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はっとして立ち上がった。
いい匂いがする、と思ったら、テーブルにご馳走が並んでいる。娘達――おばさん達は、侍女って云ってた――は居ない。かわりに、怪訝そうにつったっている陛下が居た。
金の糸どころか、糸巻きはひとつもなくなっている。エーレはあおくなって、四辺を見た。「糸が……」
「落ち着きなさい」
陛下が威厳たっぷりに云うと、エーレは動きを停め、ぎくしゃくと陛下へ向き直った。
陛下は傷跡を動かさないように喋っている。
「お前が紡いだ金の糸なら、侍女達に運ばせた。さめないうちに食事をとりなさい。疲れたろう」
思いがけない労いの言葉に、エーレはしばし、呆然とした。陛下はじれったくなったか、エーレの腕をとって席に着かせる。「ほら。お前の好物のチーズもある」
陛下は云いながら、向かいの席に着く。たしかにテーブルには、黄金色や白や焦げ茶や、様々な色合いのチーズが用意されていた。後はパンと、ぶどう酒、野菜のスープだ。食べものかどうかもわからないものは並んでいない。
エーレは顔をしかめた。二代目の糸車がなくなっている。
陛下はチーズを掴んで、かじった。「わたしはチーズはあぶったほうが好きだ」
子どものような口調だ。エーレは思わずにやっとしてしまい、慌てて顔を伏せた。陛下の言動を笑うなど、どのような罰があるかわからない。
だが、陛下はふっと笑った。「お前も笑うのだな」
「……あの」
「一日ぶりに声を聴いた」
エーレは言葉をのみこみそうになったが、云う。「金の糸を紡いだのはあたしじゃありません。糸繰り女達が」
「それ以上はいい」
陛下は遮って、ぶどう酒をなみなみ注いだゴブレットをエーレの前に置いた。エーレはゴブレットを掴み、ぶどう酒をすする。どうやら、陛下はあの糸繰り女達のことを知っているらしい。金の糸を紡いだのはあたしじゃないんだから、怒るかと思ったのに……。
陛下は咳払いした。
「名も伝えていなかったな。わたしはレヒトという。半年前に国王の座に着いた」
エーレは小さく頷く。そうか、子どもが居る国王は、ひとつ前のひとだったんだ。このひとは、半年前まで王子さまだったのね。
陛下はひょいと、エーレをゆびさした。エーレはびくつく。「……なんでしょう」
「お前の名は知っている。だが、それ以外はほとんど知らない。身の上話を」
エーレは口を噤んだが、すぐに喋りはじめた。
田舎の炭焼き職人の娘に産まれたこと。
母親は糸紡ぎが得意で、自分もそれを手伝っていたこと。
兄が大酒を飲むようになって、厄介が絶えないこと。
両親は五年前の雪崩で死んでしまったこと。
糸車を兄の厄介ごとの為に失ったこと。
それ以来、大柄だし体が丈夫で力もあるので、男にまじって荷運びをしていたこと。
「荷運びを?」
「はい」
喋っているうちに口が滑らかになってきて、エーレはもう口ごもることはなくなっていた。陛下は口をはさまず、真剣な様子で話を聴いてくれるので、エーレも喋りやすかったのだ。
陛下は金と銀の髪をぐしゃっと握った。
「女が?」
「はい。あたしにできる仕事で、一番、割がいいんで」
「わたしは荷運び人足を妻にするのか」
それは嘆いたりさげすんだりする調子ではなく、面白がっているような調子だった。
エーレはからになったゴブレットをテーブルに置く。かつんと、テーブルが音をたてた。陛下はスープの器を持ち上げて、中身を飲んでいる。
「陛下、おたずねしたいことがあるんです」
「……なんだ?」
「どうしてあたしみたいな娘をめとろうとなすってんですか。お姫さまがたが幾らだっているってのに」
「そのように定まっているのだ」
「さだめ?」
「わたしには呪いがかかっているんだよ、可憐な荷運び人足さん」
口をぽかんと開けたエーレに、陛下は云う。
「ところで、昨日、わたしに向かって舌を出したな? エーレ」
エーレは意味がわからなくてきょとんとしたが、思い出して息をのんだ。
「あ……申し訳ありません」
「いや、いいんだ。こんな傷のある男はこわいだろう」
「いえ」
「嘘はいい」
「嘘じゃありません。それくらいの傷のあるひとは、めずらしくないです」
「これが?」
「はい。あのう、きのうは疲れてて、あたしそれでつい、にくったらしい真似をしちまったんです。すんません」
実際のところ、戦で敵兵にやられただの、闇夜で怪物に襲われただの、酒場で喧嘩してできただの、様々な理由でその程度の怪我を負っている男は幾らでも見てきた。その理由が嘘だろうと本当だろうと、エーレにとっては見慣れた、そうめずらしくもないものだ。
ここ数年、散発的に他国との戦は起こっている。その度、村の男達が何人か徴兵されていくので、一番順当な理由はそれだろうと思い、エーレは云った。
「戦で怪我なすったんでしょう? 陛下ってのも、大変なんですね」
「……いや」
陛下は頭を振った。「この傷の由来については、今度話そう。楽しい食事をありがとう、エーレ」