見(まみ)えし神々
「おいっ! いいから落ち着けって、おいっ!?」
叫び、喚き、今なお俺はラピスに思い止まらせようと説得を続けている。
……いや、この状況ではもはや慈悲を乞うていると言った方が正しいか。
「なになに、恥ずかしがることはない。言ったであろう? 我等はもはや二人で一つ。なればむしろ隠しごとをすること、すべてを曝け出さぬことの方が不誠実であるというものよ」
俺が動けぬことをいいことに、ラピスはにやにやとした笑いを張り付けたまま、思うさま勝手なことを宣い続けている。
片手の指先は変わらず俺のズボン、そのジッパー部分に添えられたままで、今にもひと息にずり下げそうな様子である。
「そういう問題じゃねえっ! 例えそうだとしてもな、人として最低限のプライバシーは守れってんだ!」
「……ほぉ~? ぷらいばしい、と抜かしたな?」
彼女の手がジッパーから離れる。
それそのものは喜ぶべきことだが、ラピスの笑顔がより深いものに変化したことが別の不安を呼ぶ。
俺はおずおずとラピスに問いかけた。
「なっ……なんだ、それがどうかしたのか」
「なるほど、確かに誰でも他者に触れてほしくない私事の一つや二つはあろうことじゃろうなぁ」
「だ、だろ? だから……」
「しかしの? 我が君にそれを言う権利は無いと、わしは思うのじゃが?」
「なんでだよっ!?」
ラピスは「ふふん」と一笑し、腕を組む。
「汝はもう忘れてしもうたのであろうがの。わしはずうっと覚えておるよ。……忘れもせぬ。貴様に辱められた、あの屈辱はな」
「……えっ?」
俺が呆けたような声を出した瞬間、ラピスのこめかみに一本の青筋が立つ。
まずい。
一体何の話を持ち出そうとしているのかは分からないが、この上更に機嫌を損ねるようなことだけは絶対に避けねばならぬというのに。
二人称が『貴様』になったということは、これは相当激怒している証拠だ。
「……やはり忘れておったか。わしとて、神とはいえ一角の女子じゃ。それこそ人並みの羞恥心くらいは持ち合わせておる。……じゃというに、こともあろうに、貴様は……わしの体の隅々を嗅ぎ回った上、その匂いにまで言及しおった。――あれほどの屈辱、ついぞ味わったこともなかったわっ!」
激情を抑えきれなくなったのか、最後の方は殆ど怒鳴り声に近いものになっている。
そして俺の方もそこまで言われてようやく、彼女の言っている過去の出来事に思い至った。
「いっ……いや待て、あれには訳があってだな。それに隅々までなんて――ん?」
言い訳の途中だったが、俺は一度言葉を切る。
気のせいか、どこかから妙な音――というか、声のようなものが聞こえてきた気がしたのだ。
果たしてそれが気のせいなのかどうか確かめんと、俺は辺りに耳を立てようとするも、それは間髪入れず続けて発されたラピスの怒号により遮られることになる。
「大体じゃなっ! 貴様もいい年をした男子なれば、もし仮にわしが――その、そうであったとしてっ! 相手にそれを気付かせぬよう上手いこと誤魔化しつつ入浴に導く位の機転を利かせてはどうじゃ!! それを――……くっ……!」
ラピスは顔を真っ赤に茹で上がらせると、恥ずかしさと怒りの入り混じった表情になりつつ呻る。
……しかし、何週間も前のことをまだ根に持っているとは。
確かにあれは俺が悪かったが、しかし俺はあの時嗅いだラピスの体臭――というか汗の匂いだろうか――に格別酷い言葉で指摘したつもりはない。
こいつには直接言ってはいないし、言葉にするとどうも変態くさくなるので口に出してはいないが、むしろいい匂い……とさえ言えるものだったのだ。
世の人々が全員、あのような甘い焼き菓子を思わせる体臭を発するならば、制汗剤などは完全に不要のものとなろう。
「ま、待てよ落ち着けって。俺はあのとき、何もお前が臭いなんて――」
「じゃらあああああっ!!」
「――ぶはっ!」
狂声と共に放たれたラピス渾身のビンタが俺の頬へと叩き込まれる。
グーでなかったのはせめてもの情けだろうか。
そしてラピスは即座に俺の胸ぐらを掴むと、幼女とは思えぬほどドスを効かせた声を出した。
「……命が惜しくば、下手なことは言わぬことじゃ――のう?」
「はい……」
迫る彼女の迫力に、俺は情けない返事を返すことしかできなかった……。
俺が意気消沈したのをこれ幸いと、ラピスは再び俺に身を寄せてくる。
「と、いうわけでの。わしには大義名分があるというわけよ。それも二つな。一つは今回のこと。さらにもう一つは今しがた言った件じゃ。そなたにわしはふたつも貸し付けておるのじゃ。今さら四の五の言うでないわ」
「い、いやしかし……それとこれとは……」
「まったく往生際の悪い。いい加減観念すればいいものを。……まあ、どちらにせよその状態では何も出来ぬかの。……なに、暫くたてばその羞恥心も悦楽へと変わろうぞ。……楽しみじゃ。実に楽しみじゃ」
言葉こそ普段とそう変わらぬゆえ誤解していたが……ギラギラと輝く彼女の目を見て、今はっきりと分かった。
ラピスは今、完全に正気ではない。
いや仮にこれが正気の状態だとして、そうとは信じたくない。
今の彼女の立ち振る舞いは、まさしく恐ろしい死神のそれである。
……もっとも、刈り取られるのが果たして魂であるか、それは分からないが。
いや、むしろ被捕食者を前にした肉食獣か。
「さて、それではいい加減始めるとするかの。そなたもいつまでも我慢し続けるのは辛かろうて」
言って、ラピスは俺に抱き着いたまま、するすると身体を下に降ろさせ始めた。
既に俺が腰に巻いていたベルトは取り外されている。
俺の腰付近にまで頭部を下げたラピスは、そこで一度顔を上げた。
彼女の顔は、これからのことが楽しみでならぬと言わんばかりの笑顔であった。
「そなたはわしと一緒に入浴する際も、頑なにここを隠しておったからのう。さてさて、何が出てくるやら……」
「何が出てくるもクソもねぇだろが! ――おっおい!」
「くっくく……はむっ」
なんと彼女はジッパーの先端に付いている金具を口で加えるや、そのままゆっくりと顔を下げ始めた。
そんな彼女の動きに合わせ、ジジジ……という音と共にズボンの前部が徐々に開かれてゆく。
わざわざ手を使ってでないのは、そうすれば俺が余計に混乱すると知っての上でだろうか?
……恐らくそうなのだろう。
そのテの知識においてはまさに今の見た目通りいや、それ以下でしかないと判明したものの、こいつは生まれ持っての本能で察しているのだ。
どうすれば俺の動揺を誘えるか……そして自分が妖艶に映るのかを。
このままされるがままになっていれば、ラピスが真相に辿り着くのもそう遠くない未来のように思える。
――とはいえどうする?
叫んだとて、ここはラピスの作った閉鎖空間だ。
更に四肢は自由に動かせず、ろくに抵抗も出来ない状態だ。
まさしく万事休す。
己が身から出た錆とはいえ、もはや一切の手立てはないのかと、俺は天を仰ぐ――と。
「……?」
俺は左、右と首を振らせ、周囲に目をやる。
そして下に視線を移動させると、ジッパーの先を咥えたままの姿で静止するラピスの顔が目に入る。
彼女もまた、聞こえたようだ。
今度は気のせいではない。
先ほどよりも大きくなっている。
『……さてふるべ たつはるあきかぜ つうきじざいの いさほしや』
数メートル先も見渡せぬ暗闇の中にあっては、この声――いや歌がどこから聞こえてくるものかは分からない。
「ラピス――これ、お前も聞こえ……」
「――しっ! 黙っておれ!」
ラピスの顔には焦りが浮かんでいる。
それも当然のことだろう。この場において、他に侵入できるものなど居ようはずがないのだ。
もしそれが可能な何者かがいるとすれば、それはラピスと同じ――……
『あかやすせいかの すみによきかぜ』
声は益々大きく、はっきりと聞こえてきている。
「――何者じゃっ! 姿を現せっ!!」
叫び声を上げるラピスを尻目に、俺は別の思いに気をやっていた。
……この声は。
いや、まさか。
ありえない。
これは、この声は――……
『あきのかみみちに いでまつり ひかり みな――』
風を切るような音が聞こえ、俺は音が聞こえた方向である上空へと視線を向かわせる。
すると、それまで漆黒の闇に覆われていたはずの天に変化が生じている。
いつの間にやら無数の光が闇夜を照らしているのだ。
そして、その光が星によるものではないと知ったのは、僅か数秒後のこと。
まずは一つが、俺の足元へと降り来たり、そして。
「――くっ!」
ラピスは身を翻し、降り注ぐそれから間一髪逃れることに成功する。
まるで彼女を狙ったかのような位置に、それは降ってきた。
円錐の形をしたそれは――氷でできた柱、いわゆる氷柱と呼ばれるものであった。
ラピスの能力によるものではあり得ない。
今この場でそんなことをする意味など無いし、なにより彼女の顔がそれを物語っている。
そうしている間にも氷柱は天より次々と降り注ぎ、その様子はまるで雨のようであった。
しかし不思議なことには、その中の一本たりとも、俺の身の上には落ちてこなかったのである。
いやむしろ、もう一人の方をこそ狙っているように思える。
事実、ラピスは降り注ぐ氷柱を避けるのに必死になっていた。
そして俺の目の前に、一際大きな――数メートルはありそうな強大な氷柱が、地響きを立てて俺の目の前に突き刺さった。
訳の分からぬ事態に目を白黒とさせている俺の前に、ある人物が、ゆっくりとその巨大な氷柱に降り立った。
その人物――いや少女は、青白い光を纏いつつ、こちらに手を差し伸べ――言った。
「おにいさん、迎えに来たよ」