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ばかでまぬけで愚かな兄は、今日も今日とて稼ぎのほとんどを酒に費やそうとしていた。牛のことがあって、まだ農園に金を返しているから、給金をもらったらすべて持って帰るように云っているのに、兄はそれをまもらなかった。
その結果がこれだ。
「お嬢さん、まだ痛むかな」
「いえ……」
エーレは頭を振る。彼女は馬車のなかに居た。一緒に、立派なマントの騎士も居た。
包丁で傷つけた指には、布を巻いてある。エーレが着ている粗末な服よりもずっと上等な布だ。おまけに、傷口には軟膏まで塗ってあった。
ことの顛末はこうだ。
兄は給金を手にした帰り道、呑み仲間達と酒場へくりだした。稼ぎを妹に渡すというなによりも優先すべきことは、おそらく忘れていたのではなくて、そのからっぽの頭にはそもそもはいっていなかったのだろう。
当然あのばかでまぬけで愚かな救いがたい兄は、酒場で馬の合わない若者とやりあった。酔って喧嘩するのが大好きな連中しか、酒場には居ない。
喧嘩の相手が、自分の祖父の姉だか、祖母の妹だか、とにかく遠いじいさんばあさんの姉妹が、その時代の領主に嫁いだと自慢した。それに比べてお前の家は代々農民で、名が残るような人間はひとりも居ない、と。
ばかでまぬけで愚かで救いがたくどうしようもない兄は、かっときて余計なことを云った。俺の妹は金の糸を紡げるから、王さまだって放っておかない、今に都から使者が来て、妹をつれていく、と。
普通なら、酔っぱらい同士のくだらない喧嘩のこと、誰の耳にはいろうが問題はない。誰のじいさんが領主に嫁いだって関係ない。一笑に付されてお仕舞である。
ところが、今週に限っては問題だった。なんの使命があるのかは知らないが、この近辺に国王が騎士を数人派遣し、その騎士と騎士に従う兵達が大勢、うろうろしているのだ。
兄にとっては不運なことに、その酒場にも、一息いれようと酒を飲みに来た騎士達が居た。
兄にとって不運であり、エーレにとっては命とりなことに。
騎士達は兄の言葉を聴き、それはまことかと訊いてきた。兄はばかだし、騎士達はサーコートも鎧も着ておらず、騎士に見えなかった。それで兄は、嘘に嘘を重ねた。酒臭い口で嘘をまき散らした。そうだ、妹は凄いんだ、今だって亜麻さえありゃあどれだけだって金の糸を紡げるんだ、と。
なにが凄いもんか。二年前に糸車はなくなっちまったじゃないか。兄ちゃんが酒場で喧嘩して、相手がなにか金目のものを寄越せって云うから。
エーレはドレスのスカートを握りしめ、歯をくいしばっている。
隣家の若旦那が兄の愚行を報せてくれた直後に、衛兵達がやってきた。衛兵達の目的はエーレだった。金の糸を紡ぐ娘を騎士さまが所望だと云って、エーレが口をきけないでいるうちに、まるで罪人でもひったてていくみたいに馬車に詰め込んで領主の館まで運ばれた。
魔法でもあるまいし、そんな凄い力があったらとっくに貧しい暮らしからぬけだしている。そんなこともわからないんだろうか、このひと達は。
どうやらわからないらしい。
館で待っていた騎士達は、領主の館の女中達が急いで風呂にいれ、なんとか体裁を整えたエーレに、都まで来るように云ったのだ。まだ包丁で切った指から血がとまらない彼女に簡単に治療を施して、馬車に無理にのせた。エーレは無理にのせられたと思っている。少なくとも彼女は承諾してはいなかった。