来たる嵐
安堵から。
そして極度の疲労から――全身から力が抜けた俺は、そのまま後ろに倒れ込む。
「――リュウジ! リュウジーッ!」
薄ぼけた意識の中で、ラピスが叫ぶ声が聞こえる。
――やっと自由になれたんだ。
これで――。
安心し、意識を深く沈ませんとした、その矢先。
バッチイィィィーーーッ!!
頬を、凄まじい衝撃と痛みが襲った。
俺は吃驚して跳ね起き、その犯人へ怒号を上げる。
「いってええええっ! なにすんだてめぇ!」
平手の下手人は言うまでもなく、この女である。
「やかましいわ! 貴様、ここまでしておきながら……このまま気を失うなど許さぬ! 絶対に許さぬからな!」
ラピスは俺の剣幕を上回る勢いで叫び散らした後、両の手で顔を覆い隠した。
「阿呆が……まこと、汝は阿呆じゃ……! わしの気も知らず、こんなことを……」
「……いいじゃねえか。こうして一応無事だったんだから。――な、許してくれよ」
「いいや、絶対に許さん」
顔から手を離したラピスは、据わった目でもって言う。
「今日汝がここに来るまで、わしがどれほど迷い、葛藤したか……汝との別れを決意することが、わしにとりどれほど苦渋の選択であったか、汝は知るまい。……わしはな、汝と離れ、また一人きりに戻るくらいなら――いっそ汝を殺し、共に死んでやろうかとすら、一時は本気で思うたのじゃぞ?」
「……冗談、だろ?」
「冗談じゃと思うか? ん?」
にっこりと笑顔を張り付けたラピスのそれは、言いようのない凄みを感じさせるものだった。
俺は、恐ろしくてそれ以上の追及ができなくなってしまった。
「本気も本気じゃ。――リュウジ。そんなわしの覚悟を、貴様は踏み躙ったのじゃ。覚悟は出来ておるじゃろうな? ……絶対に逃がさぬ。二度と離すものか。もう遅いからな。手遅れじゃ。今になって気変わりしたなどと抜かしたら、わしは今度こそ汝をどうするか分からぬぞ? くっく……今後、例え仮に世界を敵に回すことになろうとも、絶対に貴様を離さぬからな。……く……くく……ふふうふふふ……」
「……」
――失策であったかもしれない。
とても言葉にできない、異様な笑顔を張り付け……不気味な笑い声を上げ続ける死神を前に、俺の脳内には今頃になって『後悔』という言葉がよぎった。
「とはいえ、じゃ」
「――おおっ!?」
ラピスは座り込むと、俺の頭を持ち上げる。
「自らの命を顧みずわしを助けようとした大馬鹿者をまずは労わってやらねばの?」
あっという間に膝枕の形にされた俺は、恥ずかしさもありどうすれば良いかわからず、ただされるままになってしまった。
そして。
「……ほんに、大馬鹿者よ。貴様は」
ラピスは、手袋越しに俺の頬を撫でる。
ヴェルヴェットのような、滑らかな感触が肌に心地よい。
俺は、視界の半分ほどに映るラピスの顔を見上げる。
「――ま、確かにすげえ痛かったし、疲れたけどな。そこまで言うほどか?」
「だから汝は阿呆じゃと言うておる。本来ならばな、汝は鎌に触れた瞬間、塩の柱となって砕け散るところであったのじゃぞ」
「おいおい、物騒だな。てことはアレか? マジで俺は特別な――」
「図に乗るでない。愚か者」
ぴしりと、指先で額を弾かれる。
「恐らくはな、長きに渡りわしの力を吸い続けておったおかげで、あの鎌は言わば、第二のわしとも言うべき存在と化しておるのじゃろう。汝を死なせたくないというわしの意思が、鎌の力を抑制したと考えるほかあるまいな」
「……そりゃ、運がよかったな。……悪かったよ。確かに考え無しだった」
……確かに、ラピスの言う通りであったとすれば、俺はとんでもない間違いを犯すところだった。
この上更に、彼女を悲しませる羽目になるところであったのだ。
「……ふん、もうよいわ。――それに、わしがこの上なく汝に感謝しておるのも事実じゃ。……のう、リュウジ。そんな命を賭した功労に対し、わしは何を汝に返してやればよい?」
「……俺が勝手にやったことだ。そんな――」
「いいや、それではわしの気が済まぬ。神たるものが、人間に命を救われるなど。しかもその恩に報いぬなどと、神の名折れもいいところじゃ。……そこでじゃ、リュウジ。何か一つ願いを言え。何でも一つ、汝の願いを叶えてやろう」
まるでどこぞのランプの魔人のようなことを言い出すラピス。
「……そんなこと、急に言われてもな……」
「すぐには思いつかぬか? なれば、わしのお勧めを聞くか?」
「おう、何だ?」
ラピスは、俺のこの言葉を待ってましたとばかりな笑顔になり、言う。
「くっくっく……わしが貴様ならな。その一つの願いで、『願いを無限にせよ』と言うじゃろうな」
「……悪魔か、お前」
「馬鹿者、わしは神じゃ。……どうじゃ、リュウジ。言っておくが、わしは断らぬよ? 汝を手放すくらいなら、わしは何でもやるし、何にでもなってやる。それこそ――汝の奴隷になれ、と言われようとな」
「――ッ」
――しまった。
分かりやすすぎるほどに動揺してしまった。
益々ラピスの笑顔が深くなる。
「おっ、反応したな? 膝から汝の動揺が伝わってくるぞ」
「ばっ、馬鹿野郎、ど、奴隷って――」
「わしを奴隷にすれば、何でも思うがままじゃぞ? こんな機会は二度とないと思うがの――おお、そうじゃ。汝はわしの肢体に興味津々であったよの? 人間の男というのはこれも好きなのじゃろ? 第一の願いは、これで如何か?」
そう言うと、ラピスはローブ越しに、胸にある二房の膨らみを持ち上げてみせる。
あまりにも巨大なそれは、寄せ上げるとそれはもう、とてつもない迫力だった。
そもそも俺の視界が半分隠れているのも、それが邪魔をしていたからなのだ。
ゆったりとしたローブ越しにすらはっきり分かるとは、一体どれほど非常識な大きさなのか?
「ちなみに言うておくが、わしは幾度となく人間どもによって殺され続けてきたがな、汚されはしておらん。何度かそうされそうにはなったがの、わしに直接触れればその汚いナニが腐り落ちるぞと言うたら……くかかっ、あの腰抜けどもめ、一切の気を無くしてしもうたわ」
何か頭上で言っているが、俺はもうそれどころではない。
目の前の光景は、男にとってあまりに目の毒であった。
しかもこの時の俺は疲労困憊かつ、意識も万全とは言えぬ状態であり、己が目の前にぶら下げられたものに抗うだけの気力も、正常な判断力すら低下していたのだ……。
「ほれほれ、わしの気が変わる前に早うしたほうがいいのではないか~?」
「ぐ……! ぐぐ……!」
心の中の俺が警報を鳴らしている。
それに触れれば、大事な何かを失うぞ――と。
もしひとたび触れてしまえば、この死神は次に何を仕出かすか分からない。
いや。まず間違いなく、男にとって大切な『何か』を失う結果になる。
だがしかし、悲しいかな――そんな心の声とは裏腹に、手の動きは止まることはなかった。
禁断の果実に指先が触れようとした、その時。
「おっとそうじゃ」
「おおっ!?」
やにわにラピスは立ち上がり、俺は間抜けな格好でもんどり打つ羽目になる。
「こんなことをしておる場合ではなかったわい。早うここから立ち去らねばの――ん、どうした?」
「……悪魔……! この、悪魔め……!」
――泣きたい。
三度。三度も、この女にしてやられた。
分かっていたはずなのに……!
「くかかっ! なーに、そう慌てずとも、汝の世界に行った後に好きなだけ続きをさせてやるわい。それにな、実際のところ、一刻も早うせぬとまずいことになるでな」
悔しさに身を捩る俺を見下ろすラピスから声がかかる。
「……まずいこと?」
「わしが自由の身になったこと、もし彼奴等に知られるところとなれば、ただではすまん。言うたように、わしは彼奴等に対処する術も持たぬしの。見つかれば一巻の終わり、元の木阿弥じゃ」
確かに、それは非常にまずいことになる。
もし武器やらを手にした者たちと対峙することとなれば、ラピスが頼れぬ以上、ただの人間である俺に抗する術があるはずもない。
「流石にまだ気づかれてはおらぬじゃろう。――リュウジ、行くぞ」
言うと、目の前の何もない空間に『扉』が出現した。
何らかの木材で作られ、更に多種多様な骨らしきもので飾られている、悪趣味な扉だ。
恐ろしいことに、その中には人の頭蓋骨らしきものもあった。
「立てるか? 次元移動はすぐに済む。この扉をくぐれば即座に汝の世界にまで繋がるでな。しかし、汝の意識がはっきりしておらねば、移動先の座標を固定することができん。下手をすれば二人して次元の狭間に幽閉されることになるぞ」
「そりゃ、ぞっとしない話だな……。分かった」
この不気味な扉をくぐることに一抹の不安が無いこともなかったが、まさかこの期に及んでラピスが俺を騙すようなことはしないだろう。
俺はふらつく足を押して立ち上がり、ラピスの横に立つ。
「よし、それでは――」
ラピスの手が扉に伸びる。
「――ッ!?」
――彼女がノブに手をかけようとした瞬間。
彼女の手目掛け、上から『何か』が降ってきた。
勢いままに地面の氷に突き刺さったものを確認すれば――それは、一振りの剣であった。
白い柄には様々な装飾が設えられ、とてつもなく高価そうな代物だ。
俺は、何ごとが起こったのか全く分からず、横のラピスをちらと見る。
……彼女の表情は、明らかに狼狽の呈を見せていた。
そして、更に。
俺が声を発するより先に、洞穴内に響く声。
『あれあれあれ~? サナトラピスちゃん、なーんで自由になってるのかナ~?』
俺たちが同時に振り向けば、そこには――。