ミリの涙
王宮暮らしが始まって二週間。
妖しげな黒姫の噂は瞬く間に王宮を飛び越え下町まで流れた。
「なんでも何もかも黒い不気味な姫らしいわよ」
「オルフェ王子はどうして最高寵姫の座に黒姫さまを押し上げたのかしら」
「それも黒姫がかけた呪いのせいじゃないかという噂よ」
「まぁ…」
世間的にオルフェ王子の評判はそこそこ良い。
この王子は少し変わり者で、王族にしては珍しくよく町まで下り交流まで持っている。
惜しみなくその麗しい美貌を振りまきながら下町を歩くものだから、女達からは絶大な人気を誇っている。
とくに若い娘はチャンスがあれば王子の目に止まり王宮に上がることも…という淡い夢を皆抱いている。
そんな王子が北から来た怪しい黒姫に心奪われているという。
王子の人気に反比例するように、人々の黒姫への心象はよろしくなかった。
「イザベラ様。せめて一度王宮の者たちの前にそのお姿をきちんとご披露されてはいかがでしょうか」
アイシャさんが今日も朝から私にこんこんと説得を試みた。
毎日毎日ご苦労なことだな。
「人は得体の知れない者に不安を抱くものです。イザベラさまのお姿を拝見すれば不穏な噂も減るでしょう」
「無理です」
「なぜです?貴女様は確かに少し変わってはいらっしゃいますが、きっちりとした装いをすれば誰もが認める美女になるでしょう。それだけで人々の口の半分は閉ざさせることができますよ」
それだけで半分もか。
やはり美は力だな。
それはともかく、人前に出るということはそれなりに喋らなければならないということだろう。
何の教養も受けていない私が王族やお貴族様を相手にするなんて無理すぎる。
帽子を買いに来るお客さん一人まともに相手できないのに。
「後宮からもサロンの招待状がずっと来てますのに…。これをこなせなければ後宮では受け入れて頂けませんよ」
「サロン…?」
「本来なら先にイザベラ様からご招待してご自分の地位を確立せねばならないものなのです。早急に何か手を打たないと、イザベラ様は完全に孤立してしまいますよ」
「手を打つ…」
手を打つ、か。
そうだ。
いいことを思いついた。
私は名案に目を輝かせた。
「アイシャさん」
「はい」
「私を殺してください!!」
「は、は…はぁ!?」
「病死とか、どうでしょう!?」
「びび、病死!?」
世間的に死んだと認識されればずっと引きこもっていられる。
その間に王子がこの間違いの元をさっさと探し当てて私は綺麗にフェードアウト。
帽子屋に戻る、と。
いかに死ぬことにメリットがあるか熱弁していると、アイシャさんは匙を投げて部屋から退室してしまった。
代わりに廊下で聞いていた王子が腹を抱えながら入ってきた。
「とんでもない事を思いつくな、ミリ」
「王子!!聞いていたのなら話が早いですね。どうですかこの話!!」
王子は私のおでこを指で突いた。
「そんなことをしてみろ。イザベラ姫のご実家が血相変えて乗り込んでくるぞ。死因どころか全ての経緯に納得するまで調べつくすだろうな」
つまり、ことによっては国と国の諍いに発展する恐れもあるということだ。
そんなことまで考えてなかった…。
「さて、噂の黒姫殿。このままじゃ確かに俺が呪いをかけられたように見えるかな。かといって普通にミリを晩餐や茶会で披露したところで皆が納得するかといえばそれも難しい」
現在呪いにかかっているのは私なのに、なんだか不条理だ。
それに私の地位が危うくなろうが評判が悪かろうが知ったこっちゃない。
そんなことより私はたまらなく改善してほしいことがあった。
豪華なレースで包まれた黒いドレスの裾をつまみながら、私はまだ難しい顔をしている王子に言った。
「オルフェ王子、どれだけ注文をつけても届く黒い服は豪華なドレスばかりです。これをなんとかしてください」
「なんとか、とは?」
「私はどちらかといえば使用人のような服を望んでいます。こんなにごてごてとした服では動きにくくて仕方ありません」
オルフェ王子はまじまじと私を見下ろした。
「それは流石に王宮の品位にも関わるな」
「でしたら、王子のような服でもいいです」
こんなドレスならいっそ男物を着込む方がマシだ。
どうせこの部屋から出ないんだし。
王子は呆れたように腕を組んだ。
「ミリは本当に変わっているな。そんな物着たら色気のかけらもなくなるだろうに」
「願ったりかなったりですね。それに腕が鈍るのも嫌なのでここで帽子作りさせてください」
ついでにわがままを言ってみる。
どちらか一つでも通ればいいと思っただけだが、オルフェ王子はあっけなく頷いてくれた。
「分かった。用意させよう。他に何かしたいことなどはないか」
「え…」
「ミリの願いなら何でもしてやる」
…なるほど。
こうやって上手に心に入り込んでくるのか。
私の願い。
本当の、願いは…
「…王子、私の願いは今すぐにでも家に帰ることです」
消えそうな声が、勝手に口からこぼれ落ちた。
王子は途端に元気の無くなった私を不思議そうに覗き込んだ。
「なぜそんな小さな家に固執する?ミリが望むのなら元に戻っても生活くらいここで面倒見てやるぞ」
「…」
王子は気まぐれに言っているだけだ。
そんなことは分かっているけれど…。
私の握りしめる両手に力が入った。
「あそこは、母と過ごした大切な家です。私の安らぎも、宝物のような思い出も、あそこの家にしかないんです」
言いながら、声が震える。
物心ついた時から、私はもうこんなだった。
それでも母は毎日笑顔で、それはそれは太陽のような笑顔で私を育ててくれた。
私が引きこもって外に出たがらなくても、それならと母が勉強を教えてくれた。
人とは違う私を、それは素晴らしい個性ねと朗らかに笑ってくれた。
母さん…。
王子は突然ぽろぽろと涙を流した私にぎょっとした。
「ミリ…」
「か、帰りたい…」
母さん…
母さん。
亡くなったのは一年前。
買い物へ行った先で、馬車にひかれてあっという間に逝った。
この一年はとにかく必死で、必死で母の店を守りながらなんとか生きてきた。
泣いている暇なんてなかった。
それなのに…今更涙が溢れたことに自分自身で驚いた。
「ミリ…」
王子は本気で戸惑ったようだ。
いつもとは違う手つきで、そっと私を引き寄せた。
「泣くな」
背を撫でようとしたが、先に私は腕に力を込めて王子から離れた。
涙を拭うとぷいとそっぽを向く。
「…弱みにつけこまないでください。もう、済んだことです」
人前で泣いてしまったことが急に恥ずかしくなってきた。
どうすればいいのか分からなくなり、私の態度は強固になった。
「すみませんが、出て行ってください」
王子はカーテンを握りしめたまま動かなくなった私の肩に触れた。
「不器用な奴だな。一人でふさぎ込んでいても立ち直ったふりしか出来ずにいつか折れるぞ」
「触らないで!!出て行って!!」
自分の叫び声に、自分で驚いた。
私こんな大きな声出るんだ。
自分で自分に呆然としていると、急に唇に温かなものが触れた。
…何これ。
意味が分からない。
「…ん、んん!!」
王子の肩を押してもびくともしない。
逆に押されて壁まで押し付けられ完全に体を固定される。
「王子!!やだっ…」
王子は一度離れたがまたすぐに食らいつくようなキスをした。
私の意思を完全に無視した長い口付けに、なんだか猛烈な怒りが湧いてきた。
くやしくて、また涙が滲む。
私は、足に力を込めると自分から王子に立ち向かい唇の端に思い切り噛み付いた。
驚いた王子がやっと離れると、私は涙を流しながら思い切り睨みつけた。
「…さっ、最低!!」
王子は唇から流れる血を指ですくいながら目を細めた。
その口元は薄く笑っている。
む…むかつく。
腹の底から湧き上がる怒りと、とめどなく溢れる涙。
こんなに腹が立ったのは生まれて初めてだ。
「で、出て行ってください…」
「ミリ」
「今すぐ消えてください!!」
王子はゆったりとした足取りで扉に向かった。
「今夜、また来る」
「今夜現れたら、刺す自信がありますよ」
「黒魔術じゃないのか?」
言われるまでそんなこと忘れてた。
王子はくっくっと笑うとそのまま部屋を出て行った。
何あれ。
全く理解できない。
嫌がらせにしてもタチが悪すぎないか!?
ファーストキスは蜜より甘い?
はぁ!?
ふざけんなよ!?
血の味しかしないわ!!
力任せにむんずと掴んだ枕を王子の消えた扉へ叩きつける。
まだ足りない。
次はテーブルの上にかけてあったクロスを丸めて床に叩きつける。
まだまだ足りない!!
「あんの色ボケ王子めぇ!!!ふざけんなぁあぁ!!!」
沸き立つ怒りのまま部屋をめちゃくちゃにすると、私は泣きながら破壊された部屋を飛び出した。