ラピスとの入浴
眠りから意識を覚醒させた俺がまず感じたのは、圧迫感であった。
柔らかで温みもあるが、明らかに布団のものではないそれの正体を確かめんと、俺は目を開ける。
……最初俺は、実際それを目にしてみても、正体が何であるか、すぐには分からなかった。
これは俺の頭が未だ寝惚けていたせいもあろう。
「……」
……尻だ。
小振りの尻が、俺の胸にでんと乗っかっている。
腰から先の上半身は布団の中に隠れているが、すぴよすぴよと間抜けな寝息が聞こえてくるところから察するに、未だ奴は夢の中なのだろう。
――つまりだ。
現状を分かりやすく言うと、あの馬鹿は今――仮にも主人であるはずの人物の上に乗っかり――大股を広げた格好で。
言葉通り足を向けて、寝ているというわけだ。
俺は布団から片手のみを出すと、広げた掌に向かい、はあと息を吹きかける。
よく漫画やなんかで見る仕草だが、この仕草が果たして本当に効果があるのかははっきりとしない。
とはいえ、今俺が感じている怒りを形にするには、これも必要なことのように思えた。
――狙いはもちろん目の前にある、褐色の物体である。
ただでさえ布面積が少ないローライズパンツは、寝相のせいかややずり下がっており、油断すると色んなものが零れ落ちそうになっている。
朝っぱらからこんな下品な光景を目の当たりにさせられる人間の気持ちを、こいつに思い知らせてやらねばならない。
――冬の朝の乾いた空気の中に、小気味いい破裂音が響いた。
「じゃっわーーーーーッ!!!」
狂声を上げて跳ね起き、勢い余ってベッドから転がり落ちるそれに向かい、俺は優しく――そう、優しく声をかける。
「おはよう、ラピス」
「――はっ! わ、我が君!? ――えっ、へっ!? い、今のは……?」
「何だどうした、夢でも見てたのか?」
「へっ? ……ゆ、夢? いやしかし、今も痛みが確かに……」
頭上に?マークが浮かんでいる図がありありと見えるくらい、目に見えてラピスが困惑の最中にある中、やにわにドアのノック音が響く。
続けて聞こえてくるは、俺の妹、花琳の声であった。
「おい兄貴ー。 なんか兄貴の部屋から変な声聞こえたんだけど?」
「おおー、窓開けて寝てたら猫がな。脅かしたら悲鳴上げて出てったよ」
「こんなクソ寒い時期に何考えてんだよ……風邪ひいても知んないからね。 朝ごはん作るから降りてきてよー」
「おーう。……だとさ。ほれ、準備しろ」
「ううう~……どうにも納得がいかぬ……」
「うだうだ言ってないで――ん?」
尻をさすりながら、まだ何か言っている死神に拳骨でも落としてやろうかと思いかけた俺の鼻に、そよと一瞬、甘い匂いが触れた気がした。
下で花琳が蜂蜜を塗ったトーストでも焼いているのかと思ったが、あいつがここに来てから一分も経っていない。
いくらなんでもそれは考え辛かった。
そんな俺の様子を訝しんだラピスから声がかかる。
「……どうしたのじゃ、我が君よ」
「――いや、なんでもない。気のせいだったみたいだ」
俺は着替えた後、手早く朝飯を済ませると、学校支度を整え家を出た。
………
……
…
――やはり、まず先に片付けるべきは、この問題だろう。
一限目の授業を受けながら、俺はそう思いを決めた。
問題というのは、先日にも少し話題にした、日常生活におけるラピスの処遇である。
透明化の能力が一体どれくらいの力を消費するのか、具体的な数値でなされない以上伺い知る術はない。
ならば日中はラピスをどこか人の来ない場所に――それこそ家の中でもよい。
そういった場所に放っておけばいいのでは、とは俺も最初に思いついたし、実際そう提案してもみた。
……しかし、その時のあいつの反応たるや。
泣き叫び、喚き。とても威厳のある神とは思えぬ醜態でもって反対した。
ついには自分を置いていったら汝を殺す、とまで言い放つ有様。
……たった数時間のことが、何がそんなに不安なのか。
大体、そんな数字じゃとてもきかない位、長い間一人きりでいたんだろうに。
それを思えば、たかが半日くらいなんだっていうんだ。
とはいえ、そう言えば本当に俺を刺しそうな雰囲気だったので、この件についてはそれ以上言及できずにいる。
――結果が、これだ。
俺は、少し身を引いた、妙な体勢で椅子に座し、授業を受けている。
というのも、透明化しているラピスが膝に座っているからだ。
……座っているというか、抱き着いているといった方が正しい。
透明化している故にその姿を視認することは適わないが、肌に感じる接地面積の広さから言って、まず間違いないだろうと思われた。
これがこの先ずっと続くなど、勘弁してほしい。
冬だからまだいいが、これが夏にもなればもう、暑苦しくてたまらないだろう。
――今日明日中にでも、対策を練らねば。
これはただ俺の生活面だけを思ってのものではない。
実際問題、これは俺たちの命に直結する問題でもあるのだ。
「……ん?」
(どうしたのじゃ、我が君)
「……馬鹿野郎、声を出すな」
小さく囁くラピスの声を止めた俺は、またも漂ってきた、朝にも嗅いだ記憶のある匂いの正体、その出所を探る。
気のせいか、匂いが強くなってきている気がする。
――何というか、高級焼き菓子に、少々の香辛料を振りかけたような――そんな匂いだ。
実を言うと、俺は結構な甘党である。
特に洋菓子の類には目がない俺にとり、この匂いは暴力的とも取れる魅力をもってして、俺の鼻を襲う。
……隣の席の奴が鞄に隠し持ってきているのか?
――結局匂いの正体は突き止められぬまま、放課後を迎えた。
部活にはちらと顔を出すのみに留め、体調が悪いと鈴埜に偽った俺は、ラピスを連れ急いで帰路に着く。
花琳が帰って来てからではまた面倒ごとになりかねない。
コアラのようにラピスを抱き着かせたまま、俺は急ぎ家へと向かったのだった。
………
……
…
「今日は真面目な話をする」
「まるで今までは真面目ではなかったかのような物言いじゃの」
かくして自宅に到着し、自室まで戻った俺たちは、面と向かって座り込んだ形になっている。
「やかましい。――お前はどうだ、何か案はないのか」
「何に対する案じゃ?」
「決まってんだろ。今の状態に対して――つまり、日中お前が、能力を使わずに済ませられる方法だよ」
「なんじゃ、そんなことか。それなら我が君よ、既にわしには妙案が頭にあるぞよ」
「なに? 本当か? それなら何で早く言わなかったんだ」
「聞かれなかったからの。……それに、これは汝と僅かな間とはいえ、離れ離れになってしまうでな……」
しおらしい表情を作るラピスを前に、俺は若干の狼狽を見せてしまうが。
――がしかし、ことは急を要する。
そんなくだらないことを懸念事項にしている場合ではない。
「……あのな、そんなこと言ってる場合じゃ――」
ずいと身体を乗り出し、ラピスに近づいた――その時。
――まただ。
またしても、例の匂いが漂ってきた。
……いや、実のところ、こいつが姿を現してから、ずっと気になってはいた。
何しろ、もはや気のせいでは済まないレベルの強さでもって俺の鼻を襲い続けているのだから。
――となれば、可能性は一つ。
「……おい、ラピス」
「ん、なんじゃ?」
「お前、俺が寝ている間……台所かどっかから、菓子を盗んだだろ」
この線しかない。
意地汚いこの死神は、例のプリンに味をしめ、我慢しきれなくなって行為に及んだのだ。
「なっ、何を言うか! この誇り高いわしが盗みなどを――」
もちろんそれをこいつが素直に認めるはずがない。
それは予想済みだ。
――なら、言い逃れの出来ぬ状態にしてやればよい。
「言い訳はいい。……おい、そこから一歩も動くなよ」
俺はラピスに顔を近づけ、匂いの出所を探る。
――やはり、間違いない。
肌に密着するほどに近づいている今、匂いはこれまでにないほど強くなっている。
俺はまず、一番怪しいフード辺りから探りを入れる。
……がしかし、逆に匂いは薄くなった。
ならば、マントに隠れている背中側だ。
恐らくはポケットか何かがあるはず。
俺はクロークを捲りあげ、顔を寄せる――と。
これまでで一番、匂いが強くなった。
やはり焼き菓子の類だろうと、俺は確信を持つ。
香辛料は――シナモンに、クローブあたりか。
シナモンの甘い香りに交じり、少々刺激的なクローブの香りが、丁度いいエッセンスとなって見事に調和している。
俺が最も好む類のものだ。
……そんなものを、一体どこから調達してきたのか。
居候には過ぎた御馳走である。
多少頭にき始めた俺は、こうなればなんとしてでも見つけてやるとばかり、目を瞑って匂いに集中する。
すんすんと鼻を鳴らし、まるで犬の如く、俺は注意深く探りを入れ続ける。
――そして。
「――おい。ちょっとこれ、どけてくれ」
「え……えっ……」
「早くしろ」
「う……」
頭に障害物を感じた俺は、苛立ちげに命令する。
何やら羞恥を帯びたラピスが、ようやくそれを除けると。
――ビンゴ、である。
「……ここだっ!」
「ひゃわあああああ!!!」
勝ち誇った笑みで、俺が目を開ければ――そこには。
顔を真っ赤にしたラピスが、目に涙を溜め、俺を見下ろしていた。
「……あれ? ここ……これ……へ?」
俺が鼻を突っ込んでいる、その場所は。
……ラピスの、腋の下であった。
「なにを……するんじゃーーーーっ!! ばかものー!」
「――どわっ! あいって……おい、何すんだ!」
首根っこを掴まれ、乱暴に放り投げられた俺は、そう抗言するが。
ラピスは、それ以上の勢いでもってして、俺を罵倒する。
「こちらの台詞じゃ愚か者!! いや、この――ど変態めが!」
そこまで言われ、先ほど自分がどこに鼻を突っ込んでいたかを思い出す。
「あ、え――あっ! あ、いやっ、これはな!?」
「何ということじゃ……我が主がこんな……特殊な趣味を持っておったとは……」
「ちっ、違う! 違うぞ! っていうか、この匂い……まさかお前のたいしゅ――」
「じゃらああああああ!!!」
最後まで言わせず、ラピスは大声を張り上げ、ベッドの上の枕を手にして俺を殴打する。
「仕方ないじゃろうが!! わしは今や神ではない!! 代謝も、少ないとはいえ、多少はある! じゃがな、こんな辱めを受ける謂れはない!! それをこんな――あああああ!!!」
「――わ、悪かった! 俺の勘違い――いや、考え足らずだった! ゆ、許し、許してくれ!」
「許せるかああああ!!!」
……そんなわけで、ラピスの言う案を聞くのはひとまず後回しにし、まずはこの死神様を、風呂に入れてやることに――相成ったのだった。
「お前、服は透明化させたままにできないのか?」
「出来ぬこともないがの。しかし我が君よ、今は少しでも力の消費を抑えるべきなのではなかったのか?」
「……仕方ねえか。花琳は今日部活だし、大丈夫だろ。そんじゃ、とっとと服脱いで先に中入ってろ」
俺はあの後、怒り狂うラピスをなんとか宥めすかし、風呂に湯を入れることにした。
ちなみに、ウチの給湯器には湯が溜まったことをお知らせしてくれるブザー機能が付いている。
約十分後、その音が届いたのを合図に、俺たちは浴室までやってきていた。
「入浴というものは初めて体験するでの、実に楽しみじゃ! 汝も早う来るのじゃぞー!」
「……」
言うが早いか、ラピスはあっという間に全裸になる。
まあ、もともとほぼ裸同然の格好をしているのだ。脱衣が早いのも当然なのだが。
てちてちと足音をさせながら、真っ裸になったラピスは元気よく浴場まで走っていく。
「……タオルぐらい巻いていけよ……ていうか少しは隠せよ……」
やはり、絶対に姿と同時に精神面も幼児化している。
……いや。
そういえば、大人の姿の時からこういう節はあったっけ……
俺はもう考えるのもバカバカしくなり、服を脱ぎ、腰にタオルを巻いた状態で中へと入る。
「むむ! 遅いぞわがき――」
中へ入れば、バスタブの前に立つラピスが声をかけようとし――たのであるが、何を思ったか、言葉を途中で止め、不満そうな目でもって俺を見つめている。
「……」
「……なんだ、どうした」
「……何故前を隠しておる?」
「むしろ何故そこに疑問を持つのか、逆に聞きたいところだな?」
「ふん、まあよいわ。それで、どうすればよいのじゃ。このまま湯に入ってもよいのか?」
「駄目だ。それはルール違反だぞ。いいか、湯に入る前に先に身体を洗うんだ」
「そうか。ん、では――ほれ」
何故かラピスは急に両手を広げ、何かを待つかのような視線で俺を見る。
「……何の真似だ?」
「なにではないわ。汝が言うたのじゃろうが。――ほれ、早う洗うがよい」
……こいつ。
仮にも奴隷という身分であるくせして、主人に身体を洗わせようというのか。
「お前、調子に――」
「言うておくがな?」
両手を広げたポーズのまま、ラピスはにっこりと笑う。
「わしはまだ、先ほどの狼藉を許してはおらぬからの? ――言葉には気を付けた方がよいと思うがの?」
「……」
……こういうところだけは、あの時から変わっていない。
こちらの弱点に付け込むことにかけては天才的だ、この死神は。
――いやしかし、確かに、あれは完全に俺が悪かった。
やってもいない罪で糾弾した上、女性にとって――いや、たとえ男でも恥ずかしいと思うような目に合わせたのは、他でもないこの俺だ。
あんな勘違いさせるような匂いを放つ方が悪い、と言いたい気持ちがないではなかったが、そんなものは完全に言いがかりに過ぎない。
立場を利用した強権で黙らせる、などということもしたくなかったので、ここは素直に折れておくことにする。
「……はいはい、分かりました分かりました」
俺は観念し、タオルにボディソープを2プッシュ分ほど含ませ泡立てると、ラピスの体を脚の方から洗い始める。
……こんな体にはなっても、肌の美しさは相変わらずだ。
肉感は大分薄れ、細っこい肉付きになってしまってはいるが、タオル越しでも分かるほどに滑らかで、艶のある小麦色の肌は、まるで作り物かと見紛う程に美しい。
「ん……んふっ……」
「……」
「……ひゃふっ……んぅ……」
「……おい」
「……んっ……な、なんじゃ、我が君」
俺は丁度、胸付近を洗っていた手を止め、上を見上げ叫ぶ。
「……おかしな声を出すんじゃねえ!」
「そっ、そう言われてもじゃな――」
「それが身体を洗われてるだけの人間が出す声かよ! てめぇ、わざとやってんじゃねえだろうな!」
「そう言われても、くすぐったいんじゃよー! ……おお、そうじゃ。それならばな、我が君。その、『たおる』とやらを使うのをやめてくれい」
「――あ? お前な、それじゃどうやって洗えば――」
「決まっておる」
ふんと鼻から息をひとつ吹き、自信満々な顔つきで――
「我が君のその手で直接――ぷあっ!? な、なにをするかー!」
「付き合ってられるか、アホ。後は自分でやれ」
――言い終わるのを待たず、俺は泡だらけのタオルをラピスの顔面に叩きつける。
泡が口の中に入ったのだろう、苦しげにぺっぺ、と口内の異物を吐き出しながら文句を言うラピスに向け、俺はそっけない返事を返す。
「わ、分かった分かった、少し調子に乗ってしもうたわい。そうつむじを曲げんと、続きをしてくれぬか?」
「んっとに――ほれ、そんじゃ次は髪だ。そこ座れ」
「んむ!」
元気よく返事をしたラピスは、備え付けの風呂椅子に腰を落とす。
丁度いい位置にまで降りてきた頭に、俺はシャンプーを付けた手を置き、わしゃりとひと撫でする。
たったひと撫でで、気持ちの良いくらいの泡が立ち上がった。
俺の目は続いて、彼女の頭、その両側から生える二本の角に向く。
「――これ、やっぱ本物なんだな。何の角だ?」
「何だとはないじゃろう。このわしのもの以外にあるものか。非常に繊細なものじゃからな、丁重に扱うのじゃぞ」
「へいへい」
「――どうも真剣みが感じられぬ。……そう言えば、汝は最初に会った時もそうであったな。出会い頭に角を鷲掴みにされたことなぞ、あのエデンとか抜かす匹夫めにすらされなかったというのに……まったく……」
ぶつぶつと文句を垂れ続けるラピスを適当にいなし、俺は彼女の髪を洗っていく。
しかし、これ……本当に髪の毛なのか?
俺のものと比べ、明らかに質感が違い過ぎる。
まるでカシミアか、上等な絹のように、すっと指の間を滑り抜けてゆく感覚。
それでいてふわふわと軽く、泡立ちの良さといったら言葉にならないほどだ。
これもまた、種族の違いってやつなのかね。
「……うう゛~……」
そのまま洗っていると、眼下のラピスから苦しげな呻き声が発せられた。
「どうした?」
「我が君ぃ゛~……目が、目がぁ……痛いぃ……」
「はあ゛あああ~! はいはい! 分かりましたよ! ――これでよろしゅうございますかな!?」
俺は一瞬浴場から出ると、プラスチックでできた平らなそれを手に戻り、苦しげに身を捩るラピスの頭に被せてやる。
「んん……? おおっ! これはよい、実に快適じゃ! なんじゃ我が君、如何な魔法をつこうたのじゃ!?」
「これはですね、シャンプーハットという魔法の器具にございますよ」
元はといえば花琳が子供の頃に使っていたものだが、既に夢野家においてそれを使うものはいない。
とっくに捨ててあってもおかしくない代物なのだが、モノがそれなりに大きいこともあり、ゴミに出そう出そうと言いつつずっとそのまま、浴室の端で埃を被りっぱなしになっていた。
それが今になって活躍の機会が再び与えられたのだから、こいつも本望というものだろう。
「ほれ、これで良し。そんじゃ先に入って待ってろ」
長い髪を洗いきるのに随分時間を食ってしまったが、ようやく全てを洗い終えた俺は、シャンプーハットの上から湯を流しかけ泡を落とす。
「ん? 二人で入ればよいではないか」
「俺がまだ体洗い終わってないんだよ。お前と違って俺は髪も短いからな、すぐ終わるから大人しく――おい、なんでお前がタオルを持ってる」
一体いつの間に手に取ったのか。
タオルを手にしたラピスは、なにやら不敵な笑みでもってして、俺をじいと見つめている。
「なーにを水臭いことを言っておるんじゃ、我が君よ。ほれ、そこに座るがよいぞ? この奴隷めが、全霊を込め奉仕致しますでな」
「……んん……ま、いいか。使い方はさっき見てて分かるよな?」
「うむ。じゃからほれ、前を向いておれ」
「背中と頭だけでいいからな。前は自分でやる」
「むぅ~……ま、いいじゃろ。それでは――」
――ま、少しはいいだろう。
俺ばかりだと本当に、どっちが奴隷だかわかりゃしない。
……しかし、と思わないでもない。
今の凹凸のない肉体でなく、元のラピスであれば――と。
こんな風にこき使われていても、口とは裏腹に俺は絶対に舞い上がってしまうだろう。
こればかりは仕方がない。俺だって男の子なのだ。
――そんな、栓のないことを考えていると。
「……」
――妙だ。
たかがタオルを泡立てるだけに、何分かかっている?
第一、タオルが擦れ合う音すら一切聞こえてこないのはどうしてだ。
先ほどから聞こえてくるのは、んしょ、んしょ……という、ラピスの声のみ。
俺が訝しんでいると、ようやく背中側から声がかかる。
「――うむ、待たせたの! それではゆくぞ!」
「お前な、どんだけ不器用なんだよ……まあいい。やるならとっとと――」
言いかけて、俺の背にぞわりとした悪寒が走った。
まさか、そんなバカらしいこと――とは思ったが、こいつのことだ、まさか――
――その、まさかである。
振り返れば……身体の前部にボディソープを塗りたくった死神の姿が、そこにはあった。
「――あっ……」
間抜けな声を上げた後、悪戯の現場を押さえられた子供のような、ばつの悪い表情を浮かべる死神へ、俺は言葉をかける。
「――ラピスちゃんよ、渡したタオルはどうしたのかなぁ?」
「あ、いや、それはじゃな……なんというか、やはりここはわしの献身を文字通り体で示すべきじゃと――の?」
「の、じゃねえんだよ! てめぇどんだけボディソープ使いやがったんだ! ……ああもう、オラぁ!」
ボディソープまみれの死神へ向かい、俺は風呂桶を手に持ち、湯舟から汲んだ湯を叩きつける。
「じゃわあっ!? ああ、せっかく準備したというのに! 何をするか!」
「やっかましい! いいからもうさっさと入って待ってろ!!」
……体一つ洗うのに、この騒々しさだ。
俺はうんざりしながら、手早く体、髪と洗い終えていく。
その後やっとゆっくり湯舟に浸かることになったのだが。
狭い湯舟にあっては、例え一人は小さな子供だとしても――同時にというのは幾分か狭すぎ。
ラピスは今、寝そべるように湯舟に浸かる俺の下腹部に腰を落とし、俺に凭れ掛かる……というか、抱き着くような形になっている。
「……これが入浴――風呂、というものか……。これは……たまらぬの……」
俺の肩に顎を乗せながら、ご満悦な様子である。
「お前の見てた世界でも風呂くらいあっただろ。自分でも試してみたりしなかったのか?」
「必要なかったからの。その上僅かに付いた埃程度なら、我が力をもってすればすぐに綺麗さっぱり、無かったことにできたでな」
「ふうん、そっか――」
「いやしかしの、これほどまでに心地よいとは思わなんだわ。……いや、これは汝と一緒だからかの?」
「……はっ、なーにを言ってやがる」
――正直言って、この時の俺は心ここにあらずであった。
いくら子供とはいえ、裸の女子が抱き着いてきている状態など、これまでの人生で一度もなかったことだ。
返事をしつつも、俺は密着する肌の感触を忘れようと、必死に別のことを考えようとしていた。
……しかし。
「……これは冗談などではないぞ、我が君よ。わしは今、この上なく幸せじゃ……」
――耳元で、ラピスが囁く。
……駄目だ、気にするな。気にするんじゃあない。
こいつは神。そう、人間ではないのだ。
言ってしまえば化物なんだ。
いいか俺、決して反応するな。
「……」
「……んん~? どうした、急に黙り込みおって。まさかとは思うが我が君よ、こんな幼き身体に欲情しておるなどということはあるまいな? ……いや、わしは構わぬよ? なにしろ――」
「おーっと! 長風呂は身体に悪いんだった! いやあ忘れていたなあ!」
俺はわざとらしい大声を張り上げ立ち上がると、ラピスを無視し、そそくさと浴場を後にする。
「お、おい? わがき――」
「ほら、お前もさっさと来いよー!? 体ふいてやっから!」
「……」
誤魔化せたかは怪しい。
だが、そうであってほしい。
これ以上、こいつに弱みを握られるわけにはいかないのだ。
そう。
だから。
――小さく聞こえてきたあいつの台詞も、俺は聞こえなかったことにしたのだ。
「……まったく、可愛いお人じゃことよ。いやはや、楽しみは尽きぬのう――くかかっ!」