1
エーレの人生はその日まで平穏だった。
正確には、隣家の若旦那が血相変えて駈け込んでくるその日その時までは。
ひからびたようになっているねぎと人参で、スープをこしらえようとしていた彼女は、叫び声がするので顔を上げた。そのままねぎを、手のなかで器用に切っていく。なんだろう? また兄ちゃんが喧嘩でもしたんだろうか。それとも、ろくでもない女に手を出して、ひどい目にあったんだろうか。あんなやつでも一応働き手だから、もっと騒ぎがひどくなるんならあたしが停めに行かなくちゃならない。借金が……。
ぼんやりとそんなことを考え、エーレは鍋のなかにねぎをすべていれてしまった。後は人参を切るだけだ。適当に煮て、お椀に一杯でも食べれば当座は保つ。
人参をとりあげたところで、隣家の若旦那が髪を振り乱してやってきた。「エーレ、大事だ」
「はあ……」
隣家の若旦那はエーレよりも二歳下だが、図体は大きい。勝手口につっかえたようになっている。エーレは、普段挨拶くらいしかしない若旦那がやってきたので、驚いた。それから、そのひとが兄の呑み友達だと思い出した。
思わず顔をしかめる。「兄ちゃん、領主さまの馬にいたずらでもしちまったんですか」
兄はまったくもってどうしようもない人物なのだ。その手の話には事欠かない。娘っ子達をくだらないいたずらでおどかしただの、泥水を酒と偽って売ろうとしただの。
つい最近も、酔った揚げ句に近所の農園に忍びこんで、牛を囲う柵を破壊した。その為に、家財道具を幾らか売り払ったので、今この家にはテーブルと椅子くらいしか家具がない。あの農園の連中は、持って行けるならこの家だって持っていっただろう。
兄は自分以外にも何人か、仲間が一緒に居たんだと云っていたが、逃げ足が遅い人間が文句を云えることではない。自分が鈍だとわかっていたら置いていかれてひとり捕まるようなことはしないから、要するに兄は自分を俊敏な人間だと誤解しているのだろう。
こんなことはなんでもない。これ以上ひどくなるなんてことはないんだから。
しかめ面のエーレに対し、隣家の若旦那はまっさおな顔で喚いた。
「そんなことじゃない、衛兵に捕まったんだ。騎士達に」
エーレは誤って指を切った。