生死と貞操を賭けた駆け引き
「う……」
呻き声と共に、俺は僅かに意識を取り戻す。
頭の中では残響の残る異音が繰り返され、まるで耳元で鐘を突かれているかのような不快さだ。
……なぜ、こんなことになっていたのだったか。
意識を失う前、俺はどうしていただろうか。
………
……
…
時が経つにつれ、耳元で響いていた音は鳴りを潜めはじめた。
もともとそんな音など鳴っておらず、混乱した俺の脳内が作り出した幻聴であったのだろう。
そうして冷静な思考が戻って来るに従い、同時に記憶も段々と鮮明になってくる。
そうだ。
俺は確か、あの少女と話していて、そして……。
そうだ。俺はあの時、気を失って――……彼女は? 彼女はどうした?
「……ミ――うおおおおおっ!?」
目を開け、あの少女の名を呟こうとした瞬間、俺は頓狂な叫び声を上げた。
同時に身体ごと後ろに跳ね飛ぼうともしたが、何故か身体が思うように動かずそれは叶わなかった。
「おはよう、リュウジ」
叫び声を上げたのは、開けた視界一杯にラピスの顔が飛び込んできたためである。
彼女の顔など既に見慣れたものだが、この時ばかりはまるで別人のように映った。
元々大きな瞳を尚も大きくし、俺の瞳を一直線に見つめている。
まばたき一つしていないのが、また尚のこと異様さを際立たせる。
そして彼女は笑顔でも怒りの表情でもない、何の感情も伺い知れぬ表情を、ただ張り付けていた。
明らかに普段とは様相が異なる彼女に対し、俺は恐る恐る口を開く。
「ラ、ラピス……? お前……」
「んん~? なんじゃ、どうかしたかの?」
声色も一見いつもと変わらぬ平易なものに思えるが、これまで僅かな間ながら一緒に過ごしてきた俺には分かる。
どう考えても様子がおかしい。
そして今、俺は今椅子か何かに座らされている状態らしく、微動だに出来ぬところから察するに、四肢を椅子に縛り付けられているようだ。
両の腕は椅子の後ろに回され、手首のあたりを紐で固定されているらしい。
足首も同様だ。
その下手人は明らかである。
「え、ええと、その、な……」
いつもの俺であればすぐさま彼女に対し今すぐ放せと喚き散らすところだが、この場においてはひとつの対応ミスが命取り――そんな確信めいた予感があった。
それでなくとも今現在がただならぬ事態にあることは、ラピスが俺のことを下の名前で呼んでいることからも十分に察せられる。
よって俺はそうすることはせず、普段より声のトーンを落とし、努めて優しげに彼女へ問いかける。
「……その、俺はどうしてこんなことになっているのかな?」
俺の問いに対し、ラピスは首をちょいと傾け、次いでにっこりと笑う。
「もちろん、そなたのためじゃよ」
何が”勿論”なのか。
問い質したい気は山々であったが、その理由を問うことは躊躇われる。
とんでもない返答が返ってきそうな予感がしたからである。
俺の予感は悪い方ばかり良く当たる。
「そなたを誑かさんとする泥棒猫、いや女狐めもここならば手を出せぬゆえな」
そして、それは今回も例外ではなかったようだ。
俺の心臓が早鐘を打ち始める。
そのことを彼女に悟られぬよう、俺は声の震えを隠しつつ、無駄とは薄々感じつつもとぼけてみせることにする。
「め、女狐って……はは、ラピス。お前は何か勘違いしてるんだよ」
「うむうむ、わかっておるよ。そなたは優しいからの。その優しさを勘違いする阿呆が現れたとして、そのことはそれほど不思議なことではない。たとえそれが、年端のいかぬ女児であったとしてもな」
その言葉で俺の体は硬直し、そしてその緊張は間違いなくラピスにも届いたはずだ。
なにしろ今ラピスは座っている俺の膝に腰を落とし、両腕を俺の首に回した、半分抱き着いているような格好で俺を尋問しているのである。
そんな状態で、俺がついビクリと反応してしまったことに気付かないわけがない。
「リュウジよ。先ほど眠りから覚めた際、そなたは何ぞ言葉を発しようとしておったよの? それは誰かの名か? 非常に興味が湧くのう。そなたが起きて早々、汝が誰の名を呼ぼうとしておったのかをな? いやいや、もちろんわしは信じておるがの? まさか我が君、我が主君――我が半身が、わしを差し置いて他の女の名を呼ぶなどとは思うておらぬとも。しかし一応、そなたの口から聞いておきたいのう? ……誰の名を呼んだ?」
俺の背を冷たい汗が濡らす。
ラピスの言葉は終わりに近づくにつれその重さを増し続け、今まで聞いたことのない圧力をもってして俺に襲い掛かった。
彼女の質問に答えること、それ自体は容易い。
がしかし、馬鹿正直に答えることはすなわち、俺――そして彼女の死を意味するだろう。
「あぐっ……!」
返答にもたつく俺に対しラピスは業を煮やしたのか、俺の首に回した手、その指を立てる。
突き立てられた爪が肌に食い込み、鋭い痛みが俺を襲う。
「おっと……すまぬの。つい力が入ってしもうた」
言って、ラピスは右手だけを自分の顔の前に移動させた。
彼女と俺、両者の間にあるその手は俺の視界にも入ることとなる。
ラピスの人差し指の爪からは俺のものと思しき赤い液体が付着しており、彼女は第二関節あたりまで垂れてきているそれをうっとりと眺め――……そして。
「しかしそなたも悪いのじゃぞ? あまり焦らすでないわ……ふふっ……」
俺の血を、愛おしげに。
自らの舌でもってして舐めとったのだ。
「――……っ。んっ……ふぅ……」
ゆっくりと、味わうように。
口の中で遊ばせた後、ようやくラピスはそれを嚥下する。
「あー……」
そして、俺に見せ付けるように大きく口を開けて見せた。
彼女の頬には僅かに朱が差しており、また体温が上昇しつつあることも、密着状態にある俺にはよく伝わってくる。
また目はやや蕩けているようにも見え、こんな状況だというのに俺は、その様がやけに淫靡なものとして思えた。
「……実に甘美であったぞ。こんなものを味わってしまうと、これより先、他のものなど受け付けなくなってしまいそうじゃ」
周囲は薄暗く、今いるここがどこなのか詳細は分からないが、人気といったものはまるで感じられない。
どこからの光源によるものか、まばらに青色の光が灯っているのが確認できるのみである。
それらの光は彼女の姿を格別怪しく――そして美しく浮かび上がらせている。
中でも彼女の瞳はとりわけ妙な光の反射を成しているようで、彼女の瞳孔は今、例えるならばハートに近い形に歪んで見えていた。
「やはり我等は心も……そして身体も。余すところなく欲するように運命づけられておるようじゃの。 ……リュウジ、そなたもそう思うであろう? わしの一部が入った料理を、そなたは実にうまそうに賞味しておったものな……」
「料理……? ……――ッ!」
電流が走ったが如き衝撃が俺の身を貫く。
……まさか、一連のあの料理。
あれはまさか――
「……ところで、どうも妙な塩梅なのじゃ。今しがたそなたの血を賞味してからというもの、下腹部が妙にうずいて仕方がない。こういったことは今までになかったことじゃ。冥府でずっと一人きりで過ごしてきた世間知らずじゃからな、わしには皆目見当がつかぬ。そなたは何か思い当たることはないか? のう、リュウジよ……」