかといえば静かなお嬢様だ。それが今日は自分をあらわにしている。
「乙原先輩、太平記の説明、面白かったです。もっと教えていただけませんか。」と蔵人。
「さては蔵人くん、多喜姉ちゃんに惚れたな」
「そんなんじゃない! 勉強したいだけだ。」
あさ美のからかいに蔵人は即答する。
(こんな傾国の美女に見つめられて心が動かない男は、悠輔くんぐらいでしょうけどね。蔵人くんには高嶺の花そのものだけど、まあ、いいか。)
と都子は思う。カンナがアメリカに帰国してから元気のない蔵人の張りになれば御の字だ。
「お誉めにあずかり光栄ですけど、太平記のような戦記物はか弱い女のわたくしが語っても迫力がありません。それに、準備している悠輔をないがしろにはできません。悠輔が帰ってくる次回の楽しみにいたしましょう。」
「そうですね」
残念そうに蔵人は言う。
「では代わりに、おおむね同時代で、悠輔が苦手な分野を御披露しましょう。」
多喜は悪戯っぽく笑った。蔵人はドキッとした顔になる。
「太平記よりもう少し後の時代、世阿弥、観阿弥が始めた観世流の舞などいかがですか。」
「--お願いします」
ちょっと間が空いて、蔵人は答えた。正直、能だの猿楽だのは興味ない分野だけど、この美少女にそう言われては断れない、との表情がかすかにだが浮かぶ。
「野口先生、よろしいでしょうか?」
野口先生は静かに微笑んでうなずいた。
「では、急な話で用意もなく、制服では舞いづらいうえに、お恥ずかしい出来ですが、一差し」
多喜は静かに踊った。門外漢には謡の意味は分からないが、動きの一つ一つが美しい。
(本当に、何でもできる天才だなあ)
と都子は感心する。
ふと蔵人を見ると、うっとりとした目で多喜を見つめている。
(これは、落ちたな)
これから先、多喜の頼みとあらば、蔵人は悠輔のために、どんな無理でも聞くだろう。
(了)




