第一二話
第一二話 委員長の家出
その夜、東山家の玄関ベルが控えめに鳴る。
玄関を空けた美幸に、制服のままの都子が、大きなスーツケースと学生鞄を投げ出して抱きつく。
「美幸母さま、ごめんなさい。母が失礼をしました。ここまで愚かだとは思いませんでした。もう、あんな家にいたくありません。お願いです、この家の子にしてください。美幸母さまの言うことは何でも聞きます。この家にいさせてください。」
「また、極端ねえ。」
当惑した美幸は都子の頭をなぜる。そこに悠輔が顔を出す。
「委員長、この家、そんなに広くないから、寝る場所もないよ。」
何をボケたことを言ってるんだと美幸が思うまもなく、都子は悠輔に抱きつく。
「東山くん、ごめんなさい。母の言うことなんて気にしないで。私が東山くんを好きなの。この家にいさせてくれれば、私の居場所なんてどこでもいい。東山くんのベッドで寝る。」
女の子の柔らかい感触と甘い匂いにクラクラした悠輔は思考が止まる。
「いや、俺、ベットじゃなくて布団で寝てる。」
「漫才やってる場合か!」
美幸は悠輔の後ろ頭をはたく。
「都子ちゃんも、悠輔から離れなさい。あなたって、子供っぼさと大人びたのが一緒くたね。いつまでも抱きついてると、押し倒されるわよ。」
「いいけど……」
都子はか細くつぶやく。悠輔の理性が飛ぶ。
「だめ。こら、悠輔、抱きしめ返すんじゃない。都子ちゃん、悠輔の顔を見なさい。」
美幸は都子の頬に両手を添えて、上に向ける。呆けた悠輔の顔がそこにある。
「分かった? 都子ちゃん、冷静になって優秀な頭脳を働かせなさい。これが男の本性よ。」
「悠輔も、一時の感情で不安定になった女の子に付け込むようなことしたら、おまえといえど許しませんからね。」
悠輔はコクコクと頷く。美幸は都子の手を取る。
「とにかく、上がりなさい。」美幸は都子を応接間に導く。
「悠輔、都子ちゃんの荷物を運んで。」
悠輔には語気が荒い。
「座って。酷い顔よ。美人が台無し。さあ、涙を拭いて。いま、お茶を入れるから。」
椅子に座らせて涙を拭う。
美幸に差し出された湯飲みを、都子は両手でいだく。熱いお茶を少しずつ飲んでいく。
「落ち着いた? なら、何があったか教えてちょうだい。悠輔は荷物を置いたら、自分の部屋に行ってなさい。」
「俺だって、委員長が心配なんだけど。」
「学校の外まで、委員長、委員長って。あんないらやしい目つきで抱きしめた女の子を役職で呼ばないで。」
「怒るとこ、そこ?」
「悠輔、ここは女同士で話をさせて。自分の部屋に行ってなさい。」
悠輔はスゴスゴと引き下がる。
「あれも男だからねえ。美人を見るとデレデレしちゃって。都子ちゃん、愛想が尽きた?」
「いいえ。いきなり抱きついた私も悪かったです。東山くんはデレデレなんかしてない。他の下品な男たちと違って、日頃は真っ直ぐに私を見つめてくれます。その視線が好きなのは、ちっとも変わらない。本当は、さっき、ちょっと嬉しかった。東山くんも私を女としてみてくれてるんだって。」
「揺れ動く乙女心ねえ。まあ、今日はその話は置いときましょう。で、情緒不安定な都子ちゃん、家で何があったの?」
「母がどこかで、東山くんと私の噂を聞いたようなのです。短絡的な母は思い込みで美幸母さまと東山くんを悪者にして、この家で悪口雑言を吐いてしまいました。さぞ、腹が立ったでしょうね。本当にすいません。
どんなに失礼なのか、母は分かっていません。自慢げに私に言うのです。『悪い虫に、もう近づかないよう言ってやったって』。
以前から、母には問題がありました。会社を成功させたのは父の手腕です。なのに母は自分の手柄だと勘違いしています。むしろ考えなしの言動が父や会社の役員を困らせているのに気づかない。救いようのない愚か者です。父も父で、仕事ばかりで家庭を顧みなくて、母を諫めることすらしない。だから母は増長するばかり。
ウンザリです。今日の一件で愛想が尽きました。あんな愚かとわがままばかりの家にいたくない。
美幸母さまが本当の親だったら、どんなに嬉しいか。聡明で、機知に富んで、明るくて美人。料理まで上手。お願いです、この家に置いてください。娘だなんて贅沢は言いません。下女でかまいません。何でもします。家賃も働いて納めますから。」
「都子ちゃん、あなたのように賢い子が誉めてくれて嬉しいわ。でも、自分の親をそんなに悪くいうものじゃない。思い込みの猪突猛進だったけど、お母様はあなたを思ってしたことなのよ。悠輔も私も、ちっとも怒ってないから安心して。
腹が立ったからと言って、家を飛び出してはいけない。今頃、ご両親はどれほど心配されていることか。生み、育ててくれた親の恩を忘れてはいけない。お母様の足りないところは、あなたが助けてあげなきゃ。賢いあなたならできる。
おおごとになる前に、家にお帰りなさい。お父さんとお母さんには、うまく取りなしてあげるから。」
「美幸母さま、深い慈愛に心が洗われるようです。私、美幸母さまに一生ついて行きます。でも、こればかりは聞き入れられません。」
「どうしても?」
「どうしてもです。」
「仕方ないわねえ」。美幸は溜息をつく。
「悠輔!」
呼びつけられた悠輔が、不満げに、のそのそと応接室に入ってくる。
「そんな顔しない。悠輔、都子ちゃんを抱きしめといて」
「へっ?」
「いいから。もっと腕を回して。動けないくらいに強く。」
美幸はスマホを取り出し、電話をかける。
「どこに?」、顔を真っ赤にした都子が尋ねる。
「あなたのお父さん」
「ひどい!」都子が暴れる。
「父は話し合いが通じる相手じゃない。威圧して人を従わせるヤクザのような男です。」
「知ってる。でも、お母様よりは会話が成立するでしょ。」
美幸に言われ、都子の動きが止まりかける。
「悠輔、もっとちゃんと押さえる。口もふさいで。」
電話が繋がる。
「夜分、恐れ入ります。東山の妻です。神楽女さん、ご無沙汰しております。実はですね、おたくの御嬢様がこちらにいらっしゃってまして。高子さんと喧嘩したとかで。
急にいなくなって心配していらっしゃるでしょう。きちんとお預かりしております。
ああ、ちょっとドタバタしているのは気になさらないで。はい、大丈夫です。」
美幸は通話を終えてスマホをしまう。
「お父様、すぐに来るって。悠輔、もう口はいいわよ。でも、逃げないように押さえといてね。ここで都子ちゃんを逃がしたら誘拐犯になるから。」
「どういう理屈だ」と悠輔。
「父はそういう男です。逃げませんよ。こうなったら父と話をします。東山くん、放して。」
「ほんとに逃げない? 委員長。」
「だから、委員長と呼ばないでって。」
間近で都子にらみつけられた悠輔は、思わず力を緩める。
一〇分も経たず、運転手付きの黒いプリウスが東山家に滑り込んだ。