第一四話
第一四話 泳ぎに行こうよ
八月、東山家。
「お兄ちゃん、せっかくの夏休みだから遊ぼうよ。プール、行こう」
あさ美が悠輔を誘う。
「あのなあ。おまえ、中三の受験生だろ。勉強しなきゃ。」
「だから、こうやって勉強を教えてもらってるんじゃない。これでも我慢してるのよ。本当は海に連れてってもらいたいところだけど、海水浴場に行くと一日がかりになっちゃう。それじゃお兄ちゃんの機嫌が悪くなるから、近くのプール。ね、ちょっとだけ。帰ったらちゃんと勉強するから。お願い。」
あさ美は手を合わせる。悠輔は憮然とする。
「俺のために勉強してるのかよ。」
「そうよ。」
あさ美は平然と答える。
「勉強なんて嫌い。休みの日は遊んでたいわ。遠慮なしにこの家に遊びに来る、頭のいい委員長に対抗するために、お兄ちゃんと楽しく遊びたい。でも、お兄ちゃんは遊びほうけてる子は嫌いでしょ。あたしはお兄ちゃんに嫌われたくない。
お兄ちゃんと同じ高校に行くために、あたしは頑張ってるの。夏休みに入ってから、遊びにも行かず、ゲームもせず、毎日問題集を解いてる。息が詰まりそう。少しだけ、息抜きも必要なの。後の夏休みは勉強しかしないから。」
「勉強しないヤツが、遊ぶ言い訳に『息抜き』とか言い出すんだよな」
「勉強が大好き、読書ばかりで遊びもしないって兄ちゃんが変なのよ。お兄ちゃんこそ、夏休みに入って運動もしてないでしょ? 少しは身体を動かさないと、健康に悪いわよ」
「それは言えるわね。」
美幸が口を挟む。
「この子は放っておくと遊びも人付き合いもしないから。あさ美ちゃん、外に連れ出してね。」
「母さん、何を言い出すんだ。」
「受験生を遊ばせてはいけないという悠輔の言い分ももっともね。だから、悠輔があさ美ちゃんを遊ばせるんじゃない。あさ美ちゃんが悠輔の面倒を見るの」
「また屁理屈を。」
「ゴチャゴチャ言わない。それともお母さんがおまえをプールに連れて行く方がいい?」
「勘弁して」
高校生になって母親同伴はさすがに恥ずかしい。それに、水着の美幸はナンパされる恐れがある。泳ぐどころではなくなってしまう。
「時間を限りましょう。あさって、八月七日の朝から出かけて、午後一時には帰ってくること。守れないようなら、お目付役でついて行きますよ」
悠輔とあさ美はうなずいた。
八月六日、横手高校は登校日。平和授業の名目だが、主な目的は夏休みの生徒の様子見である。長期休暇で不良になっていないかを確認する。おとなしい生徒が集まる校風なので、容姿から問題があると分かるほどの変化がある生徒など、滅多にいないのだが。
一年六組の生徒も,変化といえば、運動部の生徒が練習で日に焼けたくらいだろう。
「よう、悠輔。夏なのに青白いな。どうぜ家で本ばかり読んでるんだろ。たまには外に出ないと体が腐るぞ」
真っ黒に日に焼けた豊が声をかける。進学校だから激しくはないものの、野球部は夏休みも練習がある。
「いや、明日は朝から観海寺ホテルのプールに行く。」
「ほー、珍しいな。あさ美ちゃんとデートだな。」
「デートでなくてあさ美に連れ出されるんだ。」
「それを世間ではデートって言うんだ。
なぜ分かったか? 簡単な推理だよ。おまえが自分からプールになど行くわけがない。しかも安い市民プールではなくてホテルとなれば、女がらみだ。おまえを誘いそうな女で、大胆にも水着姿をさらしそうなのは、あさ美ちゃんだ。」
「似合わん探偵を気取りやがって。」、悠輔は憮然とする
「しかし、名推理ね。確かに、私なら水着はためらうわ。とはいえ、ここで出し抜かれるのもシャクね。」と都子。
「委員長、まさか乱入するつもり?」と豊。
「東山くん、一学期の最後に『夏休みはどこか遊びに行く?』と尋ねたら、『藤沢周平を読むからどこにも行かない。一学期は英語の勉強に時間を取られて、本が読めなかった。』って答えたわね。だから私は遠慮したのに。ちゃっかりプールでデートって、何よ。許せない。」
「委員長、落ち着いて。一昨日までその気はなかったんだ。けど、母さんがたまには運動しろって無理に決めたんだ。」
悠輔があわてる。
「ほう。なら、俺が水泳のインストラクターをしてやろう。」と豊。
「面白がって入ってくるな。」と悠輔。
「だって俺、美幸母さんの味方だもの。美幸さんがおまえに運動させたいって言うなら、協力は惜しまない。」
「わざとらしい物言いしやがって。母さんに言われて仕方ないんだ。」
「美幸母さまを言い訳に使うなど、男らしくないですわね。」
いつの間にか後ろに立っている多喜が声をかける。
「姉さんまで。みんな、来なくていいよ。ホテルのプールって高いし。」
「観海寺ホテルは乙原家と関連がありますから、優待券が何枚もあります。明日、皆さんに入り口でお渡ししますね。」
クラスがざわつく。「乙姫様の水着姿が拝める」「いや、あさ美ちゃんの胸だろうが」「なんと言っても、委員長のスタイルが」「くそ、金がない。誰か貸してくれ」
都子が男子たちをにらみつけて黙らせる。
「これだから嫌なのよ」
翌朝、観海寺ホテルのプールは横手高校の男子生徒で一杯になっていた。女の子たちより先にプールサイドに出た悠輔と豊は唖然とする。スケベ根性でこうも男が集まるのか。
「こうも人が多いと、まともに泳げないな。クロールを教えたかったんだが。」
顔と手だけ日に焼けた豊がぼやく。
「おまえ、本気でインストラクターするつもりなのか?」
全身が青白い悠輔が返す。
「あさ美ちゃんのペースで引っ張り回される方が、普通に泳ぐより体力使うと思うぞ。」
「それもそうだな」、と悠輔はうなずく。
「お兄ちゃーん」、あさ美が手を振りなが駆けてくる。周囲から歓声が上がる。
「プールで走らないでください」と制止する監視員の声を無視して、あさ美が悠輔に取り付く。白のビギニからこぼれそうな胸が弾む。
「おまえ、それ、大胆すぎないか?」
「そうかなあ」と言いながら胸元を治す。周囲の男どもから「おお」と声が上がる。
布地が少なめではなるが、極端なほどではない。胸が張り出しているから、露出が大きく見えるのだ。
「ほら、注目を集めてる」
「他の男の視線なんか、どうでもいいの。あたしが気になるのは、お兄ちゃんが喜んでくれるかどうかだけ。どうかしら?」とポーズを取る。三度声が上がる。
「いや、可愛いよ。似合っていると思う。ただ、この周りの反応が……」
「自分だけのものにしたい? 嬉しい」
あさ美は悠輔に抱きつく。周囲からは歓声と嫉妬の声が上がる。
「だから、嫌らしい男どもにそういうのをさらすのは危ないって。」
「お兄ちゃんが守ってくれるでしょ?」
「守るから。分かったから。」
「うん、あたしはお兄ちゃんのもの。」悠輔に抱きつくあさ美の手に力が加わる。
「分かったから、離れろって。衆人環視で、さすがにまずい。」
「うん。続きは二人きりになってからね。」
「誤解を招く発言をするな。」
「あのー、この場でそういう親密な行為は遠慮いただきたいのですが。」、近寄ってきた監視員が声をかける。
「すいません。よく言って聞かせますから、お許しください」
悠輔が何か言うより先に、後ろから来た多喜がわびる。
「あさ美、悠輔に運動させるのでしょ。遊ぶつもりなら、わたくしが替わりますよ。」
多喜は水着でも姿勢の良さが目立つ。すらりとした四肢、後ろにまとめた長髪が美しい。
「スクール水着だ」「美しい」「水辺だから本当に乙姫様だ」と声が上がる。
「水泳なら、私が」と都子。
ごく平凡なワンピースの水着。健康的で均整の取れたプロポーションが、これまた男たちの注目を集める。都子は居心地が悪そうにもじもじする。
「この視線の中、乙原先輩はよく平気ですね。」
「平気ではありません。不安な態度を見せると殿方は余計に注目するので、無視しているのです。そんなことより、悠輔を泳がせる工面をしなくては。」
「あたしがお兄ちゃんの手を取って、バタ足させる。」
「そんな恥ずかしいことできるか。ちゃんと泳げるわい。」
「いや、悪くないアイデアだ。悠輔、おまえのことだから基本からやり直した方がいい。その前に準備運動だ。よーし両手間隔で整列。」
「おまえが仕切るな。」
そう言いながら悠輔は豊の前に立つ。三人娘もそれに続く。
両手を広げる女たちにスマホをかざして撮影しようとする男たちが続出する。それを制止する警備員と逃げようとする男とでプールサイドは混乱する。
「プールでの撮影は禁止です。盗撮する方は出て行っていただきます。」
警備員が叫ぶ。ホテルの従業員が応援に駆けつけて撮影をやめさせる。
「支配人さんは入場者数が増えたと喜んでおられたけど、ご迷惑をかけましたわ。悠輔、後で一緒にお詫びに行きますね。」
ラジオ体操をしながら多喜が言う。
「何で俺が?」
「顔つなぎです。このホテルの書庫には、古い資料が沢山あります。大正年間の国勢調査結果とか、あなた、読みたいでしょ?」
「なんでそんなものが、こんな田舎のホテルにあるの?」と悠輔。
「そういう歴史があるホテルなのです。」
「そうやって、物で東山くんを釣る。--先輩、このホテルのこと、詳しいのですね。」と都子。
多喜は軽く笑い声を上げる。
「わたくしにも、ここは商用、会合、人脈と、色々便利なのです。あなたも行きます?」
「支配人さんは父の知人ですから、先輩の紹介がなくても会えます。資料室の話は、顧客誘致の話のときにでも、私からお願いできます。」
「そういうドロドロした大人の商売の話に、お兄ちゃんを巻き込まないで。」
「そうね。悠輔を運動に連れ出した功績を尊重して、今日はあさ美の言うことを聞いてあげる。都子さん、よろしくて?」と多喜。都子も承諾する。
「あの-、俺は大正の資料を見たいんだけど。」
「悠輔、手をちゃんと伸ばして振れ。準備運動でだらけるんじゃない。」
豊に言われ、話はそれきりになる。
「よーし、準備運動、終わり。プールに入って。悠輔、バタ足の練習だ。」
「本当にやるのか?」
「四の五の言わない。手を前に出して、足を伸ばす。」
悠輔は顔を水に付け、真っ直ぐ身体を伸ばす。下を向いたままの悠輔の手が眼前に来た都子は、おずおずと手を取ろうとする。
「それは私の役目!」あさ美は都子を押しのけて、悠輔の手を握る。
「こりゃ、収まらないな。よし、交代制にしよう。一〇分で休憩、あさ美ちゃんの次は委員長、その後に生徒会長の順番でどう?」
「豊、仕切るな。代わる代わる手を引いてもらうなんて、俺は幼稚園児か。」、水から顔を上げた悠輔が憮然とする。
「では、誰の手を握りたいか選びなさい。」多喜が意地悪く微笑む。
「……一人で泳ぐってのは?」
「ダメです」「だめよ」「だめ!」三人が異口同音に即答する。
「豊の言うとおりにします。」
「よーし、キリキリ泳げ。」
豊の指導は本格的だった。足首を伸ばせ、もっと強く、身体を曲げるな、等々、容赦ない指示が飛ぶ。女子の水着姿を愛でる余裕など無い。美幸と約束の時間が来て、プールを出る頃、悠輔はふらついた。
「豊、酷いじゃないか。」と疲労した悠輔は愚痴る。
「三人に曖昧な態度を取ってるおまえが悪い。」と豊はすまし顔。
「まるで遊べなかった」とあさ美は膨れる。
「こうも人目に肌をさらすのは、やっぱり苦手。でもあさ美に東山くんを取られずに終わって、ほっとした。」と都子。
多喜は微笑んで何も語らない。