似た者同士の白と黒
「んっふふ~」
「……」
笑顔でこちらをじっと見つめるミナ。
頭頂部にある耳をぴこぴこと小刻みに動かしながらのそれは、とても愛くるしい仕草に思えるはずであったが。
俺もそろそろ学習し始めていた。
……このテの違和感は、確実に悪いことが起こる予兆であると。
「な、なんだミナ。聞きたいことって……あっそうだ! そうそう、こいつもやっと分かってくれたみたいでな。どうやら俺たちここから無事に出られ――」
「そんなことはどうでもいいのね?」
開かれたミナの口からは鋭い犬歯が覗いている。
先ほどは艶めかしさすら感じたというに、こと今回に至り、全く逆の印象を受けるのはどうしたことか。
「ご主人? そのひとはさ、ミナだけじゃなくて、ご主人にもひどいことをしようとしてたんだよね? なのになんで、今みたいなことをしてたのかな? しかもご主人からだったよね? ミナはね、とっても不思議なのね? 説明してほしいのね?」
……どうやらミナはここまでの一部始終をすっかり見ていたようだ。
意識も朦朧としていたはずだが、目を離したすぐ後にでも回復したということか。
「そ、それはだな、ミナ。もちろんこれにはのっぴきならない理由があって」
「ふぅ~ん? そうなの。どういう理由があったらいきなりちゅーするなんてことになるのかなぁ?」
俺は底冷えするような冷気に身を震わせる。
おそらくこの寒さは、ミナから発されているものだろう。
「あ、いやその……お、おいラピスッ! お前からも何か――」
ミナからの圧に耐え切れなくなった俺はラピスに話を振ろうとしたが。
「ご主人?」
「は、はいっ!」
その試みはあえなく中断される。
まるで臓腑までも凍り付かせるような、絶対零度の冷たさを持った声だ。
「ミナはね、ご主人に聞いてるの。……あれれ、どうしたのご主人。お顔がとっても青いのね? 大丈夫?」
……一体、どういう塩梅なのだろう。
こうした心配の言葉すら、不穏なものを伴って伝わってくるのは。
「く……くっふふ……」
「「?」」
――と。
俺がそうして窮地に陥っている中、不意に笑い声が聞こえてくる。
その発信源は、言うまでもなくラピスである。
先ほどまでの蕩けきった表情はどこへやら、別人のように小憎らしい笑顔を張り付けたラピスが口を開く。
「いやいやぁ、残念じゃったのうこむすめぇ~? 貴様の思う通りにことが運ばずにのう?」
「……」
言葉をかけられたミナもまた、表情を一変させる。
目を細め、眉を寄せたその顔付きは、明らかにイラつきを隠し切れない様子だ。
そしてそんな彼女の表情の変化は、更にラピスを調子に乗らせる結果となったようである。
「くふふふ、貴様如きこむすめがわしと張り合おうなど、土台無理な話というものよ。貴様の小賢しい術も、どうやらわしとこの男を結ぶ糸を切ることは適わなかったようじゃな? なんとも残念なことよのう~?」
コアラのように身体ごと抱き着かせている今、ラピスの顔は俺のすぐ目の前にある。
よって、こうしてミナを思うさま煽りたてている彼女の表情もまた、非常によく見えた。
そして思う。
なんという腹の立つ顔をするのか、この死神は――と。
自分に向けてのものでないと分かっていてもそう思うのだ。ミナの憤りたるや、如何ばかりか。
「そんな貴様に対し、多少の哀れさを感じぬこともない。加えて慈悲深き我が君の意向により、命だけは助けてやるゆえ、さっさと去ぬるがよいぞ? 負け犬らしく――いや、狐であったか? まあどちらでもよいわ。さっさとせい、ほれほれ」
実際は豆腐メンタルのくせに、人を煽ることにかけては一丁前である。
そうした嘲りに満ちたラピスの言葉を、ミナはじっと黙って聞いていたが。
「――うおっ!?」
突然シャツを引っ張られ、俺は危うく後ろに倒れ込みそうになる。
俺は首だけを後ろに回した姿勢でミナと対峙していたため、彼女に背を向けた形になっていたのである。
なんとか踏み止まり、空気椅子のような苦しい状態で静止する俺の顔の上へ、ぬっとミナの顔が覆い被さる。
「ご主人」
もはやミナは笑顔すらも消し、何の感情も浮かべぬ真顔となっていた。
「ご主人。ご主人は言ってくれたのね? ミナを飼ってくれるって。ずっと一緒だって。あの言葉は嘘じゃないのね?」
「あっ、いや、それはもちろん」
「じゃあ聞くのね。――ミナとそのひと、どっちが大事?」
「え゛っ……」
俺は言葉に詰まってしまう。
是と答えても、また非と答えても、いずれにせよ大火を被ることは確定的な質問であったからだ。
答えに窮していると、またもラピスからの横槍が入る。
「まったく往生際の悪いことよ。ほれ、優しい我が君が困っておるではないか。素直に答えれば貴様が立ち直れぬと分かっておるゆえな。いい加減諦めい」
「……あなたには聞いてないのね?」
「ほぉ~う? まだそんな目が出来るとは見上げた根性じゃ。あれほどこてんぱんにされておいて」
「ミナは負けてなんかないよ? おばあちゃん、年の取りすぎでボケちゃってるんじゃない?」
「お、おいお前ら……」
俺の頭上で、二人の交差した視線が火花を上げるのが見える。
二人の性格は真反対とばかり思っていたが、ある意味ではこの両者、似た者同士ではないのかという考えが頭をもたげてくる。
……勘弁してくれ。
声にならぬ俺の絶望などいざ知らず、二人の言い争いは尚も続く。
「くかか、何を言おうが我が君の心はもはや定まっておる。貴様も見たであろう? 人目も憚らずわしとの子作りに励むリュウジの姿をな。あれこそ言葉以上にモノを言う証左というものよ。どうじゃ、ぐうの音も出るまいが」
「……」
とここで、ミナの表情がまたも変化を見せた。
それまでの敵愾心の塊といった様相から、若干だが呆けたような顔つきになっている。
「……ミナを馬鹿にしてるの? からかってる?」
「はん? 何を言うておるのじゃ貴様は。ショックのあまりここがいかれたか?」
「……」
再びの沈黙を挟んで。
「ふぅん、そう……。からかってるわけじゃ、ないんだ……ふふ……」
「……なんじゃ貴様、なにが可笑しい?」
「ううん、なんでもないの。――ご主人っ」
「え?」
再び俺へと目を向けたミナの顔は、いつもの屈託のない笑顔に戻っていた。
「じゃあ、そろそろ帰らない?」
「え、へっ……?」
「あなたもね。今回は引き分けってことにしようなの」
「貴様、何故貴様が仕切って――」
どういう風の吹き回しか?
まるで悪い憑き物が落ちたかのように、ミナは声までも明るく転じさせている。
しかしいずれにせよ、これはまたとない機会である。
ミナかラピス、両者のうちどちらかが折れねば、二人の言い争いは永遠に終わりが見えないところだった。
また妙な空気になる前に、このまま良い流れを持っていきたい。
よって俺は、ラピスの言葉を遮る形で二人の会話に割り込む。
「いい加減にしろお前らっ! この姿勢、マジで辛いんだぞ! それに言っただろラピス、もう本格的に膀胱が限界なんだよっ!」
「む……」
「ほらほら、ご主人もこう言ってるの。それともあなたの代わりにミナがご主人を連れて帰ろうか?」
「なっ……その必要はないっ!」
ミナの言葉が最後の押しになったのか、ラピスは俺からやっと離れると、いつしか見た例の扉を出現させる。
「この扉をくぐれば元の山道に出るでな。ただこうして出現させておるだけでもかなりの力を使う。さっさと通るがよい」
言うや否や、扉の向こうへと消えていってしまう。
そして、俺もラピスに続かんと足を踏み入れた、その時。
「ご主人」
「――ん?」
ミナの声に振り向けば、この上もない笑顔を浮かべた彼女の姿が目に入った。
俺はもう、ほとんど扉を完全にくぐる直前であったが。
彼女の続く言葉はしかし、この上ない明瞭たる響きをもって俺の耳へと届いた。
「ミナはね、ほんとのこと、知ってるからね。続きはミナと――……ね?」
扉から出た際、ラピスに怪訝な顔でもって迎えられたことは言うまでもないだろう……。