かの地よりの足音
「惣一朗さん、そこまで言っちゃうんですかぁ……?」
おずおずと遠慮がちに言うエリザさんはしかし、発言の内容そのものに対しては否定する様子を見せない。
ということはやはり、今言ったことは本当のことなのだろう。
「いいかいエリザ、我々の信用は地に落ちている。特にそこの彼女にとっては――いや、仮にも神と称えられる方にこの物言いは失礼かな。まあとにかく、この件については君が悪いのだろう? 君の態度を見ていれば分かるよ」
「うう……はいぃ~……」
「だとすれば、我々がすべきは正直に話すことのみだ。包み隠さずにね」
声を荒げることなく淡々と諭す惣一朗さんの言葉に納得したのか、エリザさんは再び首を垂れる。
しかし俺の方はそう言われてもやはり、今一度確認せずにはいられない。
「サキュバスって……あのサキュバスですか?」
「概ね君が思い浮かべるイメージに相違ないと思うね。……いや、実際はそれ以上というか、なんというか。私もエリザの本性を知っていれば、あるいは今こうして一緒になどなっていなかったやも。……君も気を付け給えよ、出会った当初のエリザもそうだった。最初は毒気のない小さな少女を思わせて……まったく騙された気持ちだよ」
「ちょっと、惣一朗さん!?」
しゅんとなっていた彼女だが、今の言葉を聞くや、それは聞き捨てならぬとばかり惣一朗さんに食ってかかる。
彼女に視線をやる惣一朗さんの目は、呆れとも諦めともどちらにも取れるような、そんな色を浮かばせていた。
「……今や僕は誰に会っても老人扱いされるんだぞ。現に彼だってそうだった。君がもう少し思慮深い性格であったならば、こんなことにはなっていないというのに。今回のことにしても、どうせ君の短慮から来たものなのだろう。まったく、君は昔からいつもそうやってトラブルを持ち込んで……その度に君の尻拭いをする僕の気持ちにもなってほしいよ」
「あ~っ、すぐそうやって昔の話を持ち出してぇ~っ! 今回のこととそれは関係ないですぅ! だいたい惣一朗さんだって、イヤならイヤだって言ってくれれば良かったじゃないですかぁ! 今さら何十年も前の話をねちねちとぉ!」
「断ると君が泣くからだろうが! 毎回毎回、僕が折れるまでずっとメソメソとしつこいったら……!」
「しつこいとは何ですかぁ! 自分の妻に向かってぇ!」
「それだって君にまんまと既成事実を作られたせいだろうが! なにが「種族違いだから大丈夫」だ! 今なら分かるぞ、君は初めから計算ずくで――」
ヒートアップした二人は、俺たちのことを忘れたかのように痴話喧嘩を始めた。
……なんだろう。この二人を見ていると、何故だか既視感を覚えるな。
まるでどこかの二人組を見ているようだ。
俺は、その片割れである人物に目をやる。
「……ん?」
ともすれば、また怒りの形相になっているのではと憂慮しながらのものであったが、視界に入ったラピスの横顔からは、怒りの感情は読み取れなかった。
……と言うより、ラピスは二人のことなど頭から抜け落ちてしまったかのように、視線を何もない中空に浮かばせつつ、呆然とした表情でもって佇んでいる。
あれほど油断なく構えていたというのに、この変わりようは如何にしたことか。
「種族違い、でも……それに……いや、とするなら……あるいはこの姿であっても……」
そうした様子を見せていたラピスは、ぶつぶつと何ごとかを独り言ちている。
が、しかしその声はあまりに小さく、俺の耳にはっきりと届くことはなかった。
「おい、ラピス?」
「我が君……」
「うっ……」
顔をこちらに向けたラピスは、俺の服を片方の手でそっと掴み、そのまま何も言わず俺をじっと見つめてくる。
よくよく見ればその瞳は濡れ、今にも涙を溢れさせんばかりである。
「おっ、おいって……どうしたんだよ。なあお前、もう忘れたのか、今がどんな時か。お前が言ってたんだろうが」
俺が言えた台詞ではないかもしれないが、とにかく失った舵を元に戻そうと俺は必死になる。
何故だかは分からないが、このままラピスに口を開かせるのは危険な気がした。
「むぅ~……」
と、ラピスはたちまち頬を膨らませ、いかにも不満げな唸り声を上げた。
俺の言葉の何が気に障ったのか、それは定かではないが、一応俺の目的は達成できたようだ。
ラピスはぷいと俺から視線を外すと、未だ痴話喧嘩を続ける二人に向かい叫ぶ。
「ふん、分かっておるわい。――こりゃ貴様等、いい加減にせぬか!」
一喝され、そろそろ取っ組み合いの様相を呈し始めた二人の動きがぴたりと止まる。
元の座る姿勢に戻った二人は、互いにばつが悪そうに目を背けさせている。
「――ん、んんっ……ゴホン。すまない、見苦しいところを見せてしまったね……」
「ふふん、まあよかろう。今回だけはこのわしの広い心で許してやろうぞ」
……先ほどから、どうもラピスの様子がおかしい。
これまで可視化できるほどに彼女の身から発されていた怒りのオーラも、今やすっかり立ち消えている。
油断するな、危機感を持てとさんざ俺に言っておいて、この変わりようは一体どうしたことだ。
俺が訝しんでいる中、惣一朗さんが口を開いた。
「話を戻そう。それではサナトラピス殿――でいいかな。エリザが君に、いや君たちに何をしたのかお聞かせ願えないかね」
「話は簡単じゃ。そこな女が我が君に対し、こざかしい呪いをかけよった。故にそやつには相応の対価を支払ってもらわねばならぬ」
「呪い? 僕の知る限り、彼女にそんな力は無かったはずだが――どうなんだね、エリザ」
「……」
「エリザ、何故黙っているのかね? 僕の目を見なさい」
そう促されてもエリザさんは正座したまま、視線を机の一点に落としたまま微動だにしない。
正直言って、先の彼女の話が本当であれば、ことの元凶はエリザさんではなく鈴埜ということになる。
であれば、素直にそう言えばこれ以上彼女が惣一朗さんに責められることも無さそうなものだが、彼女はそうしようとしない。
彼女自身、その考えに思い至っていないはずはない。
とするなら考えられるのはさしずめ、娘を庇って――といったところだろうか。
……まあ、誰が俺に、というのはことの根幹ではない。
最も知りたいことは呪いの正体、そして完全な解除方法だ。
そう思った俺は、ここはひとつエリザさんに助け舟を出すことにした。
「惣一朗さん、もう少し説明すると、どうもその呪いはとある本が原因みたいなんです。エリザさんが作ったのかと思ってたんですけど、どうも話を聞くと違うみたいで。惣一朗さんは何か知ってませんか?」
「本……?」
惣一朗さんの眉がピクリと動く。
「まさか――……それで夢野くん、その本はどのようなものだった?」
「内容って言われても……なんていうか、いわゆる小説とかじゃなく、絵本みたいな。それに何か最後に妙なものがあったような気もするけど……すいません、それはちょっと覚えてなくて」
俺の説明は詳細を欠くふわふわとしたものだったが、言葉を続けるにつれ、惣一朗さんの顔は一層険しさを増していく。
「……夢野くん、では外観について聞こう。それはタイトルも作者の名前もない、真っ黒な装丁のものではなかったかね?」
「え? ……ええ、確かそうだったと」
「――エリザッ!!」
「ひゃいいいいっ!」
惣一朗さんは叫びながら立ち上がり、怒りを込めた目でもってしてエリザさんを上から睨みつける。
その怒号に彼女は背筋をぴんと跳ねさせ、悲鳴にも似た返事を返す。
「君は勝手にあそこに立ち入ったばかりか、こともあろうに中のものを持ち出したのかっ! あれらが如何に危険な代物か、君に分からないはずがないだろう!」
「ごめんなさいいいい~っ!!」
エリザさんは身をすくめ、両腕を顔の前にやりながら、脅えた姿勢でもって叫ぶ。
惣一朗さんはそんな彼女を暫く上から睨めつけていたが、やがて肩で息をしつつ俺たちに向き直った。
「ふぅ……ふぅ……すまない、夢野くん。それにサナトラピス殿。少しここで待っていてもらえるかね」
「え……あ、はい」
「ありがとう。すぐに戻るよ――……君も一緒に来るんだ!」
「はいいい~……」
惣一朗さんは腰の痛みも忘れたかのようにずんずんと歩き、そのままエリザさんを連れて部屋から出ていってしまった。
杖を持つことすら忘れたようで、それは今まで彼が座っていた場所の横に一人寂しく転がっている。
「……なんだというのじゃ、一体」
流石のラピスも、先ほどの彼の剣幕には面食らった様子である。
すぐに扉が乱暴に開け放たれる音が届き、そして暫くの間、家の中は静寂に包まれる。
時間にして5,6分だろうか。
エリザさんを連れて戻ってきた惣一朗さんは、見覚えのある本をその手に持っていた。
再び机を挟んで座る形になると、彼はその本を俺たちの前に差し出す。
「最初に改めて謝っておこう。エリザの軽率な行動、そして僕の監督不行き届きを」
本を前に出した後、惣一朗さんは再び、俺たちに深く首を垂れた。
俺は、差し出された本を見る。
真っ黒な装丁、タイトルも何も無いその本は、一見して同じもののように思える。
しかし、俺の記憶にあるものと比べると、厚みが随分と増しているように思え、さらに真新しい様子であった例のものに比べると、これは何十年も経っているようにボロボロだ。
「あの……ではこの本が、あれと同じものってことですか」
「厳密に言うと違うがね。まあ実際に見てもらった方が早かろう。夢野くんには無理だろうが、君なら読めるのではないかな」
そうラピスへ言った惣一朗さんは、本を彼女に差し出す。
黙ってそれを受け取ったラピスは、ぺらぺらと頁をめくってゆく。
「……ふむ、ふむふむ。確かにわしもよく知る理でもって記載されておる。どうやら偽りではないようじゃな……ん? これは……」
ロクに内容を確認しているのか怪しいほどに次々と頁をめくり続けていたラピスだったが、ある地点で指が止まる。
そして初めて内容をじっくりと読み解く様子を見せていたが、やがて彼女の身から再び、可視化できるほどの怒りが姿を現し始めた。
「――あ……の、こむすめっ……! よもやとは思うておったが、やはりこのような術を……!」
ラピスは紙が歪むほど強く本の両端を握り締め、額には無数の血管を浮き上がらせている。
身体を怒りに震わせるその様子は、先ほど俺を一喝した時よりもさらに激しいものだ。
「おいラピス。どうした、何が書いてあったんだ」
俺が一声かけるも、ラピスは俺を一瞥したのみで、質問に対する答えを返すことはなかった。
代わりに一旦本を置き小さく息を吐くと、再び二人に視線をやる。
「……しかし、これだけでは辻褄が合わぬ。ざっと目を通してみるに、この本に記されておる術はどれも相当に高度なものじゃ。確かに下地は同じものを使うておるようじゃが、我が君にかけられたものはこれとは比べ物にならぬほど適当で雑なものであったぞ。これはどう説明するつもりじゃ? そもそも貴様、これを何処で手に入れたのじゃ。かようなものを、そこな女が作成できるとは思えん」
「適当で雑……か。はは、手厳しいね」
ラピスから視線を外した惣一朗さんは、気恥ずかしげに頭を掻く。
「エリザが持ち出した本はね、その本に書かれている内容の一部を元に僕が書いた写しなんだよ」
「写し……? されば、あれは汝が書いたものと?」
「その通り。エリザがどれを持ち出したのかまでは聞いていないが、それを元に僕が書いた写本のうちの一つだろう」
「貴様はただの人であろう。如何にしてかようなことを可能とした? そこな女の助けあってのものか?」
「いいや、彼女は関係ない。確かに彼女は向こうの世界の住人ではあるが、この手の知識には疎くてね。その本はかつて僕が、エリザの前に会った女性から譲り受けたものだ」
二人の会話から、またも新たな情報が飛び出してきた。
エリザさんという存在だけでも、既に俺の頭はパンクしそうだというのに。
はっきり言ってこれ以上は勘弁願いたいものだが、知った以上無視するわけにもいかない。
「……てことは惣一朗さん、他にも例の世界の奴と交流が?」
「かつての話だよ。それにその女性とはもう、会いたくても会えないからね……」
「……?」
どこか遠い目で言う惣一朗さんに対し、俺はどう言葉を続けたものか一瞬迷う。
と、俺が答えを出さぬうちにラピスが再び口を開いた。
「それで、当然これは頂いていくが、勿論構わぬよの?」
片手に持った本を上下に振りつつ、ラピスは言う。
「う~ん……できればまた後日、返してもらいたいところなんだが……」
「……ふむ、まあよかろう。術式さえ分かれば解除は難しくない。一通り目を通した後に返してやろう」
「ありがとう……感謝する」
「くかか、そうじゃ感謝しろ。そして我が威光と寛大さに感涙するがよい」
あっさりと申し出を受諾するラピス。
……やはり、何かがおかしい。
俺でさえ、この提案に孕む危険はいくつか思いつくというのに、こいつがその考えに至っていないはずがない。
「なあラピス、大丈夫なのか? その本を借りるだけで、本当に俺にかけられた呪いが解けんのかよ。お前は今、力を失ってるはずだろ? 結局解除できなかった上、もし更になんか上書きなんざされたら……」
「どうした我が君、急に慎重になりおって。先ほどまでとはえらい違いじゃの。心配せずとも、呪いのあらましはほぼ把握したでな、確かにそこな女の言っておった通り、直ちに命に関わるようなものではない。……しかし我が君よ、いつもそうあってくれれば、わしの苦労も少しは減るのじゃがな?」
お前が急に態度を変えたからだよ。
「あのぉ~……」
とここで、エリザさんから遠慮がちに片手が上がった。
「どうしたんだい、エリザ」
「ええとぉ……竜司くん。さっきから気になっていたのだけど……あなたはサナトラピス様のご配下なのよねぇ? それにしてはお互いの呼び方が~……」
「――はんっ」
この言葉をラピス聞いたラピスは鼻で笑うと、俺に代わり答える。
「な~にをたわけたことを抜かしおるか、この女は。――逆じゃ、逆。この男はわしの主人、そしてわしはその奴隷じゃ」
「へっ……!? で、でも、神たるお方がそんな……え、もしかして竜司くんもそうだったりするの?」
「いやいや……俺は普通の人間ですよ。俺たちの関係はその……話すと長くなるんで」
「まあまあ、誰しも触れてほしくない部分はあろうよ、エリザ。……しかし夢野くん。くれぐれも気を付け給えよ」
やにわに真剣な目つきになった惣一朗さんは、じっと俺の目を見据える。
今日一番の迫真さ、といった風なその様子に、俺も身を固くして答えた。
「何をです?」
惣一朗さんは横の女性に一瞬視線をやり。
感情をたっぷり声色に含ませ、言った。
「女というのはね、非常に恐ろしい生き物だということだよ。年長者からの忠告だ。心の隅にでも留めておいてくれ」
「え……は、はぁ……分かりました」
惣一朗さんの言葉は、およそ俺が予想していたいずれでもなかった。
俺はどう答えていいものやら分からず、曖昧な返答を返すことしかできない。
「惣一朗さぁん~? なんで一瞬私を見たんですかぁ~?」
「はぁ……。本当にね、気を付け給えよ……」
疲れたように言うと、惣一朗さんはお茶をひとつ口に含む。
茶を嚥下した後、彼は続けた。
「さて。他にも色々と聞きたいことはあるだろうが、それはまた後日、ということで一旦話を終わらせて構わないかな」
「む? なぜじゃ?」
「そろそろ娘が帰ってくる時間なんだ。彼女は自分の母親が人ならざる者だということを知らないからね……。この場で君たちと引き合わせるのは不安が残るんだ。もちろん君たちが娘に何もしないだろうことは分かっているが」
「あー……う~ん……」
そうか、そういえば彼は知らないのだった。
俺が、既に鈴埜と顔見知りだということを。
そのことを言うべきか否か俺が判断を下しかねている中、彼は更に続ける。
「……それに、君たちが去った後、エリザとようく話あっておかねばならないしね」
「あ、あは、あはは……そ、惣一朗さん、目が怖いですよぉ……?」
ギロリと睨みつけられたエリザさんは、動揺を誤魔化すような半笑いになり、言う。
やはり惣一朗さんの怒りは未だ鎮火していないようだ。
「よかろう。わしに代わり、その女によく言い聞かせておくがよい。言っておくが二度目はないぞ。次もし同じようなことがあらば、その時は――」
「もちろん、きつく言い聞かせておくつもりだ。安心してほしい」
「ふん、ひとまず信じておいてやろう。当初は貴様等二人とも魂ごと消してやるつもりであったが、先ほどの情報で一応それは勘弁してやろうぞ」
「はて……? 何か有用な情報をお渡ししたかな? 本の所有者だった女性のことなら、あまり話せることはないが……」
横で聞く俺も初耳である。
機嫌が突如として良くなったのはそれが原因か。
……しかし、改めて会話の流れを遡ってみても、特別こいつが喜ぶような情報はなかったように思うが。
「かような目にしたこともない女のことなぞどうでもよいわ。そんなことより、もっと喜ばしい知らせを汝らから得たでな。……うむ、そうじゃの。ひとつその労に応え、わしから貴様にひとつ褒美を取らせてやろう」
「なんと、多大な迷惑をかけたというのに、実に寛大な申し出だね。正直心苦しいが、一体何をお下賜くださるつもりなのかな」
「うむ。ちと待つがよいぞ」
ラピスが言うと、彼女の座る中空に、奇妙な光の輪らしきものが出現する。
大きさは直径30cmほどだろうか。丸い円の中に、星のような図形が浮かんだ――そう、これはアレだ、漫画なんかでよく見る魔法陣ってやつだ。
逆五芒星が描かれた魔法陣の中に手を突っ込み、ごそごそと何やら手を動かしていたラピスは、ややあって目的のものを探し当てたようである。
「――っと、よし。あったあった」
こいつ、何をおっぱじめるつもりだ?
俺が訝しんでいる中、ラピスは魔法陣から長い棒状のものをゆっくりと取り出す。
「……」
なんだろう、嫌な予感がする。
……まさかとは思うが――いや、この流れでそんなことはないはず。
――が。
「ふう、この体では取り出すのも一苦労じゃ」
俺の悪い予感は的中し、ラピスは一仕事終えたとばかり、呑気に汗を拭う。
魔法陣から姿を現したのは、もはや言うまでもなかろう、例の大鎌である。
「うむ、それではゆくぞ。――動くなよ?」
三人が呆気にとられている中、ラピスは構わず鎌を振りかぶる。
「サナトラピス様ーっ!?」
「おいちょっと待てー!」
エリザさんの絶叫と、俺がラピスに突進したのは同時だった。
勢いを付けて衝突した俺は、そのままラピスを押し倒す形になる。
眼下に見えるラピスは、驚いた表情の後、何故か顔を赤らめた。
「わ、我が君!? ……い、いかんぞ? こんな、人前でそんな……」
「ドアホッ! そうじゃねえ、お前言ってることとやってることが滅茶苦茶だぞ! とりあえず許してやったんじゃないのかよ!?」
「うう゛~……、惣一朗さぁん……」
エリザさんは惣一朗さんを庇うように抱き着き、すすり泣いている。
惣一朗さんの方も、この突然過ぎる展開には唖然としている様子だ。
「……おお、なるほど。ちと性急に過ぎたかの。勘違いさせてしもうたようじゃ」
ラピスはそんな二人の様子を見て、少しばかりの謝意を含ませた声を出す。
そして俺の下から抜け出し座り直すと、未だ驚き目を見張っている惣一朗さんに対し、あることを宣言した。
「よいか、惣一朗とやら。まず最初に宣告しておこう、汝はそう長くもないうちに死ぬ」
再び、俺たち三人は言葉を失う。
「今のわしでは正確な刻までは分からぬが、まあこのままでは一年と持たぬであろうな」
「サナトラピス殿……それは、本当のことかね」
「うむ、間違いない。その原因は言わずもがな、そこな女にある」
ラピスはエリザさんに視線をやりつつ、続けた。
「サキュバスという種が如何な性質を持っておるか、わしもそこは与り知らぬが、まあ随分と景気よく力を吸わせてやったものじゃ。むしろ貴様、その様でよく今の今まで生き永らえておったの。大した精神力じゃと褒めてやりたい程よ」
「……」
「貴様の身には今、有り得ぬ程の穢れが蓄積されておる。わしの記憶にも、かようなまでの穢れをその身に有した者はそう記憶にないわ。ここで取り除いておかねば――もしこのまま死ねば貴様、死後の輪廻の輪には入れぬぞ」
そういえば、かつてこいつは言っていた。
あまりに穢れを貯め過ぎた人間は、その後の輪廻――生まれ変わることなく、存在ごと消滅すると。
「そんな……――そ……そういちろ、さ……あの……」
そんな、無慈悲な宣告を聞いたエリザさんは顔面蒼白になり、惣一朗さんと向き合ったまま、声にならぬ声を上げる。
そして惣一朗さんは、腕を彼女の頭に回すと、優しく彼女を抱き寄せた。
「……エリザ、そんな顔をするな。これまで君と共にあったのは他ならぬ僕の意思だ。……しかし、余命一年とは。流石にショックだね、これは……」
「そ゛ういぢろうざぁん……」
突如としてなされた余命宣告には流石に気落ちしたのか、彼女を慰める声にもいささか張りがない。
そんな感情の機微には彼女も聡いようで、益々彼女の声は濁り、哀れを誘うものとなっていった。
「たわけども、なにを揃って悲観に暮れておるか。じゃからこそ、このわしの出番というわけよ」
嘆き悲しむ二人に向け、無遠慮な言葉を投げかけるラピス。
流石にここまでくると、そろそろ俺にもこいつの目的が分かってきた。
今までの話の流れ、そして『穢れ』を吸うというラピスの能力――その二つを併せ考えれば、いくら鈍い俺でも粗方の想像はつく。
「ラピス。つまり――その鎌で、惣一朗さんから問題の部分だけを取り除こうってんだな? それも、命には差し障りのない範囲で」
「流石じゃの、我が君。その通りじゃ、しかもこれはそ奴の命を長らえさせると同時にわしらの糧ともなる、まさに一石二鳥の妙案というわけよ」
ふふんと得意げに言うラピスだが、俺としてはやはり一応、もう少し念押ししておく必要があるだろう。
「でも本当に大丈夫なんだろうな。勢い余って殺したりしたら洒落じゃ済まねえぞ」
「かような心配は無用じゃ。それともなんじゃ、このわしを信頼できぬと仰せか?」
……さっきまで思いっきりそうしようとしてただろうが。
「サナトラピス殿」
「うむ?」
変わらずエリザさんを腕に抱く惣一朗さんから声が上がる。
その目は未だ混乱の色を浮かばせていたが、上がった声色から判断するに、ある程度の落ち着きは取り戻したように思えた。
「ことの次第はよく分かった。しかしやはり僕にも不安はある。生来臆病な性分なものでね……何かあった時のため、このことはエリザとよく話し合ってからにしたいのだが」
「ふむ……我が君の意見は?」
「……ま、次でいいんじゃないか。例の本を返しに来た時に決めるってことで。いきなり今日明日にも死んじまうってわけじゃないんだろ?」
かくして、とりあえずこの件は次回改めて、という次第になった。
鈴埜とここで鉢合わせするのは俺としてもあまり望まぬ展開であり、俺たちは急ぎ帰りの準備を始める。
………
……
…
「それでは夢野くん、また。助けてもらったというのに迷惑ばかりをかけてしまったね」
「竜司君、サナトラピス様。本当に、申し訳ありませんでした……」
支度が出来た俺たちは今、玄関で二人に見送られようとしているところだ。
「いえいえ、こうして解除する方法も見つかったことだし、もう気にしないでください。それに……」
ことを仕出かしたのは鈴埜だしな。
しかし、明日からあいつにどう接すべきか。
いきなり問い詰めるというのもなぁ……
「いや、まあ。ほんと気にしないでください。それじゃ、次の日曜日に」
日曜日というのは、改めてここに来る予定の日だ。
そこで本を返すと同時に、それまでに穢れを取り払うという件についても結論を出しておくことになっている。
手を振る二人に送られながら、俺は玄関の扉を閉め、元の通りに出た。
「う~ん……はぁ、どっと疲れたなぁ……」
歩きつつ、大きく伸びをした俺は、ちらと横を見る。
「……」
「はぐ、はむ……む? ほうひた、わはひみ」
白けたような俺の視線に気付いたのか、ラピスがこちらを見上げる。
言葉が要領を得ないのは、口いっぱいにものを頬張っているからだ。
エリザさんが土産に持たせてくれたものは、出されはしたものの結局俺たちが口にすることがなかった菓子、それを袋一杯に詰めたものだった。
確かこの菓子屋の商品は安いものでも一個300円くらいした覚えがある。
それをこんな山ほどとは、流石に俺は遠慮しようとしたが、エリザさんも惣一朗さんも、いいから持っていけの一点張りで、結局俺はその勢いに負けてしまった。
「お前な、帰ってから食えよ。意地汚いぞ」
「はほうなほとをひっへもひゃな」
「まずは口の中のものを飲み込んでから喋れ!」
で――これだ。
扉を閉めた途端、ラピスはいそいそと袋から取り出した菓子を両手に持ち、俺が何か言う暇も与えずに食べ始めた。
リスのように頬をパンパンに膨らませ、顔を甘味に蕩けさせて。
……まったく、思わず目を背けたくなるほどのアホ面である。
これがさっきまで人ひとりを殺めようとした人間のする面だろうか。
やっとのことで口の中のものを飲み込んだラピスは、けぷと小さく息を吐く。
「――ふぅ。そうは言ってもじゃな、我が君。これはたまらぬぞ。しつこすぎず、しかし濃厚な甘味が口いっぱいに広がって――いや、なんとも。人というのはずるいのう、いつもこんなものを食しておるのか」
「……」
ラピスの言葉を聞き、俺は唾を飲み込む。
元々甘味には目がない俺だ。
俺だって食べたくてたまらないが、家に着くまでは我慢しようとしているというに、こいつはそんな俺の気も知らず、更にまた袋から新しいものを取り出そうとしている。
「ううむ~……! たまらぬ……!」
嬉しげにパクつくラピスを見ていると、そうした俺の決心も揺らいでしまう。
俺にも一つ分けてくれ、そう口に出そうとした。
「お――」
「確かに美味そうだなァ―……、それ」
俺の声ではない、何者かの声が背後より届いた。
更に、背なに感ずる、この悪寒は……真新しい記憶にあるそれである。
弾かれたように振り向いた、俺の目に映ったものは――