貴族の少年 ユセ
信じられない。
信じられない!!
どうして私がこんな思いをしなければならない!?
どこをどう歩いたのかなんてもう分からないくらい広い王宮を彷徨う。
引きこもり上等の私に方向感覚が備わってると思うなよ!!
時間の感覚もなくなり、体がすっかり疲れたところでやっと私は立ち止まった。
とりあえず目についた柱に寄りかかるとずりずりと座り込む。
「お、おかあさぁん…」
ひぐひぐとしばらく泣いていると、ふと人影で視界が暗くなった。
恐る恐る顔を上げると、立派な身なりの少年が目を丸くしながら私を見下ろしていた。
「…大丈夫ですか?」
片膝をつくと礼儀正しくハンカチを差し出す。
お育ちの良さそうな子だな。
「だ、大丈夫だから、あっち行って」
対する私はひどい対応。
今はこれが限界なんだって。
少年はそっと首を振った。
「こんな所で泣いてらっしゃる姫を放ってはおけません。僕の部屋がすぐそこにありますから、よろしければ落ち着くまでお茶でもいかがですか」
労わるようにゆっくりと、丁寧に話す。
きっとこの子はとても良い子なんだろうなとぼんやりと思った。
「僕はインセント公爵家の三男、ユセと申します。心配しなくても怪しい者ではありません」
インセント公爵家と言えば国内でも指折りの大公爵じゃないか。
確か一番王家と血が近いはずだ。
そりゃお育ちも良いわ。
ユセはそっと私の手を取ると決して無理強いしない力で引き上げた。
立ち上がると私と同じくらいの背丈だ。
私の真っ黒なドレスと髪を見ると、ユセは少しだけ目を見張った。
「もしかして今噂の黒姫さまですか?」
「…。はぁ…」
間の抜けた返事しかできなかったが、ユセはまだあどけなさの残る顔でにっこりと微笑んだ。
「これは驚きました。まさかこんなに可愛らしい方だなんて。やはり噂など真に受けるものではありませんね。こちらへどうぞ」
ユセの笑顔は本当に純真でなんだか癒される。
私は促されるまますぐ近くにある部屋へと入った。
「すぐにお茶とお菓子を用意させましょう」
にこにこと言うが私は思わずユセの腕を掴んだ。
「ま、待って。お願い誰も呼ばないで」
「黒姫さま…」
「黒姫じゃないわ。私は…」
言いかけて言葉を飲む。
この場合何て名乗ればいいんだろう?
「み、ミリ。ミリと呼んで」
もういいや。
ここでのあだ名みたいなものと思おう。
ユセは不思議そうな顔をしたが何も聞かずに頷いてくれた。
私が誰も呼ぶなと言ったからか、ユセは自分で茶器を用意し始めた。
その手つきから慣れてなさがよく分かる。
「ユセ、私がするわ…」
「いえ。お誘いしたのは僕ですから。あまり上手く入れられませんが、やらせてください」
…なんて紳士。
オルフェ王子に爪の垢でも煎じて飲んで頂きたいくらいだ。
王子の顔が浮かぶと私の顔は勝手に険しくなった。
「ミリさま。甘いお菓子は食べられますか?」
「少しだけなら…」
本当は全く食欲なんて湧かなかったが、ユセの気遣いに応えたかった。
ユセは大きなソファに私を座らせると、ガラスのテーブルの上に温かいダージリンと焼き菓子を置いた。
用意が終わると私の斜め前の椅子に浅く腰掛ける。
「どうぞ」
「い、頂きます」
促されるままに口をつけたが、温かい紅茶が喉を通るとほんわりと心まで温められる気がした。
「…美味しい」
「本当ですか」
ユセはほっとしたように笑顔を見せた。
なんだかつられて私も笑顔になる。
焼き菓子も一口頬張ってみると、優しい甘さが口の中いっぱいに広がった。
ユセは私がお茶を頂いている間、色々な話をしてくれた。
庭のバラが咲き始めたとか、あと三日で満月だから海側を散歩すれば綺麗だとか、それは本当にたわいない話。
でもその気遣いが今の私には心底ありがたかった。
「ミリさまの北のお国ではどのような花が咲きますか?」
落ち着いた頃ににこやかにふられ、私はなんとも言えずに固まった。
…知らないよ北の国なんて。
ユセははっとすると慌てて頭を下げた。
「すみません。無神経な質問でした。ミリさまはお一人でこの王宮に来られたというのに…」
どうやら私が固まったのは故郷を思い出したからだと思ったようだ。
本当にいい子だな。
「ユセ。違うの。顔をあげて」
「ミリさま…」
ユセの顔を見ていると、なんだか少し元気が出てきた。
「ありがとう。貴方のおかげで落ち着いたわ。…またお茶を飲みに来てもいい?」
ユセの顔は華やかな笑顔になった。
どことなくオルフェ王子に似ているその顔にどきりとする。
「もちろんです。今度はもう少しちゃんとしたお茶が入れられるように練習しておきます」
はぁ、あんな奴に似てるとか思ってごめん。
ユセの方が何倍もいい子だ。
私はふとあることを思いついてユセをまじまじと見た。
「…ミリさま?」
「あ、いえ、なんでもないです」
私は立ち上がるとぺこりと頭を下げた。
「ごちそうさまでした」
「またいつでもいらしてください」
二人で深々と頭を下げ合う。
顔を上げるとなんだかおかしくて少し笑ってしまった。
ユセの部屋を出た私は何とか立ち直り元来たであろう廊下を歩き始めた。
悲しみは薄らいだが、怒りだけはまだふつふつと残っている。
あの猛獣王子め。
許さん。
どうしてくれようかと考えながら歩いていると、私を見つけた女官たちが慌てて走り寄ってきた。
「イザベラ様!!あぁよかった!!」
「女官長を呼んできて!!イザベラ様がいらっしゃったわ!!」
ぐるりと取り囲まれて私は焦った。
「な、なに…」
「イザベラ様のお部屋から凄まじい音が聞こえたとかで…。見れば山賊にでも襲われたかのような荒れようで、おまけに姫様の姿もなく皆心配していたのですよ。ご無事でよかったです!!」
ご無事も何も、それは私が大暴れした跡だ。
な、なんて言いわけしよう…。
冷や汗をだらだらと流しながら問題の部屋まで連行される。
アイシャさんは私を見るなり真っ青な顔で飛んできた。
「イザベラ様!!ご無事でしたか!!これは一体…」
「あ、あはは。ちょっとした事情がありまして、き、気にしないでください…」
随分粘って理由を聞かれたが、まさか王子にキスされて腹が立って破壊したとは言い辛い。
ここは何とかちょっとした事情で押しきった。
まぁこれも知らない間に私が呪術を使おうとした跡だとか何だとか噂になっていたようだがそれはどうでもいい。
部屋は女官長の計らいであっという間に元に戻された。
あらかた綺麗になると、最後に部屋に幾つかの箱が置かれた。
不思議に思って中を見るとそこにはさっきユセが着ていたような服と、帽子作りの為に必要なセットが全て揃って入っていた。
「一応、手配はしてくれたんだ…」
しかも対応がすごく速い。
私は服を先に手に取った。
あの時は単に動きやすいからと頼んだが、今はこの服は私のある企みにぴったりの物だ。
時計を見ればまだ午後七時過ぎ。
早速試してみたいところだが今はまだだめだ。
「その前に王子対策も取らないと…。あんなことして本気で夜に来る気なのか?」
…来そうだ。
全く何事もなかった顔で来そうだ。
私はがさごそと部屋中を漁るとタンスの上段で見つけた鋭利なナイフを手に取った。
ごくりと喉が勝手に鳴る。
「これで、イザベラ姫はしばらく姿を消せる…」
じっとりと濡手でナイフを持ったまま、私はしばらく壁に立てかけられた姿見を見つめ続けていた。