既視の光景
「ちょっと待て。まあお前の言い分は分かるし、理屈も通ってるようには思う」
しかし。
そもそも根本的な疑問が残る。
「だがな、だとするとおかしいじゃないか」
「何がじゃ」
「なんで、俺なんだ?」
そう。
――なぜ、俺なのか。
「まあ――仮にだ。お前の世界の住人が、お前と誰かを引き合わせる目的でその本を作ったとして、どうして俺である必要がある? 幽閉されてるお前を助けるなら、それこそ軍人でもなんでも、もっと相応しい人間がいたはずだ。しかもそれをただの人間、それも年端も行かない女学生なんぞを経由するなんていう、無駄に回りくどい方法を使う理由は何だ?」
「それは……正直言って、わしにも分からぬ。汝にかけられた呪いの仔細を暴けば、何か種のようなものでも発見できるやも知れぬが……」
「ん? お前、全部分かったんじゃなかったのか?」
「大まかなところは、の。いや、いざ本腰を上げて調べてみれば、これが驚きの連続であった。まず驚いたのは、術式の基本となる骨格が、わしのおった次元のそれに酷似しておったことじゃ。付け加えるなら、この時点でわしは先ほどの件に確信を持ったわけじゃが」
そういえば、理がどうとか言ってたな。
こいつと以前していた話によれば、ラピスのいた次元は、いわゆる魔法とかそういったものが普通に存在する世界だったらしい。
多分そういう、見知った魔法のようなものを発見したのだろう。
「大変なのはそれからじゃった。全てがその術式で構成しておればよかったのじゃが、それに加えてこの世界のものが上乗せされておるときておる。それらは随分と原始的なものであったでな、それだけであれば解読は容易かったのじゃが、こうも複雑に二つの術式が絡み合っておるとな……今のわしでは少々手に余る」
「なんだ、結局呪いの正体ってのは不明なままか」
「情けないことにな。……わしが元の姿であれば、こんなことにはなっておらぬのじゃが。誰かが景気よく使ってくれよったからのう?」
「ぐっ……」
機会がある度にラピスはこの話を持ち出す。
怒っているというよりは、俺の罪悪感を煽って楽しむことが目的なのだろう。
その証拠に、この話をする時のこいつは決まって笑顔だ。
ぐぬぬと唸る俺の様子を一通り堪能したラピスは、話を戻す。
「不安はもう一つある。あの時わしは、汝にかけられた呪いを軽んじて見ておった。それまでの汝との話の中でも全くそれらしい話が無かったものでな。どうせ取るに足らぬ、他愛もないものじゃとタカをくくっておったのじゃ。それゆえ、果たして完全に呪いが根から断てたのかどうか、わしは確認を怠ってしもうた……」
つまり、呪いの残骸のようなものが、まだ俺の中に存在する可能性があるってことか。
……そう聞くとあまり気分のいいものじゃないな。
「――で、俺は結局、どうすりゃいいんだ? 正体が分からないからっつって、いつまでも返さないわけにもいかないぞ」
「ああ、それは構わぬ。明日にでも渡してやるがよかろう」
思わぬ返答である。
「ん? いいのか?」
「うむ。応急処置ではあるが、根幹部分と思われる個所の術式を上書きしておいた。呪いの正体が何であれ、それが発現することだけはないようにの」
「そうか……それならまあ、一応安心していいのか」
しかし意外だ。
てっきり全貌を把握するまでは決して返すな、とでも言うと思ったが。
何か考えでもあるのだろうか?
「――それと我が君よ。本を返すというなら、またあのこむすめに会うのじゃろう?」
「そりゃあな」
「ならば、わしもその場に立ち会おう。無論構わぬよの?」
「……今日みたいに騒ぎを起こさないってんならな」
「臣下の心を解さぬお人であられることよ。いったい誰のためじゃと思うておるのやら」
こいつ、昼までの自分の行動をもう忘れたのか? あれも俺のためだったとは言わせねえぞ。
……ん?
そうだ、こいつに聞こうとしていたことがあったな。
鈴埜に会うという話で思い出した。
「そういえばさ、今日鈴埜に会った時、あいつの体から黒いもやみたいなのが見えたんだが。あれってお前、なんだか分かるか?」
そこまで大仰な質問だとは思っていなかったのだが。
俺の言葉を受けたラピスは一瞬顔を伏せると、やけに真剣な表情になって顔を上げる。
「――我が君。それはまことのことか?」
「ああ……多分見間違いじゃない、と思う」
「……ふむ。やはりわしの見立てはそう間違ってはおらぬようじゃの。とすれば――上手くことが運べば……あるいは……」
「おい、ラピス?」
なにやら俺を無視し、独り言ちながら考え込む素振りを見せ始めたラピス。
「――ん、ああいや、すまぬ。それについてはまた後日説明しようぞ」
「おいおい、気になるじゃないか。なんかまたとんでもないことでも――」
何故か話をはぐらかしたラピスを問い質そうとしたが、タイミングの悪いことに、階下から夕飯の支度が出来たとの妹の声が届いた。
先ほどの件のこともあり、これ以上花琳の機嫌を損ねることは避けたかった俺は、渋々この件は保留とすることとした。
……ちなみに、その夕飯はサバ缶ひとつだった。
それも俺だけ。
母さんがそれを花琳に問うも、「兄貴は今日それがいいんだって」との花琳の言と、それに対し俺が一切反論しなかったことから、母がそれ以上の詮索をすることはなかった。
実にうら寂しい食事を終えた後、俺はラピスと一緒に風呂を済ませる。
別にお前は毎日入らずとも良いのではないかと俺は言ったが、ラピスはそれを聞き入れず、絶対に毎日入浴するのだと言って聞かなかった。
元はと言えば全て俺のせいだとはいえ、どうもあいつは僅かでも体臭が発生することを恐れているらしい。
……俺としては、それはそれで寂しかったり――いや、なんでもない。ただの気の迷いだ。
ともかく、そうこうしているうちに時計は23時近くなっており、他の家族が寝静まっている中での話し声は漏れる可能性もあるからと、話の続きは明日以降、ということになった。
そして、結局なし崩し的に今日も二人同じベッドで就寝することとなった俺は、やがて眠りに落ちる。
………
……
…
「――マジかよ、こりゃ」
俺は開口一番、そう独り言ちる。
というのも――眠りから目を覚ました俺の周囲が、いつかのように様変わりしていたからだ。
既視感のある体験に、俺にも多少の耐性が備わっていると見え、存外冷静に俺は周囲の様子を窺う。
――どうも、この前のものとは趣が異なるようだ。
様変わりしているとはいっても、周囲の様子はそこまで大きく変化してはいない。
あの時のように辺り一面が氷の大地、というようなこともなく、一見それまでと変わらぬ俺の部屋のままに思える。
違いがあるとすれば、部屋全体がなにやら桃色の霧で充満していること、部屋のドアが消え去っていること、そして隣に寝ていたはずのラピスの姿が無いことだ。
俺は腰から上だけを起き上がらせたまま、暫くそのままの姿勢でいたが、特に何かが起こる様子もない。
もしかすると、今度こそ本当に夢なのではないか。
そのような考えが頭をもたげ始めた時。
『あ、あらあらあら? おかしいわねぇ、今回こそ成功したみたいだったんだけどぉ~……』
俺の耳に、どこからか聞きなれぬ声が届く。
その声は、凡そこの不気味な空間には似合わぬ――どこか気の抜けたというか、間延びしたような印象を与えるものだった。
間延びした声は俺のごく近くから届いてきているように思われるが、部屋の中を見回してもそれらしき人の姿はなかった。
霧のせいで視界が悪いことも手伝ってはいるのだろうが、それにしたって狭い部屋の中だ、目に入らぬはずがない。
更に立ち上がって確認せんと、俺は腰を浮かしかける――が。
「いっ……!」
右手首に激痛が走り、俺は予想だにせぬその痛みに悶絶する。
――見れば、俺の右手首に、なにやら刃のようなものが刺さっていた。
湾曲したその刃は俺の手首を完全に貫通しており、釣り針を思わせる返しの付いたそれは生半可なことでは抜けそうにない。
相当の深手に思えるのに、血の一滴も出ていないのが不気味だ。
また刃には鎖が繋がっており、ベッド上部の金属部にまで伸び固定されている。
改めて全身を確認すると、俺の左手首、また両足首周辺にも同じものが確認できた。
がしかし、右手首以外のもの以外は俺の体に刺さることなく、ベッドの上に転がっている。
『あっ、ああ~……ごめんなさいねぇ……でも大丈夫よぉ、痛いのは今だけだから~』
またも例の、気の抜けるような声が届く。
声の質からすると女のもののようである。
このような出来事が起こって、普通なら慌てふためく場面なのだろうが、生憎つい最近俺は似たような事態を味わったばかりだ。
自分でも驚くほど冷静な思考のまま俺は、まずはこの声の主が敵なのか否か、確認の意味も込めて言葉を発する。
「――おいあんた、俺をどうするつもりか知らないけどな、とりあえず姿を見せちゃくれないか?」
『あら、ずいぶん落ち着いてるのねぇ? 立派だわぁ、さすがあの子が選んだコよねぇ……それじゃ……』
声とともに、周囲を覆う桃色の霧が俺の眼前に集まり始める。
やがて濃くなった部分の全体像は、人の姿のように見えた。
『はぁ~いっ! じゃじゃーん!』
「……」
そう、霧の塊から声が上がるも。
元気のよいその声とは裏腹に、俺は憮然とした顔で前を見つめるのみであった。
『あ、あら? ちょっとセンスが古かったのかしら……?』
やや当惑の色を浮かばせた声が上がり、次いで俺はその返答として、言う。
「いや、そういうことじゃなくてだな……俺は姿を見せてくれって言ってんだが……」
『――えっ、えっ? な、なんで!? こんな、姿を保てないなんてぇ……どうしてぇ~!?』
「どうしては俺の台詞だよ……」
声の質のせいか、どうにも緊張感がない。
脳みそが耳から流れ出しそうなこの声を聞いていると、空気すら弛緩してしまうように感じられる。
『ああん……やっぱり私、こういう回りくどいのは慣れてないのよぉ……。仕方ないわねぇ――まあいいわぁ、今日はちょっと確認しに来ただけだしねぇ~』
「……確認って、何をだ?」
『あなたのことよぉ? あのコったら誰に似ちゃったのかしら、引っ込み思案でね、私も心配なの。あんまり変な人だと、ちょっとねぇ……』
その声の後暫くの間、続く言葉が上がることはなかった。
次なる声が発されたのは、たっぷり30秒ほど経った後のこと。
『そうねぇ……うん、顔はまあ、一応合格かしら? ちょっと目つき悪いのが玉に傷だけどぉ』
――ほっとけ。
これは血筋のせいだ。
どうも俺の顔を凝視していたらしい影は、またも言葉を中断させ、同じように30秒ほどの時を費やした後、言った。
『体の方は――うん、合格! いい感じの筋肉の付き方してるわぁ。20年前会ったのがあなただったら、私も放っておかなかったかもねぇ~』
相手の姿は見えないながら、舐めまわされているような視線を肌に感じる。
……あまり気分の良いものではない。
『――うん、あとは直接会ってからにしましょうか――まだ契約前だものねぇ。でも、なんだかかかりが悪くなってるみたいだからぁ、最後にちょっと直しをさせてもらうわねぇ?』
「ちょっと待て、こっちにはまだ聞きたいことが――」
勝手に話を終わらせようとする影へ向かい、俺は抗弁するが。
俺の声をまるで無視し、濃くなった影の一部が俺の胸付近にまで伸びてくる。
『えっ……ひゃあっ!?』
「うっ――!?」
影が俺の肌に触れた瞬間、その部位から電撃のような光が放たれた。
驚いたのは俺だけでなく、影もまた同様のようだ。
甲高い叫び声とともに、影が俺の元から離れるのが目に入る。
――それでまだ終わりではなかった。
「ん……?」
『えっ……』
俺たち二人(?)は共に頭を上げ、視線を上に向ける。
それは、突如として頭上から眩い光が差し込んできたためだ。
いや、降り来たるのは光だけではない。
俺の部屋――いや、今この場においては空間と言った方が正しいか――の上部を切り裂き、光と共に落下してくるものがある。
「うおっ!」
『ひゃあああ!!』
俺と影は、両者の間、ベッドの中央に突き刺さったそれに驚き、咄嗟に後方に飛び退く。
深く俺の寝床に刺さる、巨大な刃物。
それは、かつて見覚えのあるそれは――間違いない、あの時ラピスに刺さっていた、例の鎌であった。
「ふはーっはっはっは!! 待たせたのう、我が君!」
またもや上部から声がすると思うや、鎌の着地点に一人、ふわりと降り来たる人物。
黒一色のローブに身を包んだその人物は、大声で笑いながら俺に声をかけた。
「えっ――ラ、ラピスかっ!? お前、それ――」
このタイミングでこいつが現れたことはもちろん驚きだ。
だが、それ以上に俺を狼狽させたのは、眼前のラピス、その姿である。
幼女と身を堕としてしまった姿ではなく、この時のラピスは彼女の言う『全盛』の時――すなわち、俺が初めて目にしたときの、大人の外見に戻っていたのだ。
目を白黒させる俺を背にしたまま、ラピスは声を発する。
「くかかかっ! 説明は後じゃ! まずはこの不埒者をなんとかせねばの?」
『えっ……ええぇ~っ!? な、なんなのぉこれぇ……』
「ほぉ~う? やはり匂うぞ? この空間を包む理、それに貴様も……やはり我が次元と似たものを感じるわ」
なにやら得心がいったように語るラピスは、そのまま影に向かい言葉を続けた。
「ふむ、少し術が強すぎたか……それで――影よ? 何用あってかような大それた真似をした? この男がわしの主であると知っての狼藉であろうな?」
『えっ……えっ、その、あのぅ……』
対する影は、当然このような事態は想定していなかったのであろう。
口に出す声はしどろもどろで、言葉の呈をなしていない。
「なんじゃ、答えたくないと申すか? ならばそれでもよい。何れにせよ我が君を貶めんとした貴様を、もとより許す気などない。見れば貴様、それなりの穢れをその身に宿しておるようではないか? 丁度良いわ、貴様のその禍霊全て、詫び替わりに置いてゆくがよい」
言葉こそ飄々としているが、言葉の節々には烈火たる怒りの感情が見えた。
ラピスはベッドに刺さった鎌を引き抜くと、影に向かい構えてみせる。
そしてその効果は抜群であった。
明らかに向けられた刃の危険性を知っている、そんな様子で――影は半狂乱になり喚き散らす。
『ちょ、ちょっと待ってぇ~! な、なんなのぉそれぇ、なんでそんなものがここに――あっあっ!? やめて、近づけないでぇ!?』
「ほれほれぇ、触れた瞬間貴様如き、一瞬で昇天してくれるぞ?」
『ひゃあああ~!!』
影の悲鳴はあまりにも無様というか、いっそ哀れみすら感じさせるものを携えている。
何故かいたたまれなくなった俺は、前に刃を向け続ける死神へと声をかけた。
「おいラピス。一応まだ俺は何もされてないんだ、話をちょっと聞き出してからでも遅くは――」
「まったく何を甘いことを抜かしておるのじゃ。こやつは不届きにも我が君のお体……を――……」
やれやれとばかりに振り返ったラピスと、視線が交差する。
凛とした微笑を浮かべていた彼女であったが、何故か俺の姿を目に入れた瞬間、顔から笑みを消す。
――いや、変化した表情は同じく笑顔ではあったのだが、その趣が異なるのだ。
目尻は下がり、反対に大きく持ち上がった口角の片側からは、なにやら液体までをも垂れさせ始めた。
「……おい、どうした?」
「……ま、まったくぅ……まったくもって不届きなことをしてく、してくれたものじゃ……。我が主人をか、かように拘束して……な、何をするつもりであったのやら……?」
不審に思った俺が声をかけるも、ラピスは振り返った瞬間の凛々しい表情などたちまち何処かへ捨て去り、だらしない顔で呟きつつこちらににじり寄ってくる。
鎌を持たぬ左手はせわしなくわきわきと動き、それがまた俺の不安を掻き立てた。
「――お前が何をするつもりだよ! おい、近づくな!」
俺はにじり寄るラピスから離れるよう後ずさり、ベッドの端にまで後退する。
――が、右手を拘束されている身の上にあってはそれが限界で、あっという間に距離を詰められてしまう。
眼前まで迫ったラピスは、息を荒くして舌なめずりまでしている。
「な、何を申されておるやら? わしはただ、その戒めを解いてやろうとじゃな?」
「んな目をした奴の言葉が信用できるか! その手の動きを止めろ! ――おいどこ触ってんだ!?」
「ええい暴れるな! 服が脱がせ辛いじゃろうが!」
「なんで手首の拘束解くのに服を脱がせようとすんだ! んなことよりお前――って、おい!」
俺は死神と揉みくちゃになりつつ、ふと彼女の肩越しに前方を見やると、咄嗟に大声を出した。
その声に誘導され、俺に覆いかぶさろうとしていたラピスが後方に向き直ると。
「ん? ――は、はて? あやつは……?」
呆けたような声を出すこいつに向かい、俺は言ってやった。
「逃げちまったんだろ……目の前のアホが散々脅すだけ脅してくれたおかげでな」
気付けば辺りを覆っていた桃色の霧はすっかり立ち消えており、影もまた姿を消していた。
ラピスは俺に覆いかぶさった姿勢のまま振り返ると、暫し出すべき言葉に迷っていた様子であったが。
「……い、いやいやぁ! わしのお陰で無事助かったようじゃのう、我が君よ!」
やっと口を開いたかと思えば、自分の落ち度を棚に上げた発言を放つ。
「これを機に、普段のわしに対する態度も……へっ?」
俺は腰を上げつつ、自由な左手でラピスの頭から生える角を鷲掴みにする。
「ああっ!? や、やめっ――」
「い・い・加・減・に・し・ろ・よ?」
座り直した俺は、角を持つ手をぶんぶんと振り回しながら、怒りに満ちた声を上げる。
「やめっ、やめてぇ! ごめ、ごめんなさいなのじゃよ! 謝るから角を持って振るのはやめてほしいんじゃよー!」