守りびと
真っ白…。
ここは一寸先さえ見えないくらい、真っ白だ。
私は白い手に引かれるがまま、長い時間をかけて川の底へと沈んでいた。
意識は途切れたり少しだけ戻ったりを何度も繰り返している。
…あれ?
でも変だ。
普通水の中に引きずり込まれたら人間は生きていけないはずなのに。
ぼんやりと周りを見渡したが、やっぱりただ白い空間があるだけだ。
左手の薬指を親指で撫でるとちゃんと指輪の感触がした。
私は安堵するとまた目を閉じた。
それからどれくらい時間が経っただろうか。
私は引きが強くなったのを感じ再び目を覚ました。
ここまで連れてきた白い手が一気に遠ざかり、代わりに川の底に穴が現れる。
どうやらあの穴に吸い寄せられているようだ。
流石に微睡んでいられずに体を起こすと、自分と同じようにここまで連れてこられた人が何人も見えた。
「う…」
私は思わず目をそらした。
自分とは違い、他の人たちは体に水を吸って膨れ上がった水死体だったからだ。
死体は次々と穴の中へと吸い込まれていく。
これは…やばい。
きっとやばい。
私の直感があれに吸い込まれれば終わりだと告げまくっている。
私は流れに逆らうように手足を動かしたが、それでも体は後ろへと流れていく。
焦りながらもがいていると、私の胸元から黒い光が溢れた。
光は終結すると私が来た白い空間の方へ一直線に延びた。
「なに、これ」
私は声が出たことに驚き喉を抑えた。
そのまま胸元を探ると、そこにまるで埋め込まれたかのように小さなコンパスがあった。
「これ…アルゼラに来る時にルシフにもらったコンパス?」
そういえばいつのまにか無くなってたな。
それがどうして私の胸元にひっついているのだろうか。
謎ばかりだったが、今はのんびりしていられない。
私はその黒い光を頼りに泳いだ。
不思議と光を辿ると少しずつ前に進み始めた。
私は何とか白い空間まで戻ることが出来たが、そうなると次はまた手が絡みついてきた。
「ちょっ…は、離して!!」
声を出すと体から魔力が溢れ出た。
私がすかさずそれを結界に変えると、白い手は弾き出された。
そのまま逃げるように黒い光に沿って泳ぎ続けたが、行けども行けども白い空間は変わらない。
私は段々とめげてきた。
「うぅ、恐いよぉ。本当にこれちゃんと進んでるの??」
疲れた足を止めると、私はゆらゆらと白い空間を漂った。
もう生きているのか死んでいるのかさえ分からない。
私は疲れを癒しながら左手の指輪を見つめた。
「…オルフェ王子」
普段優しい面差しの王子だが、怒ると意外に恐いし冷たい。
その厳しい顔を思い出すとがばりと体を起こした。
「やっぱり、ちゃんと王子の所へ帰らないと!!」
私は気を強く持ち直すとまた泳ぎ始めた。
余計なことは、考えない。
今はただただ王子に会いたい一心で頑張ろう。
疲れては休み、休んではまた泳ぐ。
それを何度も何度も繰り返していると急に白い空間は開けた。
「うわわっ!?」
そこはまさかの空の上だった。
私は為すすべもなく真っ逆さまに落ち始めた。
「ちょっ!!き、聞いてないってぇ!!」
悲鳴を上げていると、まだ空の途中だというのに誰かの腕の中にどさりと落ちた。
「え…は??」
顔を上げた私はぎくりと身を縮めた。
「る、るるる…!!」
「よく戻ってこれたな」
「ルシフ!!」
私はコンパスの光がルシフと繋がっていることに気付いた。
「ルシフが…助けてくれたの?」
「俺は道標を作っただけだ」
「え、じゃあ…」
「奈落の入り口まで引きずり込まれたお前を守っていたのはこいつだ」
「へ?」
ルシフが右手をかざすと私の周りに白い光が集まった。
それは不安定な靄ながらも人の形になり、私に手を伸ばした。
「か、母さん!?」
その顔は間違いなく母さんだった。
私はルシフの腕から身を乗り出し、手を伸ばし返した。
「母さん!!母さん!!」
久しぶりに見た母さんは満面の笑みで私を抱きしめてくれた。
その体に触れることは出来なくても、私は母さんを抱きしめ返した。
ルシフは落ちそうな私を引き寄せた。
「フェンツェは死してからもずっとお前を守り続けていた」
「え…でも、母さんは普通の人なのにどうしてそんなことが…?」
「俺やお前と長い時間共に過ごしたせいで魔力が僅かにうつったのだろう」
私は記憶通りの優しくて逞しい母さんを見上げた。
「それじゃあ、母さんはずっと私の側にいにてくれたの…?」
母さんははっきりと頷いた。
「ずっと…守ってくれていたの…?」
私の目からは涙が溢れた。
守られていた。
私はずっと、一人なんかじゃなかったんだ。
「ふぇ…か、母さん…」
めそめそ泣いていると母さんは昔のように頭を撫でてくれた。
だがその姿が少しずつ薄れていく。
「か、母さん!?」
「時間切れだな。力を使い果たしたようだ」
「そんな…!!嫌…嫌だ!!消えないで母さん!!」
母さんは残念そうに微笑むと最後に力こぶを作って見せた。
それは私が落ち込むと決まって母さんがしていたポーズだ。
「ちっぽけな事で泣くんじゃないよ!何があろうが母さんは味方だから、リッちゃんはリッちゃんらしくいなさい!!」
脳裏にいつも聞いていた叱咤激励が響く。
最後にウインクを残すと、母さんの姿は空の彼方へと消えてしまった。
「母さん…」
私は泣きべそ顔のまま動けずにいたが、ルシフは力任せに私を抱き直した。
「行くぞ」
「行くって…?」
どこへ??
見ればルシフは何故か険しい顔をしていた。
紅く光る目で母さんが消えた空を睨みつける。
「ルシフ?」
「…厄介な男だ。気配を辿ってきたのか」
「へ?」
「いや、フェンツが最後にここへ誘導したか」
意味が分からず首を傾げていると目の前の空間に大きく亀裂が入った。
その傷跡から、漆黒に光る剣を手にした人が飛び出して来た。
「ミリ!!」
「え!?お、オルフェ王子!?」
本物!?
え!?
本物なの!?
え!?
オルフェ王子はルシフに剣を向けた。
「ミリを返せ」
「返せ?これは俺の花嫁だとあの時言ったはずだ」
ルシフは目を細めるとこれ見よがしに私の頬に唇を寄せた。
私はじたばたと暴れた。
「は、離してルシフ!!」
「何故。お前は俺の花嫁となるとはっきり言っただろう?」
「あ、あれはだって…!!」
「悪魔と交わす約束は絶対だ。裏切れば…そら、そのコンパスが心臓まで食い込む」
私の胸にくっついたコンパスが本当に体にめり込み始める。
私は苦しさに呻いた。
「うぅ…」
「ミリ!!」
王子は大きく振りかぶった。
ルシフは後ろに飛んだがその斬撃は左肩を捉えた。
「ぐっ…そんな生身でもない姿で力を使うとは、貴様死ぬ気か」
オルフェ王子は構わず次の攻撃を仕掛けようとしたが、ルシフは一気に地上へと降り始めた。
私は慌ててルシフの腕を掴んだ。
「オルフェ王子!!ルシフ、どこへ行くつもり!?」
「…どこがいい?」
「えっ」
ルシフは私を優しく包み込んだ。
「そうだな。やはり始まりの地、スアリザがいいか」
「スアリザ!?」
オルフェ王子の姿がどんどん小さく離れていく。
私は身を乗り出し叫んだ。
「オルフェ王子!!私…、私、スアリザにいます!!」
両手を伸ばし、今にも消えそうな王子に声を振り絞る。
「スアリザに、いますから!!」
王子の声はもう聞こえない。
その姿は完全に見えなくなり、私はルシフに抱えられたまま地上へと急降下した。