歩く男
『 歩く男 』
石ノ(の)森章太郎という漫画家の作品に、『龍神沼』という小品がある。
石ノ森章太郎と言えば、『サイボーグ009』とか『仮面ライダー』シリーズで有名な漫画家であり、才能に関して言えば、あの手塚治虫からも嫉妬された、という話も伝わっている天才漫画家である。
多作で知られた漫画家であったが、人によっては、漫画としての完成度の高さから言えば、二十三歳の時に、亡き姉の面影を偲んで描かれたと云われる、この作品を生涯最高傑作とさえ言いきる人も居る。
姉は、石ノ森章太郎が二十歳の頃、二十四歳という若さで亡くなった。
漫画自体は昭和三十六年頃に発表された少女漫画であるが、僕はこの作品が好きだった。
龍神様の祟りと称して、あらぬ風評を撒き散らし、土地収奪を企む者と対峙する形で繰り広げられる、ロマンティックな感傷に溢れたファンタジーであった。
龍神祭りという土俗的な情緒もふんだんに盛り込まれ、都会から祭り見物のために村を訪れた、親戚の青年に対する少女の幼い恋心も随所にちりばめられていた。
その漫画自体の具体的なストーリーは、もうあらかた忘れてしまったが、主人公の青年、少女の他に、沼の守り神・龍神様の化身と思われる綺麗な娘の姿が鮮明な記憶として、僕の脳裏に今も焼き付いている。
長い髪の娘で、白い百合の花を一輪持ち、白い着物で佇んでいた。
この間、インターネットのアマゾン・サイトで漫画本を何気なく検索していたら、この『龍神沼』の復刻版に出遭った。
なつかしい気がして、即座に注文した。
還暦を過ぎた男のささやかな道楽だ。
齢をとると、朝早く、目覚めることが多くなる。
同時に、夢を見ることも多くなる。
正確に言えば、目覚める前に見た夢を覚えていることが多くなる。
時々、目覚めた後で、どうして、こんな夢を見たのか、不思議に感じることもある。
過去の思い出にも、現実の暮らしにも関係ない夢を見ると尚更、不思議に思うのだ。
夢って、一体、何だろう?
『こんな夢を見た』という書き出しで始まる掌編小説がある。
夏目漱石の『夢十夜』である。
いずれも、夢幻的で、おかしな夢ばかりだ。
妙に幻想的で、恣意的ですらあるが、読後感は全く悪くない。
漱石ほどでは無いが、僕もこの頃、おかしな夢を見ることが多くなった。
何故か、は分からない。
とにかく、夢の中で、いろいろな所を、或る男と歩く。
夢の中で、僕に同行する男はいつも決まっている。
巡礼で云う『同行二人』ならば、同行者は弘法大師と相場は決まっているが、僕の場合は、学生時代の親友が夢の中の巡礼の同行者である。
夢の中に出てくる同行者の名前は村井と云う。
僕より一学年上の医者の卵だった。
当時、僕たちには共通の女友達が居た。
『幻の沼』を探して、三人で旅をする約束をしていたが、その約束は果たされずに終わった。
そして、この頃、こんな夢ばかり、見る。
第一夜 【 貼り紙だらけの町 】
殺風景な町だった。ちょっと変な町だった。やたら、貼り紙が多かった。
電柱はかなり上のところまで隙間なく、貼り紙で埋められ、家や商店の塀の壁にもびっしりと隙間なく、いろいろな貼り紙がべたべたと貼られていた。
まるで、貼り紙のモザイク模様の中を歩いているような気にさせられた。
貼り紙に幻惑され、目が回りそうになった。
村井さんもこの町の異様な雰囲気に気付いたらしい。
僕に向かって、訝しげな口調で言った。
「どこか、変だな、この町。ねえ、緑川君、そうは思わないかい。何か、変だよ、この町は」
「貼り紙だらけの町。どうも、変な雰囲気の町ですね」
「貼り紙の文句だって、おかしいぜ。『君は効率と成果で評価される。頑張れ』、『君の値打ちは実績成果で評価される。頑張って、成果を上げろ』。ほら、あそこには、スローガンめいた貼り紙もあるよ」
村井さんが指さした方向に、このような文言が書かれた貼り紙があった。
『君の上司が期待するのは、効率のよい仕事振りと、着実な仕事の成果だ。君の値打ちは君の上司が決める。さあ、上司を満足させろ』
「なんだか、息苦しくなるような貼り紙の文句ですね」
「効率、実績、成果、評価、上司と言った言葉が氾濫している。おかしな感じだ」
「でも、今の日本の会社って、こんな感じですよ。耳ざわりのいい建前はともかく、管理社会で窮屈なものです」
「緑川君、君、相当窮屈な思いをしてきたのだろう。実感がこもっているぜ」
村井さんの言葉に、僕は苦笑するしかなかった。
僕たちは町の大通りを暫く歩いた。
人々はせかせかと歩き、交差点では信号が黄色になると、信号待ちをするのが嫌らしく、半ば小走り加減に渡っていた。
交差点で、信号待ちをした僕たちの傍らに、二人の男が居た。
サラリーマンの上司と部下、といった感じの二人連れだった。
男たちの会話が聞こえてきた。
「駄目じゃないか。遅刻しちゃ、駄目だよ」
怒気を含んだ声だった。僕たちは何気なく、そちらに眼を向けた。
四十歳ぐらいの中年の男と二十歳代の若い男が向き合って立っていた。
若い方がうな垂れていた。
「今度、遅刻したら、僕は君の勤務査定を低くせざるを得ない。就業規則にも書いてあるだろう。あん! 二回遅刻したら、減点十点で、三回遅刻したら、ストラック・アウトで馘首、だよ。あん!」
その言葉を聞いて、びくっとしたように、うな垂れていた男が頭を上げた。
そして、懇願するような口調で呟いた。
「そんな、馘首なんて。酷い。酷すぎますよ。今日の遅刻は前回と違って、特別なんです。寝坊じゃありません。朝、女房が急に具合が悪くなり、寝込んでしまって、女房の代わりに、僕が息子を保育園に預けに行って、つい、遅れてしまったんですよ」
「黙らっしゃい。言い訳は無用。就業規則通りに処置しないと、僕も管理者失格の烙印を押されてしまうのだ。僕の身にもなってみろ。僕も上司によって査定される身だ。君の巻き添えを食って、ボーナスが下がるなんて、冗談じゃない、真っ平ご免だ。三人の子供を抱えて、家計は火の車なのだ。他人に同情している余裕なんて、これっぽっちも無いのだ。とにかく、今度遅刻したら、ストラック・アウトだからね。判ったね。即、馘首だよ、馘首!」
言われた男は、黙って、うな垂れた。
やがて、信号が変わり、僕と村井さんは歩き出した。
その二人連れはあっという間に、せかせかと、僕たちを抜いて歩き去った。
まるで、競歩のような速さだ、と僕は思った。
「遅刻が三回で馘首かい。随分と厳しい規則だね」
「そんな会社って、今時、あるのですかねえ。ちょっと、信じられませんね」
「でも、そういう就業規則がある以上は、そうなのだろうね。それを承知で入社している以上は、馘首になっても文句は言えない」
「いや、そんな就業規則は労働基準法違反ですよ。処分が厳しすぎて、異常な会社と見られますよ。ありえないし、御用組合だったとしても、黙ってはいませんよ」
「うん、そう言えば、そうだね。何か、おかしい感じがするね」
「べたべたと貼られた貼り紙といい、ぎすぎすした会話、人のせわしない歩き方といい、何かこの町は嫌ですね。生理的に受け付けない雰囲気に満ち満ちていますよ、この町は」
「うん、そう言えば、この町は今の日本のサラリーマン社会の縮図という感じがする町だな」
「昔風な年功序列とか終身雇用制度が崩れ、実績重視の成果主義に基づく昇進・昇給制度が支配的システムとなったサラリーマン社会の縮図、といったところですかねえ」
「でも、緑川君はそのようなサラリーマン社会の一員だったのだろう」
「うん、そうですけど、村井さんは?」
「僕は、準サラリーマン社会の一員だったってところかな。医学研究所で基礎研究に明け暮れていたから。それほど、ぎすぎすした人間関係は無かったよ」
「普通の医者にはならなかったのですか?」
「ならなかった。と、言うより、なりたくなかった、と言った方が正確かな。現実的な人の死は見たくなかったのだ。それで、基礎医学研究の道を選んだ。医者のくせに、血を見るのも嫌だったし、とどのつまりは、臆病だったのだ」
村井さんは半ば自嘲気味に言った。
歩く足取りが少し重くなって、その内、・・・、目が覚めた。
村井さんは僕より二つ上の医学部の学生だった。
現役で医学部に入った秀才だったが、教養課程で一年留年していたので、学年としては、僕より一学年上だけとなっていた。
留年した理由を訊いたら、一年ほど部屋に引き籠り、大学には行かず、本ばかり読んでいたので、教養課程の必修単位が取れなかった、と苦笑交じりに話していた。
そして、ドストエフスキーを原語で読みたいと、ロシア語を独学で勉強していた変わり者だった。
第二夜 【 自由時間が多すぎる中学校 】
道の右側に、学校があった。
『第一中学校』という木の表札が校門に掛かっていた。
「この表札、面白いね。まるで、個人の家の表札のように小さいね。普通、学校の名前は門柱に嵌め込まれた大きな青銅の鋳造板というのが一般的だと思うのだが」
「何か、凄く控えめな感じですね。学校であることを遠慮しているような印象を受けますね。人様に教えるのはまことに恐縮でございます、といった感じ。でも、いかにも中学校らしい雰囲気はありますよ。ほらっ、校庭で、中学生たちが遊んでいますよ。みんな、楽しそうだなあ。生き生きと、遊んでいる」
「でも、さあ、こんな時間帯に校庭に出ているものかねえ。普通なら、教室で勉強している時間帯だよ」
「ああ、そう言われれば、そうですね。ちょっと、変ですね」
校庭の隅に立って、僕たちは校庭で遊んでいる生徒たちを観ていた。そこに、どこからか、サッカーボールが転がってきた。僕は、そのボールを何気なく拾って、手に持った。
「すみません。そのボール、僕たちの、です」
声がした方を見ると、数人の生徒が頭をペコリと下げていた。
「おう、これは君たちのボールか。はい、返すよ」
ありがとうございます、と言いながら、一人の生徒が近づいて来た。
「みんな、元気に遊んでいるようだけれど、授業は無いのかい?」
僕は彼に訊いてみた。彼は、ボールを受け取りながら、僕に言った。
「今は、自由時間なんです。教室で自習するのも、図書館で本を読むのも、こうして、校庭でサッカーをして遊ぶのも自由なんです。ほとんどは、校庭に出て、遊んでますけど」
「へえー、それで、自由時間って、週にどのくらいあるの?」
「前は、十時間程度でしたが、今年から、二十時間になりました」
「それじゃあ、週の半分以上、自由時間じゃないのかい」
「ええ、そうです。それでも、まだ、ゆとり教育にはほど遠いということで、来年はもっと増えるという話ですよ。僕たち、嬉しいです。自由な時間って、いいですよ」
こう言いながら、彼は無邪気な笑いを浮かべ、仲間のところに戻って行った。
「驚いたね。ゆとり教育自体、行き過ぎじゃないか、と見直されたはずじゃないのか」
「おかしいですね。でも、このあたりは、辺鄙なところですから、文科省の通達が届いていないのではないでしょうか」
「そんなはずは無いだろうけど。それにしても、ゆとり教育のせいかどうか判らないが、我が国の生徒の学力レベルは他国に凌駕されてしまった」
「こんな資源の無い国で、文字通り、刻苦勉励が求められる国で、ゆとり教育なんて、的外れだったかも知れませんね。見直されて、良かったです」
「世界の中で、日本の位置はどんどん落ち込んでいっているし、知的レベルでも日本は落ちぶれていっている。再び、輝きを取り戻すことはできるのだろうか?」
僕たちは憂鬱な思いを抱きながら、その中学校を去った。
足取りがさらに重くなるのを感じて、・・・、目が覚めた。
『幻の沼』。いつか行こう、と言い出したのは、彼女だったかも知れない。
彼女と村井さんと僕。思えば、僕たちはいつも一緒に居た。
町外れの小さなアパートが僕たちのすみか(・・・)だった。
木造モルタル、二階建てのおんぼろアパートに三年ほど住んだ。
でも、彼女と一緒に暮らしていたわけではない。
村井さんの部屋の両脇に住んでいただけだ。
向かって、左脇の部屋が彼女の部屋、そして、右脇の階段脇の部屋が僕の部屋だった。
階段を誰かが昇り降りする度に、木の階段は律儀にミシミシ、ギシギシと哀しげな悲鳴をあげた。
第三夜 【 恩恵に満ち満ちた公園 】
町から少し離れたところに、公園があった。
人がかなり集まっていたので、立ち寄って、何があるか、覗いてみることとした。
公園の中には、野外舞台が何箇所か設営されており、人々が集まっていた。
舞台の上では、芸人と思われる男女がそれぞれ、パフォーマンスを繰り広げていた。
コントを演じて聴衆を笑わせている舞台もあれば、マジックショーで聴衆を驚かせている舞台もあり、また、或る舞台では、音楽を奏でているミュージシャンもいた。
公園には、いろいろなものを売っている露店、仮設商店も建ち並んでおり、買い求める人たちでどこも賑わっていた。
「凄い賑わいだね。どこも、商売繁盛、結構なものだねえ」
「本当に、賑わっていますね。こんな小さい町で、これほどの賑わいを見せるというのは滅多にありません。東京などの大都市を除けば、多くの町は、今、シャッター通りという言葉が示すように、閑散としているのが普通ですから。何か、不思議な感じがします」
「地方都市は閑散としているものだ。僕もそう思っていたけれど、この町の賑わい振りを見たら、そうは思えないね。町全体が凄く活性化しているように思われるが」
「まあ、人が忙しく働いていそうな町ですから、きっと、住民税とか企業からの税収が潤沢にあるのでしょうかね。税金がふんだんにあれば、住民サービスも相応に出来ますから。ざっと、見た感じ、それぞれの舞台は無料で観ることができるようですね」
「それに、露店で売られている商品の値段を見てごらん。安いよ。驚くほど、安いのだ。だって、焼きそばが十円、たこ焼きも十円だぜ。安すぎる」
「まあ、消費者から見たら、安いに越したことはありませんが、それにしても、安すぎますね。今時、十円でこうしたものが買えるなんて」
「そうだね。一つ、何故こんなに安いのか、訊いてみようか」
村井さんは、焼きそばを作っている露天商の一人に訊いてみた。
「すみませんが、一つ、お尋ねします。この焼きそばが一皿、十円というのは、何か、とても安いですね。これで、儲けがあるのですか?」
訊かれた露天商は笑いながら、答えた。
「十円で、儲け、だって! あるわけありませんよ。役所から、私たちに補助が出ているんです」
「ほう、役所から補助が出ているのですか。一皿あたり、なんぼ、とか」
「普通は一皿、五百円で販売しているから、差し引き、四百九十円の補助が出ているんですよ」
「そんなに、役所が出しているのですか。ここに住んでいる住民は、ハッピーですね」
「ああ、あんた方は、ここの住民じゃない、よそ者だね。近々、この町には、議員選挙があるということで、与党が住民に対して、大盤振る舞いをしているのさ。昔からの慣習でね。大きな声では言えないが、一種の合法的な集団買収さ。でも、俺たちには、商売繁盛でありがたい慣習だよ」
露天商の言葉を聞いて、村井さんは苦虫を噛み潰したような顔になった。
その後、僕たちは賑やかな舞台を観ながら、公園を暫くぶらついた。
観客は無邪気な顔で舞台を眺め、笑いさざめいているし、小さな子供たちは子供たちで、露店に群がり、信じられないほどの安価で販売されているお好み焼き、林檎飴、お面などの玩具を買い漁っていた。
人々は皆、幸せそうな顔をしていた。
「これが、現実かね。何と言ったら、いいのか」
僕たちは苦笑いしながら、人で賑わう公園を去った。何とも言えない嫌な気分が残った。
足取りがさらに重くなった。
しかし、僕たちは歩くしかない。ひたすら、歩いた。そして、・・・、目が覚めた。
僕たち三人が知り合ったのはほんの偶然だった。
僕は入学して、学校の寮に一年ほど住んだが、その学寮は学校からは遠かった。
もっと近くに住みたくなって、学校近くのこのアパートに越してきた。
二年の春、その時、僕は十九歳だった。
第四夜 【 格差が見えすぎる浜辺 】
潮の匂いがした。
ふと、気が付くと、僕たちは海岸沿いを歩いていた。
水平線近くには、悠然と航海する白い客船も見えていた。
ふと、彼女がここに居れば、指をさして、あれはギリシャの船よ、と即座に言うに違いないと思った。あの頃、流行った唄の文句だ。
浜辺に押し寄せる波は波打ち際で静かに砕け、穏やかな飛沫をあげていた。
「この間の津波は大丈夫だったの」
村井さんが浜辺を見ながら、僕に語りかけた。
「ええ、お蔭様で。家が少し港から離れたところだったので、何とか、津波の被害には遭いませんでした。でも、近くの港は壊滅状態になりました」
「地震は? 確か、震度六強の地震だったのだろう」
「地震の被害もさほどではありませんでした。本棚から本が落ちたり、冷蔵庫の扉が開いて、食材が床に落下したりはしましたが。家自体の損傷は、外見上はありませんでした。今は、何と言っても、原発ですよ。原発! 憂鬱の種です」
「原発、か。問題解決まで、長い話になるねえ。除染作業だって、じっくりと、計画的に取り組むしか無い。でも、放射能というのは目には見えないから、実感として、怖さは伝わってこない。その分、人は鈍感になってしまうものだ。本当は、恐ろしいものだけれど。一方、津波って、怖いね、目に見えるものだから。あの震災の時、津波が陸地に押し寄せてくる様子、何回もテレビで見たけれど、その都度、恐怖を感じたよ。地域によっては、高いところで三十メートルの津波に襲われたのだもの。全てが一網打尽のように流されてしまう。長年営々と築いてきたものが、あっという間に、全て消滅させられてしまう。実に、酷いものだね」
「かと言って、天は怨めませんね。何を怨めばいいのか。今だって、夜昼関係無く、余震に悩まされていますよ。せめて、日曜の夜だけは勘弁してよ、と思いますが。自然には人が作った暦も無ければ、人の生活も関係ありませんからね。ただ、自然の摂理によって、動くのみです。何の配慮も無い。人は自然に寄り添わないと生きていけませんが、自然は人に寄り添う必要なんてないのですから。怨むべき対象が判りません」
「それはそうだけれど。でも、今回の震災が日本人に与えた教訓って、一体何だったのだろう。想定外だったから、諦めろ、ということだけだったのかな。想定外。便利な言葉もあったものだ。全ての本質がこの言葉で覆い隠されてしまう。意識的な想像力の欠如でしかないのだが。そして、想定外のことだと言っている限り、進歩は無い」
浜辺では、大勢の人が何かを引っ張っていた。
「あれは何だろう? 何をしているのかな」
「どうやら、網を皆で引っ張っているらしいですよ。どうも、地曳き網らしいですねえ」
「今時、地曳き網で漁なんかしているのか。どうにもこうにも、時代遅れのような感じがするのだが」
「それに、引っ張っている人の恰好が奇妙です。皆が、大変な襤褸服を纏っています」
「そう、言われてみれば、そうだね。大変な襤褸服だ。まるで、ワカメのように破れた服が垂れ下がっているし」
僕たちは周囲を見渡した。
海岸の周りには、みすぼらしく、何とも形容し難い集落が並んでいた。どの家も粗末な造りのバラックで強い風が吹いたら、崩れ落ちてしまいそうな感じで建っていた。
村井さんが指差しながら、僕に言った。
「集落の家々の襤褸さ加減と比べ、あちらの丘には凄い家々、というか、お屋敷が建っているよ」
僕は、村井さんが指で示した辺りを眺めた。
なるほど、凄く立派な家々が建ち並んでいた。
木造の三階建てのお城のような構えの立派な屋敷が数軒並んで建っていた。
ぼろぼろのバラック建ての集落と、お城のような豪邸。
その格差の甚だしさに、僕は吐き気を感じた。
「この村、何か変ですねえ。天国と地獄ほどの格差の存在を感じさせられます。格差がこのように生々しく、見える形というのも何だか有りえないようにも思えるし」
網を引く襤褸服の人々と離れたところに、一人の肥った男が立っていた。
立派な着物を着て、傲然とした態度で立っていた。
この男がいわゆる網元かも知れない。
時々、何やら叫んでいた。
何を言っているのか、僕は耳を澄まして聴いた。
「網を引け。もっと、強く網を引け。さっさと、仕事を片付けろ! さもないと、今夜の夕飯は抜きだ」
聴いている内に、僕は腹が立ってきた。
夕飯を抜く、と言っていた。
今の日本で、こんなことが許されているのか、おかしい、何か変だ。
でも、これが現実かも知れない。資本主義は格差を生む。
資本主義の行きつく先は、歯止めの無い、果てしない格差増大だ。
いつの間にか、ひどい世の中になってしまった。こんなはずでは無かったのに。
何となく幸せな気分を味わえた右肩上がりの時代と、殺伐とした格差社会となった今の時代を比較して考えていたら、ひどく憂鬱になってきた。また、吐き気を覚えてきた。
おかしな浜辺だ。急いで、立ち去ることとしよう。
こんなところに長居をしたら、精神構造自体、おかしくなってしまう。
僕と村井さんは足を速めて歩いた。
足取りが、前よりさらに重くなり、歩けなくなって、・・・、目が覚めた。
アパートのすぐ近くに、学生相手の小さなラーメン屋があり、その店で僕たちは何となく知り合った。
他に、食べるところが無かったので、僕は週に何回かは、その店に行って、昼食とか夕食を食べていた。
その内、学生の常連が何人か居ることに気付いた。
村井さんと彼女もその常連の中に居た。
第五夜 【 ひねくれ者の村人 】
太陽の日差しが急に眩しくなり、次第に、暑くなってきた。
「なんか、急に、暑くなってきましたね」
「うん、そうだね。ちょっと、暑くなってきたね」
僕たちは甘い薔薇の香りに包まれた丘を過ぎ、ふもとの小さな村を歩いていた。
道の両側には、田んぼが広がり、お百姓さんが数人、田の草取りをしていた。
田舎には、田舎の独特な匂いがある。
草の匂い、土の匂い、そして、水田の稲をそよそよと揺るがし通り過ぎる風の匂いだ。
僕と村井さんは、町場では絶対に味わえない田舎の匂いを胸一杯吸いながら、のんびりと歩いた。
突然、田んぼの中から話しかけられた。
ぎょっとして、声の方向を見ると、一人の屈強な体つきをした農夫が僕たちを見ていた。
「あんた方はどこに行くんだい?」
「あの山の彼方に行くつもりです」
立ち止まって、僕が答えた。
すると、その農夫がニヤリと笑って、こう言うのだった。
「ほう、あの山の彼方に、ねえ。まあ、こう言っては何だが、・・・、何も無いよ」
「そう、言われると、身も蓋もないですが、まあ、何かありますよ」
「何にも無いって。これは断言出来る真実だ。あの山の彼方に行っても、あんた方の望むものは無いんだ。行く必要は無いよ。行くだけ、無駄だ」
「そうかも知れませんが、何かあるかも知れませんので、とにかく、行ってみますよ」
余計なお世話だ、という僕の表情を見て、その農夫は怒ったような顔になった。
「折角、俺が、何も無い、と言っているのに、それでも行くつもりなんだね。まあ、勝手にするがいいけれど、本当に何も無いんだ。今のこの日本に、探し求めるものなんか、見つかったためしが無いって、言うのに。まあ、好きにするがいいさ。幻滅し、こんなはずじゃなかった、と言っても、後の祭りよ。まあ、お好きにどうぞ」
「はい、好きにしますよ」
僕は売り言葉に買い言葉とばかり、捨て台詞を吐いて、歩き出した。
足取りが少し重くなった。
暫く、歩いた後で、村井さんが笑いながら僕に言った。
「おかしな農夫だったね。かなりのペシミストで。適度の悲観は現実を直視することに繋がるけれど、過度の悲観は禁物だよ。意欲を失わせるものだから。そう言えば、ちょっと、ひねくれてもいたね。でも、ひねくれ者のいる社会も悪くないなあ」
「ひねくれ者も、時には社会のスパイス的存在とはなりますものね。スパイスで料理は引き立つとも言いますからねえ。イエスマンばかりの組織は、いつかは滅びるものです。ひねくれ者も居る社会は、どこを切っても、金太郎、という金太郎飴社会よりはまし、ということですかねえ。批判を許さない金太郎飴国家は不気味ですし、危険でもあります」
悲観は気分に過ぎず、楽観は意志である、という誰かの言葉も僕の脳裏を過ぎった。
雨の音で、・・・、目が覚めた。
或る時、入って行くと、小さな店はほとんど満員御礼という状態だった。
座る場所が無く、途方に暮れている僕を見て、一組の男女が声をかけてくれた。
相席したらどうか、という誘いの言葉をかけてくれたのだ。
僕は彼らの好意に甘え、彼らが座っているテーブルの腰掛に腰を下ろした。
分厚いレンズの黒縁の眼鏡をかけた四角い顔の男と、面長の長い髪の女だった。
話してみると、何のことは無い、同じアパートに住んでいることが判り、僕たち三人は何となく親しくなった。
その内、ハイキングがてら、一緒に山歩きをする仲になっていった。
後で訊いたら、彼女と村井さんも、以前から知り合っていたわけでは無く、僕に声をかけたあの日、店が混んでいて席が無く、たまたま同じテーブルに相席していたに過ぎなかった、という話だった。
人が見知らぬ人と知り合いになるというきっかけは、案外このような洒落た偶然が絡んでいるのかも知れない。
第六夜 【 感傷だらけの丘 】
優しい風が吹いていた。
僕たちはその丘をゆっくりと登り始めた。
道端には白、赤、ピンク、黄といった様々な色の薔薇が咲き乱れ、甘い香りを一面に漂わせていた。
「薔薇の花の香りって、どこか、けだるげで、ノスタルジックな香りだね」
「そう言えば、彼女は薔薇が好きでしたねえ」
「彼女、か。そうだったね。薔薇が好きだったのは確かだ」
僕は歩きながら、彼女のことを思い出していた。
僕と村井さんと彼女。山歩きをよくした。いつも、お握りを作ってくれた。
彼女はどちらかと言えば、細面で、花で言えば、百合の花のような女性であったが、薔薇の花が好きだった。薔薇は六月の誕生花である。
彼女の誕生日が六月だったので、僕と村井さんは彼女の誕生日に薔薇の花を贈った。
一輪だけだったが、彼女はとても喜んでくれた。
薔薇は彼女の机の上に、大事に飾られた。
でも、薔薇の花の寿命は短い。萎れて、萎びて、そして、パラパラと散っていく。
一輪だけ贈ったのには理由がある。
僕と村井さんで、それぞれ、一輪ずつ買って贈ることは、学生の身分でも可能であったが、どちらの薔薇が早く散っていくか、僕たちは見たくなかったのだ。
それで、二人で一輪、ということに決めたのだった。
決めた、といっても、僕たちは相談したわけでは無い。
いわゆる、紳士協定、換言すれば、暗黙の了解、のようなものだった。
薔薇の花言葉は、私はあなたを愛する、であるが、受け取った彼女は僕たちをどう思っていたのだろうか。
僕も村井さんも彼女が好きだったが、彼女にとって、僕たちは仲良しの男友達でしかなかったのかも知れない。
彼女の態度からは、僕が好きだったのか、村井さんが好きだったのか、皆目見当が付かなかった。
わたしは二人の共通のアマン(愛人)よ、と言うのが彼女の口癖ではあったが、特別なややこしい関係には至らなかった。
僕が大学を卒業して、住んでいた町を去った時、六年生まである医学部の学生だった村井さんと、卒業まで一年残していた彼女はそのアパートに残った。
そして、僕はその町を去って、その後は、一度もその町を訪れなかった。
村井さんと彼女のその後を知らずに、僕は四十年という歳月を僕だけの人生として過ごした。
今更、過ぎ去った過去へのノスタルジーに縋り付いて感傷的になってもしょうがないが、村井さんに彼女を託した、或いは、言葉は汚いが、譲ったつもりでいた僕は卑怯で情けない男だった。
感傷にも値しない男だったが、今はどうしようもなく、感傷に溺れていた。
薔薇の香りが悪いのだ、思い出させてしまう。僕はそう思った。
登りきった丘の上に、一軒の家があった。
二階建ての何の変哲も無い家だったが、どことなく、郷愁を誘われるような家だった。
家の壁は木で、白いペンキで塗られていた。
窓枠は濃い緑のペンキでくっきりと塗られており、一見、牧師館風の風情も漂わせていた。家の前には、小さな庭があり、色とりどりの薔薇が咲き乱れていた。
白く塗られたアーチ型の門があり、そこにも、赤い蔓薔薇がてっぺんまで絡まっていた。
二階の部屋の開け放たれた窓からは、シャンソンが軽やかに、ふわりと流れてきた。
昔の言葉で言えば、ハイカラな家であり、どんな町にでも一軒程度はこのような洋館があり、通り過ぎる者たちに仄かな憧れを抱かせたものだった。
「今時、珍しい洋館だね。不思議な感じがするよ。でも、このような洋館には、必ず、病身の娘が居て、窓から家の前を通る人たちをやるせない視線で見ていたものだ」
「そして、いつも、決まった時間に通る、元気な若者を愛しく見ていたのでしょう」
「そう。恋に恋する乙女は愛しい彼に恋をして、・・・」
「病気が高じて、あえなく、乙女はこの世を去る」
「その乙女の死は、或る日、乙女の母から知らされて」
「若者は乙女の死を悼み、涙にくれる」
村井さんはニヤリと笑った。
「緑川君、こんな掛け合い漫才を昔よくやったものだね」
「僕たちの掛け合い漫才を、傍で彼女は見ていて、腹を抱えて笑い転げたものでしたね」
「しかし、緑川君。郷愁に身を委ねては、いかんよ。程よく、身を委ねることは精神衛生上、いいけれど、過度に、身を委ねてはいかんよ。過度の郷愁は身を滅ぼすものだから」
僕にこう言って、村井さんはすたすたと、丘を下り始めた。
村井さんに心を見透かされてしまった。
でも、足取りは前よりずっと、軽くなった。いつしか、・・・、目が覚めた。
「ねえ、『幻の沼』って、知ってる?」
或る時、山の頂上の木陰で腰を下ろし、眼下に広がる雄大な風景を眺めながら、彼女が作ってくれたお握りを食べている時に、彼女がふと訊いてきた。
僕も村井さんも、知らなかった。
知らないと答えると、彼女は呟くような口調で言った。
「蔵王の山の中にある、という話よ。春だけ出現し、夏になると忽然と消えてしまう、と云われているの。ロマンティックな話だわ」
「ああ、それはおそらく、雪解け水が絡んでいるのだよ。春になって、雪解け水が流れ込み、窪地に沼が出来、夏に近づくにつれて、沼の水がどこかに流出し、沼は干上がる」
村井さんが断定的に言った。
「かもね。でも、わたし、その沼を一度は見たい。ねえ、来年、春になったら、そこへ行ってみようよ」
彼女が眼をきらきらと輝かせながら、僕たちに提案した。
一瞬、僕には彼女と『龍神沼』の龍神の化身である娘が重なって見えた。
いつか、暇が出来たら、探しながら行ってみようか、という話で終わった。
しかし、その機会が訪れることは無かった。
第七夜 【 愚公が草刈りに精を出す湖 】
前方に、眺望がひらけ、湖が見えた。
日光に照らされ、湖面が銀色にキラキラと輝き、煌めいていた。
「清々しい風景が広がっているね。心が何だか、のびやかになる」
「本当ですねえ。こんなところで、湖に遭遇するなんて、思いもよりませんでした」
僕たちは湖に沿って歩いた。頬をそっと撫でて通り過ぎる微風が快かった。
「あれは、何をしているのだろう?」
「岸辺で、何かしていますねえ。近づいてみましょうか」
一人のお年寄りが腰まであるゴムのズボンを穿いて、岸辺で草を刈っていた。
齢の頃は、八十歳近いと思われる老人だった。
「おじさん、刈っている草は葦ですか?」
村井さんが訊ねた。声をかけられた老人は顔を上げて、僕たちを見た。
「葦と言うのかね。こちらでは、葦と言うけど」
「お一人ですか?」
「ああ、儂一人だよ」
僕は辺りを眺めた。
岸辺は一面、ヨシ原となっており、とても、一人の人間で刈り取れる分量では無かった。それに、初夏に刈り取り作業をするなんて、季節外れも甚だしい。
「でも、おじさん、一人ではとても刈り取れるものではありませんよ」
僕の言葉を聞いて、老人は笑いながら言った。
「うん、あんたの言う通り、一日ではとても無理じゃよ。一日ではこの程度、一週間でも、あのあたりまでかなあ。でも、地道にやっていれば、冬までには終わる」
僕たちは老人が指差した範囲を確認して、溜息を吐いた。
この老人は辺り一面のヨシ原を全て刈り取るつもりなのか?
「あんた方は、心の中で嗤っているんじゃろう。儂を物好きな年寄りと。季節外れの刈り取りを行なう年寄りと」
「いえ、そうは思いませんけれど。大変な作業だと思っただけです」
村井さんの言葉を聞いて、その老人は呟いた。
「でも、儂は終わるまで続けるつもりだよ。役所から頼まれたわけでも無いし、金を貰っているわけでも無い。今の流行言葉で言えば、儂はボランティアをやっているんじゃ。儂、この湖を綺麗にしたくってな。昔は、この湖で、誰でも泳げたものじゃ。でも、今はこのように、とても泳げたものじゃない。こんな濁った状態じゃ、泳ぐのはとても無理。でも、幸い、ここはまだ、ヨシ原が健在じゃ。ヨシ原には水を浄化する働きがあると聞いた。で、儂はヨシ原を大事に育てようと思ったわけじゃ。一年がかりでも、ちゃんと刈り取り、火入れをして、手入れを不断に行なえば、ヨシ原は広がり、湖を綺麗にしてくれる。泳げる湖にしたいと、儂は思っているのよ。儂が死んでも、息子が後を引き継いでくれる。息子の次は、孫が引き継いでくれる。いつかは、この湖でも、泳げるという時代が来るはずじゃ。いつの日か、みんなが泳げる日がきっと来るのさ。いつの日か、きっと来る」
そう言って、老人はまた、身をかがめ、刈り取りの作業に戻った。
僕たちは、その場を離れ、歩き始めた。
「愚公山を移す、という言葉を聞いたことがあるかい」
「知っていますよ。愚公という老人が、交通の便をよくするために、一族で自宅の前に在り、交通の障害物となっている大きな山を崩し始めた。これを見た人が、その愚かさを笑ったのに対して、愚公は子々孫々まで続ければ、いつか、山は消滅すると答えた」
「そうだね。まあ、実際は、その愚公の話を聞いた天帝が感じ入り、一夜で山を移してやった、という伝説の落ちも付いているけれど」
「あのおじいさん、まさに、愚公そのものですね」
僕たちは不思議なおじいさんと出会った湖畔を爽やかな気持ちで歩いた。
足取りが少し軽くなったような心持ちがしていた。
湖面の眩しい煌めきを感じ、・・・、目が覚めた。
第八夜 【 強欲がはびこる森 】
湖を通り過ぎ、鬱蒼とした森にさしかかった。
カーン、カーンという甲高い金属的な音が方々(ほうぼう)から聞こえてきた。
「村井さん、何の音でしょうか?」
僕の言葉を聞いて、村井さんは立ちどまり、耳を傾けた。
「どうも、木を伐っているような音だねえ」
「斧か何かで、木を伐っているのですかね」
「今時、斧か何かで、木を伐るなんて、珍しいね」
「普通なら、チェーンソーでガリガリです。足柄山の金時さんでもあるまいし」
「しかし、まあ、何だね。斧で伐る音なんて、なかなかいいね。牧歌的な感じを持つ」
「ほら、村井さん。あそこですよ。男たちが、斧をふるっていますよ。ほら、あそこ」
「おや、そうだね。一生懸命、斧をふるって、木を伐り倒そうとしている」
「でも、木を伐り倒した後って、どうするのですかねえ。また、何十年後かを期待して、植林でもするのですかねえ」
「それはそうだよ。で、無いと、木を伐り倒すばかりじゃ、未来は無いから」
「でも、見る限りでは一面、空き地が続いています。不毛の空地。雑草ばかりで、植林している様子は全く感じられません」
僕たちは、木を伐っている者たちに近寄り、植林の有無を訊くことにした。
少し、お節介とは思いながらも、訊いてみることにしたのだ。
「すみません。ちょっと、お尋ねしたいのですが」
一人が僕の声に気が付き、傍に寄って来た。
「木を伐っておられるようですが、同時に、植林作業も行っているのですか?」
その男は僕の言葉を聞いて怪訝そうな顔をした。
「しょくりんさぎょう、って、言ったのかい?」
「ええ、そうです。木を伐ると同時に、どなたか、植林作業を行っているのですよねえ」
男は首を振りながら、近くの仲間に訊いた。
「おーい、誰か、しょくりんさぎょう、って、知っているかい?」
「いや、知らない。初めて聞いた言葉だ。何だ、そりゃ?」
仲間の言葉を聞いて、その男は僕に言った。
「みんな、知らないって、言っているよ。その『しょくりんさぎょう』というのは、どういう意味の言葉だい? 木を伐るという仕事に関係ある言葉かい?」
「木は伐り倒したら、それで、お終いですよねえ。二度と、生えてきやしないのですから。そこで、木を伐った分、或いは、それ以上、木の苗を植えて、育てる仕事ですよ」
「何で、そんな面倒なことをするのかね。ほら、ここには、この通り、一杯、木があるし、伐り倒していくだけでいいんじゃないのか。伐り倒す木が無くなったら、ほら、もっと森の奥に行けば、木はたくさんあるし、ね」
「でも、そんなことをしていたら、いつかは、伐り倒す木も無くなってしまいますよ」
「ああ、いつかは無くなるだろうね。でも、おいらたちには関係ねえ。おいらたちの生きている間、木があればいいんだ。その後は、その後さ。おいらたちの後の者が何とか工夫するさ。ケ・セラ・セラ、だよ」
僕は憤慨し、更に、文句をつけようか、と思ったが、その男は何事も無かったように、僕に背を向け、元の作業場所に戻って行った。
「何だか、おかしいところだね、ここは。どうも、まともじゃ無いよ」
うんざりした僕の顔を見て、村井さんもうんざりしたような顔をして言った。
「自分たちのことしか、考えない。そんな雰囲気が感じられるね」
我がなき後に、洪水あれ、後は野となれ、山となれ、か、無責任なものだ、と僕は呟いた。強欲が幅を利かすところには居たくない、いつか完璧に破綻することは必定だ、こんなところは、さっさと立ち去るに限る、と僕たちは思った。
僕たちは足を速めて、おかしな森を通り過ぎた。
足取りが重くなって、・・・、目が覚めた。
第九夜 【 東屋だらけの野原 】
森から野原に出た。
広い野原一面に、小さな東屋が無数に並んでいた。
四畳半程度の広さで八角形をしていた。
屋根が赤、青、緑とカラフルに塗られていた。
無数と言っても、勿論、数には限りがある。
ざっと見て、百はありそうだった。
しかし、それにしても、多すぎる。
どんな東屋なのだろう。
僕たちは興味に駆られ、中を覗き込んでみることとした。
赤い屋根の東屋の中を覗いた。
中に、一台の大きな液晶テレビがあり、五、六人程度の男女が観ていた。
テレビの画面では、漫才師がコントを賑やかに演じていた。
「緑川君。見たかい。僕たちみたいな年配者ばかりだぜ。若い人は居なかったな」
「えっ、そうですか。僕は気付きませんでした。そう言われてみれば、全員、六十歳は確実に過ぎていましたねえ」
次に、青い屋根の東屋を覗き込んでみた。
赤い屋根とは違って、この東屋には若者ばかりが屯していた。
屯して、何をしていたか。
彼らは、パソコン・ゲームに興じていた。
「この東屋の様子を見ていると、うちの子供たちを思い出す。かつては、このようなゲームにのめり込んでいたなあ」
「村井さんの家でもそうでしたか。うちも、息子、娘を問わず、大人になるまで遊んでいました。今は、孫もiPadでゲームをして器用に遊んでいますよ。呆れたものです」
最後に、緑の屋根の東屋を覗いてみた。
驚いたことに、誰も居なかった。
中には、テレビもパソコンも無かった。
在るのは、本棚にぎっしりと収納された本だけだった。
「何だ、誰も居ない。寒々としているな」
「年寄りも若者も、誰も居ないですねえ。三十代、四十代、五十代といった働き盛りの年齢層は身過ぎ世過ぎの仕事で忙しく、このような野原に来て、のんびりするということは、まあ、無いのでしょうが、それにしても、今は本を読まない時代になっているのですかねえ」
「出版不況とやらで、出版社がどんどん潰れ、雑誌なども廃刊になるケースが日常茶飯事だと云うよ。この東屋の状況を見ても、なるほどと頷けるね」
「今、紙の本は止めて、電子書籍として販売しようという動きが加速しているようですが、どうでしょうかねえ。僕は数年来、電子辞書を愛用していますが、辞書として利用する分には、電子辞書は便利で、さすが文明の利器といった印象を持ちます。何と言っても、辞書の薄紙を捲る面倒がありませんから。辞書の紙って、薄くて、捲るの結構大変なんですよ。齢を取って、指先の水分保有率が低下しているせいか、捲れず、時には、ぺろりと指先を舌で舐めて捲ることもあります。昔、娘の辞書で、ついつい、これをしてしまい、大分顰蹙を買ったことがあります。まあ、電子辞書は辞書としては便利なツールですが、電子辞書に標準装備として含まれている名作小説の電子書籍を読むとなると、話は別ですね。僕には合いませんね。紙の本の場合は、読み終わったページを捲る、あの感触がなかなかいいんですね。この感触が電子書籍には残念ながら無いのです。ページを捲る時に味わう、ちょっとした小さな満足感が電子書籍には無いし、本を最後まで読み終わって、本を閉じる時に一瞬味わう、一種の達成感、幸福感が電子書籍には無い、在るはずが無い、と思うのですよ。これは僕の独断と偏見に満ちた見解、思いかも知れませんが、紙の本の良さであると僕は思っています」
「そうね、紙の本ならば、ページの余白に感想とか、棒線を書き込むことも出来るしねえ。紙の本ならではの読書の深みがある。緑川君の見方に、僕も賛成するね」
「しかし、それにしても、一般的な傾向として、本を読まなくなりましたね」
「それは、しょうがないよ。昔は、本が一種の娯楽でもあったけれど、今は、娯楽は求めるならば、有り余るほど有るからね。でも、本を読まなくなった民族の知的レベルは確実に低下すると思うよ。確実に衰弱していく。残念だけどね。その意味では、電子書籍でもいいから、本を読む習慣をつけるというのは、これはこれで、悪くないね」
野原では、東屋の他、沢山の遊具があり、若い夫婦が子供を楽しく遊ばせていた。
村井さんも、自分の孫を思い出したらしく、目を細めて、小さな子供が遊ぶ光景を暫く観ていた。
「緑川君、少し目尻が下がっているよ。さては、孫のことを思い出していたな」
突然、村井さんに言われ、僕は苦笑いするしか無かった。
僕たちは同じ思いでいる。
そう思うと、何だか嬉しかった。昔も、そうだったな、と僕は思った。
不思議な野原を離れ、僕たちはまた、歩き始めた。
でも、今しがた観た東屋の光景が心に引っ掛かり、足取りがさらに重くなるのを感じた。
風の音で、・・・、目が覚めた。
第十夜 【 奇特なおばさんの山の茶屋 】
爽やかな風が吹いていた。
僕たちは山道をのんびりと登っていた。
山道はくねくねとうねりながらも、確実に標高を増していた。
陽は大分西に傾きかけていた。
でも、まだ、暗くなるまでには、時間はたっぷりある。
僕たちは涼しい風を頬に感じながら、山道を一歩一歩登っていた。
途中に、茶屋があった。
無料休憩所という看板が立っていたので、僕たちは入ってみた。
おばさんが一人、片隅のテーブルに暇そうに座っていた。
「こんにちは。おばさん、お茶、貰えますか?」
僕が声をかけた。
「おやおや、珍しい。今日、初めてのお客さんだわ」
おばさんはそう言って、いそいそと立ち上がり、室の片隅にある『流し』に向かった。
「どこから、来なさった?」
「仙山線の駅からです」
「おやまあ、随分と遠いところから、来なさったんだねえ」
おばさんが淹れてくれたお茶を飲みながら、村井さんが言った。
「こんな山の中に、無料休憩所があるなんて、ありがたいですね」
「いんや、こんな山の中だから、休憩所が必要なんですよ。気軽に立ち寄って、お茶でものんびりと飲んで、休憩するところがね。ほっとするところが、必要なんです」
「随分と前から、この茶屋を開いているのですか?」
「そうねえ。もう、随分と前になるわねえ。かれこれ、二十年ばかし前から」
おばさんはそう言いながら、お茶うけに、昔の駄菓子みたいなお菓子を出してくれた。
「ああ、美味しそうなお菓子ですね。いただきます」
こう言って、村井さんはお菓子に手を出した。
食べながら、僕は思った。このお菓子、昔、どこかで食べたような記憶がある、と。
そうだ、あの町に住んでいた頃、彼女が郷里のお菓子をどうぞと僕たちに勧めたお菓子と似ている。口の中でほろほろと崩れるように溶けて、ほんのりと甘く、懐かしい味だった。三十分ほど、その茶屋で休憩してから、僕たちはまた歩き始めた。
足取りが随分と軽くなった。
「いいおばさんでしたね。いつ訪れるとも知れない、気紛れな旅行者のために、茶屋を開いているなんて、奇特なことですよね」
「ほっとするところが必要だ、と言っていたね。まさに、善意のかたまりといった人だったね。こういう人が居る限り、日本もまだまだ捨てたものじゃ無い」
湖で季節外れの刈り取りに精を出していた、あの老人も含め、無名の善意の人々が居る限り、日本という国はまだまだ捨てたものではない、と思った。
しかし、その思いは少しほろ苦かった。お前はどうなんだ、何かしているのか、という声を聞いたような気がしたのだ。そして、僕は忸怩たる思いに囚われた。
そして、・・・、目が覚めた。
第十一夜 【 文字に化ける雨 】
雲が出てきた。
嫌な感じがする、黒い雲だった。
これは雨になるな、と思ったら、案の定、雨が降り出してきた。
それほど強い雨では無かったが、僕と村井さんは大きな銀杏の樹の下で雨宿りをすることとした。
「村井さん、一つ訊いていいですか?」
「ああ、いいよ。で、何だい?」
「彼女、のことです。その後、彼女はどうなりました?」
村井さんは少し、言い淀んでいたが、僕の顔を真っ直ぐに見詰めて、言った。
「彼女は僕の女房になった」
「村井さんと結婚したのですか」
「でも、十年前に死んでしまった」
村井さんは少し、寂しそうな笑みを浮かべた。
そして、僕の顔を見ながら、思いがけないことを語った。
「彼女は、緑川君、君のこと、好きだった」
驚いた顔をした僕に、村井さんは更に続けた。
「君も彼女のこと、好きだったのだろう。僕の手前、君も彼女も、素知らぬ振りをしていたのだろう。僕は知っていたけれど、僕もやはり、素知らぬ振りをしていた。君が卒業して、あの町を去って、ふた月ほどして、僕たちは恋人同士になった。そして、医師国家試験に合格した時、僕は彼女にプロポーズして、結婚したのだ」
僕は村井さんの言葉を聞きながら、空から降ってくる大粒の雨を見ていた。
泣きたい思いで、ぼんやり見ていた。
ぼんやり見ながら、彼女のことを考えていた。
ふと、彼女と結婚していたら、と思った。
僕は、今とは違った人生を歩むことが出来たかも知れない。
これまでの人生。そう悪い人生でも無いと思っているが、少し淋しい感じもする。
別な人生も歩みたかった。彼女との人生。
彼女を、より幸せに出来たかも知れないし、僕も、もっと幸せになったかも知れない。
彼女の人生、村井さんとの人生、どうだったのだろう?
その内、妙なことに気付いた。
雨がおかしな模様をしているのだ。
複雑な形をしていることに僕は気付いた。
そして、地面に落ちた一瞬だけ、明確な文字となって、僕の眼に飛び込んで来るのだ。
雨はいろんな文字を僕の視界に与えては、消えていった。
雨の文字は一文字で脈絡も無く、さまざまであった。
愛、と読める雨文字もあったし、恋、と読める雨文字もあった。
哀、憂、愁、鬱、情、嘆、希、慕、諦、幸、望、儚、淋、夢、憎、さまざまな雨文字が僕の足元に落ち、一瞬の間に砕け散っていった。
僕は村井さんの話を聴きながら、彼女のことを想って、心の中で自分自身に語りかけていたが、現実の重さに比べ、言葉の軽さに僕は気付いてはいなかった。
僕の軽い言葉で、彼女のことを語ることは彼女を冒涜することであり、許されることでは無かった、と僕は思った。
しかし、村井さんには、もっと彼女のことを語って欲しかった。
村井さんによれば、彼女は僕のことを好きだった、と云う。
一方、僕は卒業してあの町を去って以来、彼女に会うことをしなかった。
僕は彼女を捨てていた。
彼女とのことは、全て、一過性の青春の一墓標として、僕はあの町に置き去りにした。
そして、彼女のことはもっと聞きたかったが、彼女が僕を好きだった、なんてことは、村井さんの口から言って欲しくは無かった。
・・・、目が覚めた。目尻が少し濡れていた。
第十二夜 【 煩悩を落とす川 】
不思議な雨はひとしきり降って、止んだ。
雨上がりの濡れた道を僕たちはまた、歩き始めた。
足取りは重くなっていた。
暫く歩くと、水が流れていく音を聞いた。
近くに川があるのか、と僕は思った。
ふと、村井さんの方を見たら、村井さんも水の音に気付いたらしい。
雨の音より、水の音の方がずっと良い、そんなことを思っていたのか、微笑んでいた。
やがて、僕たちは川に遭遇した。
小川と言ってよいほど、小さな川だった。
でも、水は透きとおり、清冽な流れで、見ている僕の心を癒してくれた。
川の両岸には大小様々な形をした岩で覆われていた。
ふと、気が付くと、川のあちこちで沐浴をしている人々が居た。
男ばかりでは無く、女も居た。
皆一様に、黒色の水着を纏っていた。
しかし、不思議だったのは、手に持った小さな桶で、川の水を掬い、体にかけることによって、その黒い水着が徐々に黒さを失い、白くなっていくことであった。
黒い水着が何回か水をかぶり、濡れていくことによって、脱色され、灰色になり、やがては白くなっていく。僕たちは茫然と、この不可思議な光景を見詰めた。
川の水に脱色剤が混じっているのか、と思った。
しかし、見る間に、白くなっていく様は僕たちに疑問を抱かせた。
これほど強烈な脱色剤ならば、人の肌に良くないはずだ。
川の水を体にかけている人々の表情を見た。見た限りでは、痛む様子は全然無さそうだった。おかしなこともあるものだ。
その時、僕たちから十メートルほど離れたところで、水をかけていた男が僕たちに気づき、声をかけてきた。
「どうですか。あなたたちも、見ているばかりじゃなく、このように、この川の水で体を清めませんか。爽やかな、いい気持ちになりますよ。桶は、ほら、そこにありますよ」
体を清める、とその男は言った。何か、変なことを言う男だなあ、と僕は思った。
ふと、この川の水を体にかけることによって、川の中の男たち、女たちはいろんな欲望を洗い流しているのでは無いか、と思った。
村井さんも、そのように思っていたに違いない。
「煩悩を洗い流しているのかも知れない。百八の煩悩が一つずつ、洗い流されるにつれて、黒い水着が脱色され、清浄化され、白くなっていくのだ」
村井さんはそう呟いた。
「村井さん。煩悩ばかりじゃありませんよ。ひょっとすると、彼らは人生の間で知らず知らずに身に付いた偽善・欺瞞の数々を洗い流しているのかも知れませんよ」
「偽善・欺瞞の数々をすっかり洗い流して、本来の生まれたままの綺麗な身体に戻す、ということかい。それ、なかなか、面白いね。僕たちも、彼らのように、この川の中に入ってみようか。今までに知らず身に付いた煩悩、偽善、欺瞞の数々を洗い流してみようよ」
「でも、僕たち、あのような水着は持っていませんよ。後にしましょう。今は、先を急ぐこととしましょう。それに、大分、陽も落ちて来ましたから」
こう、村井さんには言ったが、僕は何となく、この不思議な川が怖かった。
どれだけ、川の水で僕の汚れが落ちていくのか、知りたくも無かったし、知られたくも無かったからだ。
足取りがさらに重くなった。その内、・・・、目が覚めた。
第十三夜 【 渡れない橋 】
川に、小さな橋がかかっていた。
木の橋で、半ば腐り、崩れ落ちんばかりの橋だった。
とりわけ渡る必要の無い橋だったが、対岸に、ツツジが川に沿って、今が花盛りとばかり、真っ赤に咲いていたので、じっくりと鑑賞したくなり、渡ってみることとした。
僕たちは恐る恐る、一歩ずつ踏みしめながら、この橋を渡り始めた。
長さは十メートルほどしか無い橋だったが、渡り始めて、僕たちは驚いた。
向こう側に辿り着けないのだった。
こんなはずは無い。だって、十メートルしか無い橋なのだ。
のんびり歩いても、十数歩で辿り着くはずであるが、辿り着けない。
いくら、歩いても向こう側には行きつかないのだ。
ついに、諦め、僕たちは橋の半ばで立ちどまった。
「おかしい。実に、おかしいことだ。ねえ、緑川君、こんなことって、あるだろうか」
「村井さん、不思議なことですね。何か、狐につままれたみたいですよ」
「狐につままれた? では、緑川君、君、僕のほっぺたを思いっきり、つねってみてくれないか。そうだ、もっと、強く、・・・。あっ、痛っ。・・・。痛いじゃないか。でも、判った。これは、全て、事実なのだ。僕たちはこの橋を、十メートル足らずのこの橋を渡ろうとしているが、どうしても辿り着けない。これは、事実だということが判明した。はて、何だろう、どうしてだろう?」
「もう一度、歩いてみましょう。・・・。駄目か。・・・、では、走ってみましょう」
僕たちは勢いよく、走って、橋を渡ろうとしたが、駄目だった。
どうしても、向こう側に辿り着けないのだ。
「緑川君、諦めよう。理由は判らないが、しょうがない。どうしても、向こう側には渡れないのだ。諦めるしか無い」
「そうですね。折角、満開のツツジ見物が出来ると思ったのですが。どうも、天は我々をして、ツツジ見物をさせないつもりなのです」
「まあ、それほど、大袈裟に考える必要は無いと思うけど。おかしなものだねえ」
「それでは、橋を渡るのは諦めて、このまま歩くこととしましょう」
僕たちはまた、歩き始め、この不思議な橋を横目で見ながら通り過ぎた。
足取りは前と変わらず、重く感じた。そして、いつの間にか、・・・、目が覚めた。
庭の片隅で、赤い牡丹の花が咲いた。
僕は揺り椅子を揺らしながら、アマゾンから届いたばかりの本を読んでいた。
【 幻の沼 】
川に沿って、道があり、僕たちは歩き続けた。
道は段々細くなり、小さな森に続いていた。
鬱蒼と木々が生い茂った森の小道は、陽も重なりあう木々の葉に遮られて射しこまず、薄暗かった。
僕たちは一歩一歩踏みしめるように歩いた。
薄暗く細い道を暫く歩くと、急に視界が開けた。
目の前に、濃淡の諧調を持ち、多種多様な緑に包まれた、柔らかな風景が広がっていた。
そして、鬱蒼とした樹々にひっそりと囲まれた、小さな沼があった。
沼は少し濁りを帯びた緑の水を湛えていた。
深沈として神秘的な風情を醸し出す沼の縁に、僕と村井さんは佇んだ。
安らぎに満ちた静寂があった。
ようやく、僕たちは目的の地に着いた。
「ここが、『幻の沼』、か」
どこか、溜息を吐くような口調で、村井さんはそう呟いた。
「そうです。ようやく、僕たちは目的地である『幻の沼』に着いたのです」
「随分と時間がかかったものだ」
「そうですよ。何と言っても、・・・、四十年、かかりました」
沼の縁に、滑らかな岩があった。
河童の頭のお皿みたいな、大きな岩だった。
僕たちはその岩のてっぺんに上り、背中合わせに座った。
森の中から、小鳥の囀りが聞こえてきた。
森閑とした森の中から、小鳥の囀りが木霊のように絶え間なく、押し寄せてきた。
その囀りと歩き続けたことによる疲れが心地よく、僕をすっぽりと包んでいた。
このまま、静寂と安らぎに満ちた、時間の無い国に行きたいものだ、と思った。
しかし、それにしても、彼女。
今はこの世に居ないが、本当に幸せだったのだろうか?
「彼女は幸せでしたか?」
僕の質問に、村井さんは驚いたようだった。
間抜けな質問であったかも知れない。
背中合わせに座っている僕の背中に、驚いたような村井さんの心臓の鼓動がはっきりと聞こえてきた。
「今、何と言った? どうも、聞き取れなかったようだ」
「彼女は幸せでしたか? そう、訊いたのです」
「驚いたよ。実際、驚いたよ。緑川君、君からそんな質問をされるなんてね」
「別に、驚くことなんかありゃあしませんよ。ただ、気になって、訊いただけなのですから」
「だって、君。これは本質的な質問だよ。実に、本質的な。どういう答えをすべきか、僕は今、迷って、大いに戸惑っているのだ」
「村井さん、戸惑う必要はありません。彼女は幸せだった、と僕に答えてくれればいいだけですから。それだけで、いいのです」
「それが、困るのだ。彼女が幸せだったかどうか、僕は判らないのだから。そして、死んでしまった以上、これからも未来永劫、彼女に訊けやしないのだから」
そう言って、村井さんは黙り込んでしまった。
村井さんの突然の沈黙に、僕は戸惑った。
僕たちは長いこと歩いて、ようやく、『幻の沼』に辿り着くことができた。
辿り着いた『幻の沼』は僕たちにとって、青春のアルカディアでなければならなかった。
桃源郷、理想郷、と呼ばれるべき神聖な場所でなければならなかったはずだ。
全ての人が、悩まず、くよくよせず、苦しむこと無く、幻滅せず、心穏やかに、楽しく、幸せに暮らせるところでなければならなかった。
そこが、『幻の沼』であったはずだ。
しかし、辿り着いたところにあったものは・・・。
戸惑い、だけだったのかも知れない。
ふと、気が付くと、村井さんは沼の反対側を歩いていた。
いつの間に、あんなに遠くまで、行ったのだろう。
僕は不思議に思った。つい、今しがたまで、僕と背中合わせに座っていたはずなのに。
やがて、村井さんは立ち止った。
長い一本道を背にして、僕の方を見ていた。
その一本道はどこまで続いているか判らぬほど、遥か彼方まで真っ直ぐに伸びているのだった。一本道の上には、夕焼けの紅い空が広がっていた。
村井さんの姿が段々と黒い影法師のようになっていった。
そして、その影法師は暗さを増していった。
僕は驚き、村井さんに声をかけようとした。
どうして、僕を置いて行くのか、訊ねようとしたのだ。
いつの間にか、村井さんの傍らには、彼女の姿もあった。
暗くて、顔立ちは判らなかったが、確かに、彼女だった。
長い髪を束ねて垂らした彼女だった。
彼女も僕を見ていた。
何も言わず、ただ、じいっと、静かに僕を見ているだけだった。
やがて、二人は僕に背を向け、一本道を歩き始めた。
夕焼けの彼方に向かって、歩き始めた。
僕は大声で叫んだ。
どうして、僕を置いて行くのだ。
僕も一緒に連れていって欲しい。
僕は叫んだ。何回も、叫んだ。
パタリと音がして、目が覚めた。
揺り椅子の下に、一冊の漫画本が落ちていた。
僕はその漫画本に目を通しながら、つい、微睡んでしまったらしい。
『龍神沼』という漫画本だった。
白い百合を持ち、白い着物を着た、長い髪の娘が表紙を飾っている。
龍神の化身である、この娘は少し微笑んでいるように思われた。
村井さんも居なければ、彼女も居ない。
夕陽が射し込む黄昏の部屋には、僕が居るだけだった。
僕は『龍神沼』を手に取り、表紙を眺めた。
表紙の娘。
どこか、彼女に似ていた。
完