襲われたミリ
かなりゆったり散歩を楽しんだ後、やっと体が思うように動くようになった私は王子の手を離した。
「もう、大丈夫です。一人で歩けます」
「無理しなくても腕くらい貸しておいてやるぞ」
「いえ。お構いなく」
散々手を借りたくせにつんと言い放つと、王子は余裕で笑って見せた。
「そう明らさまに避けることはないだろう?」
「べ、別に避けてなんていません。用もないのにべったりしてる方がおかしいですよ」
意識して前と同じ低い声で話す。
マイペースだ。
マイペースを保てば以前のように物事に動じない私に戻れるはず。
そうだ。
王宮に来る前までは嵐で家の屋根がぶっ飛んだって悪質なクレーマが店に来たって、淡々と対処出来る子だったんだから。
でもさ、さすがに急に別人になったりドラゴン渡されたり投獄されたりスープにカエル入れられたりしたら私だって乱されるじゃない。
それにやっぱり何より一番私を混乱させるのは…
無表情でぶつぶつ一人考え込んでいると、急に背中が温かくなった。
王子の手が私のお腹の前できゅっと力を込める。
「ちょっ、王子!!だから、用もないのに…」
「お前は俺の姫君だろう?用はなくても別におかしなことはしていない」
「私は貴方の姫君ではありません!!私は…た、ただの、町娘です…」
自分で言いながら何故だか胸が騒めく。
ほら、一番私を混乱させるのはやっぱり王子だ。
違う違う。
王子は今だけ私の心の安定所なだけで、元に戻れば別に必要ない人なんだってば。
私は腕に力を込めると王子を引き離した。
「王子、私で遊ばないでください。一時の気まぐれでイザベラの代わりにされちゃ迷惑なんですよ」
王子は少しむっとした顔になった。
「俺はイザベラなんて姫は知らない」
「…」
「俺が今話をしているのはミリという女だ」
「…」
「この手で今触れたいと思ったのはお前だ」
な、なんてストレートな言葉…。
こんなのに私が免疫あるわけないでしょうが。
やだやだ、勝手に熱くなるな顔!!
うるさいうるさい、鳴るな心臓!!
私は堪らず王子に背を向けると森の方へ歩き出した。
「ミリ、勝手に行くな」
すぐに王子に追いつかれると腕を掴まれる。
「離して!!離してください!!」
「落ち着け」
「もう嫌なんです!!これ以上私を乱さないで!!」
「ミリ…」
戻して戻して…早く戻して!!
元のただの黒い私に!!
ピンクもラベンダーもいらないいらない!!
何も知りたくない。
私が帰るのはあの一人ぼっちの暗い家。
それでいいから。
私に話し掛けないで。
私を受け入れないで。
私に触らないで。
どうせそんなの、意味がないから…。
母さん
母さん
母さん…。
混乱の極致に陥った私を、王子はじっと見下ろした。
どう扱えばいいのか迷っているようだ。
「ミリ…」
名を呼んだがその瞬間、王子ははっと森の奥を見た。
私を背に押しやると腰の剣に手を置く。
「お、王子…?」
「静かに。何かいる」
「え…」
王子が長剣を引き抜いたのと、森から二匹の獣が現れたのは同時だった。
それは唸りを上げてこっちに近付いてくる。
「う…は、い、犬!?」
「騒ぐな、狼だ」
「おおお、狼!!?」
「この森にこんな獣はいないはずだが…」
改めて見ると確かに犬よりはふた回りも大きい。
私は震えながらあることに気付いた。
「おおお、王子…。何かあの狼黒い湯気みたいなの出てません!?」
「あれは…魔物だ」
「まもの!?なまものじゃなくて!?」
「静かにしろっ」
魔物の噂は聞いたことがある。
世に漂う闇が死体に取り付き怪物みたいになるやつだ。
「オルフェ様!!」
燕のように駆けてきたレイが獣と私たちの間に滑り込んできた。
「ここは俺が!!オルフェ様はミリを連れて早く離れてください」
レイは自ら狼に突っ込んで行った。
「レイ!!」
私は真っ青になった。
人間があんな狼二匹に襲われてただで済むわけがない。
王子は私の肩を掴んだ。
「レイなら心配ないが罠の危険性がある。ミリ、お前は馬まで走れ。いざとなったら何としてもここを離れろ」
「えっ、あ、ちょっと王子!!」
王子は踵を返すとレイの元へ走った。
私はといえば逃げろといっても私に馬が乗れるはずがない。
それに王子とレイを見捨ててなんて行けない。
「ど、どうすればいいの!?」
辺りを見回しても当然だが誰もいない。
「あ、そ、そうだ!!」
私はとりあえず馬まで全力で走った。
枝に繋がれた手綱を解くとぐいぐいと引っ張る。
「ほら、あんたたちも加勢に行くのよ!!主様が襲われてるんだから!!」
馬の扱いなんて知る由もない。
馬たちは無理やり引っ張られて傍目にも迷惑そうにぶるぶると首を振り、ふんと荒い息を吐いた。
「うわっ、こ、こら!!言うこと聞きなさい!!こっちよ!!」
王子はどうやって馬を動かしていたっけ!?
えーと、えーとぉ!?
ふと折れて転がっていた枝が目に入る。
私はそれに飛びついた。
「ごめんね馬ちゃん!!」
私は手にした枝で思い切り馬のお尻をばちんと叩いた。
驚いた馬たちは嘶きを上げた。
「それ行け!!はいどーー!!」
私の掛け声に合わせたかのように馬二匹は狼に向かって突撃した。
思わぬ横槍にぎょっとしたのは王子とレイだった。
「な、何だ!?」
「ミリだ!!レイ、下がれ!!」
馬たちは勢いのままに狼たちをその鋭い蹄に引っ掛けた。
王子は横倒しにされた狼にすかさず駆け寄ると手にした長剣を閃かせた。
レイも即座に反応すると王子に倣いもう一匹の心臓をひと突きした。
二匹の狼は黒い砂となるとさらりと風に溶けて消えた。
これが、魔物なんだ…。
必死に馬の後を追って走っていた私は辿り着く前にへなへなとその場に座り込んだ。
「よ、よかった…。二人とも無事…」
心底ほっとしているとサクラが空から舞い降りてきた。
「サクラ…」
サクラは興奮してキーキー鳴いている。
「ど、どうしたのサクラ。サクラもびっくりしたの?もう大丈夫だから…」
なだめるように撫でたが、サクラは羽を広げると大声で鳴きながら私の周りをくるくる回った。
暴れる馬を鎮めていた王子はそれに気付くとはっとした。
「ミリ!!」
王子が叫んだのと、サクラが森に向けて急に羽ばたいたのは同じだった。
ヒュッと風を切り裂く音がしたかと思うとサクラの悲鳴が森に響いた。
な…なに…?
どさりと音を立ててサクラが草の上に倒れ落ちる。
その脇腹には長い矢が刺さっていた。
「さ…サクラぁあ!!」
「ミリ!!立つな!!狙われているのはお前だ!!」
がさりと音がして顔を上げると、森の茂みにまだ何人かの怪しい男がいた。
その手に持った弓は完全に私に向いている。
でも私の頭にはたった今目の前で叫び声を上げたサクラしかなかった。
サクラが射られた…。
サクラが、私を庇って。
サクラが、サクラが…!!
「い…、いやああぁぁああ!!」
私の目の前は真っ赤に染まった。
私を中心に無数の風が巻き起こる。
それは切り裂くような、黒い風。
頭の中に低い声が響いた。
憎いか、憎いかと私に問いかける。
力を望み我を呼べと囁きかけてくる。
何…これ。
話しかけてくるのは、誰?
赤く染まった視界に、ふわりと誰かが降り立った。
それは全身黒い服を着た男の人。
緩やかに揺れる髪も黒く、でも瞳だけは燃えるように緋く煌めいている。
私…この人知っている気がする…。
ずっと幼い頃、たしか…。
「ミリ!!」
急に肩を掴まれて私の視界は赤い世界から自然豊かな世界に戻った。
「ミリ、しっかりしろ!!ミリ!!」
目の前にいたのは黒い人ではなく、オルフェ王子だった。
「おう、じ…?」
王子は所々から血を流していた。
何これ…。
一体どうなったの…?
私ははっとして顔を上げた。
「サクラ…、サクラは!?王子…王子もその傷…あの人たちにやられたの!?」
「覚えてないのか?」
「え…」
周りを見ればあちこちの土が切り裂かれたかのように抉れている。
私はある可能性に真っ青になった。
「ま、まさか…まさかこれ私がやったの…?」
じゃあ、じゃあこの王子の傷は…
再びパニックになりそうになった私を王子はぐっと抱き寄せた。
「違う。お前のせいじゃない。落ち着けミリ」
「だ、だって、だってだって…!!こんな…!!こんなこと!!」
「ミリ!!」
「私…わたしは…!!」
王子は泣き出しそうな私を掴み直すと口付けをした。
私の頭が違う意味で真っ白になる。
とにかく何も、考えられない。
「…んっ…んん…」
手に力が入らない。
足にも力が入らない。
何もわからない…。
王子は呆然とする私を離すともう一度今度は優しく抱きしめた。
「大丈夫だミリ。曲者はレイに追わせている。俺の傷も大したことはない。今一刻も早くしなければならないのはサクラの手当てだ。分かるか?」
「さっ、サクラ…!!サクラは…?」
「ドラゴンの皮膚は鋼鉄よりも硬い。まだ幼いとはいえあんな矢ごときで死んだりするものか」
「ほんとに…?」
「ああ。だから、王宮に帰るまでサクラを抱いててやってくれ」
「わ、分かりました…」
王子はやっと少し落ち着いた私を離すと地面に転がるサクラを拾い上げた。
痛々しい矢をすぐにでも抜いてあげたかったが、素人が下手に触るのはよくないと止められた。
私は王子がなだめて連れてきたクイーンストロベリーに大人しく乗りながら、祈るようにサクラを握りしめた。
小さく苦しげな呼吸が聞こえてくる。
サクラ…死なないでサクラ…。
馬は行きとは段違いの速さで町を目指した。
息も出来ぬほどの揺れに耐えることになったが、私は懸命にぐっとこらえサクラを抱きながらながら王子の体に掴まった。
王宮に着くまで、王子は一言も口をきかなかった。
私には見せなかったが、その瞳には壮絶な怒りが浮かんでいた。
私を黒薔薇の間に送り届けると、王子はすぐに緊急事態を発令し、何千人もの衛兵に森中を一斉捜索させた。




