篭絡の道しるべ
ままよとばかり、俺は勢いに任せ彼女の唇を奪った。
「!!?」
ラピスはこれでもかという位に目を見開き、身体は石の如く硬直させている。
今、自分の身に何が起こったのか、驚きのあまり把握し切れていない様子だ。
気持ちは分かる。俺もまた、そうであったのだから。
そこへいくと、今回俺はされる方ではなく、する方に回っていたため、あの時に比べれば大分冷静になれた。
ラピスの唇はまるでマシュマロのような柔らかさで、果たしてこれが同じ人間のものなのかと思わずにはいられない。
「――!」
ようやくことの状況を把握したらしい彼女は一転、頭を後ろにやることで互いに繋がった状態から脱する。
「ぷはあっ!?」
再び目にしたラピスの表情は、怒りとも困惑とも取れる、実に複雑な表情を浮かべていた。
そして一瞬の間を置き、
「なっ……なにをするんじゃーっ!」
――絶叫を上げる。
その声色には、どうも怒りだけでなく、羞恥の心を隠そうとする意があるように思われた。
「何ってお前……お前が言ってたんだろ、こうしてほしいって。ていうか俺があのままだったらお前、無理矢理にでもする気だったんだろーが」
努めて冷静に言葉を発したつもりだが、実際は俺も相当に狼狽していた。
俺にとっては、とてつもなく勇気を振り絞った末の行動であったのだ。
……ある意味、彼女の姿が今のようであって助かったと言えなくもない。
これが元の姿であったら、果たして俺は同じことができたかどうか。
俺の言葉を受け、ラピスはふるふると身体を震わせ始める。
そして顔を真っ赤に染め上げながら、
「たわけ――ッ!!」
咆哮と共に、渾身の平手を俺に見舞った。
「いってぇっ!? 今本気で殴ったろ!?」
「だっ、黙れこの……くそたわけめがっ!! なにをいきなり……この馬鹿ッ、あほーっ!」
錯乱しているせいか、罵倒の言葉もなんというか程度の低いものになってしまっている。
とはいえ、それでも売り言葉には買い言葉。あれだけの勇気を振り絞った結果がこれとは、俺も少しカチンとくる。
「言いすぎだろっ! 大体お前、頬にするとあんだけ不機嫌になってたくせに……ちったあ素直に喜んだらどうなんだよっ!?」
「抜かすなっ! それもこれも時と場所ありけりじゃっ!」
「時と場所だぁっ!?」
「そうじゃっ! こっ……こんなっ……こむすめの目もあるというに……。二人きりの時ならいざ知らず……」
「……」
そう言うと、ラピスはふいと俺から目を逸らす。
まだ何か言いたげな様子ではあったが、もごもごと口を動かすばかりで言葉には出さない。
顔は益々紅潮し、恥ずかしさに耐え切れぬとでも言わんばかりだ。
そんな彼女の様子をつぶさに観察した俺は、素直な感想を口にする。
「お前、本当に……何万年も生きてきたくせに、これっぽっちもこの手の経験、無かったんだな……」
「当たり前じゃっ! わしは冥府の王じゃぞ! こ、婚前交渉なぞ……そ、そんな、はしたない……っ」
「婚前交渉って……お前……ふっ」
婚前交渉とは……なんと大仰な。
第一先ほどのキスだって、唇が触れたのはほんの一瞬のこと。
――いや。
彼女にとってはそれこそがまさに、子を成すための儀式なのだ。
実際のところはどうあれ、ともかくラピスはそういう勘違いをしている。
……であるからこそ。
「きっさまーッ!! なにを笑いおるかーーーーッ!!!」
これほどの怒りを見せるのだろう。
まさに怒髪冠を衝くといった感じで、神聖な行為を侮辱されたと受け取ったらしいラピスは、これ以上ないほど怒りを爆発させている。
そしてその怒りは、更なる勘違までをも引き起こしたようだ。
「この助平っ! 色情狂っ!! あれだけ奥手に見せかけておいて……よもやかくの如き不埒者であったとはっ! これで合点がいったわっ! 貴様はこむすめに篭絡されておったのではなく、その逆であったのじゃとな!」
「へ? いや、なにを話を飛躍させて」
「やかましいうるさーいっ!!」
ラピスは俺に抱かれた姿勢のまま、またしても駄々っ子のように腕を振り回す。
「ならば尚のこと許せぬっ! わしのみでは不服であると、貴様はそう申すのじゃなっ! まだまだ自分のはぁれむに女子を迎え入れねば気が済まぬとっ! なんと恐ろしい男じゃっ!」
「お、おいおい勘違いするなよ、俺は」
「何が勘違いなものかっ! こむすめを始末した後、貴様にもたっぷりと灸を据えてやるっ! その煩悩に塗れた頭を矯正してくれるわ、たとえ何万年かかろうとな! ――ええい離せ、離さぬかぁっ!」
「い、いたっ、痛ぇって、こらっ!」
ラピスは腕をバタつかせ、ぽかぽかと俺を殴りつけてくる。
膂力そのものは外見相応のようでそれほどでもないが、いつまでもこのままというわけにはいかないだろう。
第一、このままでは何の解決にもならない。
抱き止めているこの腕をひとたび解けば、すぐにでもミナへの攻撃を再開するはずだ。
個人的にはかなり勇気を出した行動であったのだが、彼女の怒りを収めるどころか、まるで逆効果になってしまった。
やはり、俺のなすことは全て裏目に出てしまうらしい。
……いや、待て。軽々に判断するな。
確かに新たな彼女の怒りを買いはしたが、その原因はとどのつまり、俺が本気だということが十分伝わっていないところにある。
であるからこそ、ラピスに今しがたのような勘違いを生ませてしまったのだ。
――つまり。
他の女などにうつつを抜かすというようなことは有り得ず、ラピスこそが俺にとり絶対的に一番であると、そう思わせられなかったところが問題なのだ。
逆に言えば、俺の行動にそれだけの説得力を持たせることができれば、彼女の怒りを鎮めることができるやもしれない。
だが、先ほどの行動では期待していただけの効果は得られなかった。
ならば、どうするか?
……やはり、真摯に言葉を尽くすほかない。
嘘偽りのない、心からの言葉でもってすれば、あるいは。
「……ラピス、お前は勘違いしてる」
「はなっ……なに?」
静かにそう切り出す俺の様子が妙なことに気付いたのか、ラピスは振り上げた拳をぴたりと静止させる。
「俺にはそんな考えなんて一切ない。その……俺は……」
今から自分がどれほどクサい台詞を言うのかと思うと、つい言い淀んでしまう。
――馬鹿野郎。ここまできて躊躇するな。
「お前が一番大事なんだ。お前だけで不服だなんて、んなことあるわけない。そんなの言わなくても分かってるだろ?」
「む……」
自分でも実に恥ずかしい台詞だと思うが、しかし嘘は含まれていない。
また、本心からの言葉であるということはラピスにも多少は伝わったものと見える。
それまで必死に身をよじり、拘束から逃れようとしていた彼女の動きが止まったことが、その証拠だ。
俺は彼女の紅い瞳をじっと見据え、言葉を続けた。
「確かに今回のことは俺が悪かった。お前にそんな勘違いさせて、こんな行動までさせることになってな。本当に悪かったと思ってる。もう俺も覚悟したよ、いくらでも罰を受けてやる。……だけど」
「……じゃが、なんじゃ」
「あの子だけは見逃してやって――」
「ならぬっ!」
一時は態度の軟化を見せたラピスだったが、ミナのことに言葉が及んだ瞬間、再び怒りを再燃させる。
「何と言おうと、彼奴の助命だけはまかりならんっ! 第一、かようなことを申すということ自体、少なからず彼奴めに心惹かれておるいい証左であろうが!」
「違う! それはお前の思い違いだ!」
「いいや信じられぬ、口先だけならば何とでも言えよう。……大体なんじゃ先ほどの貴様らのやり取りはっ! 普段わしがどう誘惑しようが迷惑そうにばかりしよるくせに……――じゃというのに、なんじゃっ! あのこむすめに対しては汝自らあんな……ふしだらな真似をっ! あんな女狐の何が良いというんじゃっ! 耳か尻尾か、それとも肌かっ!? 白い肌がそんなにいいのか、ばかーっ!!」