傷口~1800年後のあなたへ~
傷口
――傷口には触れないで。
そんな言葉が聞こえた気がしたのは気のせいだろうか。
彼が口に出して言ったことはない。それをいいことに私は彼の傷口ごと、彼のすべてを食らいつくす。甘い言葉で誤魔化して。優しくするふりをして。
彼の心の最奥にぽっかりと穴をあける傷口。そこは今も血を流し続けている。触れれば電流のような痛みが走るのだろう。苦しげな顔と切なげな吐息が私を狂わせる。分かっていて私はあえてそこに口をつける。舌で舐め、愛撫し、愛していると毒のような言葉で撫でさする。
「あ…そこは……」
拒絶の気配が漏れる前に唇を塞ぎ、私は彼ににっこりと笑いかけた。
「何も考えなくていいんですよ」
何も思い出さなくていいんですよ。
1800年前の中国での出来事など。あなたが蜀の皇帝であったことなど。私が軍師であったことなど。かつてあなたの心に消えない傷を残した男がいたことなど。
彼に劉備玄徳であった頃の記憶はない。
彼を見た時は驚いた。最初は私も自分が何に驚いたのか分からなかった。徐々に記憶がよみがえったのは彼と過ごすようになってからだ。共に駆け抜けた戦場、過ごした日々、諸葛亮として生きた記憶を思い出すのに時間はかからなかった。
今度こそ離れない。だから……
――傷口には触れぬのか。
恍惚の中に切なげな顔を見せる彼に、私は心の中で問いかける。
私は最初からお前を知っていた。ずっと待っていたのだ。年下のお前が私に会いに来るのを。
1800年も待たされるとは思わなかったぞ、孔明。
私を見た時のお前は驚いた顔をしていたな。何故自分が驚いたか分からず戸惑っていた。お前にも意外に可愛いところがあるのだな。
ようやく会えたのに。お前は私の心の一番深くまでは入ろうとしない。どこか苛立たしげに嬲り回すだけで、奥に誰がいるのか見ようとしない。傷口を暴いてほしいのに。誰にも見せたことのない領域を、お前になら見てほしいのに。
どうしてそんなに切ない顔をするのだろう。
想いを伝える術はなかった。