第二五話 Can you speak English? (上)
一 高校二年生の始まり
県立横手高校普通科、東山悠輔の二年目は多難なスタートとなった。
二年生に進級した次の週から、昨年度から続くの英語の補習が再開した。一年生三学期末の試験は追試に合格していないから、厳密に規定を適応すると進級できない可能性もあった。しかし悠輔は他の科目が高得点なのを考慮して、補修を続ける条件で及第したのだ。
もともと横手高校はおとなしい生徒が集まる校風なのもあり、滅多に留年などない。
悠輔は授業態度が良く、だいたいの教師から高い評価を得ている。
生活面での問題はなくはない。三人の女生徒に慕われ、中でもいとこの一年生が過剰に親密な接触をしてくるのは、将来を約束した間柄という特殊な事例なので、不純異性行為ではないと大目に見られている。基本的には真面目で素直な生徒なので、一部の教師が悠輔を悪く評価して職員会議で取り上げられることはあっても、悠輔をかばう教師が少なくない。
授業で納得がいかないと教師にくってかかることもあるが、多くの教師からは、熱心さの表れだと好意的に見られている。「歴史問題」で日本史の教師と論争のあげく、暴力を振るいかけた件は、日本史以外の授業態度が良好なのもあり、不問に付されている。
詰まるところ、東山悠輔の問題は英語の成績が極端に悪いことのみとなる。職員会議の結果、問題を起こすそぶりがなければ特別の指導は不要と、消極的な指導方針になった。そうなると、対応は英語担当で担任の青山光里に丸投げされた。
投げられた光里は対応に苦慮した。どう指導しても成績が上がらない英語だけでも難儀なのに、実際に接していると扱いが面倒な生徒なのだ。まじめで授業態度は申し分ないのだが、納得がいかないとしつこく食い下がる。そのくせ神経は細いようで、理解が悪いのをなじると目に見えて落ち込む。負荷をかけすぎると去年のような「発作」を起こしかねない。
とはいえ、二年目になり、光里も悠輔の気質が飲み込めてきた。勉強時間を増やしても単語の一つも覚えられないし、英語に時間を取られると他の教科の勉強ができなくなって、全体の成績が下がる。いくら教えても英語の成績が向上しないのは悩まない、真面目な態度を愛でるくらいの気持ちでないと、こっちの気が滅入る。
負荷をかけ過ぎて「発作」を起こすくらいなら、英語だけ成績が悪い方がまだマシだ。
そんな調子だから、一年生の後半ぐらいから、補習は授業の意味合いが薄れ、身の上話に脱線しがちになる。父親は中年になっても母親にベタ惚れで、息子の前だろうと平気で惚気るとか、悠輔の家族の話は面白いのだ。
そうなると気心が知れてくる。この子は強がってるけれど、実はナイーブなのだ。時々教師にくってかかるのは、その裏返しだ。
英語の成績が悪いのに苦しんでいる。真面目だから努力はしている。けど、ちっとも報われない。それでまた凹む。そういう弱いところを光里には見せるようになってきた。
困ったことに、それが可愛い。そう、光里は悠輔に、生徒以上の感情を持つようになっている。時々抱きしめたくなる衝動を押さえるのに、かなりの意志の力が必要になる。
だから、悠輔の変化に気づいてしまう。新学期になって、どうも元気がない。
「東山くん、悩み事でもあるの? 君と一緒にいる時間は長いから、少しは理解してると思う。相談に乗ってあげられるよ。」
補習授業が多い、恋愛がらみでちょくちょく説教するで、接している時間はふつうの生徒の比ではなく長い。
ちょっと迷う素振りを見せたあと、悠輔が口を開く。
「どうせ分かっちゃうから言っちゃいます。実は、母さんが妊娠しました。」
光里はポカンとなる。
「ええと、お母さん、おいくつだっけ?」
「四二歳。高年齢出産で危険だからって、親父は産むのを反対したんだけど、母さんは譲らなくて、言い争いになった。親父が言うには、結婚以来最大の大喧嘩だって。
結局、親父が折れたんだけど、心配で出張中もちょくちょく電話かけてくるほど狼狽してる。
母さんは悪阻が酷くて。親父がオロオロするのがまたイラつくって。機嫌が悪くて、俺にも当たるんだ。
「言いにくいんだけど、お父様も「家族計画」を考えられた方が良かったんじゃないかしら」
「避妊はしてたんだって。それで親父がつい、『俺の子か?』って言っちゃったのが、喧嘩の発端。親父は謝ったんだけど、母さんは怒り心頭。本気で怒った母さんには、親父も勝てない。
コンドームを使っても、極々まれに妊娠することはあるんだって。それで母さんは、『この子は強い子だ。将来、悠輔を助ける力強い妹になる』って。なにか神懸かってる。
「もう性別が分かってるの? 『力強い』って、男の子じゃなくて?」
「いや、まだ判別できるほど育ってなってないんだけど、女の子に違いないって言い張るんだ。そこも神懸かり。
喧嘩の仲裁に来た千代母さま――多喜姉さんのお母様に、名前まで付けてもらった。「ほのめ」って、まだ大きくもなってないお腹の子に呼びかけてる。」
「ちょっと待って。君、母親が何人いるの?」
「気にするとこ、そこ?」と悠輔。
「千代母さまは多喜姉さんの母親だから、そう呼んでる。あさ美には、多喜姉さんは母親みたいなものだ、って言われる。
いま思い出した。亡くなった多喜姉さんのお婆さん、良久お婆さまは、「悠輔は私の家で育てた」って、育ての母みたいなこと言ったことある。
あと、南おばちゃん――あさ美の母親は、あさ美と結婚したら義理の母親になるな。
実の母親を入れて、合計で五人、かな。」
光里は目尻を押さえた。この子のマザコンが尋常ではないわけだ。母の愛を通常の五倍も受けて育ったのだ。
「話を戻すわ。元気がないのはお母様の体調のせい?」
「今も言ったけど、悪阻が酷くてね。、家事もままならない。あさ美と南おばちゃんが炊事洗濯を手伝ってくれてる。おかげで家事は楽になったけど、気分は悪いらしい。些末なことで二人に文句言ってる。南おばちゃんは受け流すけど、それがまた気に入らないみたい。イライラしてる母さんは、違う人みたいなんだ。」
悠輔は光里を見る。
「先生、俺は男だから分からないけど、女の人は妊娠すると人が変わっちゃうの?」
「私も子供を産んだことはないから分からないけど、そのくらい悪阻が激しい人もいるみたいね。一時的なものよ。すぐに落ち着くから。」
「そうなのかな。先生、俺、恐いんだ。」
「大丈夫だって。そんなにお母さんを見てるのが辛いなら、おばさんにお世話をお願いして、君は優しい「お嫁さん」に慰めてもらいなさい。」
「それが恐いんだ。子犬みたいにじゃれてくるあさ美が、なんて言うか、子供が出来るようなことをしちゃうと、怒ってばかりの嫌な女になるんじゃないかと。あいつが抱きついてくるのを、喜べなくなった。
先生、俺、どうしたらいい?」
光里は困った顔になる。相談に乗るとは言ったが、こういう悩みを打ち上げられるとは。私なんて、ここんとこ、いいことする彼氏もいないのに。
「その、やっぱり、避妊はちゃんとして……」
「だから、子供が生まれるようなこと、してない。」
「君、まだ……」
「そうだよ」真っ赤になって小声で言う。
可愛い! 抱きしめて「先生が教えてあげる」と言いたくなる衝動を抑える。
光里は考え落ちしていた。悠輔はいつの間にか自分に対して敬語を使わなくなっている。教師と生徒と云うには、親しくなりすぎている。
二 多喜、アメリカへ
四月末、乙原家の茶室。悠輔は乙原多喜に招かれた。乙原家出入り自由の特権は、多喜の祖母らくの死語も続いている。玄関で、多喜は茶室で待っていると告げられた悠輔は、勝手知ったる屋敷の奥に入り、茶室をくぐる。
多喜を見た悠輔は驚く。長い黒髪がおかっぱ頭になっている。元々童顔なのが、短い髪だと更に幼く見える。
「どうしたの?」
「長い旅行ですから、楽な髪型にしたのです。おかげで頭が軽くなりました。」
と、細い指で短い髪をはねてみせる。言動のすべてが様になる多喜がすると、昔からショートだったのかと勘違いするほどに慣れた動きに見える。
「まあ、お座りなさい。一服差し上げましょう」
と、多喜は傍らのラテマシンを操作する。
冬に抹茶を飲んで『苦い』と言った悠輔に、多喜は『次は甘い抹茶ラテを煎れてあげます』と返した。軽口かと思いきや、茶室にラテマシンを持ち込んだのだ。和装の茶室に銀色に輝く洋風のラテマシンは場違いなこと甚だしい。ラテを煎れる音は全くそぐわない。が、何をやらせても品よくこなす多喜が扱うと、何となく馴染んで見える。
悠輔は甘い抹茶ラテをすする。
「結構なお点前で」と悠輔は定型を口にする。
「見よう見まねで、お見苦しい次第です。」と多喜は謙遜する。
「さて」と悠輔は背筋を伸ばす。
「多喜姉さん、留学するって本当なの? 高校三年のこの時期に。」
この話をするために、二人きりになれる茶室に呼ばれたのだろう、と予想はして来た。こちらから切り出してしまえ。
多喜は静かに語る。
「私にも進路の悩みはあるのです。短期でなく、いっそ本格的に留学すれば周囲の雑音に煩わされず、静かに勉学に励めるかとも思ったけど、家の都合とかで、そうもいかないのです。ちょうど、留学を予定されていた方に不都合があって、席が空きました。そこで代理として、応募させていただきました。」
その都合が悪くなった女生徒は二年生である。交換にやって来るアメリカ人も二年生で、悠輔たちの二年二組に編入されることが決まっている。本来なら三年生の多喜では交代できないはずなのだが、あっさりと認められた――理由は聞かないでおこう。
「諸々の妥協の結果です。」と多喜。
そうは言うが、髪まで切るのだ。相応の覚悟で留学に臨んでいるに違いない。
「そりゃ、姉さんの成績なら、この時期に受験勉強を休んでも問題ない。どこの大学でも、向こうから来てほしがるだろうけど。それにしても、三ヶ月は長い。」
「短いですよ。短期留学など、勉強ではなくお遊びです。とはいえ、アメリカを見る良い機会です。マイアミは多様性のある地域だとのこと。狭い地元に縛られている私には、よい勉強になるでしょう。」
「犯罪率が高いって、何かで読んだよ。心配だな。」
「危険な地域には行かないよう、気をつけます。過信しないよう気をつけますが、合気道の心得は少々あります。」
少々どころではない。何でもできる多喜は、道場の師範が驚くほどの飲み込みの速さで技を習得している。大会を辞退して表に出ないから、腕前を知る人は少ないが、並の暴漢なら軽くいなしてしまえそうな技量である。
「アメリカは銃の国だよ。姉さんの小手返しがいくら速くても、ピストルには適わないでしょ。」
「そうですね」
と、微笑む多喜。合気道の達人は銃弾をも避けるというが、まさか、そこまでの自信があるのか。
「危ないことはいたしません。悠輔、心配してくれるのですね。うれしい。」
と、笑顔を浮かべる。傾国の美女とはこういう人を指すのだ。これで大概の男はどんな無理でも受け入れてしまうだろう。が、こっちは幼い頃からのつき合いで慣れている。察することもある。
「家にいたくないのが理由なら、アメリカまで行くことはないだろ。辛い時はうちに来ればいい。母さんは、今ちょっと具合が悪いけれど、多喜姉さんなら歓迎するよ。
それとも、姉さんは他の女を選んだ俺と会いたくないの? 俺たちの仲は終わりだとでも言うの。」
「そんなことはありません。私があなたを大事に思う心、美幸母さまとの友愛は何があろうと変わりません。」
一呼吸置いて、じっと悠輔を見つめる。
「そんな悲しいこと言うと、お姉さん、泣いちゃう」と下あごに手を当てる。
常の多喜は、幼顔なのに落ち着いた言動のせいで、妙に大人びて見える。が、こんな可愛いしぐさをすると、幼女にすら見える。短い髪がそれを更に増す。
悠輔は混乱した。深窓の令嬢然とした多喜が、こんなぶりっ子を見せるのはどういう心境だ。何が起こってる。
呆然としている悠輔を見て、多喜は真っ赤になる。一〇年以上の付き合いで、こういう表情は初めて見た。もしかして、恥ずかしがってる?
数瞬後、悠輔は思い至る。冗談、いや、俺をからかったんだ。いきなりだから反応できなかった。
「渾身のジョークなのに、気付くのに時間がかかりすぎです。本当に、鈍い男ですね。今のは忘れなさい。このような姿を見せるのはあなただけです。決して、人に話してはなりません。」
こうも取り乱した多喜の姿を見たのも初めてだ。脅し以上の怖さがある。悠輔はコクコクと頷いた。人に話したとしても、乙原多喜がこんなギャグを飛ばしたなど、誰も信用しまい。
悠輔は思い至る。これまで家族や親戚に囲まれて育った少女が、知り合いが一人もいない、言葉も通じない海外に行くのだ。大人びていてもまだ一七歳、不安にもなる。それが突飛な行動を取らせたのだ。
誰にも弱みを見せない女が、自分には弱さを出した。
「恥のかきついでに、あなたには本当のことを言っておきましょう。進路で親戚と衝突しそうなのです。」
やはりそうか。
「実を言うと、私も進路を決めかねています。法学部を第一志望にしていますが、政治や経済も面白そうです。履修科目の関係で受験が厳しいですけど、理系の学部も捨てがたいです。」
「成績が良すぎるのも難儀だな。苦手な科目があれば、そこから取捨選択も出来るだろうに。でも、姉さんが理系ってイメージはなかったな。家を継ぐから、法律の勉強をするものだと思っていた。」
「リケジョも格好いいでしょ」
悠輔が冗談だと分かるのにまたしても間が空いた。どうも今日はペースが違う。
「乙原家を運営するだけなら、いっそ進学せず、早く実務に就いた方が良いくらいです。法学部とは、弁護士か裁判官になるのでなければ、法に触れるかの確認が必要な商売をする企業人、一般人を煙に巻くための法律を作る政治家を目指す人が進学する学部です。」
「姉さん、ほんと時々、過激なことを言う。」
「話がそれました。迷っていると、色々と無責任な助言をする人が現れるのです。旧家の人間関係は便利なこともあれば、しがらみを無下に出来ないので面倒なこともあります。今回は特に父様がね。」
凡庸で一族に軽んじられている養子の父と、途方もなく優秀で将来を嘱望されている娘。不仲ではないが、なかなかに複雑な関係ではある。多喜は多くを語らないが、似たようなことはこれまでにもあった。具体的には話さないが、父親は多喜の視点からすると短慮な決めつけを言っているのだろう。とはいえ、無視も出来ずに困っているのだと、察しはつく。
「それで、少しのあいだ雲隠れして、一人で考えようと思いました。」
「まあ、姉さんが決めたことなら……」
悠輔は口ごもる。多喜は穏やかに人の意見に耳を傾けるように見えて、自分の意志を曲げることはない。
「わかっています。悠輔は純粋にわたくしのことを心配してくれるのですね。大丈夫です。気をつけて行ってきます。
心配なのはむしろ悠輔です。御幸母様の具合はまだ悪いのでしょ。こんな時こそ、私が御幸母様をお助けすべきなのに。こればかりは予想が出来ませんでした。」
「何とかなるよ。母さんはイライラして、人が変わったような無理を言うこともあるけど、病気じゃないからと本人もさほど心配はしてない。南おばちゃんが言うには『日が経てば落ち着くから大丈夫』なんだって。家のこともしてくれる。あさ美も張り切ってる。時々うちに泊まるくらい、居着いちゃって。」
「あの子が家事をこなすとは。小さな頃は家の手伝いもせず遊び回っていたのに。人は成長するものですね。」
「礼を言ったら、『妻の務めです。当然のことをしているだけです。』って。妙に芝居がかった口調で返してきた。なんか、嬉しそうなんだ。」
「やけますね」
「ごめん」
「謝ることはありません。私のことは気にしなくてかまいません。
悠輔、よいですか、あなたを思ってくれる人を大切になさい。あなたはたくさんの愛情に囲まれて育ったから、それがどれほど有り難いことか分かっていません。」
「はい」と悠輔は素直にうなずいた。あなたも僕に、沢山の愛情を注いでくれた一人です、と思ったが、蛇足を口にはしなかった。
三 カンナ登場
始業式から間もない四月半ば、横手高校二年二組。、朝礼で担任の青山光里が教壇に立つ。
「今日からこのクラスで学ぶ、アメリカからの短期交換留学生を紹介します。入ってきて。」
「失礼シマス」
発音がおぼつかない日本語とともに、戸を開けて入ってきアメリカの少女に、クラス中が息を飲んだ。野暮ったい横手高校の制服越しでも分かる長身でグラマーな体躯、真っ直ぐで長い金髪はサラサラと音を立てそうなほど軽やかに揺れる。小顔そのもので整った輪郭、大きな瞳は吸い込まれそうな深いブルー。鼻筋が高く、唇は小さい。きめ細かく輝く肌は信じられないほど白い。その白に、緊張のためか頬に薄く朱がさして可愛らしい。
(おっ、動くんだ)
お人形さんみたい、という表現はこういう美少女のためにあるのだろう。生身の人間とは信じがたいほどの美形が歩き、光里の横に立つ。
光里は満足げに肯く。
(遅れて教室に入らせたのは、この効果を狙った演出か)
青山先生もあざとい、と都子は思う。
「おーい、男子、呆けてないで正気に戻って。」
ポカンとしている何人かの男子が、ビクッとなる。光里は微笑む。
「はい、自己紹介してください」
「ハジメマシテ。私ノ名前ハ、Canna Chickamaugaデス。カンナと呼ンデクダサイ。カンナは花ノ名前デス。アメリカのリッチモンドから来マシタ。日本のアニメとマンガ、好キデス。日本語、下手ダケド、勉強シマス。ヨロシクオネガイシマス。」
たどたどしい日本語が、なんともいえず可愛らしい。ぺこりと頭を下げると、豊かな金髪がふわりと舞う。その美しさに、同性でさえも見惚れる。
「短い間だけど、みんな、仲良くしてね。カンナは日本語の勉強したいから、日本語で話しかけて欲しいと言ってます。私としては、カンナにネイティブの英語をしゃべってもらい、みんなに英語の勉強して欲しいけど。日本語を使うのはカンナのたっての希望です。よろしくね。」
光里が言う意味は通じたのだろう。カンナは微笑んだ。男子生徒たちは再びぼーっとなる。一人を除いて。
「では、カンナ、一番後ろの、空いている席に座りなさい。分かりますか?」
光里はゆっくりと、カンナの目を見ながら言う。理解できたのだろう、カンナは指でOKマークを作る。
「分かりました」光里は返事の仕方を教える。カンナはだどだとしい発音で復唱する。
カンナは示されたに向かう。横を通るカンナを、悠輔がじっと見つめる。
(はて、この表情は?)と隣の席の都子はいぶかしむ。いくら美人を見慣れている悠輔でも、これほどの美少女には心引かれるのか?、いや、そういう表情ではない。
「どうしたの?」
「いや、金髪碧眼って、本当にあるんだと、驚いた。」、カンナから目をそらしもせず、悠輔はつぶやく。
(珍獣を見つけた反応かい)。都子は呆れる。
「キンパツヘキガン?」カンナは小首をかしげる。自分がどう言われたのか気になるようだ。
「I'll explain later.」
「ミヤコ、英語、ダメ。約束シタ」
「ごめん、カンナ。あとで説明する。」
理解したらしいカンナは、肯くと再び歩き出し、席に座った。
(金髪碧眼はともかく、悠輔くんがどういう男の子かを、日本語で説明して、カンナが理解できるかしら)、都子はどう言ったものか考える。
「知り合いなの?」と、当の悠輔は怪訝な顔になる。
「ごめん、学校から口止めされてたんだけど、カンナのホームステイ先は私んちなの。悠輔くん、遊びに来る?」
「都子のお父さんは怖いよ。悪いけど、お母さんも苦手だな。」
「大丈夫よ。お父さん、あれ以来、悠輔くんのこと気に入ってるみたいだもの。祐輔くんのいいところ、ちゃんと説明してるし。会えたら喜ぶわ。」
家出騒ぎで都子をかばったときか。
「聞いてないよ」
「言わなかったかしら? 歓迎するわ。お父さんの蔵書も好きに読んでいいって。」
「都子、おまえ、最近、多喜姉さんに似てきたんじゃない? 可愛い顔して、しれっと人を思い通りに動かす手管とか。」
「そう? 乙原先輩のこと好きだから嬉しいけど、あの真似は出来ないわ」
(あなたをからかうのは似てきたかもしれない。
あさ美に取られちゃったから、一途な恋心から一歩引いて、ちょっとだけだけど冷静に見られるようになったせいだと思う。好きでたまらないって気持ちは変わらないんだけどね)
「それはともかく。うちに遊びに来て心配なのは、むしろお母さんかな。『変な虫が付いた』って逆上したけど、私が振られたと聞いたら、『うちの娘のどこが気に入らないんだ』って、それはそれでお冠。まあ、カンナが来てから上機嫌だから、わめき散らしたりはしないと思う。」
四 波乱の実力試験
横手高校は毎月試験がある。一学期だと、四月は主要科目の実力試験、五月は中間試験、六月はまた実力試験、七月は一学期の期末試験と続く。カンナは横手高校の行事予定の説明で、試験の多さに目を丸くした。そのうえ毎週小テストのプリントが配られると聞き、
「crazy」とつぶやいた。
アメリカ人は「凄い」という意味でもクレイジーと言う、と英語教師の光里は説明した。が、たぶん「いかれてる」の意味だと都子は思う。真意は分からない。カンナはまだ日本語で細かい説明できないから。
その、日本語がおぼつかないカンナに試験を受けさせるか? 職員会議で議論の結果、試験問題は同じだが、特別に問題文の英訳を付けることとした。
社会や理科はそれで良いとして、国語科教師たちは頭を抱えた。長文を英訳する手間はまだしも、日本語の文法の問題を英訳するのは無理だ。
英語は更に面倒で、例えば日本語の英訳問題は、英語への翻訳自体があり得ない。
結局、時間もないので、カンナの問題用紙は日本語と英語が未整理に混じっている、判読するのに面倒な代物となった。
それでもカンナの成績はまずまずであった。英語は和訳以外がほぼ完璧なのは順当として、問題の読解に苦労したであろう数学、理科、社会は平均点を収めた。
心配された国語は三〇点。欠点すれすれだが、日本に来てから間もないうちに、分かり難い問題用紙で及第したのだから、誉めるべきだろう。
都子は一年生から続いている総点学年一位を今回もキープした。
横手高校は成績上位者の得点を廊下に張り出す。それを見ながらカンナは言う。
「日本語、ムズカシイ。都子、スゴイ。」
「私よりスゴイ人がいるよ。」小声で続ける。「英語以外はね」
成績上位者リストの後ろの方を指さす。
「ゲンダイノコクゴ、one hundred。――perfect! スゴイ! アズマ、サン…………」
「東山悠輔、よ」
「Oh! 都子のboyfriend。カワイイ男ノ子。」
「違う」
やっぱり理解してなかったか。
「best friend。悠輔くんのpartnerはあさ美。「お兄ちゃーん」って悠輔くんにくっついてくる一年生」
「オニイチャンはolder brother、でもpartner? 日本語、ムズカシイ……」
「日本語の問題じゃないの。あとで、ゆっくり説明してあげる。」
あの二人の関係は理解しにくいだろうけど。
「悠輔くん、国語は「凄い」のよね。問題は English、英語よ。また欠点か。去年から補習が続いてるのに。青山先生の困った顔が目に浮かぶわ」
「twenty. I can’t believe it! 私ノ国語ヨリ悪イ。他はイイ。ナゼ、英語だけダメ?」
「私にも分からない。言わないであげて。」
「Japanese mystery 日本人、英語デキナイ。デモ、コレ、ヒドイ、勉強タリナイ……」
「そういう言い方はやめなさい。悠輔くん、苦しんでるんだから」
カンナは納得いかない顔をするが、都子のきつい口調に、簡単なことではないとは分かったようで、黙った。
都子は嫌な気配を感じて振り返った。悲しみと怒りがない交ぜになった表情の悠輔がカンナの後ろ姿を見ている。
「生まれたときから英語で生活してるアメリカ人に、俺の苦労が分かるもんか。」
「そうよね。悠輔くんは精一杯頑張ってる。他は抜群なんだもの。英語が出来ないなんて、小さな問題よ。ほら、カンナ、謝って。」
また神経に支障を来すのではないかと思い、都子は慌てた。
「ゴメンナサイ。キメツケ、良くナイ。デモ、英語ハ国際語、必ズ、使ウ」
「カンナ、やめなさい!」
「俺は一生、日本人でけっこうだ」悔しそうにうつむく。
(あー、落ち込んだ。こういうところはナイーブで扱いにくいな)
カンナは大げさに肩をすくめる。悠輔は一瞥し、きびつを返して立ち去る。
「ちょっと待って。どこ行くの?」
「職員室。青山先生に補修や追試で呼び出されるまえに、こっちから出頭する。ついてくるなよ、生徒会長。」
都子は天を仰ぐ。カンナはキョトンとしている。
「ソンナニ怒るコト?」
「繊細な問題なの。カンナ、実直なのはあなたの美徳だけど、日本人は察しと思いやりを大事にするの。日本の流儀も覚えてちょうだい。」
「都子、ユックリ言ッテ。速クテ、分カラナイ」
都子は大きく息をする。落ち着かなくては。
「When in Rome, do as the Romans do.」
「分カッタ。デモ、都子、英語はダメ」
「カンナの日本語のレベルだと、細かいニュアンスが伝わらない。」
カンナは嫌な顔になる。
「怒った? でもいま、カンナは悠輔くんに同じことをしたの。日本語でそういうのを「無神経」と言うの。」
「……分カッタ。ユウスケに謝ル」
都子がホッとした。根は素直でいい子なんだ、配慮が足りないけど。
そのとき、あさ美が飛び込んでくる。
「お兄ちゃんをいじめたなぁ。」
「あさ美、落ち着きなさい」
「お兄ちゃん、泣きそうな顔してた。「留学生に馬鹿にされた」って。訳を聞いても答えてくれず、「来るな」って職員室に入っていった。あたしを相手にしないなんて、よほどのことよ。
留学生、さあ、言いなさい。お兄ちゃんに何をした。」
この子もストレートなのよねえ。都子は感嘆しつつ当惑する。
「あさ美、落ち着きなさいって。そんな早口でまくし立てても、カンナは簡単な日本語しか分からないんだから。」
「日本語が分からないぃぃ」
あさ美はニターと笑う。都子はドキリとする。何を言うつもりだ。
「カンナ、さん、だったけ? 日本語だと大工道具のくせに、偉そうな。アメリカから、何しに来たのよ。
アメリカ人だから英語が出来る……分かった。英語が出来ないからって、お兄ちゃんを馬鹿にしたな。ふん、大したことじゃないわ。そっちは日本語が出来ないくせに。」
相変わらず、この子の直感は鋭い。推理する材料が不十分でも正解にたどり着く。
「ちょっと綺麗だからって、お高くとまっちゃって。誰もが金髪に鼻の下伸ばすわけじゃない。あたしのお兄ちゃんはね、美人に囲まれて、美しい女なんて見飽きてるのよ。
美幸母さん、多喜姉ちゃん、都子さん、青山先生。綺麗で優秀な女の人は、みんなお兄ちゃんを好きになるの。
その中で、お兄ちゃんはあたしを選んだの。ちんちくりんで、頭が悪くて、頼りにならないあたしを。
そうよ、あたしは何も取り柄がなくて……」急激に声が小さくなる。
(ありゃりゃ、自滅したわね)
あさ美の怒りは尻つぼみになり、すごすごと引き上げていく。
「ちょっと、どこ行くのよ」と都子。
「職員室。お兄ちゃんを慰めに行く。」
すごすごと去っていくあさ美の背中を見ながら、カンナがつぶやく。
「傷をなめあう……」
「カンナ!」
都子の声が鋭くなる。時々、どこで覚えてきたんだと思う日本語は、妙に発音が良くなる。「ゴメンナサイ。」とカンナは素直に頭を下げる。
「馬鹿ニシタ、違ウ。分カリ合ウ二人、仲良シ、ウラヤマシイ。」
「そうね。焼けるわ。悔しいけど、あの二人の中には入れそうにないわね。」
カンナに言われ、それに気がつく都子だった。
教室に帰ってきた悠輔にカンナは頭を下げた。横にくっついているあさ美にも謝る。カンナは気配りがないが、真っ直ぐな性格だ。自分に非があると理解できれば、素直に謝る。
本当に悪かったと思っているかどうかは、言葉が少なくても態度で相手に伝わる。あさ美は持ち前の直感で、カンナの資質を見抜き、謝罪を受け入れた。
「お兄ちゃん、機嫌を直して。カンナに悪気がなかったことは分かるでしょ?」
「まあ、おまえがそう言うのなら……」
『可愛いお嫁さん』に諭されると、うなずいてしまう悠輔であった。
(あさ美とカンナはよい友達になれそうね。悠輔くんとの関係が無ければ)と都子は思う。
カンナは興味津々という顔つきで、悠輔とあさ美のやりとりを見つめる。やがてその青い澄んだ目が、悠輔をじっと見つめる。
「なに?」視線を感じた悠輔が尋ねる。
「ユウスケ、アナタノコト、モット知リタイ」
(あー、そうきたか)、都子は溜息を漏らしそうになる。
「ダメ!」あさ美が二人の間に入る。
五 都子の独り言
その日の放課後、カンナは留学の手続きがあるからと職員室に呼ばれた。終わるまで待っていると、都子は教室に残った。そこに悠輔は愚痴をこぼす。
「あの女は、英語ができない俺を馬鹿にしてるんだ。アメリカ人だから英語が出来るのは当たり前のくせしてさ。」
「それ、悠輔くんのひがみだと思うな。カンナが肩をすくめたりするのは、日本語で意思疎通が出来なくて困ってるのよ。ストレートすぎるかもしれないけど、真面目でいい子だと思う。熱心に日本語を覚えようとしている姿勢は、褒めてあげていいんじゃない。」
「フン」
(あっ、すねた)
(カンナの努力は認めてるんだ。自分の英語よりカンナの日本語の方がマシだって、分かってる。けど、それを素直に認めたくないのね。こういうところは子供っぽい。)
(かわいい)
都子は思わず祐輔の頭に両手を突っ込み、髪をかき回した。
「よせよ」
そういいつつ、悠輔は逃げようともしない。女が恐いと、光里には言っておきながら、スキンシップはいい。目尻が下がる。調子に乗った都子の指が速くなる。
この調子で、女はこの人が好きになるんだろうな、と都子は思う。
(この人は女に甘やかされてる。けど、我が儘にならず、真面目な努力家になった。美幸母様と多喜姉さんの育て方が良かったのね。物事の本質を直感で見抜くあさ美が夢中になるのも分かる。その調子で、この人の周りは愛情で一杯。
この人が困ると周囲が助けてくれる。その分、逆境を一人で乗り越えたことがないから、打たれ弱い。
カンナの態度は、悠輔くんが言うほど酷くない。むしろ普通だ。だけど、祐輔くんはこの件に関しては自分も悩んでいるから、過敏に反応する。
カンナもカンナで、まっすぐな性格なのはいいけど、気遣いがない。あの美貌でそういう難点は隠れちゃうから、嫌な思いをしたことがないんだろう。祐輔くんはきれいな女の子にデレる男じゃないから……
ということは、二人は似たもの同士じゃない。同じようなタイプの人にこれまであったことがないから、対応が分からないんだ。なんだ、難しく考えることなんてないじゃない。お互い嫌いになる要素は何もないんだもの。
あれ?
私がこうしていると、悠輔くんの鼻の下が伸びるのは何故? 私、特別なのかな。)
考えがそこにいたり、都子は祐輔の頭を抱き寄せる。
「離れろぉ」
あさ美が飛び込んできて、二人を引き剥がす。
「都子さん、お兄ちゃんがくっつかれて喜んでるのは男の自然な欲求だからなの。誰にだって同じなの。」
(相変わらず、鋭く本質を突いてくるなあ。)
「お兄ちゃん、特別なのは私だけだよね」
祐輔はコクコクと頷く。
「もちろんだ。おまえが一番俺に合うんだ。」
(いつの間にか尻に敷かれてるなあ。からかってあげよう。)
「女なら誰でもいいんじゃないの。」
都子は悠輔にくっつく。
「毎度毎度。そんなことしても無駄よ。お兄ちゃんとあたしは、もっと深い絆で結ばれてるんだから。」
「ふーん。甘えてばっかりの「妹」より、私の方が頼りになるわ。悠輔くん、いつでも乗り換えていいわよ。心も体も、いくらでもいい思いをさせて、あ・げ・る。」
悠輔の表情が凍り付く。その目が訴えている、『都子、やめろ。あさ美が切れる』
美幸の不調はあさ美にも負担になっているのだ。情緒が揺らぎやすくなっているところに、今日はカンナの刺激があった。
あさ美が真っ赤になって絶叫する。
「あたしはお兄ちゃんの考えてることは、全部分かる。体だって、相性は最高なの!」
毎度のラブコメをニヤニヤ見ていた生徒たちが騒然となる。
「馬鹿、誤解を招く発言をするな。まだ何もしてないだろうが」
都子は泣きそうになる。
(そうは言うけど、してるわよね。あさ美は悠輔くんの「お嫁さん」だもの。でも、はっきり言われると、やっぱりショックだわ)
「してないって。あさ美、訂正しろ。」
「フン!」
(あ、これはまだしてないな)。気が楽になる都子であった。
(とはいえ、似たもの夫婦め。やっぱりこの二人の間には入れないわね。)
六 悠輔の補習授業
溜息しか出ない光里であった。
中間・期末の定期試験と違い、実力試験には欠点の制度はない。したがって補習や追試はないのだが、悠輔の場合は一年生からあまりに欠点が続くので、実力試験でも低成績の埋め合わせに補習が続いている。
一体、何時間補習したかな、と光里は思う。これでも知恵を絞ってわかりやすい授業を目指しているのだ。なのに、効果がないどころか、点数はむしろ低下している。
同じことを何度教えても、悠輔は単語の一つも覚えられない。前日に教えた単語なのに、小テストで不正解なんてしょっちゅうだ。勉強していないと怒ったら、びっしりと書き取りしたノートを見せられた。ご丁寧に日付が入れてある。毎日何十回と書いているのだ。
英語は誰でも時間をかけて勉強すれば出来るようになる、との持論を撤回せざるを得ない光里であった。
そんなに自分の教え方は下手なのか、と落ち込む。いや、そうではない。光里に英語を受け持たれた多くの生徒、特に男子は成績が上がっている。美人に好かれたいとの下心が見え見えの男子が山ほどいる結果だが、とにかく全体の成果は上げているのだ。
悠輔一人が平均点を下げている。極端に点数の低い悠輔の成績を除いたトリム平均との差に、光里は唖然とした。
悔しいが、乙原多喜の言うとおり、自分がやって来た普通の指導方法は悠輔に通じないと、認めざるをえない。
ではどうすればいいのか? 打つ手なしの光里であった。このところストレスが溜まり、怒りっぽくなっているのが自分でも分かる。これではいけないと焦ると、更にイライラが募る。
七 カンナ怒る
事件は唐突に起こる。
二年二組の、その日の最後の授業は生物。
生物の多様性の話になった。その環境に適応した生物が繁栄するとの説明の最中、カンナが唐突に立ち上がる。
「違ウ、人間ハ神様ガ作ッタ。」
白い肌が赤く染まり、形のいい唇が震えている。
教室はざわめき、教壇の野口先生は困惑している。
「カンナ、落ち着いて。」
駆け寄った都子がカンナの肩を抱く。都子の手に振動が伝わってくる。何か言いかけるが、声になる前に口を閉じる。興奮して、言いたいことが日本語にならないのだ。
教室中がカンナに注目する。
「あのさあ、日本では科学的な進化論を教えてるんで……」
と悠輔が言いかけると、カンナは真っ赤になって悠輔をにらみつける。悠輔は思わず口ごもる。
そのとき終礼の鐘が鳴り出した。都子は委員長に目配せする。
「起立!」
なし崩しに授業が終わった。生徒たちは下校していく。
「都子、ちょっと来て。」
悠輔が都子を廊下に呼び出す。
「カンナを家に連れて帰ったら、あさ美ん家に来てくれ。」
「さっきの話? なら、あさ美の家になるか。」
と都子。察しがいいから悠輔の意図を理解したのだ。
「今日に限ってあさ美はやってこないな。」
あさ美はさして用がなくても、悠輔にくっつくため二年二組にやってくる。
「都子、あさ美に電話してくれる?」と悠輔。
「私が? あのね、あなたの奥さんでしょ。自分で連絡しなさい。」
まったく、どこまで無神経なんだ。
「俺、携帯電話、持ってないもん」
「なら直接会って話しなさい。ほれ、早く教室に行かないとあさ美は帰っちゃうよ。」
「今日はもう一年生は授業終わってるから、帰ったんだろう。だからここに上がってこないんだと思う。」
「よく知ってるわね」
「あいつの予定は把握してる。何時頃に家に来るかで夕御飯の都合とかあるし。」
「いけしゃあしゃあと……」
後で豊の声がする。
「もしもし、春木です。あさ美ちゃん、いま家? 悠輔からの伝言を伝えるよ。今日みんなでそっちに行って話をするから、場所を貸してって。ん? メンツはね、悠輔と生徒会長と俺の三人。カンナちゃんの話をするんだって。詳しくは悠輔に聞いてよ。じゃ、あとで。」
「何であさ美の電話番号を知ってるんだ?」
と悠輔は憮然とする。
「こんなときのために、あさ美ちゃんが教えてくれた。文句があるか? 助かったろうが。」
悠輔は黙った。
鮎帰家では、悠輔だけでなく、豊と都子も来ると告げられたあさ美の母、南は目を丸くした。
「都子さんって、神楽女観光のお嬢さんでしょ。受験でお世話になった、悠輔くんの思われ人の。わざわざ来るって、おまえ、乗り換えられでもしたの?」
「違います。留学生のカンナの話だって」
「悠輔くんにちょっかい出してるアメリカ人? やっぱり、別れ話だ。」
「ちょっかいなんて出してない。カンナはお兄ちゃんに興味あるけど、それだけのこと。それでちょっと喧嘩したけど、仲直りした。」
「ムキになるところが怪しい」
「お姉ちゃん、悠輔兄ちゃんにふられたんだ。かわいそう」
妹まで話に入ってくる。
「違うって!」あさ美が赤くなる。
「冗談よ。悠輔くんはそんないい加減な男じゃないって、知ってる。
さて、お嬢様の口に合いそうなお茶菓子があったかしら。」
「水も出さなくていい!」
八 第一回カンナ対策会議
ともあれ、鮎帰家のリビング。
「それでは、おそろいですので、第一回のカンナちゃん対策会議を始めます」、豊が言う。
「「対策」って、カンナが問題児みたいじゃない。」と都子。
「お兄ちゃんをいじめたから「問題児」よ。その会議を、なんでうちの家でやるの?」と母親にからかわれて、機嫌が悪いあさ美。
「説明したろ。学校じゃ話せない内容だって。俺んちは母さんの悪阻がひどいから客さんを呼べない。都子んちは当のカンナがいる。豊んちは……」
悠輔が言いかけるのを豊が続ける。
「弟や妹がやかましいから、会議なんて開けない」
「というか、豊。なんで、おまえが入ってるんだ? 都子に相談しようとしたのは俺なのに、勝手に仕切りやがって。野球部の練習はどうした。」
「今日は雨だから練習は休み。親友が困ってるのに知らんぷりできるか」
「はいはい、だからうちの野球部は勝てないんだ。で、本音は?」
「ラブコメ男が新しい女で苦労してる。こんな面白いイベント、入るに決まってるだろ。」
「茶化すな。」
「どう言っても怒るのな。真面目な話、おまえを心配してるのは本当だ。おまえ、けっこう感情的なところあるからな。相手は学校を越えて近隣が注目している国際的美少女だ。教師を殴る以上の大問題になりかねん。」
「その節は、悪かった」
瓜生先生に殴りかかろうとした悠輔を豊が止めた。それには素直に感謝している悠輔であった。
「いいんだ。」
豊は、それを恩にきせるような男ではない。
「話を進めようぜ。委員長、いや生徒会長、今日、何があったか、もう一度説明してくれ。あさ美ちゃんは詳細を知らないだろ?」
「生物の事業で、ダーウィンの「種の起源」の話になったの。野口先生がその地域の環境に適応して変化した種が生き残るから、多様な環境にある地球に住む生物は多様なんだって。地球環境と生物の進化の関連性は研究し尽くせないって、いくつかの例を挙げて説明したの。
そしたら、カンナが立ち上がって、「チガウ、人間ハ神様ガ作ッタ」って。興奮して、上手く日本語で説明できなくて、あとは要領を得ない。
野口先生は困った顔になって。時間があれば説明しただろうけど、終礼の鐘が鳴り出した。それでうやむやに終わらせたんだけど、カンナは納得いかないようで、ブツブツ言ってる。」
「創造論ってやつだと思う。キリスト教の聖書、創世記に書いてるとおり、世界は神が作ったと信じてる人達。たしかアメリカ人の四割ぐらいだったかは、進化論は間違ってると考えてるって。そういう人にとっては、進化論の、人は猿から進化したとするのは――まあ、その言い方はダーウィンの説とちょっと違うんだけど――とんでもない話なんだ。」と悠輔が説明する。
「カンナもそうなの?」と、あさ美。
「いまも言うように、アメリカには創世論を信じてる人は多いから、カンナがそうであっても不思議はない。だとしたら、宗教が絡んで厄介だな。日本の生物学は進化論が普通で、創造論は笑いものだけど、神様を信じてる人は侮辱されたと怒る内容だろう。次の生物の授業でも騒ぎ出すかも。」
「軽く言わないで」都子の語気が、ちょっと強くなる。カンナは既に親友だ。
「そういえば、カンナ、近くに教会がないかと聞いたことある。カトリック教会なら近所にあるけど、宗派が違うんだって。説明してくれたけど、細かい違いが、私には分からなかった。」
「都子さん、日本にいる間はキリスト様を忘れてもらうよう、カンナにお願いできない?」
「あさ美、そういうのはダメだ。多くの日本人は宗教に大雑把だけど、アメリカでは聖書が絶対の人も多いんだ。いい加減に扱うと闘争になる。」と悠輔。
「ふーん。宗教戦争ってやつね。自分には関係ない、遠い世界の話だと思ってた。」
「宗教を馬鹿にしちゃいけない。人間は信じるものがないと生きるのが辛い。大事にしてることと言い換えてもいい。何だっていいんだ。家族や友達を大切にするとか、芸術や学問に一生を捧げるとか。それと同じで、信仰を持つこと自体は、別に問題ない。あさ美、おまえにだって大事なものはあるだろ?」
「もちろん、お兄ちゃん!」
豊と都子は、(そう来ると思った)という顔をする。悠輔はにやける。
「お兄ちゃんの説明で分かったわ。人それぞれ、譲れない考えはある。自分の考えと違うからって、頭ごなしに否定しちゃいけないんだ。色々な考えがあるだろうけど、折り合い付けて仲良くすればいいのに、と思うな。」
「あさ美、おまえ、いいこと言うなあ。俺もそう思う。白人至上主義で東洋人を馬鹿にするとかでなければ、何を信じても勝手だよ。」
「カンナはそんな差別しない。日本のアニメや漫画が好きなぐらいだもの。
それより、悠輔くんの方が問題児よ。よく言うわよ、気に入らなければ教師にも殴りかかる人が」と都子。
「それが今回は人の主義主張を重んじるか。ちっとは成長したんだな」と豊
「お兄ちゃんの信じてるものって何?」
「俺は神も仏も信じない。一番信じてるのは、あさ美だな。」
「うん」あさ美は嬉しそうに悠輔の腕を取る。
都子は呆れる。自分を選んでくれないと分かっても、ちょっとやける。
「はい、そこまでにして。まったく、隙あらば惚気るんだから。
話を戻すわ。カンナが創造論者なのは間違いなさそうね。あの程度の授業でで神様を否定されたと怒るくらいだから、学校に抗議するぐらいじゃすまないかも。」
「生物の野口先生が、創造論を受け入れはしないだろうな。」と豊。
一同は肯く。
野口先生は学者肌で、理屈に合わないことは同意しない。相手が誰だろうと、冷ややかに突き放す。
逆に勉強したいと思う生徒には親切で、理解できないで困っている生徒がいると、自分の教科でなくても、丁寧に教える。生徒が興味を持ったことだと、授業に関係ないことまで親切に説明するため、授業が遅れ気味になる。
授業が上手だと評判はいいけれど、受験対策は不十分で、野口先生が受け持った生徒は成績が向上する割に、有名大学への進学率が振るわない。それが偏差値の高い大学を目指している生徒には不満である。
生徒集めに苦慮して、進学率で学校の評価を高めたいと考える校長と折り合いが悪いと、生徒の間でも噂になっている。
かといって、進学高校以外には不向きな教師だ。誰に対しても物静かな姿勢だから、やんちゃな子供の抑えが効かず、荒れた学校では役に立たない。
ちゃんと授業を聞く生徒からは、野口先生の授業はおもしろいと評価が高い。特に成績の悪い生徒を中心に人気がある。
そんな野口先生は、創造論を持ち出されたら、その矛盾点を懇切丁寧に説明するだろう。英語の科学雑誌を愛読するくらい英語に堪能だから、カンナに英語で説明するのも苦にはなるまい。
学問の世界ならそれで良いけれど、宗教は科学と違う信条だから、論破されたカンナが納得するとは思えない。
「悪くすると、野口先生のファンとカンナ押しの生徒の対立になりかねないな」、豊は腕を組む。
「短期留学生ですぐアメリカに帰っちゃうんだから、放っておけばいいんじゃない?」とあさ美。
「そうはいかないでしょ。あさ美、あなたカンナにまだ含むところでもあるの? 年上を呼び捨てにして。」
「お兄ちゃんにちょっかい出してきた。あたしからお兄ちゃんを奪う気だ。」
さっきの母親との話とは真逆のことを言う。本当は気にしているのだ。それを知らない豊と都子ですら、あきれ顔になる。そこまでのことだったか? 『女房言うほど、亭主もてもせず』――通じないだろうな、あさ美には。
「で、どうする?」と悠輔。
「『折り合いをつけて仲良くする』よう、野口先生とカンナを説得するしかないだろ」と豊。
「誰が?」と悠輔。
「野口先生には私が話してみる。あの堅物が学問を曲げるような真似をしてくれるとは思えないけど、生徒と喧嘩しないように、カンナの怒りを受け流してくれるよう、頼んでみる」
「この中で、野口先生に一番受けがいいのは生徒会長だろうから、適任だな」と豊。
学年一番の成績、品行方正、男前の性格が女生徒にも人気があり、生徒をとりまとめている生徒会長の言葉となれば、大概の教師は耳を傾けるだろう。
「じゃ、カンナは?」
そういう悠輔を一同は見る。
「俺? 無理無理。女あしらいが上手い豊に頼むよ」
「人を色魔みたいに言うな。いいか、悠輔」、と豊は悠輔を見る。
「このなかで進化論と創造論の違いをいちばん把握してるのはおまえだ。創造論者の主張を受けて、進化論との違いが説明が出来るだろ。なにもカンナを進化論者に改宗させようってんじゃない。『折り合いをつける』を教えるんだ。そこはおまえの得意な講談でいけ。カンナを笑わせるくらい、おもしろい話をしてやれ。」
「相手はマジもんのキリスト教徒だぞ。「種の起源」をネタに笑い話なんか出来るかい。」
「そう言っても、誰にも頼めないぞ。あのアニメから抜け出てきたような美少女に見つめられて、平静でいられるのはおまえぐらいだ。そうだよな、生徒会長。」
「美人は見慣れてるものね」
あさ美が膨れる。どうせあたしはブスですよ、とへそを曲げそうな顔をしている。
(あなたはそういう顔も可愛らしいわよ)と都子は微笑む。
「俺が英語ダメなの、知ってるだろ」
「日本語でいい。日々上達してるから、平易な言葉でゆっくり説明してあげれば、カンナはかなり理解できる。」と都子。
「どうしても、俺に面倒を押しつけたいんだな」悠輔が膨れる。
「合理的な帰結だ」と豊。
「そんなにむくれないで。カンナは日本が好きなの。日本では日本語を使うと頑張ってる。私が英語を使うと怒るの、見たでしょ。そのくらいの覚悟で勉強してるの。普通の受け答えなら、うちに来た記者と問題なく会話できてるくらいになってる。」
「本当に日本が好きなんだな。って、記者?」
「どこから撮っても絵になる美少女だから、ひっきりなしに取材が来て大変なの。母さんが踏ん張って、信用できない報道機関は出入り差し止めにしてるけどね。
母さん、盛り上がっちゃって。草の根の文化交流だ、地域からの観光振興だって、あれこれ画策してる。」
都子の母、神楽目高子は、あれで結構やり手のビジネスウーマンだと、あの事件の後、悠輔は美幸に教わったのを思い出した。
「本人もまんざらじゃなくて、交流の助けになればと、更に日本語の勉強に熱が入ってるわ。
昨日なんて、五代目円楽師匠の落語を聞いてた。江戸っ子は「ヒ」を「シ」と言うので混乱したみたい。『火、つけとけ』が分かんないって。でも、人情噺が気に入ったみたいで、繰り返し聞いてる。
「古典落語は江戸時代の日常が舞台だから、日本の勉強にはいいけど、進化論の説明に使えそうな噺はなあ。――もっと遡って、日本の成り立ちから……」
「お兄ちゃん、何か思いついた?」
悠輔はブツブツ言いながら考え込んだ。
九 都子、野口先生を説得する
翌日、都子は野口先生に面談を申し入れた。理科準備室で教材の準備をしていた野口先生は、器材を片付けて、向かいに都子を座らせた。
「留学生のチャッカマウガ君の件かな?」
都子は野口先生の察しの良さに驚いた。学者肌で、人間関係など気にしない教師と思っていた。
「はい、昨日の授業中にカンナが興奮したことについて、先生にお願いがあります。」
「僕に創世論を受け入れろという話なら、無理ですよ。」
(やはりそうきたか)
「いえ、先生に学問を曲げろとは申しません。ただ、カンナにきつい言い方をしないで欲しいと、お願いしたいのです。」
「いくら僕が堅物でも、生徒と喧嘩はしません。チャッカマウガ君が抗議してきても、きちんと進化論を説明するだけです。」
(いや、それが問題なんです)
予想どおりとはいえ、やっかいだ。都子は次の言葉を捜す。
「こう言うだろうから、君は、僕とチャッカマウガ君との話し合いに持ち込みたくないのだね。その気遣いには感謝します。」
野口先生は都子から視線を外す。
「そんなところでコソコソせずに、君も話に加わりなさい」
野口先生が廊下に声をかける。隠れ損なった悠輔が、頭をかきながら理科準備室に入ってくる。野口先生は悠輔を座らせる。
「チャッカマウガ君の信仰がどの程度のものかは知りませんが、あの様子では進化論を受け入れるのは難しいでしょう。
これでも僕は、科学に身を捧げてきた教育者です。宗教がどうあれ、間違っている証拠のある説を認めることは出来ません。相容れませんな。
そういうわけで、見ての通り、神楽女君は僕の説得に苦労してます。
さて、東山君、君がチャッカマウガ君を説得する役ですね。どうするつもりですか?」
(そこまで先読みしていたか)、都子はまた驚いた。悠輔も目を丸くしている。
「世の中には色々な考え方があるから、自分と違う多様性を認めて欲しい、とカンナにお願いしようかと思ってます。」と悠輔。
「ふむ」野口先生は口を結んで考え込む。長くはかからず、口を開く。
「その方針は良いでしょう。しかしストレートに進化論を説明しても、チャッカマウガ君は納得しないでしょう。ここは「神様」を引き合いに出すのはいかがかな。」
「キリスト教の神様は絶対ですよね。多様性と真逆です。」
「そうではありません。説明するのは日本の神様です。」
「八百万……」
「それです。チャッカマウガ君は日本に興味があるから、留学までしたのでしょう。日本文化の説明は、聞く耳を持ってくれるのではないですか?」
「あらゆる物に神が宿る。だから日本は様々な文物を受け入れやすかった……」
「理解してもらえたようですね。」
野口先生は静かに微笑んだ。
一〇 悠輔、カンナを説得する
翌日、神楽女家に悠輔が尋ねてくる。悠輔の袖をつかまんばかりにして、心配顔のあさ美もくっついている。
都子に案内され、カンナに与えられた客室に悠輔とあさ実が入る。悠輔は鞄から紙のノートと薄いモバイルパソコンを取り出し起動する。都子は驚く。
「そんなの持ってたんだ?」
「母さんのだよ。借りてきた。これでもパソコンでネット検索ぐらいは出来るんだ。便利だもんな。」
「スマホも持たないくせに。」
先日の一件はまだ記憶に新しい。
何事かといぶかるカンナに悠輔は語りかける。
「一昨日の生物の授業の話だよ。カンナに、怒るのをやめてもらいたい。」
悠輔はなるべく平易に、ゆっくりと話す。が、カンナの反応は過敏だった。
「神様ヲ悪ク言ッタ。許セナイ。」
「それは誤解だ。野口先生は神様を悪くいうつもりはない。そもそも、カンナの言う神様と、僕たちの神様は別なんだ。」
カンナは、『それが認められない』と言う顔になる。
「カンナが信じる神様は一人だよね。でも、日本には八百万の神様がいる」
「ヤオヨロズ?」
「八百万の数。日本には神様がたくさんいるんだ。」
悠輔はでノートに筆ペンで『八百万』と書いた。その下に『8,000,000』と数字を書く。
「エイト ミリオン」
カンナは嫌な顔になる。英語を使われるのを嫌がったのより、悠輔の発音が気に触ったようだ。カタカナ語、日本語の発声だと聞き取りづらい。が、何も言わない。我慢することにしたようだ
「丁度ノ数字、本当ナノ?」
「大体だと思う。「八」は日本では縁起がいい――ハッピーな数字だから」
「末広がり」と言いながら、『八』と書く。多喜に習字を教えられた悠輔の字はまずまず綺麗だ。身振り手振りを加えて説明する。
「広がっていく。子孫繁栄、あー、子供がたくさん生まれる。めでたい。
めでたい数字のたくさんの神様。だから日本は豊かだ、と考えている。」
「神様ハ一人ダカラ、絶対。教えモ一つ、ダカラ人間ハ迷ワナイ。ダカラ幸せ、ト私ハ思ウ」
「そうだね。それでカンナが幸せなら、カンナの考え方は正しい。でも、僕たちは違う考え方をしている。」
これは僕の考えだ。間違っているかもしれないけど、聞いて欲しい。
キリスト教が生まれたのは砂漠もある、厳しいところ。だから、唯一の神様が厳しくしないと、人間は生きていけない。
でも、日本には砂漠なんかない、植物がたくさん茂る国だ。日本人はたくさんの豊かさに感謝した。だから、目に見えるすべての物に神様がいると考えた。たくさんの神様、たくさんの考え方を受け入れてきた。
カンナ、コマ犬を知ってる?」
カンナは首を振る。
「神社は?」
「日本ノ神様ノ、――教会?」
「まあ、そんなものだ。コマ犬は神社に飾られてる犬のような形の石。神様の使いともいわれるけど、何なのかよく分からない。こういうの。」とタブレットにコマ犬の画像を呼び出して、カンナに見せる」
「コレナラ見ル。コノ家ノ近クノ神社ニイル。」
「神社には必ずいる。ある神社で、十二月はこうなる」
と、タブレットの画面を切り替える。赤い服を着て、三角帽子を被ったコマ犬が映る。
「Santa Claus?」
「どう見てもサンタクロースだね。日本の神様のお使いなのに、キリスト教の聖人の衣装を着るんだ。」
「日本ノ神様、怒ラナイノ?」
「怒らない。神社に来た子供達は喜んでる。昔から、日本では神様とブッタが混ざっている。この家でも、神様がいる神棚と、ブッタの関係者の人形が入っている仏壇が同じ部屋にあるよ」
「理解デキナイ」
「神様がたくさんいる国だから、日本人は何でも受け入れる。日本は昔、「和国」と呼ばれた」
悠輔はノートに『和国』と書く。
「『和』は仲良くする、という意味だ。」
「カンナが自分の神様を大事にするのは当然だ。僕たちもカンナの神様を大事にする。だから、日本の神様や日本人の考え方を嫌わないで欲しい。」
「ユウスケノ言イタイコト、ワカッタ。神様ノコトジャナク、シンカロン。聖書ノ教エト違ウ。ケド、怒ラナイデ聞ク。」
(賢い子だ)都子は感心する。
「良かった。ここから進化論の話に持ち込むの、大変だと思ってた。」
キリスト教原理主義者には受け入れられなくても、科学的に進化論は正しい。それを正面切って説明してもカンナは納得しない。ならば、宗旨替えしなくても、進化論を信じる人がいることは認めてもらおう。そのために、多様性を説明した。カンナが興味を持っている日本の文化を題材にすれば、少なくとも聞く耳は持つだろう。
野口先生のアイデアは予想以上の効果があった。カンナは素直で頭がいい。
とはいえ、これは賭だった。人種のるつぼのアメリカの方が、ほとんどが黒髪で黒い瞳の日本より、遙かに多様性に富んでいる。「同調規制の日本人が多様性を語るか」と冷笑されたら、返す言葉がない。
だが、カンナは自説の主張のために揚げ足を取ったりせず、悠輔の説明の本質を素直に理解した。
「ユウスケガ、一所懸命ナノ、嬉シイ。ユウスケノ字、キレイ、モット見タイ」
「中国や日本では、文字はアートなんだ。僕の字は、まだまだ下手だけどね。」
「アート? 芸術ネ」
「悠輔くん、言いにくいんだけど、無理にカタカナ英語を使うより、日本語の方がカンナには伝わりやすいわ。――お願い、落ち込まないで。」
「ユウスケノ日本語、ステキ。ユウスケ、好キ」
黙って聞いていたあさ美の眉が上がる。
「カンナ、お兄ちゃんはあたしのものよ」
やっぱりこの女、お兄ちゃんにちょっかい出してくる。
「知ッテル。ユウスケノ恋人ハあさ美。ワタシハ友達」
「日本語、ちゃんと理解してる? その目つきは「LIKE」じゃなくて「LOVE」よ」
「ニホンゴ、ワカリマセン」
「カンナ、あさ美をからかうのはやめなさい。冗談ではすまなくなる。」
「ゴメンナサイ。楽シクテ、ツイ。あさ美、友達ニナリマショウ。」
「フンだ」あさ美はそっぽを向く。
(ああ、すねた。似たもの夫婦め。取りなすの大変だな。)
「ところでカンナ、あなた、日本語の発音が随分と良くなったけど、「悠輔」はちょっと変ね。言いにくいの?」
カンナはすまなそうに肯く。
「名前ノ発音ガ違ウノ、失礼。友達ノ印ニ、愛称デ呼ビタイ」
「いいよ、「ユウスケ」で」
「失礼ハ嫌。「ユウ」ト呼ンデイイ?」
「そういうのって、特別に親しい間柄ですることでしょ」
あさ美がむくれる。
(勉強は出来ないくせに、そういうのは知ってるんだ)
都子はあきれる。カンナは知らん顔で続ける。
「オトモダチ。ユウニ、オ願イ。日本ノコト、モット教エテ。時々、少シデイイ。」
「まあ、俺で良ければ。時々でいいのなら」
カンナは困惑した顔になる。悠輔が引き受けたのか、拒否したのか分からない。
「教えてあげるって。日本人の謙遜した表現。「自分はあなたの期待に応えられるほどの人間ではありません。でも、大好きなあなたのために頑張ります。」と言ってる」
「Thanks.」カンナは悠輔に飛びつく。
「お兄ちゃんは『大好き』とは言ってない。一々くっつくな。日本ではそういうことしない」あさ美が割って入る。
一一 悠輔、カンナに日本を語る
次の週の放課後、悠輔がカンナに日本を教えると約束の日。それがどこからか広まり、カンナ見たさの生徒たちが二年二組に押しかけてきた。
「講演会じゃないんだけど」、と都子はため息をつく。
「私ハ、カマワナイ。ユウノ話、面白イ。沢山ノ人ニ聞イテモラウ、良イ。」
(どこかで聞いたことがある台詞ね。)と都子は思う。
あさ美がむくれている。『あたしが言うこと!』って顔だ。
「けど、これだけの人数に見られて、カンナ、大丈夫なの?」
「全然」とおどけて言う。
(アメリカでも人気の日本人俳優がそう言うCMがあったな。そんなの、どこで覚えてくるんだ。)
「美少女の特権ね。注目が集まるのに慣れっこなんだから。」
「都子だって美人じゃないか」と悠輔。
あさ美がじとっとした目で悠輔を見る。
「一番可愛いのはあさ美だけど」
露骨な追従にも、あさ美はニコニコする。
「あー、もう。そういうのいいから。
悠輔くん、どうする? うちに来てもいいわよ。」
「これだけ人が集まってるのにカンナを連れ出すと、後が怖いな。このままやってしまおう。」
都子はもう一度ため息を付く。説得はしてみよう。
「呼びもしないのに集まらないでちょうだい。これはトークショーじゃないの。帰ってちょうだい」
ブーイングが起こる。放課後に学校のどこに行こうが勝手だと。
「帰る気がないのなら、せめて静かにしてなさい。じゃまをしたら容赦なくつまみ出します。」
「はーい」という声に混じり、「いいから早くやれ」と声が上がる。
「そこ、何ですって」。都子に睨みつけられた男子生徒はすくみ上がる。別の方向から、
「生徒会長の横暴だ」といった声が上がる。
都子は声のした方を見る。
「私に生徒会長権限を使わせたいのは誰。出てきなさい。」
一同は沈黙する。都子は満足げにうなずく。横手高校に生徒会長権限なんかないのだが、都子が言うと、はったりに迫力がある。
「始めようか」悠輔はカンナに言う。カンナはコクコクとうなずき、悠輔にささやく。
「都子、怒ルト怖イ」
「怒らせなければいいんだ。怒らせなければね。」
「ユウ、怒ラセタコトアル?」
「日本の隣には、中国がある。中国は巨大な文明の国だ。」
悠輔は返事をせず、本題を始めた。
「中国の周りの国は、中国の文化を取り入れてた国が多い。一番わかりやすいのは文字だ。日本は最初、漢字をそのまま取り入れた。」
悠輔はノートに筆ペンで「漢字」と書く。
「『漢』は大昔の中国の国の名前だ。」
「漢字、ムズカシイ」
「そうだね。中国の政治家でも、『民族が滅ぶか、言語が滅ぶか』と中国語の難しさを嘆いた人がいたくらいだ。でも、象形文字から始まった表意文字だから、簡単な字から成り立ちを知ると面白いよ」
カンナが戸惑った顔になる。「表意文字」が分からないか。例を示した方が理解しやすい。
悠輔は丸っこい円すいを三つ並べた絵を描く。真ん中が高く、左右が一段低く並ぶ。バランスは良くない。よせばいいのに、てっぺんに立木に見えなくはない線を描く。下の方は草が生えていると表現したいのか、細かい点を入れる。かえって、何を描いているの分かりにくくなる。お世辞にも上手とは言えない。
(勉強は出来るけど、絵心はないなあ。字がそこそこ上手いのは、相当練習したんだろうな、この人のことだから。乙原先輩が鍛えたのかな)と都子は思う。
「これ、何の絵に見える?」
「mountain 山?」
「よく分かるわね。」
都子は思わずつぶやく。悠輔は無視する。
「カンナは賢くて可愛いなあ。」
カンナは微笑む。その愛らしさに聴衆が息を呑む。あさ美はむっとする。
悠輔は山の絵の下に、線を簡略化した絵を描く。その下に、更に簡略化した図を書く。次々に簡略化して、五つ目には楷書の「山」になる。
「こんな感じ」と悠輔
「Wow」とカンナは喜ぶ。一々絵になる。
「受けたから、もう一つやろう」
悠輔は上限の三日月を描く。真ん中あたりに点を二つ入れる。
「これ、何に見える?」
「moon 月ネ」
(これは分かりやすいわね)と都子は思う。
「はい、正解」
悠輔は同じように絵を変形させていき、五つ目に「月」と書く。
「オモシロイ」
「こんな成り立ちがあるから、漢字は難しいけど、実は覚えやすいんだ。」
「あなた、まさか、漢字を一つずつ、そうやって覚えていったの?」と都子
「それはない。偏と旁の組み合わせとか、漢字はいくつもの作られ方があるじゃない。」
(作られ方を理解して、字を覚えていったんだ。勉強時間が長くなるはずね)都子はあきれながら感心する。
「日本は、こういう偉大な中国文明の恩恵を受けた。でも、中国語と日本は違う。漢字だけでは、どうしても無理がある。」
「万葉仮名だ」とあさ美が口を挟む。
「あさ美、偉い。よく知ってたな」と、悠輔はあさ美の頭をなでる。あさ美は子犬がじゃれつくように悠輔にまとわりつく。カンナは『何を言っているのか、ついて行けない』という表情になる。
「説明するよ。日本語には表音文字が必要なんだ。」
悠輔はノートに『表音文字』と書く。
「音、発音を示す文字のこと。日本語だと平仮名と片仮名だ。日本人は漢字を改造して、日本の文字を作ったんだ」
悠輔は「以」と書く。
「「い」と読むよね。これを崩していく」
簡略化していき、三つ目には平仮名の「い」と書く。
「「い」ネ。平仮名ダケナラ、日本の文字、覚エヤスイ」
「そうだね。片仮名もあるから、それだけでも覚えるのが倍になるけね。漢字は常用漢字――日頃使う字だけで二一三六字もあるんだ。」
言いながら、「伊」と書く。
「「イ」と読むね。この字の左側だけを取り出すと」
左側に「イ」を書く。
「カタカナノ「イ」ダ。日本人ノ考エ方、オモシロイ。デモ、日本ノ文字ヲ作ッタノニ、漢字モ使ウ。ナゼ?」
「その頃には中国の言葉が日本に沢山入ってきて、もう漢字をやめられなくなっていたから、だと思う。同じ中国の隣の国でも、韓国は違う。昔は韓国でも漢字を使っていたけれど、いまはほとんどハングル文字ばかりを使っている。国によって、色々な考え方があるらしい。僕は韓国語は分からないけど。」
「多様性?」カンナは尋ねる。
「そうだね。その言葉、覚えたんだ」
「偉イ?」と頭を突き出す。
「偉い。カンナは勉強家だね。」
悠輔はカンナの金髪をなでる。こっちはゴロゴロと喉を鳴らしそうな表情になる。
(子猫かい!)、ほんと、この子は何をしても可愛らしいなあ、と都子は思う。聴衆からは嫉妬のうめき声が漏れる。無視だ、無視。
「簡単に説明したけど、分かってくれた?」
「ハイ」とカンナは返事をする。やや遅れて、あさ美は幾度もうなずく。
「日本語の文字はこうやって始まったんだ。だいたい一二〇〇年前から一一〇〇年前だ。」
悠輔は「千二百年前」と書き、その下に数字で「1200」と書く。
「長い歴史だね。さて、文字が出来ると、物語も出来る。今でも残っている、日本のいちばん古い物語といえば、「竹取物語」だ。主人公のかぐや姫は、日本人は誰でも知っている。」
「『告らせたい』の人」とあさ美が入ってくる。
「あさ美、それは違う人。いま話してるのは古典文学の方。」
「漫画やアニメなら、お兄ちゃんより詳しいのにな。」残念そうなあさ美。
「漫画やアニメも日本の文化だね。カンナは漫画やアニメが好きって言ってたね。よし、今度、その話をしよう。あさ美、頼むよ」
「えー」
「「えー」じゃありません。どこが面白いのかを言えばいい。言い出しっぺがやりなさい。」
「楽シミデス。あさ美、オネガイシマス。」
あさ実はむくれる。「なんであたしがカンナのために……」と、ブツブツ言い出す。
「さて、日本の古典文学の代表と言えば、「源氏物語」だ。主人公の光源氏も、日本人は誰もが知っている。」
「カンナも知ッテル、ヒカルゲンジ。」カンナは立ち上がって歌い出す。
「がっかりして……」
悠輔はポカンとなる。
「アニメの主題歌よ。たしか、むかし、これを歌ってたアイドルグループがそんな名前だった。特集番組で見たことある。」とあさ美。
聴衆は興奮した。アニメから抜け出したような金髪美少女がアニソンを歌い踊り出したのだ。立ち上がり、歌に会わせて手を振る生徒までいる。
「こら、立つな」「見えねえ」「押すな」「痛いじゃないか」
「危ない。みんな、動かないで。カンナ、歌うのやめて!」
都子が止めに入ったときは遅かった。ステップを踏み外してこけた生徒が前の生徒にぶつかり、連鎖して将棋倒しになった。それを避けようとして更に被害が拡大する。
悲鳴がこだまする中、あさ美の大音声が響く。
「動くな!」
全員が思わず固まる。すかさず都子が続ける。
「ゆっくりと離れなさい。順番に教室から出て。倒れている人は順番に立ち上がって。」
聴衆はのろのろと動き出す。
「そう、それでいい。カンナ、誘導して。悠輔くんは動けない人を助けて。」
「ワカッタ、ミンナ、ユックリ歩イテ下サイ。」
悠輔が足を引きずっている生徒に近づくと、その生徒は痛そうに顔をしかめながら、悠輔を手で制した。大した怪我ではないらしい。
「怪我をした人は保健室に行って。今日はもうおしまい。帰ってちょうだい」
聴衆は帰っていく。悠輔は憮然として、散らかった机や椅子を並べ始めた。手伝おうとする生徒の手を払いのけ、声を荒げた。
「帰れ。生徒会長がそう言ったろ。おまえらのおかげで、カンナは大迷惑だ。」
去って行く生徒たちに、泣きそうな顔のカンナは、何度も頭を下げた。
一二 校長先生、怒る
翌朝、一同は生徒指導室に呼び出された。
校長以下の教師が並ぶ前で、都子がことの顛末を説明した。それを受け、校長が口を開く。
「怪我をした生徒は五名。内訳は捻挫が二名、突き指が二名、打ち身が一名。いずれも軽症ではあるが、一つ間違えば大惨事になるところだった。表沙汰にならなかったからいいようなものの。」
生徒の怪我より、学校の評価の方が大事だと受け取れる校長の物言いに、生徒たちはむっとした表情になる。これはまずいと、光里が校長を制止しかけるが、校長はお構いなしに言葉を続ける。
「怪我をした生徒の父兄の中には、主催者に厳罰を求めている方もいる。穏便にすませてもらうよう、学年主任が頭を下げに行った。学校は大いに迷惑している。
生徒会長ともあろう者が、軽率だったな。」
「私に責任があるとでも? アイドルのコンサートをやってたわけじゃありません。勝手な生徒が勝手に集まったんです、帰れと言うのに。勝手に騒いで、勝手に怪我をしたんです。おかげで勉強会が出来なくなりました。迷惑してるのはこちらです。」
「生徒会長が横暴だったとの証言もある。」と冷ややかに校長が言う。
「言いがかりです。説明したとおり、騒がないよう釘を刺しただけです。」
「そうです。都子さんは何も悪くない。事故が起こったときも、ちゃんとした対応をしました。」とあさ美。
「鮎帰くん、君への苦情も私の耳に届いているぞ。留学生に暴言を吐いた、とね。だいたい、無関係の君が、何故あの場にいたのだね?」
「わたくしは東山悠輔の妻です。夫婦は常に共にあります。」
都子は眉間を押さえる。(校長を怒らせる気? なに考えてんだ、この子は)
案の定、芝居がかった言い回しが校長を激怒させた。
「ふざけるな。君には温情を与えようと思ったが、もう容赦しないぞ。」
「ボウゲンって、ナニ?」校長の怒りなど、我関せずのカンナが隣の悠輔にささやく。
「ひどい悪口」と悠輔。
「ソレチガウ。あさ美はトモダチ。親シクシタダケ。あさ美ガ悪イナラ、私モ悪イ。」
都子の眉間のしわが深くなる。この子は天然か。
あさ美は嬉しそうにしている。この子はやっぱりいい子だ。
「君まで反抗するのか、留学生。素行が悪いと、アメリカに報告するぞ」
「ソコウ?」
「カンナは悪い子だと、アメリカに言いつけるって」
「アア、日本語、一ツ覚エタ。コウイウノガ「暴言」」
悠輔は吹き出した。校長は怒りで震えだした。一つ息をして気を落ち着け、悠輔を見る。
「東山くん、君はどう思うのかね。君が問題を起こすのは二度目だな。」
「反省してます。軽率でした。」
校長は肯く。真っ当な反応を示す生徒がいた。
「この学校が、これほどまでに一方的で、臭いものにはフタだとは知りませんでした。僕は歴史が好きなのでよく分かります。組織が事なかれ主義に硬直化する弊害は、こういう状況で拡大するのだと。
これからはもっと用心して、濡れ衣を着せられないように気をつけます。」
「東山くん、いくらなんでも言い過ぎよ。また君の悪い癖が出た。興奮すると後先考えないのだから。落ち着きなさい。校長先生に謝って。」
慌てて口を挟む光里を校長が制してた。
「青山先生、かばい立ては無用です。あなたの監督責任もありますよ。おって指示します。
処分を言い渡します。神楽女都子、東山悠輔、カンナ・チャッカマウガ、鮎帰あさ美、以上四名を自宅謹慎一週間とする。
なお、神楽女都子は生徒会長に相応しくない旨の、不信任意見書を校長名で生徒会に送付します。」
「一方的です」と都子。
「酷い! 都子さんは何も悪くない」とあさ美は声を荒げる。
「キンシンってナニ?」
抗議とボケを校長は受け流した。悠輔は黙って瞑目し、腕を組む。
「東山くん、何か言いたいことはあるかね」
大人に反抗すると報いを受けるのだと、思い知るがいい。
悠輔は静かに言う。
「何もありません。僕は感嘆してるんです。原因を追求しようともせず、責任問題が起こる前に早急な幕引きを図る統治者に、現実に会えるとはね。忠臣蔵がリアルなのはこういうことか、と。」
「なんだ、その意味不明な反抗的な態度は!」
校長の怒声に青くなったのはあさ美の方だった。何か言いかける都子につぶやく。
「都子さん、黙っていた方がいい。お兄ちゃん、怒ってる。お兄ちゃんをなるべく怒らせないよう、私に意識が行くようにしたんだけど、逆効果だった。この雰囲気、怒り心頭に発したときの美幸母さんにそっくり。お兄ちゃん、最近、悪阻で動けない美幸母さまを気遣って世話をしてるからか、母親に似てきたの。
けどね、お兄ちゃんに美幸母さんのような、スマートに相手をやり込める能力があるはずもない。お兄ちゃん、後先考えないから、滅茶苦茶になる。迂闊に口を出すと、都子さんもとばっちりを食う。
いずれにせよ、校長先生、ただではすまないわ。
美幸母さんが不調で、多喜姉ちゃんがいなくて良かった。あの二人が共闘したら、お兄ちゃんをいじめた人は、考えられないような恐ろしい目に遭う。」
「私の心配してる場合?」
「そこ、何をコソコソしゃべってるか。」
「いえ。このたびは突然のご不幸で、お悔やみ申し上げます」
あさ美のボケに、何を言ってるんだと、校長は毒気を抜かれる。
あさ美の勘も、外れることはある。
その夜、都子は母の高子に、謹慎処分になったと報告した。高子は怒り狂った。
興奮が収まると、電話をかける。スマホに表示された相手は東山美幸。
高子は昨年の非礼をわびた。次に美幸の悪阻をねぎらう。そのうえで本題に入る。
「今回の謹慎処分、納得がいきません。東山さんもお怒りでしょう。ですが、そこを押さえて、この件は私に任せていただけないでしょうか。悪阻がひどいと聞きました。そういう、神経が普通でないときには、失礼ですが、東山さんといえど正常な判断が出来ないでしょう。
はい、私も女ですから、今の東山さんの辛さは分かります。なにより、お腹の子に差し障りがあっては一大事です。」
都子は母を見直した。こういう人を思いやる説得が出来る人だったのか。
高子はチラリと都子を見る。その目が言っている『だてに神楽女観光専務をやってるのではない。私の仕事ぶりを見ていなさい』。
美幸は高子の説得に応じたようだ。ならば、美幸母さまが悠輔を押さえるだろう。良かった、と都子は胸をなで下ろす。
「はい。おまかせ下さい。東山さんは大船に乗ったつもりで、吉報をお待ちください。それでは、失礼します。」
電話を終えた高子は都子に言う。
「可愛い娘とその友達に理不尽な仕打ちをしたらどんな目に遭うか、校長先生にたっぷりと教えてあげるわ。」
「何をするつもり。お願いだから、学校にひどいことしないで。」
「大丈夫よ。おまえは何も心配することはない。校長先生には、ちょっと反省してもらうだけだから。」
薄く笑う母親に、都子はゾッとする。
二日後、四人の謹慎処分は取り消された。都子に対する生徒会長不信任意見書は、生徒会に届かないままに終わった。
そのうえ、怪我をさせられたと都子の処罰を求めていた生徒の母親が、神楽女家に謝罪に来た。高子は和やかに対応した。
「ご丁寧に痛み入ります。ご子息の怪我を心配しておりましたのよ。もう、大丈夫? それはようございました。
都子は不出来な生徒会長で、皆様にさぞご迷惑をおかけしていることでしょう。皆様のお力添えがあってこその生徒会長です。これからも都子を、どうかよろしくお願いします。」
慇懃無礼そのものの高子に、相手はペコペコと頭を下げ、怯える素振りさえ見えた。
来客を見送り終わった後、都子は訪ねた。
「お母さん、何をしたの?」
「何もしていませんよ。誠意ある説得をしたら、あちら様はご理解いただけたの。おまえが学校で困るようなことは、何一つありません。」
微笑む高子に、都子は思う。迂闊にも考え落ちしていた。怒らせると無茶をする人が、一番身近にいた。
一三 都子、同好会を立ち上げる
「同好会を作るわ。協力してちょうだい。」
三日ぶりに登校した都子は、隣の席の悠輔に言う。いきなりで何のことか分からない悠輔は都子を見る。
「カンナに日本を知ってもらうための勉強会は続けたい。けど、ただ放課後に集まるだけだと、また事故が起こる。部外者を排除するために、正式の学校行事にしてしまうのよ。」
悠輔は考え込む。
「アイデアは悪くない。けど、難しいんじゃない。」
横手高校は勉強以外の行事に消極的だ。授業が潰れるようなイベントはもちろん、部活動すら消極的な傾向がある。それだけ勉強に力を入れている割には、県内の他の進学高校に、有名大学への進学者数で負けている。
試験ばかりやって授業がお座なりになるから成績が上がらないんだ、としばしば悪口を言われるが、良くも悪くも伝統を重視する学校は方針を変えようとしない。最近は新興の私立高校にまで偏差値で負けている焦りもあって、課外活動を縮小しようとする雰囲気が強まっている。
「部活動は無理ね。だから同好会にするの。」
「この学校、同好会でも厳しいんじゃない? 知らんけど。」
実際、野球やサッカーといったメジャーなスポーツはまだしも、文化系の部活動は生物部や天文部といった勉強に役立ちそうな部ですら、活動が停滞している。同好会にいたってはほとんど認められていない。
「設立の規定はあるはずよ、調べてみる。」
「ふむ」と悠輔は腕を組む。
「その同好会を設立したとして、具体的にどういう活動をするんだ?」
「だから、カンナに日本を紹介するの。」
「聞きたくなくないけど、聞くよ。誰が?」
都子は苦虫を噛みつぶしたような顔の悠輔をじっと見る。
「お願い♡」
「可愛らしく言っても駄目。この前の漢字の説明だって、仕込みにけっこう手間がかかったんだ。まあ、途中で終わってしまったけど。
とにかく、あんなの始終やれるもんか。俺は英語の補習で忙しいんだ。」
「知ってる」
と都子は悠輔を見つめる。大概の男はこんな美人に懇願されたら折れてしまうだろう。が、都子の男勝りを思い知らされている悠輔は譲らない。都子をにらみ返す。
「補習はしてるけど、そんなに負荷はかけてないつもりよ」
いつの間にか教卓に立っている光里が声をかける。
「青山先生も協力してくれます?」と都子。
「留学生に日本を紹介するとなれば、やぶさかではないわ。東山くんの英語の成績が落ちるのは困るけど。いや、これ以上落ちようがないくらい悪いか。」
「さらりと酷いこと言いますね」と悠輔。
「君も大変だろうけど、君の補習の教材を作る私の方が大変なの。君はいいわよ、辛いことがあると可愛いお嫁さんが慰めてくれるんだから。」
「はい」
いつの間にかあさ美が後ろに立っている。
「びっくした。音もなく近寄るのは多喜姉さんだけにしてくれ。」と悠輔。
「その同好会、あたしも参加しますからね。目を離したら、カンナはお兄ちゃんに何をするか分からない。」とあさ美。
「俺はおまえしか見てないぞ」
真顔で悠輔に見つめられ、あさ美は赤くなる。
(どうかしらね。悠輔くん、こういう時は調子いいんだから。)
一四 都子、野口先生に顧問を依頼
五月の連休明け、ほとんど野口先生の私室と化している理科準備室を都子が尋ねる。いつものように、野口先生は教材の準備をしている。
「日本文化同好会? 僕にその同好会の顧問になって欲しいのですか?」
『国際化時代に日本の文化を再認識し、その素晴らしさを、観光都市にある当校から内外に発信する』等々、もっともらしい設立目的などが書かれた同好会設立申請書を一読した野口先生は静かに都子を見る。
都子は部活動と同好会の規定を調べた。それによると、横手高校の部活動の定義は厳しく、課外活動として予算が付くのは、構成員が一〇名以上で、かつ対外的な競技会などに参加する資格があると、学校が認めた活動に限る、となっていた。
それ以外の小規模な活動は同好会となる。ただし、教師が顧問にならなければ同好会とすら認められない。これがネックになり、サブカルチャー系の活動、例えば漫画研究会やSF研究会は同好会ですら、公式には横手高校にない。
都子は説明する。このままカンナを中心とした活動を続けると、先日のような事故が再発しかねない。個人的な集まりだから関係ない生徒も集まってくるのだ。同好会とはいえ、学校が承認した組織の活動にしてしまえば、会員以外の生徒を排除できる。
都子の率直な説明を聞いた野口は、静かに問いかける。
「僕は理科の教師です。日本文化の顧問なら、社会科の先生にお願いすべきではないですか? それに僕は、既に生物部の顧問を務めています。あまり言いたくはないですが、生物部は活動準備に手間がかかり、けっこう大変なのです。」
横手高校は部活動に消極的で、他の行事が重なると容赦なく生物部の活動は休止させられる。それに反発する野口先生は、生徒が興味を持つ活動にしようと教材作りに手間をかけている。
「それでも、野口先生が相応しいのです。科学的なものの見方をして、生徒に真摯に向き合う野口先生にこそ、私は指導していただきたい。」
「君の言う「指導」は留学生のチャッカマウガくんに日本を知ってもらうのが目的ですね。東山くんを講師にするのでしょう? 彼は国語と日本史の成績が抜群です。顧問なしでは同好会といえど活動が認められない規定がなければ、教師なんかいらないぐらいです。僕を引き込む理由は、別にありますね。」
「それは……」都子は言いよどむ。この老人、思った以上に鋭い。
「他の生徒には言わないでください。」と野口先生は前置きする。
「実は、休み前にチャッカマウガくんが謝りに来ました。たどたどしい日本語で一所懸命説明してくれました。英語でいいよ、と言ったら、『日本ダカラ日本語』、と。
東山君はうまく説明できたのですね。チャッカマウガ君は言っていました。進化論は受け入れられないけれど、人それぞれに信じることが違う。自分の考えと違うからと否定してはいけない。それは受け入れる、と。
チャッカマウガくんはよい子です。自分に非があると分ければ、素直に謝る。彼女を説得した東山くんも、癖の強い彼を支える鮎帰くん、今回の段取りを整えた神楽女くんも立派です。僕は感動しました。君たちのような若者がいるなら、世の中は良くなっていくでしょう。
もう、僕のような老いぼれの出る幕はないとすら思いました。」
「いえ、先生は必要な方です。それは……」都子は言いよどむ。
「分かっています。瓜生先生ですね。」
静かに見つめられ、都子は肯かざるを得ない。
野口先生の言うとおり、同好会の目的からして、社会科教師が顧問になるべきだ。その場合、なぜか部活の顧問になっていない瓜先生生が選任される可能性が高い。瓜生先生は自分の知識を鼻にかけている節があるから、顧問が未定のままの設立申請を見れば、自分が適任だと立候補するかも知れない。
そうなれば、悠輔と韓国併合の解釈で衝突した事件の二の舞になるのは必然だ。問題が起これば、先日の一件を恨んでないはずの校長が、妙な介入をしてくる恐れもある。
「少し、考えさせてください」野口先生は腕を組み、瞑目する。
やがて目を開き、話し始める。
「ここだけの話にしてください。」と、先と似たような前置きする。
「僕の話をさせてください。僕は社会科の教員になろうかと考えたこともあるのです。日本の近代史も勉強しました。それで思うのです。韓国併合について、東山くんの考えに賛成です。どう言い訳しようと、他国を併合――もっとキツい言い方をすれば侵略していい理由にはなりません。
しかし、瓜生先生のように、韓国併合は韓国のためになったと主張する人は少なくありません。若いころ、僕も東山くんのように、そういう考えの方に反発したものでした。
そうして、僕は論破したと思っても、相手は自説を引っ込めません。歴史論争は物理学、例えば万有引力のように、誰が見ても疑いようのない証拠を見せることが出来ませんからね。
それで嫌になって、社会科をやめました。でも、今でも日本史は好きです。趣味で市内の史跡巡りをしています。神楽女くん、君の名字は珍しいね。一〇年くらい前に、起源を調べて、君の家を訪ねたこともあるんだよ。その時、君のお母様には、随分と親切にしていただいた。いまの君の話からして、お元気そうだね。
去年、神楽女と言う生徒が入学してきたときは驚いたよ。あの時の小さな子が、こんな立派なお嬢さんになっていたとはね。」
「すいません、覚えていません。」
「昔のことです。話がそれました。ともかく歴史よりも厳密な科学である理科の教師に、僕はなったのです。もっとも、明確な真理で構成されているはずの自然科学でも、いわゆる疑似科学は浜の真砂ほどあります。長年それに接して、ちょっとウンザリしています。」
野口先生は苦笑する。
「それでも、僕は信じているのです。先入観や思い込み、願望を排して科学的な考え方を身につければ、人は真理にたどり着けるのだと。
僕は若者に真理を追求する尊さや楽しさを知ってもらいたくて、うだつが上がらないと後輩にまで馬鹿にされても、しがない教師を続けているのです。」
都子は感激した。こういう思いがあるから、この先生は手間を惜しまず生徒を教えるのだ。どれほどの生徒が、この先生のおかげで理科が好きになったろう。横手高校の宝だ。
「東山くんは正解にたどり着くまで、労をいとわず勉強する生徒です。教師がえこひいきをしてはいけないけれど、僕は東山くんが好きです。その東山くんと、彼の理解者と云っていい君が、アメリカ人に日本の文化を伝えようとしている。協力しないわけにはいきますまい。」
「先生、それでは」
「神楽女くん、君の思うように活動しなさい。職員室のゴタゴタは、この老骨が引き受けます。」
一五 日本文化同好会 第一回活動
翌週の月曜日の放課後。横手高校の職員駐車場に、野口先生の声が響く。
「こっちです。早く乗りなさい」
職員駐車場に四人だけ集合、課外活動に出る。他言無用。との連絡を受けた同好会員たち――都子、カンナ、あさ美はメールを受け取り、携帯を持たない悠輔は都子に知らされた。ちなみにカンナ宛のメールは英文だった――四人は、自家用車で待つ野口先生に手招きされた。全員が乗り込むやいなや、古びたワンボックスカーは急発進した。
「野口先生、校外活動はいいですけど、私たちだけで行っちゃっていいんですか? 置いてきぼりにされた生徒たちが怒りますよ。」と都子。
「かまいません。美少女を見たいだけで、この同好会の目的を知ろうともしない者など、活動の邪魔です。私が入会届を受理したのは、ここにいる四人だけです。いい加減な者に漏れて、騒がれるのも面倒なので、直前まで君たちすら知らせず、急いで出発しました。」
この先生、けっこう豪胆だな、と都子は感心する。
「どこに行くんですか?」
あさ美は楽しそうだ。
「地獄巡りです」
「ジゴク、死ンダラ悪イ人ガ行ク所?」とカンナ。
「温泉のことだよ」と悠輔。
「オ風呂ニ入ル? ユウも一緒?」
「そうじゃない。――どう説明すればいいかな。」
「お兄ちゃんと一緒にお風呂に入るのは、妻の私だけです」
あさ美もカンナの軽口に慣れてきた。おどけて言い返す。
「オオ、混浴。日本ノ習慣」
「どこでそんな日本語を覚えてくるの。混浴なんて、今はほとんどありません。」と都子
「せっかくスルーしたのに、蒸し返すんじゃない。地獄は観光地だ。」と悠輔。
カンナが怪訝な顔になる。
「苦シメラレル所、観テ楽シイ? 日本ノ文化、鞭とローソク?」
野口先生が笑い出す。
「見れば分かりますよ。」
ワンボックスカーは大通りを上る。
「最初に話し合うもりだったけど、ここでになってしまったわ。活動を始める前に、会長を決めましょう」と都子。
「カンナがいい。だって、カンナのための会だもの。」とあさ美。
「悠輔くんでなくていいの?」と都子。
「俺にリーダーは無理だ。無思慮な言動は人に迷惑をかけるのを考えてないのが、この前の校長とのやりとりでよく分かったよ。」
(素直に反省してるのは、さては美幸母さまに叱られたな。)
「同好会ヲ作ッタノハ都子。頼リニナル会長」
「私は部活動を統括する生徒会長だから、特定の同好会の会長は相応しくない。カンナ、この会はあなたが学びたい日本の文化を取り上げていくの。会の活動を決める会長には、あなたがなってちょうだい。」
カンナは少し考えてから答える。
「分カッタ。デモ、自分ノタメニ会長ニナル、違ウ。ミンナノタメ、頑張ル」
「決まりね。野口先生、よろしいですか」
「もちろんです。こういうことは生徒の自主性を重んじるべきです。それに、良い選出だと思います。」
運転しながら答える。ほどなく、ワンボックスカーは最初の目的地、かまど地獄へ到着する。
先頭に立った野口先生は、熱泥、噴出する蒸気、青い湯と、名物の説明をしていく。カンナは興味深げに肯く。鬼の像を見たカンナは、なぜ「地獄」というのか納得したようだ。
次は鬼山地獄、別名ワニ地獄。八〇頭ものワニが餌に食らいつく様は、身元民が見ても迫力がある。カンナは引き気味になった。
「地獄デス。恐イ」
悠輔の袖にしがみついた。
本気で恐がっているのが分かるから、あさ美も文句は言わなかった。けど、そのままなのも面白くない。反対側の袖を引っぱる。
「息が詰まる」と悠輔。
「その割には、されるがままになって」と都子は裾を引っぱる。
続いて竜巻地獄。吹き上げる熱湯にカンナは大喜び。気に入ったようで「カンケツセン」とつぶやく。正確に発音出来ないのが気に入らないようで、あさ美に「間欠泉」と言わせ、それをまねる。
何度も練習を繰り返していくうちに、発音が正確になっていく。それがまた嬉しいようで、「間欠泉」と大きな声で呼ぶ。
外国人が多くなったとはいえ、地元高校の制服を着た金髪美少女は目立つ。居合わせた観光客たちは、間欠泉よりもカンナに注目する。
「分かったから、もう少し静かに言いなさい」
野口先生がたしなめると、ペロリと舌を出す。
(この子は本来、明るい性格なんだ。慣れない異国で、一所懸命勉強していたから、地を出す余裕がなかったのね)。
連れてきてもらって良かったと、都子は野口先生に感謝する。
「先生、カンナも喜んでるし、私たちも嬉しいです。けど、入場料金は先生がまとめて出してくれてるんですよね。カンナと私の分だけでも、支払わせてください。」
「神楽女くん、気遣いは無用です。実は神楽女観光、あなたのお母様から共通観覧券を頂いています。」
「母が。いつの間にそんなことを」
「言ったでしょう。むかし、君の母君にはお世話になったと。母君は地域の文化活動を応援しているのです。
君が校長がやり合った後始末をするために色々と情報を集めているなかで、僕が同好会の顧問になったと知り、思い出して連絡をくれたのです。」
「存じませんでした。」
「日本文化同好会の活動は、観光推進の効果も期待できますからね。今日はチャッカマウガくんがはしゃいだおかげで、観覧券の元を取るぐらいの宣伝効果はあったと思います。
残念なのは、共通観覧券は七箇所の地獄に入場できるのに、時間が足りないことです。この三箇所で、今日はおしまいです。」
「先生」とあさ美が呼びかける。
「ここまで来たら、もう少しだけ足を伸ばして、連れて行って欲しい所があるんです。カンナも絶対に喜ぶから。」
「どこですか?」
「竈門神社」
「まあ、帰り道からそう外れませんから、いいですけど。チャッカマウガくんは神社に興味があるのですか?」
「そうじゃない。行けば分かる」
ワンボックスカーは山を廻って神社に向かう。
「コマ犬、見ラレル?」とカンナ。
「もっといいもの、見られるから」とあさ美。
駐車場から鳥居をくぐり、拝殿にかけられた数えられないほどの絵馬を見たカンナは歓声を上げた。大はしゃぎで絵馬を見て回り、早口でまくし立てている。
「Please take a look.」と呼びかけて、自分が英語をしゃべっているのに気が付く。
「コノ絵、上手。アニメと同ジ」と皆を呼び寄せる。
「何ですか?」と野口先生。
「人気アニメの主人公です。神社の名前と同じなんで、ここはファンの聖地になってるの」
あさ美も嬉しがっている。
「聖地?」
「アニメにゆかりのある場所をファンが訪ねるのを、「聖地巡礼」と言うんです。」と都子。
「その表現は、キリスト教徒にはマズいんじゃないですか?」
若者と接している高校教師なのに、学者肌で世事に疎い野口先生が尋ねる。
「問題ないみたいです。現にカンナはあんなに喜んでますし。」
「カンナぁ、こっち来てぇ」
あさ美は拝殿にカンナを引っぱって、龍が描かれた天井を指さす。
「生生流転!」カンナは叫び、刀を振る被るポーズを取る。
「おー、分かってるね。」
と、あさ美も大喜び。茶の緑色のペットボトルをくわえて、爪を突き立てるポーズを取る。「うう」とうなり声を上げると、カンナは手を叩いて喜ぶ。
「彼女たちは何をやってるんですか?」とあきれ顔の野口先生。
「さあ、僕にもさっぱり」と悠輔。
「お兄ちゃんもやるの。私が妹役なんだから、お兄ちゃんは兄ちゃんの役。学生服だから、まんまコスプレになるわ。」
「ジャア、私ハ別ノ」
「カンナ、金髪だから雷ね」
「炎がイイ」
弁当を食べる仕草をして「美味い!」
あさ美は手を叩いて喜ぶ。
意味不明で当惑する悠輔に、あさ美はあれこれポーズと台詞の注文を云える。
「そんな恥ずかしいこと、出来るか」と言いつつ、あさ美の言うがままになってしまう悠輔であった。
「水面!」
「ウマイ」「隊服かっこいい」
「僕は駐車場で待ってます」野口先生は逃げ出した。後に続こうとする都子の肩をあさ美が掴む。
「都子さぁん、自分だけおすましとは、ノリが悪いなあ。」
「友達デスヨネ」
都子を捕まえた二人の目つきが尋常でない。
「分かったから、放して。痛い。あさ美、あなた鬼の形相になってるわよ」
「その気になってきたわね。」
カンナとあさ美はニターと笑い、決め台詞を伝授する。
「初恋!」
バカ騒ぎに集まってきた参拝客から歓声と拍手が起こる。気を良くしたカンナとあさ美はなおもポーズを取る。正気に返った都子は真っ赤になって立ち尽くす。
「神聖な神社で大騒ぎしてるとバチが当たります。帰るわよ。悠輔くん、あさ美をお願い。カンナ、来なさい」
「えー、もう少し遊ぼうよ」「都子、ケチンボ」
「そんな日本語、どこで覚えてくるの。ダ・メ・デ・ス」
都子はカンナを引っぱっる。あさ美もすごすごと悠輔に従った。
一六 校長の策略
日本の神様は大らかでバチなど当てなかった。しかし人間の方が災厄を引き起こした。気付かぬうちに撮影されていた「美少女三人の鬼退治」はSNSに投稿され、瞬く間にトレンド入りして拡散した。
「事なかれ」の横手高校は、この事態をスルーしなかった。三日後、日本文化同好会の一同は生徒指導室に呼び出された。
拝殿をバックにカンナたちがポーズを取っている画像のプリントアウトが机に並んでいる。SNSの投稿を印刷したものだ。それを示し、校長は詰問する。
「伝統ある我が校の良識にもとる、恥ずかしい行為だな。そうは思わんかね。」
一同は無表情で返事をしない。担任や教頭を飛び越え、最初から自分で叱責を始める校長の意図は見える。自分の存在をアピールしたいのだ。前回、神楽女高子に「反省」させられたはずなのに、懲りない男だ。それとも、今回は罪状が明白だと思っているのか。いずれにせよ、白けて返事もしたくない。
その態度にいらだった校長はいらだつ。
「日本文化同好会、新設だね。会長は誰だ?」
「ハイ、私デス」カンナが手を上げる。
校長は驚く。
「留学生が代表? それで会が成り立つのかね?」
「問題ありません。」と野口先生。
「どういうことですか、野口先生。あなたには監督責任を問いたいと思っていましたが、先にこの会の意義から説明を頂きましょう。」
野口先生はウンザリした顔になる。
「同好会の設立申請に記載があり、校長も決済されているはずです。」
「はい、あります。」と教頭が書類をファイルを開く。確かに、校長の捺印もある。
「もう一度、お読みください。ここです。それとも、僕が音読した方がよろしいですか。」
野口先生は活動目的の欄を指で押さえ、『もう一度』を強調して冷ややかに言う。丁寧な口調の奥に軽蔑が滲む。
「それには及びません」ファイルを取り上げ、目を通す。都子から申請された時点では、新年度によくある、生徒活動の一つぐらいにしか思っていなかったので、ろくに読んでいなかっただろう。一同はますます白ける。アラを探そうとしても、書式に沿った不備のない申請書のはずだ。
「いいでしょう。では、チャッカマウガ君が会長である理由は?」
「生徒の課外活動に、誰が会長になるかまで学校が立ち入る理由は何ですか?」と野口先生。
簡単に答えられる質問なのに、あえて拒否する。野口先生は、この場で校長の関与を排除するつもりか、と都子は思う。この先生は、校長を敵に回してでも、私たちの側に立ってくれるつもりだ。
以前から、野口先生は校長と折り合いが悪いとの噂は聞く。野口先生が受け持ったクラスは、理科が苦手な生徒の成績が向上するので、全体の成績も向上する。それに理解のある上司には喜ばれる。
が、逆に、過去の傾向と対策にそった受験対策が不十分になりがちなので、三年生を受け持つと有名校への進学者が少なくなる。有名校への進学率を高めて横手高校をアピールしたい校長は、この「低い成果」が不満で、ことあるごとに「適切な指導」を求めるが、野口先生は自分のやり方を変えようとしない。
「野口先生、誤魔化すつもりですか。今回、学校の名誉が傷つけられました。引率者としての責任があるでしょう。あなたは顧問に相応しくないのではないですか。」
むっとした悠輔が口を開こうとするのを制し、野口先生は言う。
「多少おふざけが過ぎたのは認めます。しかし、このように「指導」するほどの問題でしょうか。漫画の真似をしてポーズを取っただけです。
むしろ、このように個人を特定されかねない写真を修正もせずにネットに投稿する危険性、プライバシーの侵害の方が問題です。このような行為を放置する学校だと知れ渡る方が、学校の名誉、いや、教育に支障を来します。
校長、SNS各社に抗議と、投稿の削除を申し入れたのでしょうね。」
「いや、それは顧問のあなたが……」
「先ほどから、責任と仰いますが、本校の最高責任者はどなたですか? 学校の活動に関する抗議を行うのであれば、当然、学校名で抗議文を発送します。公式の文書ですから、校長の名前が記載されます。僕が許可もなく校長の名前を使ってもよろしい、と仰るのですか。」
無言。
(この先生は理科の教員じゃなくて役人じゃないのか)と都子は思う。理屈の付け方が、父が嫌う役所のやり口にそっくりだ。
野口先生は、新しい教材や材料の購入を要望した際、この論法で散々に文句を言われた経験があるので、その意表返しなのだが、それは都子の知るとことではない。
野口先生はダメ出しをする。
「念のため申しておきますが、校外活動の申請は提出し、受理されております。」
申請書の活動場所には、地獄三箇所、その他とある。わざわざ「その他」を加えているのは、計画に書いていない行き先で問題が起こった祭に書類の不備を指摘されないようする、野口先生の用心深さだ。これも過去の役所とのやりとりで学んだ手法だ。
細かい指摘をする管理職なら、そういう曖昧な書き方は訂正させる。が、今の横手高校では数多くの書類に埋もれ、誰もそこまでチェックせずに決済が廻る。野口先生もこの事態までを予見していたわけではないが。
会合のこの後は、完全に野口先生のペースになった。校長が何を言おうが、野口先生は抜かりのない反論をぶつけてくる。結果的に、校長は生徒の前で恥をかかされることとなった。
「では、終了します。生徒の皆さんは下校して下さい。先生方は業務に戻って下さい。」
辛うじて威厳を保った校長が終了を告知する。
「野口先生は、残って下さい」と付け加える。
都子は心配そうに野口先生を見る。この校長みたいなタイプは自分の非を認めず、逆恨みをしてくるものだ。野口先生は、大丈夫だという顔で都子に肯く。
生徒指導室で二人になった校長が言う。
「あんたは、上司に対する敬意がないのか」
「ありません」野口先生は即答する。
「そんな態度を取って、どうなるか分かっているのか」
「どうなるのです?」
「貴様、ただではすまさんぞ。私を怒らせたら……」
「校長、教育者にあるまじき言葉遣いですな。そのくらいにしておいた方がいい」
そっと立ち上がり、音もなくドアに近寄り、勢いよく開く。
聞き耳を立てていた都子たちが倒れ込む。
「盗み聞きはいけません。」静かに言う。
「校長、この子たちを「指導」せねばなりません。これにて失礼します。」
逃げ損なった悠輔の襟首をつかんだまま、振り向いて校長に言う。
「僕の可愛い生徒たちを、よくもいじめてくれましたね。」
静かに校長を見る。何を言い出すんだといぶかしむ校長に向け、ぞっとするような笑みを浮かべる。
「退職間近の万年平教師に、恐いものなどありません。」
この先生は怒ると、こんな風に凍り付くんだ。
「東山くん、盗み聞きの罰として、理科室の整理を手伝いなさい。危険物が多くて手間がかかるんですよ。骨まで切れるメスとか、使用した証拠が残りにくい毒劇物とか、なくなったら大変だからね。」
一七 同好会の危機
翌日、野口先生は日本文化同好会の一同に理科準備室へ招集をかける。
「順番が逆なりましたが、この会の活動日程を決めます。僕は生物部の顧問もあるので、君たちにご一緒できるのは月曜日と金曜日の週二回の放課後が限度です。同好会の活動は顧問の同席が基本ですから、活動はそれだけに制限されます。申し訳ないが、了解いただきたい。」
「無理を言って顧問を引き受けていただいたのです。それで充分です。」と都子。
謝るのは自分たちの方だ。「職員室のゴタゴタは引き受ける」との約束を野口先生は守った。そのうえ週二回も顧問をしてくれるのは感謝しかない。
それに、悠輔がネタを用意する都合からしても、週二回は妥当なペースだろう。
「あと、活動場所なんですが、部室なんてありませんし、特別な器具が必要な活動じゃないですから、二年生が三人とも在籍している二年二組でそのまま活動しようかな、と考えてます。」
と都子が続ける。他の三人も肯く。
「いや、それはだめです。放課後とはいえ、他の生徒を追い出してはいけません。また校長に難癖を付けられても面倒です。この理科準備室を使いましょう。少し狭いですが、この少人数ですから何とかなるでしょう。日本文化同好会の活動日は、生物部の活動がない日ですから、放課後は普通、開いています。」
理科準備室は、ほとんど野口先生が占有しているのは生徒の間でも知られている。他の理科の先生が使わないわけではないのだが、野口先生は教材準備に時間をかけるため、理科準備室にいる時間が長くなり、主となっている。
「それなら、野口先生の移動の手間が省けます。」と都子。
「ありがとう。」
野口先生は一呼吸おく。
「それで、次回、第2回目の会合は今週の金曜日となります。
ちょっと、面倒なことになりました。皆さんに集まってもらったのは、このためです。次回の活動に瓜生先生が出席します。社会の先生ですから、自分も勉強したいとゴリ押ししてきまして。そう言われると拒否もできません。
瓜生先生が顧問の座を狙っているのは見え見えです。なにせ彼は、自分の歴史観が大好きで、それを広める場を欲しがっています。チャッカマウガくんが目当ての生徒の入会を認めれば、人数も大幅に増えると見込んでいるのでしょう。実際には、前回の騒動の顛末が「なぜか」生徒にも広まって、いい加減な気持ちの生徒は近寄って来ませんがね。
しかし、体制が替わって校長の後押しがあれば、情勢も変わるでしょう。
顧問の意向などお構いなしです。なにせ僕は校長に嫌われていますからね。」
(それはお互い様でしょう。あんな無茶を言って)と都子は思うが、黙っていた。
悠輔は嫌な顔になる。暴力をふるいかけたのは反省したものの、瓜生先生の考え方を受け入れたわけではない。
「そこでです。瓜生先生の横やりを排除します。次回活動のテーマは太平洋戦争です。」
「先生。それは危険です。悠輔くんと瓜生先生が衝突します。」と都子。
「それが目的です。東山くん、かまいませんから、思い切りおやりなさい。瓜生先生に、ここは自分の居場所ではないと分からせてあげなさい。ただし、興奮して手を出したら負けです。冷静に相手の主張を反証していくのです。」
「そんな危険な。もう少し穏やかなテーマにした方が……」
「そうですか? 僕は押さえたつもりですよ。本当は南京大虐殺とか、天皇制とかを取り上げたいんですが。」
「やめて下さい。南京大虐殺は有った無かったで、山ほど文献を持ち込んでの大論争になります。天皇制の是非は日本で一番やっかいな問題です。カンナの勉強じゃありません。」
「そのとおりです。この会の目的は日本文化の紹介であって、史実の検証ではありません。しかし今回は、あえて会の本来の趣旨から外れます。いわゆる右翼の――僕は右だ左だは無意味な決めつけだと思いますが――日本賛辞への反発です。東山くん、やれますか?」
「まあ、何とかなるでしょう。僕の考え方は、いわゆる司馬史観の影響を受けてますが、よろしいでしょうか?」
「いいでしょう。司馬さんの著作にはいくつも間違いもあり、批判も多いことはご存じですね?」
「歴史書じゃなく小説ですから、著者の嗜好、偏見が入るのはむしろ当然です。意図的に史実を無視した、作品を面白くするための方便もある。それでも、僕は司馬さんと同じく、太平洋戦争は間違っていたという考えです。」
「君はその姿勢を貫いて下さい。」
「チャッカマウガくん」と野口先生はカンナに呼びかける。
「申し訳ないが、会長であり主役なのに、君は今回、置いてきぼりになります。」
カンナは、しょうがないな、という表情をしている。
「鮎帰くん、「お兄ちゃん」の面白い話が聞けないけど、我慢して下さい」
「よく分からないけど、カンナのためね。先生に従います。」
「君は成績はよくないけど、本質の理解が早いね、賢い子だ。」
誉められたあさ美は、デヘヘ、と笑う。
「皆さん、ここが正念場です。これを乗り越えなければ、日本文化研究会に先はありません。」
一同はうなずく。
「では、具体的な手順を話し合いましょう」
初戦にして決戦は金曜日。
一八 決戦
放課後の理科準備室に日本文化同好会の一同が入ってくる。既に聴衆が教室の後ろに集まっている。同好会員以外は活動に参加できないはずだが、今回はあえて無視している。
悠輔はその一人にアイコンタクトを送る。瞬きで了解の返答がある。
教室の前の席は、対面に瓜生先生が座っている。
あさ美が「そこは……」と言いかけるが、都子に制されて口を閉じる。顧問の野口先生が座るべき席なのだ。
会員たちは机をロの字に並べる。四人が座る頃に入室してきた野口先生は、瓜生先生を一瞥したが、何も言わず、会員たちの後ろに座った。
カンナは後ろの聴衆に向けて言う。
「ミナサン、静カニシテクダサイ。コノ前ノヨウナ事故ハ、駄目デス。オ願イシマス。」
ぺこりと頭を下げる。可愛い。
ポーっとなった聴衆を都子がにらむ。
「分かってるんでしょうね」
男子たちはコクコクと頷いた。
「はじめしょうか」と都子。
「では。本日のお題は太平洋戦争です。」と悠輔。
瓜生先生の眉がピクリと動く。
「最初に年譜を出しましょう。」
悠輔はモバイルパソコンを操作する。前に設置された大画面に一九四一年一二月のハワイ奇襲攻撃から、一九四五年八月の終戦まで、主要な戦闘と行事が並んだ表が映る。
「簡単に言うと、だいたい八〇年前に、日本と、アメリカやイギリスなどとで起こった戦争です。経過としては、最初は日本軍が優勢だったんだけど、一年ぐらいで逆転してアメリカが勝ちました。当時のアメリカの国力は、日本のだいたい五〇倍と言われています。近代戦は国力の総合戦ですから、日本に勝ち目はありません。
ではなぜ、日本は無謀な戦争をしたのか。戦争目的は何だったのか? 当時のアメリカと日本は中国の利権を巡って対立していました。アメリカは日本への制裁措置として、石油の輸出を止めました。石油がなければ、日本は工業生産が出来なくなります。それどころか生活が出来なくなって国が滅びます。
じゃあ、石油は南方から持ってくればいいじゃないか。その油田を持っている国から奪ってしまえ。つまり、東南アジアの侵略です。」
「ちょっと待て。「侵略」ではない。日本はアジアを欧米から開放しようとしたんだ。」
瓜生先生が口を挟む。悠輔がニッと笑うのを抑えたのが、都子に見えた。
(かかった)都子もほくそ笑みそうになるのを我慢した。
「それは大義名分ですね」と悠輔。
画面を切り替え、アジア諸国の地図を映す。
「ビルマ、今のミャンマーは日本がイギリスの支配から解放したと言えなくもない、日本の傀儡政権じゃないかと言われますが。
インドシナは独立してませんね。フィリピンは日本への抵抗運動が起こってます。
マレーとインドネシアは独立してません。石油やボーキサイトが採掘できるから、日本の支配のままにしたんでしょ。
台湾と韓国は日本領です。中国はこれ以前から日本との戦争が続いています。これで何が「解放」ですか。」
反論しかける瓜生先生を制して、悠輔は続ける。
「太平洋戦争の戦死者、戦没者は日本人だけ三一〇万人と言われてます。」
画面を切り替え、主な戦役と戦没者数が示される。
「あまりに日本の愚行が多いんで、示し切れません。戦没者は諸説ありますが、途方もない死者数なのは間違いありせん。
戦争とは、国際紛争を武力を持って解決しようとする行為です。いわば政策の一つです。三一〇万人も殺しては、完全な失策です。そうなる前に戦争をやめなかったのは、クラウゼヴィッツじゃないですが、戦争が自己目的化してる典型です。
アジアの開放なんて美辞麗句に踊らされた人間は、平気でまた戦争します。そうなったら先生は真っ先に戦場に行くんでしょうね。いや、今すぐにでも兵隊にならなきゃ、筋が通らない。」
「暴論だ」
「そうでしょうか。勇ましいこと、格好いいことを言うヤツほど、自分は安全な所にいるもんです。」
画面を切り替える。インパール作戦の惨状が動画で流れる。やせ細った日本兵の死骸が数え切れないほど映される。別のカットでは勝ち誇ったかようにイギリスの戦車が進撃し、日本兵の死骸を踏み潰していく。
聴衆からうめき声が上がる。
「酷いものですね。こんな悲惨な戦闘がアジア、太平洋の各地で繰り広げられました。原因は色々ありますが、一番は作戦が間違っていたためです。
ところが負けた作戦を立案したやつらは、戦争が終わっても多くが生きてます。一番酷いのは特攻でしょうね。」
画面は特攻による戦果に切り替わる。
「諸説あるので概ねだとしても、戦果が上がったとは言いかねます。戦艦や正規空母、巡洋艦の大型艦艇は一隻も沈めていません。
それに対する戦死者数ですが」と、画面を切り替える。
「諸説あるんで、よく分からないですが。海軍でおよそ四一〇〇人、陸軍でおよそ二二〇〇人、合計で大体六四〇〇人ぐらい、らしいです。効率のいい作戦とは、とてもいえません。
これらの犠牲の前に「正義の戦争」などと美辞麗句は無意味です。当時の日本は、こんなに酷かったんです。」
「いや、欧米支配からの解放のための、貴い犠牲……」
「これだけ無残な犠牲者を出して? 僕の話、聞いてます?」
あとは完全に悠輔のペースになった。瓜生先生の日本擁護に対し、悠輔は日本の戦略や戦術がいかに愚劣であったかを図表を使って説明する。
野口先生と撃ち合わせた通りの展開である。
打ち合わせで野口先生は言った。
「日本による「アジア解放」を信じている人には、日本は自国の利益のために戦争を起こしたのだとの論拠をいくら挙げても納得しません。
たとえばフィリピンは昔からアメリカ寄りですし、戦争中に日本の支配への反抗が激しかった国です。しかし、日本の支持者が一人もいなかったとは言えません。詰まるところ、多くの人の考えがその国の意向として、歴史の解説書には書かれます。大東和共栄圏を正義だとする連中がよく使う論法に、少数の意見を、さも大多数が支持していたかのように取り上げるのがあります。まったくの嘘ではないだけに、反証が面倒です。
さらには、精神論や観念論に持ち込まれたら、史実による検証もなにもありません。「いかなる犠牲を払っても正義を貫く」なんて、バカも休み休み言えと吐き捨てたいですけど、ここまで来ると戦争や政治じゃなくて心の持ちようですから、議論になりません。
ならば、論点をずらしてしまいましょう。日本軍の非道や作戦の不備を示して、いかに愚かな戦争であったかを主張する。日本が正義だと主張する瓜生先生も、いくらなんでも日本は勝っていたとまでは言い返せますまい。」
野口先生の読みは当たった。戦争目的で相手を議論に引っ張り込み、強引に戦争の悲惨さに論点をすり替えた悠輔の口車に、瓜生先生は見事に乗せられた。
とはいえ、簡単に話は終わらない。長い議論の果てに両者が疲れたころ、野口先生が言う。
「そろそろ部活動終了の時間です。本日は活動ができませんでしたな。」
「私ガ勉強シタイノハ、日本ノ素晴ラシサ。」
カンナが大袈裟に溜息をついてみせる。
「今日の話は「欧米からのアジアの開放」になりましたね。アメリカ人にそれが通じるかしら。どう思う、カンナ?」と都子。
「父ノ友達にフィリピン人イル。アメリカが好きなフィリピン人、沢山イル。」
「それは特異な人で、アメリカの支配に従った……」
「父の友人を、侮辱するか!」
カンナが珍しく怒声を上げる。興奮すると日本語の発音が滑らかになるのか。美人の怒り顔は恐い。瓜生先生は思わず怯む。
すかさず「そろそろ終了します」と都子。
もう一手、仕込みを発動するときだ。
「講師の説明に異論が出たので、今回はディベート会になりました。今日は人が多いから、最後に、どちらの主張がよかったとも思うか、集まった皆さんで決を取ってみましょう。
瓜生先生の主張の方が説得力があったと思う人、手を上げて。」
瓜生先生は教室の後ろの観客を見る。誰も手を上げない。あからさまに不満な表情を見せる者、低くブーイングする者までいる。オロオロと周りを見る者はいるが、周囲の雰囲気に押されて手を上げようとはしない。
「じゃあ、東山くんの主張には?」
一人の一年生がさっと手を上げる。
「東山先輩の方が、具体的な数値もあって説得力があった。」
隣の男子生徒が同意する。
「ああ、日本軍は酷いな。無茶苦茶な作戦であれだけの犠牲を出しておいて、「正義の戦争」って言われてもなあ。僕も東山先輩の考えに賛成だ。」
その勢いに押されて、次々に手を上げる者が出る。
悠輔は考え深げな顔をしている。心中で親友に感謝しているのだろう。最初に悠輔を指示した二人は、豊が送り込んだサクラだ。野球部の次期エースで人望のある豊がいてこそ人員がそろった作戦だ。
「おまえら……」
怒り顔の瓜生先生を遮り、野口先生が口を開く。
「生徒を脅す気ですか。それ以上言ったら、取り返しの付かないことになりますよ」
鼻を鳴らして野口先生を見た瓜生先生は、その視線に射すくめられる。大した実績もなく出世コースから外れたロートルだと侮っていたら、目には恐ろしい迫力がある。
「お引き取り願いましょう。」
手を叩く観衆までいる。ここで自分がどう思われているか知った瓜生先生は、荒々しくドアを開いて出て行った。
「はい、今日はおしまい。カンナ見たさに来た人は帰ってちょうだい。」と、都子。
会員たちは片づけを始める。退室する聴衆の中から、先ほど悠輔を支持した一年生が一人、悠輔に向かってガッツポーズを取る。悠輔は大きくうなずく。
「助かったよ、豊」思わず親友の名をつぶやく。カンナが、それ誰?、と言いたげな顔になる。
「春木豊、クラスでカンナの斜め前に座ってる同級生。僕の親友で、こっちを見てる一年生の先輩だよ」
悠輔は先週の話を思い起こす。瓜生先生の件を豊に相談したら、駅前の蕎麦屋に連れて行かれた。安くて美味いと、野球部員のたまり場になっている蕎麦屋は、夕食前なのに学生たちで賑わっていた。
蕎麦屋の息子らしい少年に蕎麦を注文し、豊は言う。
「悠輔、また無茶をやろうとしてるな。こういう企みは信用できるヤツをそろえるのが肝要だ。紹介しよう、住吉蔵人、この蕎麦屋の息子で、横手高校の一年二組だ。」
蔵人はぺこりと頭を下げる。童顔で純朴そうな少年だ。
「瓜生先生に反感を持っている生徒は幾人もいるが、それだけじゃこの役は務まらない。蔵人はこう見えても度胸が据わっている。義理人情もある。協力者にうってつけだ。」
ほめられた蔵人は照れて下を向く。
「今回、お前に協力するのは、友達だからだけじゃない。」
と豊は真っ直ぐに悠輔を見る。
「俺は知識がない。だから歴史的に見て、お前と瓜生先生のどちらが正しいのか、知らん。けど、韓国は日本に併合されて良かったってのは、韓国人は劣ってるから日本人に従えって意味だろ。そういう人をバカにした考え方が気に入らない。」
一呼吸置き、豊は悠輔に尋ねる。
「朴を覚えてるか?」
「野球で付属校高校に進学したやつ?」と悠輔。
他人に感心がない悠輔にしてはよく覚えている。付属高校は甲子園大会の出場常連校だ。
「ああ、中学時代からずば抜けてたな。今は付属高校で四番を打ってる。」
「それって、凄いんだろ。」
野球にうとい悠輔でも、二年生なのに強豪校で四番バッターとは、突出した打者なのだと分かる。
「そうだよ。で、朴が在日四世だって知ってた?」
「名前からして韓国出身かとは思ってたけど、関係ないよな。普通に日本で生活してるんだから日本人だろ?」
「お前、意外に単純なのな。朴のひいお祖父さんは今の北朝鮮の出身だそうだ。 日本に定住して、お祖父さんもお父さんも苦労したらしい。
でな、朴の家に遊びに行ったら、驚いたよ。お祖母さんがチマショゴリ着てた。洋服より馴染んでるから楽らしい。その調子で家の中がちょこちょこ朝鮮っぽいんだ。だから、信用できる人じゃないと家に上げないらしい。」
「日本人には朝鮮半島を蔑視するヤツもいるしな。嫌な話だけど。」
「ああ。瓜生先生の話を聞いてると、朴を思い出してな。友達を下等な人間だと言われた気がして、腹立ってくる。」
「朴さんは一家でこの店に来てくれます。上品で気持ちのいい人たちです。朴さんを差別するのは嫌です。まあ、常連さんだからってのが大きいですけどね。」と蔵人
「俺の場合は、朴の家で食べさせてもらった本場の冷麺が美味かったってのが大きいかな」と豊。
「うちの母さんの味方をするときといい、おまえの判断基準は食い気か」と悠輔。
「美味しいは正義だ」
蔵人は手をたたいて喜ぶ。悠輔はしかめっ面になる。
「冗談はともかく――」
豊の言葉を悠輔がふさぐ。
「冗談に聞こえない」
「どっちでもいい。とにかく、瓜生先生が日本文化同好会の顧問になるのは反対だ。潰してやろうぜ。」
「助かる」と悠輔。
「けどな、悠輔、覚悟を決めろよ。蔵人は公然と瓜生先生に刃向かうんだ。にらまれて日本史、いや社会科の成績に影響する。おまえにそのフォローが出来るか?」
「あんな教科書を読むだけの授業より、よほど日本史を上手に教えられるわい。」
「ま、それが最低限だな。授業態度が良くないって評価が下がっても、それを上回る点数をテストで取らなきゃならない。蔵人、どうだ?」
「やらせてください。僕も春木先輩と同じ気持ちです。それに、東山先輩の講義が受けられるなんて、最高です。去年の文化祭での講談「江戸城無血開城」は聞いてない一年生の間でも伝説になってます。そのときも瓜生先生をやりこめたんでしょ?」
「まあ、ね」
と悠輔。最後に年号をネタにして瓜生先生をからかったのは、ちょっと調子に乗りすぎたかと、少しだけ反省している。
「決まりだな」
豊は右拳を突き出す。蔵人もそれに併せて右手を出す。
「おい、悠輔」
と豊に言われた悠輔は慌てて右手を出す。豊は苦笑する。
「体育会系のノリは苦手なんだよ」と悠輔。
「いいとも。俺たちは知能犯だ。さあ、悪巧みの具体的な手順を決めていこうぜ。」
「犯罪なんですか?」と蔵人。
「真っ当な議論で論破するんじゃない。先生を罠にはめて、論点をずらし、恥をかかせて排除しようってんだ。詐欺師の手口だぜ。」
豊は爽やかかに悪人顔になった。
「どうしたの?」とのあさ美に声で、悠輔の意識は現在に戻る。
「男の友情だよ」
あさ美は分かったような分からないような顔になる。
「東山先輩」と蔵人はぺこりと頭を下げる。
悠輔はうなずく。
「先ほどの争論、感動しました。」
小声で「打ち合わせ以上です」と付け加える。
それであさ美は察したようで、笑顔になる。悠輔は苦笑する。
「東山先輩の、明快な根拠を示したわかりやすい説明は、本当によかったです。教師相手でも堂々と主張する態度に勇気をもらいました。」
もう一度頭を下げる。
「今日、ここに来た理由は――ああと、あれなんですけど」
「言わなくてもいいよ」と都子。豊の仕込みなのは秘密だ。
「そんなの関係なくなりました。東山先輩の話をもっと聞きたいです。お願いします、この会に入れてください。」
三度、頭を下げる。悠輔は困った顔になり、野口先生を見る。
「そういえば、入会資格を示していませんでしたね。私は、日本文化を紹介できることを資格にしたいと考えます。チャッカマウガ君はアメリカ人の留学生なので、例外です。皆さん、いかがですか?」
「お兄ちゃんと同じレベルの話ができる高校生なんて、そうはいないわ」
と、あさ美が誇らしげに言う。
「そうだけど、そんなこと言い出したら、あさ美、あなたはどうなの?」
「漫画やアニメは、お兄ちゃんより詳しいわ」
「日本のアニメは好キ」とカンナ。
「まあ、いいでしょう。今時、漫画が幼稚だなんて言う人も少ないでしょう」と野口先生。
「都子さんはどうなの? 成績は学年一位だけど、文化とは別よね」とあさ美。
都子は返事に詰まる。数瞬の間をおき
「何とかするわ」と強がる。
あさ美はフフン、と嬉しげに鼻を鳴らす。言い合いで都子に勝ったの、初めてじゃないか。
「となると、住吉君?」と野口先生が声をかける。
蔵人は寂しげにうつむいている。東山先輩レベルの話など、とてもできないと思うのだろう。
「君は確か、住吉蕎麦の息子さんだね」
「はい」と蔵人。
よく知っているなと一同は感心する。
「君は蕎麦が打てるかね?」
「将来は店を継ぎたくて手伝いをしてます。けど、まだまだ人様にお出しできる代物じゃないと、父にしかられています。」
「それでいいです。蕎麦は日本の食文化です。どうかな、部長?」
「蕎麦、まだ食ベタコトナイ。お願イシマス。」とカンナ。一同もうなずく。
(そういや、まだ食べさせたことなかったな)、とカンナのホームステイ先の都子は思う。寿司や天ぷらは店に連れて行ったし、家ですき焼きを作ったことはある。しかし、身近すぎて蕎麦屋には行っていなかった。
「決まりですね」と野口先生。
「よろしくお願イシマス」
カンナは右手を差し出す。究極の美少女に見つめられ、ドギマギしながら、蔵人は恐る恐るという体でカンナの白い手を握った。
一九 中間試験
横手高校には定期考査前は部活動が休止になる慣例がある。日本文化同好会は、前回の活動では教師が二人も参加しておきながら、それを無視する形になった。
同好会だから規定が曖昧なのもある。しかし主な原因はそれではなく、顧問の野口先生が試験を軽視するためである。授業には勢力をつぎ込むのだが、それが点数に示されることには関心が薄いのだ。どうかすると成績すら気にしていない。野口先生にとっては日本文化同好会を存続させるために、瓜生先生との決着をつける方が試験より重要であったのだ。
同好会の会員たちも試験を重視していない。部長のカンナはマイペース、都子は日頃から勉強しているから試験前に慌てはしない。悠輔は普通の生徒の試験前の勉強量が日常で、特に試験勉強はしていない、英語以外は。
あさ美に至っては、「夫」の世話を焼くために学校に来ているかと嫌みを言われたら、平然と「はい」と答えた。勉強しないと悠輔が嫌がるから真面目に授業は受けるが、積極的に試験勉強したりしない。
前回の会合で、瓜生先生は自分が活躍できると思っていたから、試験前だから活動するなとは言わなかった。悠輔たちの罠にはめられ逃げ出す様になったからといって、後になって活動日に異議を唱える愚までは犯さなかった。
とはいえ恥をかかされて腹を立てている。だから悠輔への当たりをきつくしようする。が、悠輔は、瓜生先生の教科である社会科の試験が高得点でなので文句も言えない。それがまた面白くない。
不満のはけ口は同僚に向かう。英語が欠点続きなのは同好会活動にかまけて勉強がおろそかなのではないかと、顧問の野口先生をなじった。野口先生は短く「それがどうした」と言い返した。
担任で英語担当の青山先生は、東山の英語と言った途端、無言でにらんできた。目つきが尋常ではない。成績が悪いのに悩み続けて、神経に支障をきたすほどの負荷が掛かっているのだ。
自席から立ち上がりもしない。無言のまま、視線を作業中の試験用紙に戻す。赤ペンを握った右手に力が加わり、ベキッと音を立てた。舌打ちして、砕けた赤ペンをゴミ箱に放り込み、机から新しい赤ペンを取り出す。立つ尽くす瓜生先生を見ようともせず、冷ややかに言う。
「忙しいのですが、御用はそれだけですか。」
「いや、だから、東山の担任として、彼の成績の相談を……」
「あん、あなたは何なんですか?」
ゆっくりと視線があがる。瓜生先生を指さした赤ペンが短刀に見える。周囲の先生たちの方が青くなった。美人なだけに、怒り顔に迫力がある。瓜生先生は這々の体で逃げ出した。
「青山先生、冷静になりましょう。暴力で人を威圧してはいけません。」
英語の部門主任がこわごわ声をかける。東山悠輔の英語に関しては戦友だ。負け戦続きだけに連帯感がある。
「私は冷静です。瓜生先生の物言いに腹を立ててはいますが。」
「そこを落ち着いて欲しいのです。」
教科主任の声が小さくなる。
「瓜生先生のような人に、あなたの苦労は分かりません。相手にしなくていいです。」
「そのつもりです。瓜生先生の嫌み、ましてやうんちくなど聞く耳を持ちません。私はいま、中間試験後の東山くんの追試問題を考えるので頭がいっぱいです。
先生、良いところにいらっしゃいました。ここなんですが、もう少し構文をかみ砕いて説明する工面はないものでしょうか?」
書きかけの試験問題を赤ペンで指しながら尋ねる。中間試験前に追試問題の解説を作っているのだ。
「試験前に、落第が確実ですか……」
部門主任は天を仰いだ。
二〇 タケノコ掘り
中間試験が無事――かどうかは分からないが――終了した五月末の土曜日。午前八時に集合と野口先生から連絡を受けた日本文化同好会の面々は、横手高校職員駐車場で野口先生のワゴン車に乗り込んだ。
「今日は筍を掘るとのことですが、どこに行くのですか?」と、都子。
「うちの裏山です。あまり手入れをしていないし、孟宗竹の季節はもう終わりなので、あまり量は採れないでしょう。けど、日本の風土の体験にはなります。」
「タケノコって、ナニ?」とカンナ。
「食べたことなかったっけ? 竹はわかる? まだ小さいうちは柔らかくて食べられるの。」
「竹ッテ、掃除ニ使ウ、アー」と、ほうきではわくジェスチャーをする。
「庭ぼうきの柄のことね。それよ。」
「孟宗竹なら、その倍は太いですね」と、蔵人は両手で一〇センチほどの円を作る。
カンナは目を丸くする。堅い棒状の竹と、食材のイメージが結びつかないようだ。
「アメリカには竹がないんでしたっけ?」と蔵人。
「生キテイル竹、日本デ初メテ見タ。食べられるノ不思議。」
「そう言われたらそうですね。ざるとか竹細工を食べようとは思いませんもの。」
蔵人の言葉に、カンナは更に混乱したようだ。
「やってみれば分かりますよ」と野口先生が運転しながら言う。
「住吉くん、君は竹に詳しいようですね。」
「いえ、詳しくはないです。食べ物屋の息子だから、食べ物や食器を少し知っているだけです。」
「こうイウノガ、謙遜ネ。本当は凄ク知ッテル。けど自慢シナイ。日本人ノ美徳。」
カンナの美しい青の瞳に尊敬の目で見つめられ、蔵人は真っ赤になってうつむく。
「先生、僕は筍掘りなんかやったことないし、謙遜じゃなくて、出来そうにないです。」不安げな悠輔。
「体を使う技は、訓練しなければな。」
カンナの発音が良いときはアニメを耳コピした台詞だ。元ネタを知っているあさ美は即座に返す。
「そんな、理屈!」
二人は車内で腕を突き出したりして大喜び。
他のメンツは意味が分からないのでポカンとなる。が、笑顔はよいものだ。悠輔もつられて笑みを浮かべる。
「大丈夫、あたしがついてる」悠輔の膝に、あさ美がそっと手を乗せる。
(どっからでも惚気るんだから)
都子はあきれ顔になる。カンナは混ぜっ返そうとしたが、悠輔の表情を見て、からかうべきでないと思ったのだろう、口を閉じた。蔵人は目のやり場に困る。
そうこうしているうちに、ワンボックスカーは郊外の野口家に到着する。一同は裏山に入る。既に道具が用意されている。手袋を着けさせた一同を前に、野口先生が説明する。
「筍はなるべく若いものを掘ります。有名な産地を栽培している名人は、まだ芽が出ていない筍を足の裏で感じるそうですけど、手入れが悪いこの山で僕には無理です。ですから今日は、なるべく小さく芽が出ている筍を探してください。その周りを掘ります。」
と、小降りのツルハシを持つ。
「専用の道具なんてありませんから、これを使います。筍を傷つけないように、少しずつ掘ってください。竹の地下茎が張っているところまで掘ったら、そこまでです。根本にスコップを打ち込んで筍を切り取ります。」
蔵人は早速、筍を見つけたようだ。ツルハシを持ち、試しにと振り下ろしてみる。
「こんな感じですか?」
「住吉くん、上手いね。」と野口先生はほめる。
「ありがとうございます」と言いながら更にツルハシを振り下ろす。
「土が硬いです。意外に掘れないんですね。」
「あまり強く打ち下ろすと筍に当たって、傷つけてしまうから気をつけてくだだい。木や草の根が張って、意志もありますから掘りにくいです。続けての作業はけっこう重労働になるから、適当に交代しましょう。」
「はい」と言いながら蔵人はツルハシを振り下ろす。少しずつ筍が現れてくる。続けざまにツルハシを振るう蔵人の息が上がってくる。
「交代しよう。東山くん」野口先生が声をかける。
ツルハシを受け取った悠輔は、へっぴり腰そのものの姿勢でツルハシを打ち下ろす。見当違いの場所を打ったツルハシは、地面に浅い傷を付けただけだ。
悠輔は照れ笑いをしながらツルハシを持ち上げ、力を込めて打ち下ろそうとする。姿勢が悪い。前に出しすぎた左足に当たりそうだ。
「危ない」
蔵人の叫び声に驚きいた悠輔の体勢が崩れる。ツルハシがすっぽ抜け、蔵人に飛ぶ。動きを読んでいたのだろう、蔵人は落ち着いて避ける。
「ごめん!」
「大丈夫です。先輩こそ、変な姿勢になりましたけど、足首をひねってません?」
「ありがとう、大丈夫だ」
野口先生がツルハシを拾い、寄ってくる。
「怪我がなくて良かった。それにしても……」珍しく言いよどむ。悠輔の運動音痴はちょっと激しい。
「誰にデモ苦手アル。ユウは運動ヨリ、勉強が上手。」
「そうよ。完璧な人なんていない。お兄ちゃんは他にいいところが沢山ある。」
カンナの慰めにあさ美も同調する。悠輔の手を取って励まそうとする。が、悠輔はかえって落ち込む。こういうときは慰めより、出来るように教えた方がいい。
「先輩、力を入れすぎです。ツルハシはねらった場所に打ち込めはいいから、慣れるまでは軽く振り落とす。右足を前に出して、左足は真後ろ。両足を結ぶ線で体を一直線にする感覚で――そうです。」
悠輔は蔵人の指導に素直に従い、ツルハシを振り下ろす。
「ほら、だいぶ良くなった。一度に深く掘ろうとしないで、筍を傷つけないように、軽く掘っていきましょう。
そうです。先輩、飲み込みが早いです。やっぱ、頭のいい人は凄いです。」
蔵人は教えるのが上手だ。悠輔はだいぶ様になってきた。とはいえ、悠輔のペースでは時間がかかりすぎる。時々女子に代わってもらいながら、蔵人がほとんど掘りあげた。
野口先生が地下茎と筍の境にスコップを打ち込み、筍を切り離す。長さは20センチもない。苦労した割には小さな収穫だ。
「ちょっと休憩しましょう。取れたては生で食べられます。」
道具箱から包丁と皿を取り出す。筍は皮をむくと更に小さくなる。
「これくらいなんですか?」と都子が驚きの声を上げる。
「手間をかけて栽培してる竹山じゃないからね。季節ももう終わりだし」と野口先生。
言いながら筍を一口大に切って皿に並べる。
「わさび醤油が合うんだ」と、皿の箸に醤油を垂らす。
「さあ、食べてみよう。お箸を持ってこなかったから、手で摘んでください。」
一同は手袋を外し、皿から筍を取る。
「本当ニ竹、食ベラレル?」
カンナはこわごわと口に運ぶ。
「美味シイ」
まず竹っぽい若い臭いが鼻に入っていく、噛むと柔らかな苦みに微かな甘みがある。歯がすっと入る柔らかさに、コリコリとした堅さが心地よい。わずかに感じるえぐみは、確かにわさび醤油と相性がいい。
「生の筍って、初めて食べました」と都子。
「掘り取るとすぐに酸化されて、えぐみが出ちゃうからね。掘り取った直後にだけ味わえる珍味だよ」
カンナは早くも二つ目に手を出す。負けじとあさ美も皿に手を伸ばす。若者たちは次々に食べ、小さな筍はすぐになくなってしまった。
「さあ、休憩終わり。もう少し、掘ってみよう。料理はうちのカミさんにしてもらいます。」
要領が分かってきた会員たちは、筍を見つけては掘り取った。3時間ほどで、小ぶりながら数本の筍が収穫できた。
裏山を下りて、野口家の勝手口をくぐる。様子が見えていたのだろう、奥さんらしい人が裏口から庭に降りてきて、一同に頭を下げた。
「野口がお世話になっています。主人の趣味におつき合いいただき、ありがとうございます。妻のさくらと申します。お疲れ様でした。むさ苦しい家ですが、お上がりください。奥に冷たい物を用意しいました。どうぞお休みください。」
と玄関の方向を示す。
(生徒相手なのに、腰の低い礼儀正しい人だな。)と都子は、好印象を持った。皆、同じような印象を受けたようだ。
(朴念仁の野口先生には、こういう上品なお嬢様が合うのか)
「いえ。泥まみれなので客間を汚くしてしまいます。それより筍の調理をさせてください。早く下処理をしなければならないのでしょ?」と都子が答える。
一同は同意してうなずく。
「まあ、気のつくお嬢さんですこと。大丈夫ですよ。皆様、それほど汚れてはいません。遠慮なくお休みください。」
「でも、筍を調理するのも活動ですから。教えてください。出来ることはいたします。」
「さくらさん、そうなのです。よろしくお願いします。」と野口先生は筍が入って袋を渡しながら、妻に頭を下げる。
「左様ですか。お教えできることなどないのですが。では、狭くて汚い台所なのでお恥ずかしいですが、どうぞこちらに。」
さくらは一同を玄関に誘導する。広い家ではないので、さして歩かずに一番奥の台所に着く。筍を袋から出しながら言う。
「あく抜きと保存のために筍を茹でます。ぬかを入れる家が多いそうでうが、うちでは米のとぎ汁を使っています。沢山のお湯で茹でるのがコツです。唐辛子を入れる人もいますが、私はそこまでしていません。」
既に白い米のとぎ汁が煮立っている大鍋がコンロにかかっている。
「根本の堅いとところがあれば、先に切り落としておきます。」
都子が筍を確認する。あわててあさ美とカンナも筍を手に取る。蔵人が手を出そうとしたときには、数本の筍は皆、女の子たちが握っていた。まだ落ち込み気味の悠輔は完全に出遅れて手持ちぶさたになる。都子はあさ美とカンナを見る。二人はうなずく。
「大丈夫なようです。」と都子。
さくらはニッコリほほえむ。
「では、縦に包丁を入れます。火が通りやすくするのと皮をむきやすくするためです。
このくらいです。」
と一つ切れ目を入れてみせる。
女の子たちは代わる代わる包丁を持って切れ目を入れていく。
「皆さん、仲良しでいらっしゃるのね。」
「僕の自慢の生徒たちです」と野口先生。
予想外にほめられた生徒たちは、えっとなって野口先生を見る。野口先生の方が驚いた顔になる。
「本当のことです。」
「はい、野口は宅でも、日本文化同好会の皆さんのことを楽しげに語っています。聞いているこちらも嬉しくなります。」
一同は照れる。蔵人はうるうるした目で野口先生を見つめている。その視線を受けた野口先生の方が恥ずかしげになる。
「さくらさん、指示をお願いします」照れ隠しに野口先生は、常よりも静かな声で言う。
「はい。筍を鍋に入れてください。お湯が煮立ってますから、火傷しないように気をつけてください。」
さくらはすんなりと話を引き継ぐ。
女の子たちは筍を静かに鍋に入れていく。
「そしたら、弱火にして。よく煮えるように落としぶたをします。」
あさ美がかたわらに置いている落としぶたをサッと取り、さくらに差し出す。カンナはキョトンんとしている。落としぶたが分からないようだ。
「見ていれば分かるよ」と都子。
さくらは微笑んで鍋に落としぶたを入れる。
「フタ、落トス。……「落としぶた」、面白イ言葉」
カンナは何度も「落としぶた」とつぶやく。発音を確認したいのだろう、あさ美にも言わせて、それをまねる。
「アメリカの方には、「落としぶた」が珍しいのかしら」さくらは金髪の少女を見る。
「響きが気に入ったみたいです。彼女は日本語が好きで、時々こうなります。」
「そういうものなのですか。」と興味深げなさくら。
「これで一時間ぐらい煮ます。柔らかくなったのを確認したら、さめるまで待ちます。それに時間がかかるから、せっかく来てもらったけど、今日はここまでです。調理は明日しておきます。」
筍料理を作るまで行かないのか。女の子たちは残念そうになる。
野口先生まで
「そんなに時間のかかるものだったのか」と言う。
さくらは呆れ顔になる。
「皆さんごめんなさいね。この人は、学問ばかりして衣食住はまるでだめですから。毎年食べさせているのに、こういう事をちっとも覚えない。簡単に料理できるようなこと言ったんでしょう。」
「ごめん」と野口先生は頭を下げる。
「月曜日には出来上がった料理を野口に持たせますから、同好会活動の時に皆さんで食べてください。」
気落ちしているような野口先生に声をかける。
「あなた、皆さんを客間にご案内して。私は飲み物を用意ますから。」
「はい」
(穏やかで夫を立てる奥さんに見えて、気むずかしいところのある野口先生を上手に扱っているんだな。お嬢様と思ったけど、そうではないのか)
都子が思うよりさくらの人となりは複雑なのだが、それは都子の知ることではない。
あさ美がさくらをじっと見つめている。やはり扱いにくいところのある「夫」を持つ乙女は、何かを感じたのだろう。
「奥さん。明日、調理を手伝わせてください。」
「掘ってくれただけでも大変だったのに、何度も来てもらうのも申し訳ないわ。」
あさ美は首を振る。
「そんなことない。何度でも来ます。あたし、さくらさんと仲良くなりたい。」
「そりゃ、私も若いお友達が出来るのは嬉しいけど……」
「じゃあ、お願いします。いいでしょ、野口先生」
一所懸命さが伝わってくる懇願だ。
「まあ、さくらさんが良いのなら」と野口先生。
カンナは自分も来たいそぶりを見せる。が、都子が目配せした。
(あさ美は奥さんに相談があるんだ。悠輔くんに関することだろうから、カンナには聞かれたくないだろう。)
都子の様子に、カンナも遠慮した方が良いと分かったのだろう。何も言わずにうなずいた。
女たちの以心伝心に、男たちは口を挟めなかった。
翌週の月曜日、日本文化同好会に悠輔は欠席した。中間試験で英語が欠点となったため、結果発表の当日から補習になったのだ。
今回ばかりは一時間だけでも活動させてほしい、タケノコの試食をするのだと懇願する悠輔に、光里は怒った。
「温情で留年を免れたのを忘れたのですか。留学生に日本を知ってもらう会の目的には賛同するけれど、学業をないがしろにするのは許しません。」
講師を予定していた悠輔が欠席のため、この日の活動は、さくらとあさ美が調理したタケノコの食事会になった。煮付けである。
あさ美はタケノコ単体の美味しさを強調する料理にしたがったが、タケノコが少ししか掘れなかったので、人数分の量を用意するためには、他の食材も使う煮付けが良いとの、さくらに意見に従った。それでも美味しくできたと、若者たちはぱくついた。
都子とカンナは煮付けの作り方をあさ美に尋ねた。あさ美は、ほとんどさくらが作ったと断りながら手順を説明した。日頃から料理をしているあさ美の手際はまずまずで、さくらにほめられたらしい。
話はタケノコ掘りの苦労に移り、蔵人はツルハシを振り下ろすときの体の動きを説明した。
「コウ?」とカンナは手を下ろしてみせる。
「いや、そうじゃなくて。両手の間隔はもう少し広い方が振り下ろす狙いがつけやすいんです。左足はもうちょっと後ろに……」
と、蔵人は説明していくが、体勢の細かい位置関係を、カンナに分かる言葉で表現するのが難しい。思わず手を取って、「こうです」と位置を補正する。
「コノママ振り下ロス?」とカンナは蔵人を見る。
「真っ直ぐじゃなくて円運動です。ツルハシの先が地面に当たる瞬間に、いちばん力が加わるような感覚で。「ヤッ」と振り下ろします。目は目標位置を見つめたままで。地面は動きませんから、落ち着いて息を整えて……」
「蔵人、サムライ?」振り下ろしが、刀で据え物斬りでもするような所作に思えたのだろう。
カンナに見つめられ、蔵人は一所懸命に説明するうちに美少女の手を取っているのに気がつき、答えるのも忘れ、あわてて手を離した。
「ごめんなさい」赤くなって謝る。
「謝るコト、ナイ。デモ、蔵人ノ説明、難シイ。武道者か修験者のヨウ、ツマリ……」
説明が分かりにくいことを、蔵人に嫌な思いをさせないように上手く表現する言葉が紡げないのだろう。カンナは言いよどむ。
「観念的?」と都子。
(相手に気を遣うのは、だいぶ日本人の影響を受けているな。それにしても、「修験者」なんて日本人でもあまり使わない言葉まで、よく勉強している。)と感心する。
「それだ!」とカンナは微笑む。またアニメの名台詞らしい。
「「だから手を取って体の位置を修正してくれた方が理解できる」、と言いたいのですか?」と野口先生。
「ソウ」とカンナはわが意を得たりと、嬉しそうにうなずく。
「異性に免疫のない思春期の青少年には酷ですよ」
蔵人は顔から湯気が出そうなほど真っ赤になってうつむいた。
場が盛り上がり、量があったはずの煮付けは次々に食べられていく。あさ美が悠輔の分を取り分けようとしたときには、蔵人が最後の一切れを口に入れていた。
いつもは悠輔の話が盛り上がって長めになる日本文化同好会の活動が、この日は短めに終わった。
悠輔の補修の方が長くなった。あさ美は終わるまで教室の外で待っていた。出てきた悠輔に、すまなそうに、タケノコがなくなった説明をする。
補習授業がよほど厳しかったのだろう。悠輔は疲れている。タケノコより、あさ美が野口家で何を話したかが気になる、と言う。
悠輔を元気づけたいあさ美は、一所懸命に明るく、いたずらっぽく笑いながら答えた。
「女同士の秘密です」
(続く)




