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死神の激怒

 振り返った俺の視界には、いつの間にこれほど近くに接近していたのか、一人の男の姿があった。

 年は見た感じ20中盤から30前半……といったところだろうか。背の丈2メートルに届こうかという偉丈夫である。

 僅かに紫がかった、黒い衣服に全身身を包むその男の体は、衣服越しでも分かるほどに筋骨隆々とし、今にもはち切れんばかりだ。

 毛を全て後ろに流し固める、俗に言うオールバックにした頭髪は金で染め上げており――ここで俺が、それが地毛である可能性を考慮しなかったのは、刈り上げられた側頭部が一様に黒髪であったことによる。

 立派に整えられた顎鬚を撫でつつ、男は言った。


「よォ……それ、オレにもひとつくれないか?」


 ぎょろりとした、まるで猛禽類を思わせる目でもってして、男は俺を見下ろす。

 日の落ちかけた時分、男の顔は丁度逆光になって明瞭でないが、掘りの深いその顔付きは、およそ日本人離れしたものを感じさせた。

 素直に考えれば、単なる通りがかりか、あるいは見た目通りの――それこそ、その筋(・・・)の人間が気まぐれに話しかけてきたのかと思わないでもない。

 がしかし、俺たちの立つ特殊な状況を鑑みれば、自ら接触してくるような人物には最大限の警戒をもって当たるべき。

 その思いは彼女も同様であったようで、俺が横に視線を切ると、同じような目をしたラピスと丁度視線が交差した。


(おい……ラピス。この男、例の連中の仲間なのか?)

(――いや、我が君。まだそれは判断できぬが、少なくとも人間には間違いない。穢れの蓄積もまるで見えぬ。彼奴等の仲間とは考え辛い)


 能力により、俺たちは言葉を口に出さずとも意思疎通を図ることができる。

 彼女の言葉通りだとするならば、少なくともあの連中の関係者では無さそうだ。

 であるならば、多少警戒を緩めても構わないだろう。


 ――と、そう思いかけた、まさにその瞬間であった。


「いや、しかしなんだなァー……、エデンから話だけは聞いちゃいたが、こうして近くで見てもまるで信じられねえな」


 不意に口に出されたその単語、いや名前は――俺たちが、この世で最も忌み嫌うもの。

 しかしここで、俺たちは二人揃って致命的な失策を仕出かしてしまった。

 若干の気の緩みを感じた矢先であった故か、動き始めるのが僅かに遅れてしまったのだ。

 その遅れは――……これ以上ない返礼として、すぐさま帰ってくることとなる。


「……ほぉ? その反応、どうやら間違いないみたいだな。あいつの話と比べると、随分縮んじまってるみたいだが……まァいい。――そんじゃ、いくぞ?」


 ……ふわと、男の左足が持ち上がる。


「ラピスッ!!」

「ひゃっ――!?」


 咄嗟に出たこの俺の行動だけは、自分で自分を褒めてやりたい。

 俺はもはや身体ごと投げ出すようにしながら、ラピスを思い切り突き飛ばした。

 結果それは功を奏したのだが――その代わり、本来彼女が受けるはずであったそれを、俺はまともに喰らうこととなる。


「――ぐうぁっ!」


 俺はラピスを突き飛ばすため、身体を半分空に浮かばせた姿勢のまま、男の鋭い蹴りを迎え打つ羽目になる。

 この時、素早く両腕をクロスさせ受ける所作が間に合ったのは、まさしく奇跡に近いものだった。

 そうでなくば、恐らくこの瞬間既に俺は絶命していただろう。

 蹴りを受けた瞬間俺の脳裏に浮かんだのは、大型バイクに正面衝突されるイメージだった。

 ……いや。ややもすると、それすら凌ぐほどの威力であったやも知れない。


 俺はそのまま、空中できりもみ回転をしながら後方へ弾け飛ぶ。

 地面に数回バウンドを繰り返しながら跳ね飛ぶ度、堅いアスファルトに激突した骨が悲鳴を上げる。

 数メートルほども吹き飛んだ後、俺はようやく民家のブロック塀に激突することによって、その動きを止めた。

 だがしかし、その際に背中、そして後頭部をしたたかに打ち付けてしまう。


「かっ――」


 全身を襲う激痛に、止まらない吐き気。

 特に最後に打ち付けた部分、そして蹴りを受け止めた両腕の痛みが酷い。

 熱い液体が流れ出でる感覚から見るに、骨まで砕けてしまっているのではと思われた。


 ……まずい。

 油断のせいも勿論あろうが、まさかこんな急にとは思わなかった。

 後悔後に絶たずとはよく言ったものと、一体ここ数日で何回思ったことか。

 しかし、こと今回ばかりは修正が利かない。

 反省はもはや意味を成さないのだ。


「げ――がはっ……!」


 地に倒れる俺は、痛みに耐えつつなんとか顔だけを起こすと、血泡の混じった反吐を吐き出した。

 意識は朦朧とし、目を開けても視界すら霧がかかって定かでない。

 ……これは、いよいよもってまずいことになった。

 力を入れようとしても、足にまるで力が入らず、その場から身じろぎ一つすることもできない。

 一旦逃げて体勢を立て直すことなど、この分では土台無理な相談だ。


 ――いや、そんなことより。

 ラピスは無事なのだろうか?

 彼女のことに思いを馳せ始めたその矢先――ノイズめいた轟音が響く脳内へ、(かす)かに聞こえてくる声がある。


 ……!


 ……リ……ジ……!


「――リュウジッ!!」


 霞がかかった視界に俺が捉えしは、目に涙を溜めた死神の顔であった。


「……ラ……ピス……」


 俺はやっとのこと、ただたどしくも彼女の名を呼ぶ。


「よしリュウジ、息はあるな!? ――よいか、そのままじっとしておるのじゃぞ! 即死でなくば、今の汝ならば直ぐに負った傷は回復する! 決して動くでない!」


 俺はこの瞬間、全身を襲う痛みも一瞬忘れ、深い安堵に包まれた。

 その雰囲気をラピスも察知したのか、彼女は訝しげな表情を作る。


「リュウジ……?」

「よ……かった……無事……だった、んだな……」


 ラピスは。

 俺の言葉を聞き、ついに溜めたものを目から溢れさせた。


「この、愚か者……阿呆、馬鹿者め……! 主たるものが、たかが一匹の奴隷なんぞを庇いおって……。その様を見てみよ、酷いものじゃぞ」

「――はっ……」


 上手く表情に伝えられたかは怪しいものだが、こんな時だというのに、俺はつい吹き出してしまう。

 ……馬鹿はてめえだ。

 これ以上、お前が傷つくようなことは――誰が許そうが、この俺が許さねえ。

 それまで十分すぎるほどに酷い目に遭い続けていたお前だ。これから先は……そういったことは、全部俺の役目だ。


 とはいえ、情けないことにこれ以上は身が持ちそうにない。

 ならば、お前だけでも。


「に……げろ……ラピ――」

「お断りじゃ」


 俺の言葉を最後まで聞くことなく。

 はっきりと、ラピスは断言した。


「第一じゃの、わしだけ逃げたところで同じことよ。言ったであろう? 汝が死ねばわしも死ぬとな」

「ラピス……でも……」

「リュウジよ。わしが今、どんな心持ちであるか分かるか? ……わしはの、気が狂いそうになるのを必死に留めておるのじゃぞ」


 ラピスの言葉、そして表情は優しげなものであるが、彼女が言葉を続けるにつれ、俺の背を冷や汗が濡らし始めた。

 その量は、恐らくはあの男であろう者の殺気に当てられた時よりも多い。


「誰であれ、汝を傷つけし者には然るべき報いを受けさせねばならぬ」


 言って、ラピスは倒れ伏せる俺の前で仁王立ちになると。

 ――やがて、彼女の全身は、余すところなく黒い炎で覆われ始めた。


「そこでしかと見ておれ。本当の、神の力というものをな」


 ラピスは、俺に背を向けたまま言うと。

 次の瞬間、彼女の体に纏わりついていた炎が衣服を燃やし、代わりに元の姿――死神としての格好へと変化する。

 右手にしっかりと例の大鎌を携えたその姿は、ラピスがこの後何をしようとしているのか、雄弁に物語るものであった。


「おいおい……モロすぎんだろ」


 男の声が届く。

 視線を眼前のラピスよりも前方に動かせば、興覚めした風に頭を掻く男の姿があった。

 俺は相当な距離を吹き飛ばされていたらしく、男までの距離はそれなりに遠く感じる。


「本当にてめェ、あのガキに勝ったのか? わざわざこんな別次元くんだりまで来て――おっ?」


 男は、少々驚いたような声を出す。

 恐らくはラピスの姿、その変貌に気が付いたのだろう。


「ほーお……そっちの小僧の方じゃなかったってことか。――いや、悪かったな? それで、お前には期待しても――」

「黙れ」


 果たして男に届いたかは怪しい。

 ラピスは一言そう呟くと、男に向かい真っ直ぐ、空中を飛んだ。

 まさしく空中を滑空するラピスのスピードは尋常でないもので、瞬く間に男との距離を詰める。

 流石にこの速さは予想外だったのか、男は驚きに目を見張る。


「っほぉ! いい速さだ! ……だが甘ェな!」


 そう。

 男の言う通り、スピードこそあるものの、ラピスの動きはあまりに愚直に過ぎた。

 頭に血が上りすぎて、冷静な判断がつかなくなっているのかもしれない。


 男は、ラピスを迎え撃つ形で足刀蹴りを繰り出す。

 その威力は俺が身をもって知っている。華奢な彼女の体など、まともに食わずともひとたまりもないだろう。

 ただでさえラピスは頭から突進しているのだ。

 俺は、次の瞬間にも起こるであろう結果を脳裏に浮かばせ、背筋を凍らせた。


 ――が。


「……っ!?」


 足を伸び切らせた姿勢のまま、男の顔が混乱の様相を呈する。

 それもそのはず、目の前まで接近していたはずのラピスが、忽然と姿を消していたからだ。

 この様子を遠めから眺める俺のみが、今この瞬間に何が起こったのかを察する。

 ラピスの姿は、男の背後、それも男の背丈よりも上空に移動していた。


 ――分身?


 ――超スピード?


 いや、そのどちらでもない。

 そんな小手先の誤魔化しではなく――魂を共有する俺には理解できた。

 ラピスは、衝突のその瞬間、存在ごと姿を消し、瞬時に別の場所へと再出現したのだ。


 背を地面に向かわせた、空中で横倒しになった姿勢で現れたラピスは、既に鎌を振りかぶっている。

 それまで突進していたスピードの残滓を回転力に変換し、未だ彼女の姿を視界に捉えぬ男に向かい振り下ろす。

 青白く光る刃の切っ先、そして彼女の目から発される赤が、二筋の円弧を描く。


「――死ねっ!!」


 間違いなく命中する。

 俺もそう信じて疑わなかったが――


「……ッ!!」


 すんでのところでラピスの存在に気付いた男は、間一髪、身を躱すことに成功する。

 目標を失った鎌はそのまま、深々とアスファルトの地面に突き刺さった。


「おお~……あぶねえあぶねえ。流石にヒヤっとしたぜ」


 男は一歩退くと、額の汗を拭う。


「……だがなァ、声を出したのはちっと不味かったな? 黙ってりゃそのままブッ刺せてただろうによ。駄目だぜ、倒すまで油断はしちゃいけねェ」

「……チッ!」


 ラピスは歯痒そうに舌打ちをすると、間髪置かず再度、男に襲い掛かった。

 鎌が呻りを上げ、男の肉を引き裂かんと振るわれる。

 ――二度、三度。

 幾度も斬撃が繰り返される中、男はそれを紙一重で避けつつ笑う。


「はっはァ! やるじゃねェか! こりゃ来た甲斐があるってもんだ!」


 飄々とした声を上げてはいるが、実際男の方もかなり本気になっていると見える。

 その証拠に、全ての攻撃を避けてはいるが、攻撃に転じてはいない。


「ぬぅっ……!」


 ラピスの方は、初激を自らの迂闊さから外してしまったこと、また今現在も攻撃をまともに喰らわすことが出来ていないことで、顔には若干の苛立ちを浮かばせている。

 先ほどのワープめいた動きも度々見せたが、それでも致命の一撃を与えられていない。

 しばらくこの攻防が続く中、俺の身にも変化の兆しが表れ始めた。


 それまで頭の中で響いていた耳障りな轟音は鳴りを潜め、体中の痛みも随分と落ち着いてきている。

 攻撃を直に受けた両の腕だけは未だ完治していないようで、まるで感覚がないが、それ以外は概ね回復したようだ。

 よろよろと立ち上がった俺が再び前を見れば、情勢が新たな動きを見せるところであった。


「――ふっ!」

「なっ……!?」


 ――真剣白羽取り。

 実際にこの目で見るのは無論、これが初めてである。

 振り下ろされた鎌の先端を、男は器用に両の掌で挟み込み、その動きを止めている。


「……惜しいねェ。速さは申し分ないが、動きが素直すぎだ。……お前、これまで実際に戦った経験がないだろう?」


 まさしく。

 長きに(わた)り、冥府で一人きりで過ごしていたラピスに、まともな戦闘経験などあろうはずがない。

 むしろ――にもかかわらず、よくあれほどの動きが出来たものだと驚嘆するばかりだ。


「まァー……そこそこ楽しかったぜ。でもま、これで終わりだな」


 男の勝ち名乗りにも似た宣言にも、ラピスは動じず。

 片方の口角を上げ、言った。


「……匹夫めが、勝ち誇るには早いわ」


 矢継ぎ早の連撃でもって男の反撃を封じ込めていたラピスにとり、今の状況は言うまでもなく最悪である。

 だというに、何故彼女は余裕の態度を崩さないのか。

 未だふらつく状態なれど、それでも彼女を助けんと駆け出そうとした時、俺の脳裏にある記憶が蘇った。

 ……あいつの、あの鎌。

 あの時(・・・)、ラピスの腹に刺さってたのを俺が抜こうとした時のことだ。


 ――あの時、俺はどうなった?

 答えはすぐさま現れることとなる。


「――ぐぅおっ!?」


 両の掌で白刃取りをした姿勢のまま、やにわに男が苦しげな声を上げた。

 ()いで片膝をつくも、鎌を抑える手を放そうとはしない。


「くかかかっ! 阿呆めが、油断しおって! まさか己自ら掴むとは、手間が省けたわ!」

「……ぬぐっ……!」


 ……いや。

 もしかすると、放さないのではなく、放せないのではないか?

 ラピスが次に口にした台詞から、この推察は当たっていたことが明らかになる。


「おっと、今さら放そうとしても無駄じゃぞ? 痴愚なる匹夫めが、己の無知を恥じて死ね!」

「ぐっ……! くっ――」


 恐らく何らかの方法でもってして、男の手を鎌に吸いつけているのだろう。

 また、何故(なにゆえ)男が苦しんでいるのか、俺にも実感として(・・・・・)分かってきた。


 俺の身に、言いようのない力が湧いてくるのを感じる。

 間違いない、ラピスは今、あの男の力――彼女の言葉を借りれば、『魂』あるいは『穢れ』を我がものとし、吸収している。

 それが、存在を同じくする俺にも伝わっているのだ。


 ……しかし、なんという力か。

 たった数秒にも満たぬというに、生命力が身中に駆け巡るのを感じる。

 人ひとりの魂が皆それだけのものを有しているのか、あの男の持つそれが桁外れなのか。


 恐らく、後者であろう。

 あの時のラピスの言葉が真実であるなら、本気で力を奪おうとしている今、男の命は即座に刈り取られ(・・・・・)、塩の柱となって砕け散っているはずだ。

 それが、もう既に十数秒は経過しているというのに、男は苦しげに片膝をつきつつも、未だそうなる気配はない。

 これには俺よりむしろ彼女の方が予想外であったようである。


「……貴様、本当に人間か? かように耐えようとは――それに貴様、『穢れ』が全く感じられぬのは一体――むうっ!?」


 ラピスが声を上げる。

 見れば男の様子、そしてラピスの様子がおかしい。

 空中で静止するラピスが、徐々に上へと持ち上がり始めているのだ。


「ぬくっ……おおっ……」

「なっ!?」


 鎌ごとラピスを持ち上げた男は、驚きのあまり声を上げる彼女に構わず。


「おっ……らああああっ!」


 渾身の力でもってして、咆哮を上げながら垂直に腕を振り下ろす。


「――がはっ!」


 まさかこの状況で動けるとは思いもしなかったのだろう、それに鎌に手を吸いつかせていたのがこの時ばかりは裏目に出た。

 地に叩きつけられたラピスは地面に背から激突し、その衝撃に声を上げる。


 そして、その瞬間。

 俺の足は無意識に駆け出していた。

 腕の方は未だ完全に回復しているとは言い難いが、そんなものは関係ない。

 およそ自分の足とは思えぬスピードでもって突進する俺は、瞬く間に二人との距離を詰める。


 ラピスから受けたダメージが深かったらしく、男が俺に気付き振り向いたのは、既に俺が目の前にまで接近した時だった。

 僅かに驚いた表情を浮かべる男は、片膝を付いたままの不安定な体勢で、迫る俺を追い払うように水平に手刀を繰り出す。

 がしかし、その攻撃は先ほどの蹴りと比べるとまるで勢いに欠けており、俺にとってはこの上ない幸運として働いた。


「どけええ!!」


 咆哮を上げつつ俺は顔面に迫る手刀を皮一枚で躱すと、すれ違いざま地に横たわるラピスを抱え、そのまま走り抜けた。

 十分距離を取ったと思われる辺りで止まった俺は、小脇にラピスを抱えたまま、男の方を振り返る。

 再度目にした男は既に立ち上がっていたが、俺を追うような素振りは見せてはいない。


 男は、先ほど俺に向かい繰り出した右手に一瞬目をやった後、俺を見据え――にやりと笑った。


「……やるなァ、小僧」


 心底嬉しそうな声色。

 俺は何の返答も返さず、その代わりとばかり、口からあるもの(・・・・)を吐き出した。

 ぼとりと気持ちの悪い音を立て、地に転がった二つの物体。

 ……それは、人間の指であった。


「いつ以来だろうなァ、傷を付けられたのはよ。そうだ、戦いってのはこうでなっくちゃァいけねぇよ……くっ……くくっ……」


 俺は避ける際、男の小指そして薬指の二本を食い千切っていた。

 自分でも無意識化の行動であったが、ラピスに傷を負わせた男への怒りがそうさせたのであろう。

 口の中に未だ残る感触と鉄臭い味覚の残滓が、今さらながら俺に吐き気を催させた。


「……ラピス。平気か?」

「うむ、問題ない。それよりリュウジ、汝の方こそ無理をするでない。まだ回復しきってはおらぬはずじゃ」

「そうも言ってられねえだろ……なんなんだよ、あいつは」

「わしもちと驚いたの。人間には違いないとは思うが……それも自信がなくなってきたわい。いや、それより……これはまずいことになったの」


 荷物のように俺に抱えられたまま、ラピスは言う。

 まずいこと、というのは他でもない、彼女の武器である鎌のことである。

 俺はラピスを救うことのみを考えていたせいで、鎌にまでは気が回らなかった。

 ラピスの身体能力、それに今や俺も相当な能力の向上を実感してはいるが、眼前の男には到底敵いそうもない。

 であれば、有効打を与えられる唯一の武器である鎌が今手にないことはいかにも痛い。


 その鎌は今、男の足元に転がっている。

 よもや男に逆に使われる、ということはないだろうが、いずれにせよ状況は悪い。

 どうしたものかと俺たち二人が考えを巡らせる中、男は思いがけない行動に出た。


「――ほれ、返すぜ」


 なんと、男は鎌の柄を足で蹴飛ばし、俺たちへと寄越したのだ。

 足元まで転がってきた鎌、次いで男へと視線をやった俺たちは、男の真意を推し量れず困惑する。

 男の、俺に食い千切られた部位からは止めどなく血が流れ出し、地に赤い水溜まりを作り出しているが、男は一切それに気を取られる様子もなく、それまでと一切変わらぬ様子で続ける。


「しっかし――……どうすっかね。オレとしちゃ、このまま続けても構わねえんだが……」


 男が周囲を見渡す。

 俺たちもそれに倣えば、いくつかの民家の窓には、俺たちを遠巻きに見る人々の姿があった。

 これだけの騒ぎを起こしているのだ、この状況も無理からぬことである。

 そうして周囲の状況を確認した後、男の方へと再度視線を戻した時、俺の目が新たにあるもの(・・・・)を視界に捉えた。


「このままじゃァまた邪魔が入るかもしれねぇな。弱いヤツらを殺すのは好きじゃねえんだ、気分が悪くなる」


 男の言葉も、今の俺にはまるで耳に届かない。

 目線をそれ(・・)に固定させたまま、俺の心臓は早鐘を打ち、頭の中はこれまでにない混乱を生じさせていた。


「そうだな、どっか場所を変えて――ん? どうしたよ」


 俺の視線が男を向いていないことに気付いたのか、釣られて男が背後へ振り向く。


「せ……んぱ……?」


 男の背後。

 俺の目に映る、驚愕に目を見開いたまま立ち尽くすその女性は――俺のよく知る後輩、鈴埜であった。

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