追憶の夏へ
想えば早いもので人生の三割程を過ごしてしまった。
一度目の夏に私は生を受けたらしい。
すでに幼少の幾つかは引き出しに難い。
最も古い物は小学生の頃であろうか。
あの頃はただひたすらに走ることが好きであった。
軽いからだに力をみなぎらせ、どこまでも続く田んぼ道を跳びはね翔びはね進んでゆく。
前を走るまっしろな愛犬はリードの引っ張りに意思を伝える。
何故かいくら走ろうとも全く疲れることはないのだ。
過ぎる稲の青さを尻目にせせらぐ小川の心地よい音。
天高く立ち上る積雲は速度を増し、空の紋様を時間不可逆だと実感する。
この時、幼心に気がついてしまったのだ。
二度と戻らぬ時の侘しさ。
決して保存出来ない今の輝き。
そしてそれすらも忘れてしまうであろう自分の人間としての限界を。
考えるうちに多感な子供は涙を流す。
軽やかな足も止まり、ただ、座り込む。
数えきれない蝉の声。
擦れる夏草の旋律。
吹き抜ける風は大量の雫を乾かすまでには至らない。
心配したのか寄り添ってくる犬。
嬉しそうに顔を舐め回される。
堰を切ったように押し寄せる嗚咽。
犬を抱きしめただただ泣きわめく。
遠い未来を想像してしまったのだ。
目の前にいるまっしろな私の自慢の愛犬は。
私より先に寿命を迎えることになるだろう。
今、確かに、目の前に存在している。
頭を腹を撫でようとも自由自在だ。
喉だってわしゃわしゃできる。
だがしかし
十年後に同じことができるだろうか?
二十年後は?
私が天寿を全うするそのときまで側で変わらずに寄り添っていてくれるのだろうか?
結論に近づく度に量を増す涙。
わかりきっているその答えはひどく単純で、誰でもわかるもの。
それでも決して認めない。
認められる事など言語道断だ。
頼む。
この日常は不変でいつまでもこの状態が続いてくれ。
抱きしめていた腕からするりと抜け出す。
きっと痺れを切らしたのだろう。
軽くリードを引っ張り、散歩の続きを要求する。
すっかり消沈していた少年は放心しながらゆっくりと立ち上がる。
すると突然目の前の景色が非常に美しい物に見えた。
今までは必死に走って来たためあまり意識しては来なかった風景。
滲んだ視界で辺りを見渡す。
突き抜ける空は無限に高く。
揺れる稲穂はまだこうべを垂れるほど太ってはいない。
むっとする大地の香り。
耳元で渦巻く風切り。
吹き出し続ける汗。
照り返す地面の暑さ。
正面から一瞬だけ吹き付ける最高風速。
そのとき少年は理解する。
自然という名の長大な流れ。
繰り返される命の営み。
自分ももれなくそれに組み込まれ、生きていることを。
袖で涙を拭い少年は走りだす。
犬も喜び、何事もなかったかのように散歩を続ける。
少年は結論を出した。
たとえ先がどうなろうとも。
今、この瞬間を積み重ねた先こそが。
未来の自分達を作る要素なのだということを。
素晴らしい未来を迎えるために。
後悔の残らぬように今を、精一杯生きてやる。
子供は大人の知らないところで学び、育ってゆくものである。
少しずつ変化する日常は悲しいが、時に新たな喜びも生み出す。
この緩やかな流れのなかで私たちはどのような行動を起こし、どんな歴史を紡いでゆくのだろうか。
おしまい