はたらく死神様 ③
「――てめえっ!」
瞬時に俺はラピスを守るように前に立ち、男に向かい構える。
対する男はしかし、空のカップをフラフラと揺らしつつ余裕の態度を崩さない。
「おいおい興奮すんなよ。お前らにゃァ手を出さないっつっただろ? ま、やりたいってんなら構わねえけどよ、こんなトコでおっぱじめるつもりか?」
「……」
「竜司君、どうしたんだ? あちらのお客様と何かあったのかい?」
この男の言葉をそのまま鵜呑みにできるわけがない。
しかし、聖さんの目があることもあり、ここはとりあえず折れておくほかないと判断した。
少なくとも前のようにいきなり襲い掛かってくるつもりはないようだしな。
「……いえ、なんでもないです。人違いでした」
「ん……そうか。ならいいんだ。彼は最近よく来てくれるようになった人でね。揉め事はやめてくれよ、貴重なお得意様だ」
納得した、とは言い難い表情だが、とりあえず俺が矛を収めた様子であることを確認し、彼女はキッチンへと向かう。
俺たちは男の座る場と、ひとつ間にテーブル席を挟んだ場所に座ることにする。
がしかし、せっかく間を開けて座ったというのに、ナラクは身を乗り出し、椅子の上に両腕を乗せた姿勢でもって俺たちに話しかけてくる。
「よぉ、しかしマジで偶然だなァ? やっぱ俺たちゃ互いに惹かれ合ってるってコトじゃねえか?」
「……話しかけんな」
「がはははっ! こりゃ嫌われたモンだねぇ。ま、こちとらお前らに借りのある身だ、言う通りにしてやるよ。――おーい、もう一杯頼むわ!」
聖さんの返答がキッチンから届くと、ナラクは何事もなかったかのように俺たちから目線を切り、席に座り直した。
俺は、そんな男の後頭部を憎々しげに見ながらぼそりと呟く。
「……あいつ、何考えてやがんだ?」
「さてのう。しかし力は失ったままのはずじゃ。現状で我等に下手な真似は打てまい」
「つってもなぁ……」
「そんなことより我が君、一体何用あってこの場に? わしとしては一刻も早く去りたいところなのじゃが……あの女はイヤじゃ。何がと言われると答えられぬが、なにやら不穏な雰囲気を醸し出しておる」
先ほど出会い頭にハグされたのが余程こたえたのだろう。
ラピスの中での聖さんのイメージはかなり悪くなってしまったようだ。
「ま、ちょっとした用事があってな。それが済んだら帰るよ」
数分後、三つ分のカップを載せたトレーを持った聖さんが厨房から姿を現した。
そのうち一つをナラクのテーブルへと置いた後、続いて俺たちの元まで彼女はやってくる。
「はいお待たせ。竜司君はいつものブレンドね。隣の彼女も同じものでよかったかな」
「ありがとうございます」
目の前に置かれたコーヒーから発せられる香しい芳香が俺の鼻腔を満たす。
俺はそのままミルクと砂糖、そのどちらも入れることなくコーヒーを口に流し入れる。
「やっぱり聖さんの淹れてくれたコーヒーは違いますね、俺、普段ブラックは飲まないんですけど、聖さんのは全然大丈夫です」
「嬉しいことを言ってくれるな。それで今日は……ん?」
「聖さん、どうし――ラピス?」
顔をほころばせた彼女は、俺の隣に視線を向かわせたと思うや怪訝な顔つきになる。
俺もそれに倣うと、彼女以上に怪訝な顔つきをして目の前に置かれたカップを凝視するラピスの姿があった。
ラピスも俺の視線に気付いたのであろう、横目で俺を見やりつつ口を開く。
「……我が君よ、これは何じゃ」
「何って……ああ、お前コーヒー飲んだことないのか」
「こぉひぃ? ……本当に飲んでよいものなのか? かように真っ黒で禍々しきもの……香りは確かによいが、毒ではないのじゃろうの」
「お前な、失礼にも程があるぞ」
「あっはっは! ラピスちゃんというのか、君は。コーヒーを飲んだことがないというのは分かるが、その様子だと見たことすらないのかい? 随分と珍しい娘だね」
確かに、現代でコーヒーを見たこともない、というのは相当あり得ない話だ。
今回聖さんは笑っただけで済ませてくれたが、今後何がきっかけとなってラピスの正体が露呈するか分からない。
今後はそのあたりにも注意してこいつを連れ出す必要があるだろう。
「すいません、本当……ほれ、俺が今飲んでんだろ。毒なんかじゃねえよ」
「うむ……なら――……ぶほぁっ!?」
「どわっちゃーっ!?」
疑うような視線を俺に向けつつ、一口コーヒーを口に含んだラピスは、その瞬間中のものを勢いよく吹き出した。
熱い飛沫が俺の顔面へと降りかかり、予想だにしていなかった事態に俺は頓狂な叫び声を上げる。
「――てめぇ、何すんだ!」
「うぞづぎぃ~……これやっばり毒入ってるではないかぁ~……」
口からコーヒーを涎のように垂らしたラピスは、泣きそうになりながら非難の言葉を口にする。
というか、既に泣いているのだが。
「……なんという可愛さだ……」
「がーはっはっは!」
聖さんが怪しげな目でラピスを見つめる中、この様子を見ていたのであろうナラクの笑い声が店内に響き渡る。
「帰ったら急いで洗うんだよ。コーヒーの染みは時間が経つと中々取れないからね」
「はい、ありがとうございます……」
顔と服に飛び散った液体を、聖さんの持ってきてくれたタオルで拭きつつ俺は、こうなった元凶へと視線を向かわせる。
「――あまーい! なんじゃなんじゃ、最初からこれを出せばよかったものを」
「……」
その張本人はと言えば、代わりに持ってきてもらった砂糖とミルクたっぷりのカフェオレ――ほとんどコーヒー牛乳と言った方がいいほどにコーヒー分を薄めたもの――にご満悦な様子である。
その満面の笑顔を見ていると頭痛を覚え始めてきた俺は、こいつの存在を無視して話を始めることに決めた。
「はぁ……ええと聖さん、話を戻しますけど。実は今日来たのは、折り入って聖さんにお願いしたいことがあって」
「ん、珍しいね、キミが私に頼み事とは。一体なんだい?」
「その――この店、アルバイトとか募集してたりは……」
「……」
俺の言葉を聞いた瞬間彼女は眉を顰めると、それまでの優しい口調から一変、真面目な声色となる。
「ここで働きたいと、そういうことかい?」
俺の言葉の真意をすぐさま見抜いた彼女からの言葉に、俺は物怖じしながら答える。
「……はい。ぶしつけなお願いですが……」
「う~ん……」
彼女は腕を組み、困ったような声を出す。
即座に拒否されなかったことで、ある程度希望を持ってもよいのでは――と、俺は甘くもそう考えそうになったが。
「姉さんには昔から世話になってばかりだからね。その息子さんたっての願いとあれば叶えてあげたいのは山々だが……」
――『だが』。不穏な語尾に、俺の不安が沸き立つ。
やはりその悪い予感は的中し、次に彼女から発された台詞は、俺が望むものとはかけ離れたものだった。
「見ての通り、特に手伝いは必要ない状況でね。キミもそれは分かるだろう?」
「……」
「それに、だ」
聖さんは続ける。
「姉さんにはこのことを話しているのかい?」
「いえ……」
「だろうね。大方学校にも話していないのだろう? 確かキミのところはアルバイト禁止だったはずだからね。わざわざ私の所まで来たのは、知り合いの店ならば学校や親に黙っていて貰えるのではと、そう期待してのものだろう。――図星かな」
まさしくその通りである。
さもしい魂胆をいとも簡単に言い当てられ、ばつの悪さから俺はそれ以上の言葉を発することができなくなる。
消沈する俺を、彼女は怒るでもなく、また責めるような素振りも見せず、優しく言い含めるように諭す。
「まぁ、私も学生時代は色々とヤンチャだったからね。校則がどうだとやかましく言える筋合いではないのだが。それでも最低、ご両親の了解は取らないとな。もし姉さんが良い、と言うならまた考えてあげよう」
彼女の言う姉さん、とは俺の母親のこと。
しかし……やはりと言うべきか、そう甘い話はなかったか。
だが、考えようによってはまだ希望があるともいえる。彼女の言葉が偽りでないとするならば、俺がこの後親からの了承を取り付ければ雇ってもらえる、という風に捉えられるからだ。
とてもじゃないがバイトなど雇える状態ではあるまいに、優しくもそう言ってくれた聖さんに対し、俺は感謝の目を向けた。
「はい、ありがとうございます。それではまた親と話し合ってから――」
「ちと待たれよ」
と、不意に俺の言葉を遮ったものがある。
「ラピス?」
カフェオレの甘みに酔いしれていたはずの彼女であったが、半分残ったそれに手を付けることなく俺を凝視している。
「聖とやら、少々席を外すぞ」
席の奥に座っていたラピスは俺をぐいぐいと席から押しやると、次いで自身も席から降り、そのまま店の奥まで俺の手を引いてやってくる。
「なんだ一体、どうしたんだ?」
「……」
俺の言葉にラピスはすぐには答えず、なにやら怒ったような眼差しを向けてくる。
そんな眼差しを向けられる覚えなど何一つない俺は、何故彼女が怒っているのか、まるで見当がつかない。
むしろ怒りたいのはコーヒーをぶっかけられた俺の方なのだが。
そう思っていると、ようやくラピスが口を開いた。
「我が君よ。汝が急に働き出すなどと言い出したのはなんのためじゃ?」
「ん……それは」
「わしの為であろう。違うか?」
「……」
俺の沈黙を肯定と捉えたのであろう、ラピスは続ける。
「やはりそうか。汝の妹御との約束は残り二十日余り。わしのその後を、汝は心配しておるのじゃろう」
「……ああ、そうだ」
やはり、妙なところでこいつは勘が鋭い。
そこまで見透かされているならば、もはや隠す必要もないとばかり俺が肯定の言葉を口にするや、ラピスはやにわに声を荒げ始めた。
「何を考えておる! 以前言うたであろうが、わしは人の食物から糧を得ることはできぬと。一切飲まず食わずでもまるで問題はない! 汝が気に病むようなことでは――」
「いいや、そいつはダメだ」
今度は俺の方が、彼女の言葉を遮る形になる。
はっきりと断言した俺に対し、やや彼女は尻込みした様子を見せたが、それでも声の勢いは落とさず俺に食ってかかる。
「――何故じゃ! そんな無意味なことを、わざわざ我が君自ら……!」
「……俺はな、お前がこれから送る生活でストレスを感じてほしくないんだよ。昼間周りが友達同士で仲良く飯を食いながら話す中、お前はそれをずっと横で見ておくつもりか? 俺のとこに来るにしたって、どうしたって奇異の目で見られることになるぞ。飯もロクに食べられないような貧乏人だってな」
「そんなことっ――」
「そんなことは取るに足らない、どうでもいいことか? 生憎俺にとってはどうでも良くなんてねえ。お前はこれまでずっと我慢ばかりしてきたんだろうが。それに不当に下にも見られてきた。お前が言う、下等な人間どもにな」
「……」
俺の言葉に己の過去を思い出したのか、ラピスは下唇を噛み口をつぐむ。
「俺はな。これから先、お前がそういう目で回りに見られることに我慢ならねえんだ。それに――」
「……それに、なんじゃ」
「俺は主人で、お前は俺の奴隷なんだろ? ならできるだけ大事に扱わねえとな。自分の所有物をバカにされるってのは気分のいいもんじゃないからな」
ラピスは何も言わず、そしてなにを考えているのか分からない表情でもってして俺をじっと見つめていたが。
やがて長い溜息を吐き出すと、やれやれとばかりな身振りと共に口を開く。
「つくづく……つくづく救いがたいの。まったく、度し難いお人よしめが」
「ご挨拶だな。――ま、とにかくそういうことだ。俺が勝手にしたいからやってるだけ、お前が気にするようなことじゃ」
「いいや、そういうわけにはいかぬなぁ?」
「え……お、おい! どこ行くんだ!」
にやりと笑ったラピスはやにわに踵を返し、つかつかと元の道を戻り始めた。
俺がその背に声をかけるも、全く足を止める様子はない。
「おや、話は終わったのかい? 何か用かな、ラピスちゃん」
聖さんの元まで来て歩みを止めたラピスは、彼女を見上げると。
「――わしを、この店で働かせてはもらえぬか?」
はっきりと、そう口に出したのだった。