ラピスとの入浴ふたたび 前
「はああああ~……つっかれたぁぁぁ……」
部屋に戻った俺は開口一番そう言うと、部屋着に着替えることもなくベッドにダイブする。
自宅まで帰った俺は、こっそりと音を立てず玄関を開け中に入ったのだが、すぐさま目聡い妹に見つかってしまった。
それからは当然、花琳から延々とお説教の時間である。
服の方はラピスの力で修繕してもらっていたのでそこに突っ込まれることはなかったが、こんな夜更けまで連絡せず出歩いていたことに妹は怒り心頭のようだった。
俺は平身低頭謝り続け、ようやく解放されての今、というわけだ。
ベッドの柔らかな感触が全身を優しく包み込む。
――あぁ、なんという幸福だろうか。生死のやり取りをした後ということもあり、安堵もひとしおである。
……ぎゅむ。
目を閉じ、そのまま眠りに落ちようとした俺であったが、急に頬へ圧迫感を感じる。
「こりゃ」
ぐりぐり。
「こりゃ、起きんか」
「……」
薄目を開けた俺の目に映ったラピスの姿は、仏頂面で腕を組み、右足を俺の顔に押し付けた姿勢である。
「……お前な、仮にも主人の顔を踏みつけるとはどういう了見してんだ」
流石に文句の一つも出ようというものだ。
だが俺がそういう間にも、彼女は押し付ける足裏を離すことはせず、どころか余計に力を入れ、ぐりぐりと動かす始末である。
ブーツを脱ぎ素足でいるのは、せめてもの優しさの表れであろうか。
……だとしても全然嬉しかないがな。
「我が君よ、そんな汗だらけの体で寝るつもりか」
「……もういいだろ、今日は……朝シャワー浴びるよ」
「いかん。わしをそんな汗臭い男と共に寝させようと?」
「……わかったよ、だったら俺がソファで――」
「ばっかもーん! いいから起きんか、我が主君がそんなものぐさでは示しがつかぬわ!」
「誰に対する示しだよ……はぁ、分かった分かった」
俺はラピスの足を腕で払い、面倒くさげに起き上がる。
「湯は花琳が沸かしといてくれてるらしいからな、んじゃとっとと入って寝るぞ」
「うむ、よかろう!」
……妙に意気込んでるな。
今さら一緒に風呂に入ることくらい、別に特別でも何でもないことだろうに。
その思考に至るのもどうかと思わないでもないが、もはや疲れのせいでまともな思考が働かない。
とにかくさっさと済ませよう……
♢ ♢ ♢ ♢ ♢
「よっし、んじゃ洗うから後ろ向け」
俺は泡立てたタオルを右手に持ち、いつもと同じように言う。
こうして湯舟に浸かる前、互いの体を洗い合うのは済し崩し的に習慣になってしまっている。
今思えば、初日にそうしてしまったのはいかにも失策であった。
二日目からは自分で洗うように言ったが、そうした瞬間こいつは猫なで声で甘え、ねだり――それでも了承されぬと分かるや、大声で叫ぶぞと脅し始める始末。
……まあ、風呂の後は決まってご機嫌になって扱いやすくなるので、そういう面から言えば悪くない話ではあるのだが。
しかし将来ラピスが元に戻った時のことを考えると、俺はそら恐ろしくなる。
今でこそ彼女がこうした、ちんまりとした子供であるからこそ俺も理性を保てているのだが、まさか元に戻ってからも同じようにさせるつもりじゃあないだろうな。
「……」
「どした、早くしろ」
何故か返事を返さず突っ立ったままのラピスに向かい、タオルを構えたまま俺はもう一度促す。
「我が君よ。約束を覚えておるか?」
「あん?」
「忘れたとは言わせぬぞ。汝はこむすめを助ける対価として何と言った?」
「……」
俺の脳裏に、先ほどの記憶がフラッシュバックする。
……確かにあの時、間違いなく俺は宣言した。
『なんでも一つお前の言うことを聞く』。後先を考えず、まあなんとも軽率に言い放ったものだが、それ程逼迫した事態であったのだ。
「――確かに言ったが、何でこのタイミングなんだ」
「んっふふ~」
声を上げ、同時に満面の笑顔となるラピス。
見る者全てを魅了するようなその表情は――こと俺にとっては、とてつもない嵐の前触れとしか映らなかった。
「鈍いのう、我が君。湯舟に浸かる前のこの時であればこそよ。思い返してみよ。汝は以前この場で、わしの頼みをにべもなく断りおったじゃろう?」
頼み……?
彼女の言う言葉の意を察するため、俺は数日前のことに思いを馳せる。
たっぷり三十秒ほどの時を費やし、ようやく俺は思い当たる節に行きつく。
と同時に俺は、先ほどの嫌な予感が当たっていたことを思い知ることになるのだった。
「――……? ――あっ!? おっ、お前、まさか!?」
「よもや男に二言はあるまいな?」
確かに何でもするとは言った。
言ったが……なんって下らないことに使いやがるんだ!?
「いやしかしな、それはやっぱり倫理的にもだな……」
その行為は、ある意味一線を越えかねないものである。
何でも、とは確かに言ったものの、おいそれと了承するわけにもいかず、俺は言葉を濁してしまう。
「ほ~う? 何でも、というのは嘘であったか。この程度のささやかな願いすら受け入られぬとはの。がっかりじゃ、我が主君がその程度の男であったとは」
「ぐっ……!」
了解とも否定とも即座に明言しない俺に対し、ラピスはわざとらしい挑発を始める。
「はぁ~……。ただの一度きり、この貧相な体を主君の手自ら洗ってほしいという、これ以上ないほどにいじらしく、そして小さな願いですら叶えられぬとはのう。器量の狭い主を持ってしもうた臣下というのは辛いものじゃなぁ~」
「ぐ……ぬぬ……」
こめかみに血管が浮き上がるのを感じる。
声色も、口から出てくる言葉そのものも、腹の立つとしか言いようのない煽り様である。
しかし約束をした手前強く出れない俺は、悔しげに呻ることしかできない。
それをいいことに、彼女の煽りは勢いを増していくばかりだ。
「いやいやぁ、どうしても無理じゃと言うならわしは構わぬよ? ならば矮小な主君にふさわしい、もっと矮小な願いに変えてやっても――」
「――やってやろうじゃねえか!」
……挑発に負け、ついに俺はその言葉を口にしてしまう。
「ん? んん~? これこれ我が君よ、無理をせずともよいのじゃぞ?」
「やっかましい! おら、いいから後ろ向け!」
「くっくく……」
今から思えば、これは俺の気の短さを利用された形に他ならない。
加えて、今日この時にラピスが拘った理由――それは恐らく、俺が眠気と疲れでまともな思考が働いていないことに気付いたためであろう。
気付けば俺はラピスの安い焚き付けにまんまと乗せられ、ボディソープのプッシュ部を乱暴に押し続けていた……