開幕
恥ずかしさからか顔を赤らめつつ、しかし同時にそう口に出したことを嬉しくも思っている様子で、ミナは流し目で俺を見ている。
「いやミナ……あれは俺がってより、あの狐――まあつまりお前が死んじまうまでって意味だったんだけどな」
「そうなの? でもどっちでもあんまり変わらないのね。ミナを見てもへーきってことはご主人、ご主人もミナみたいに人じゃないってことでしょ?」
「うーん……まあ、そういうことに、なる、の……かな?」
俺は半分死神の力を得てはいるらしいが、具体的にどう変わったのかまでははっきりとしない。
現状実感する上では、少々身体能力が上がっていることくらいか。
しかしもしかすると、寿命などといった点も変化が起きているのやも知れない。
「ならやっぱり同じなの。――ううん、むしろそっちの方がいい! 嬉しいな、ご主人といっぱい一緒に暮らせるの!」
「ま、まあそれは置いといてだな。やっぱその『ご主人』ってのは止めないか? こっぱずかしいよ」
それに、似たような呼ばわれ方は既にしていることだしな。
これ以上妙な呼称を付けさせるわけにはいかない。更にそれが年端の行かぬ幼女――実際のところはともかくとして――からとなれば猶更である。
……俺はノーマルなんだ。そんな趣味はない。
「そう? ううん……わかったの。おにいさんがイヤならそうする」
「ああ是非そうしてくれ。そっちの方がいい。それで、お前も残るならこれからのことについて一緒に話しとかないとな。どこまで行っちまったのか知らんが、いい加減あいつも戻って――……」
ミナから視線を外し、なんとはなしに視線を向けたその先。
先ほど言った身体能力の向上を、今この時こそ俺は実感し感謝した。
「――ミナッ!!」
「へっ……うわわわっ!?」
説明する暇も待たず、俺は瞬時にミナを抱きかかえながら倒れ込む。
折り重なって倒れた二人の上、それまでミナが立っていた場所を、風を切りつつ何物かが通過する。
まさに間一髪のことであった。
俺がミナもろとも倒れ込まねば、今しがた通り過ぎた物体はミナの体にまともにぶつかっていただろう。
「ミナ。大丈夫か?」
「お……おにいさん。だ、だめだよ……こんなところで……。ま、まだ早いと思うのね……?」
「……へ?」
何をどう勘違いしているのか、ミナは何故か顔を先ほどよりさらに赤らめている。
頭部の耳も、ぺたりと伏せている様子である。
どうもまたややこしい勘違いが生まれそうな予感を感じた俺は、彼女を押し倒した姿勢のまま、何をか言わんと口を開こうとしたが。
まさにその時である。
あたかも地の底から響くかのような重い圧のある声が、俺の耳へと届いたのは。
「――なにを……しておるのかの?」
瞬時に全身から、冷たい汗がぶわと吹き出す。
冷や汗を止めどなく流しながら、俺は緩慢な所作でもってして、頭をその声がする方へと向けた。
こちらに向けゆっくりと歩み寄る彼女の姿を目にし、俺は確信する。
……話し合いなどという甘い展開は、到底望むべくもないことを。
「やはり何らかの術をかけられておるようじゃの? 汝が庇わねば、そこな匹夫を真っ二つにしてやれておったものを」
そう言い終わると同時、彼女の元へと回転しながら飛来するものがあった。
それは彼女――ラピスの所有物である大鎌である。
先ほど俺たちを襲ったのも同じだろう。
まるでブーメランのように旋回し戻ってきたそれを、ラピスは器用に片手で掴み取る。
「……まあしかし、わざわざ出向く手間が省けたと考えるとしようかの。いずれにせよそ奴はわし自ら始末するつもりであったゆえな」
大鎌の切っ先を俺に向けつつ――いや、彼女の意は俺ではなく、明らかにミナへと向けられている。
そう俺が確信できたのは、彼女の目を見てのこと。
明らかに普段俺に向けているのとは違う、ひと目見ただけで分かる冷酷さ、そして御しきれぬほどの怒りを湛えたものがその目にはあった。
彼女の周囲は、空気が歪んでいるようにすら見える。
いや事実、そうなのかもしれない。彼女の怒りが、今まさに具現化して目にすることができるほどだということか。
羽織るマントは吹き上がる怒りの熱気により空を舞い、服までもが憤怒の意思を持っているかのようであった。
「……おにいさん、どいて」
「ミナ?」
「はやく、おにいさん」
ミナに急かされ、俺は彼女の上から身体を移動させる。
そして立ちあがったミナは、間髪入れず対峙したラピスに向かい声を上げた。
「あなたがおにいさんを攫った悪いひとなのね?」
「……」
ラピスは答えない。
その目は、この半獣の少女が果たしていかなる存在か、それを推し量っているように見えた。
構わずミナは続ける。
「あの時おにいさんと一緒にいたから、ミナはあなたもいいひとかと思ってたの。……残念なの、あなたともお友達になれると思ってたのに」
「……その物言い、どこぞで出会ったことでもある風な口振りじゃな」
やっと口を開いたラピスへ向け、俺はミナの代わりに答える。
「ラピス。この娘はな、俺たちが助けた、あの狐なんだ」
ラピスは一瞬俺へ視線を向けた後、すぐにミナへと向き直った。
「……なるほどの。たかが畜生の分際で我が半身をたぶらかそうてか。身の程を知るがよいわ」
元動物であると知ったせいか、ラピスの言葉は完全に相手を下に見ている風である。
それは恐らくミナも感じていることだろうが、構わずミナは続ける。
「あなた……ラピスさん、っていうんだね。あなたはおにいさんのなんなの?」
「……なに?」
「どういう理由があって、こんな酷いことをするの? おにいさんがかわいそうだとは思わないの? それにミナも始末するって――殺すってことだよね。どうして?」
ミナの言葉には、相手を責めるような色を含んでいる。
対するラピスはそれに動じることなく、あくまで落ち着いた風で言葉を返した。
「黙って聞いておれば勝手な熱を吹きおって……ふん、よかろう。まずは後者から答えてやろう。そこな男はの、わしの所有物じゃ。そしてわしもまた同様。貴様は不埒にも、人の男をたぶらかそうとしおったのじゃ。その罪は当然償ってもらう。……貴様の命をもってしてな」
「……」
「そしてそこな男も、何度わしが治めようと軽挙妄動を繰り返す悪癖を改めようとせぬ。あれほど忠告したにも拘わらず……いい加減わしも堪忍袋の緒が切れようというものよ。ここで一度、しっかりと教育しておかねばならん」
……後半部分は、実に耳が痛いものだった。
心当たりがありすぎる。
――と、ミナへ向けたはずの言葉で俺がダメージを負っている中、不意に横から笑い声が聞こえてくる。
「くすくす……」
「ミナ?」
笑い声の主はミナであった。
片手で口を覆いつつも、我慢し切れぬといった様子で笑い声を上げている。
その様はラピスも疑問に思ったようである。
「なんじゃこむすめ。なにが可笑しい。恐れのあまり気でも触れたか?」
「ううん、そうじゃないよ。あなたが勘違いしてるのがおかしくて、つい笑っちゃったの」
俺は、眼前に立つこの人物が、果たして本当に俺が知る少女であるか。その自信が持てなくなってしまった。
今、ラピスを見ている彼女の横顔。
その表情には明らかな侮蔑、あるいは嘲りの色が浮かんでいたからである。
それまで俺が彼女に持っていたイメージとは全く違うその様子に、俺はこの先、ますますことが拗れるであろう予感をひしひしと感じざるを得なかった……