第一一話
第一一話 母親たちの独白 その三 神楽女高子
東山家の夕方、けたたましく玄関ベルが鳴らされる。慌ててドアを開けた美幸に、来訪者が挨拶抜きでまくし立てる。
「あなたは息子にどういう教育をしているのですか。うちの娘を誘惑して、金でもせびるつもりですか、あさましい。」
いきなり何を言い出すのだと呆れる美幸は、ヒステリックに叫ぶ女が都子の母、神楽女高子だと思い出した。神楽女観光のパーティーで、神楽女社長の横に着飾った夫人がいたのを見た。その時のすました立ち居振る舞いと、興奮した今とは随分と印象が違うので思い出すのに時間がっかった。悠輔が都子に悪い遊びでもさせているのだとの勘違いから、この人は怒っているのだと思い至るのに更に時間がかかる。
神楽女観光の夫人は娘を溺愛していると聞く。高子は、幼い頃から美形の都子を会社の広告塔に使おうとしていた。業界の一部だけとはいえ、都子はアイドルのようになった。パーティーで都子を見たさにやって来る取引先もいたほどだ。
アイドルには迷惑なファンも現れる。たまたま一人になった都子を、魔が差した男が誘い出そうとした。穏便に済ませれば、大したことにはならなかっただろうに、男が都子の手を取って歩くのを見て、狂乱した高子は大騒ぎして事を大きくしてしまった。以来、都子に近寄る男を極端に不審の目で見るようになった。結果、都子の男性不信を酷くしてしまった。
この騒動で直接的な被害はなかったものの、神楽女観光のイメージダウンは計り知れない。業界では、神楽女観光の夫人は、特に娘のことでは情緒不安定だと言われている。
美幸がそれを思い起こしている間も、高子は叫び続ける。
「純真な娘を騙そうとしても、そうはいきませんよ。あなたの企みは見抜いてます。」
「玄関先ではなんですから、どうぞ中にお入りください。」
息継ぎの間が空いたすきに美幸は静かに応じる。玄関先ではやかましくて近所迷惑だ。
反発してこない相手に虚を突かれた高子の動きが瞬時止まるが、すぐに立て直す。
「ええ、上がらせていただきます。」
案内も待たず、ずかずかと廊下を進む。さして広くもない家の応接間に入り、椅子に座ると、更にまくし立てる。
「うちは事業で忙しいので娘の教育がおざなりになっているとでも思ってるのでしょう。人を馬鹿にして、酷いことしますね。」
なにごとかと悠輔が二階から降りてくる。顔を出すなと美幸は目配せするが、悠輔には通じない。
「あなたね、うちの娘を誘惑して。どういうつもりなの。」
何のことか分からず、悠輔は戸惑う。
「だれ?」、と美幸に問う。
「神楽女高子さん。都子、さんのお母さん。」
都子を「ちゃん」付けで呼ぶと、更に高子の感情が高ぶるだろうと、「さん」付けにした美幸の気遣いを、高子がさっするはずもない。まだ名乗ってもいないのに、一方的に相手を糾弾する非礼にすら気づかない。
「誘惑? 僕が? 委員長を?」
倒置法と疑問符を重ねた、分かりにくい悠輔の言葉を、高子は別の意味で取り違えた。
「とぼけるつもり!」
高子の絶叫に、母子は耳を押さえかけた。あまりの理不尽を感情的にぶつけられると、怒りよりも当惑が先に立つ。
あきれ果てて言葉を失った美幸と悠輔の態度を、反論できないのだと受け取った高子は、勝ち誇って叫び続ける。ようりょう悪く、同じ内容を何度も繰り返す。
母子は目配せし合う。こりゃ、口を挟まない方が得策だな。そうね、こういうタイプは言うだけ言ったら気が収まるでしょうから、黙って聞いている方がいいわ。
それが高子を更に激高させる。
「聞いているの!」
「はい、聞いております。」
美幸は下を向いたまま、できるだけ感情を表さないように答える。悠輔もそれに習って下を向く。
糾弾は五分ほど続いた。流石に高子の息が上がる。
「分かったようなので、今日はこれくらいしてあげます。二度とこんなことが無いように、注意してください。」
言い放つと高子は立ち上がり、そのまま出て行く。母子は下を向いたまま、見送りもしない。その様子を反省と受け取った高子は、満足げに玄関から出る。
「行った?」と悠輔。
「待ちなさい、思い直して帰ってくるかもしれない」と美幸。
けたたましい排気音を鳴り響かせ、東山家の玄関前からベンツが出て行く。
「もう、大丈夫みたい。悠輔、念のため外の様子を見て。」
悠輔はそっと玄関を空けて周囲を見回す。
「いないよ。」
母子はお互いを見つめ、爆笑する。
「俺、委員長に媚薬でも飲ませたの?」
「私が悠輔をそそのかして神楽女観光の金をせびるって、ふっ飛んだ発想、笑いを抑えるの大変。」
「俺も、吹き出すの必死で我慢した。」
母子はしばらく笑い続けた。
笑い事ですまなかった。その夜、都子が家出して、東山家にやって来た。