冷静と激情
「いい?あなたはドラゴンの管理者なの。それはとても素晴らしいことだけど、決してしてはいけないことがあるわ」
その人は優しく諭しながら頭を撫でる。
「それは自分の負の感情に負けてしまうこと。あなたは常に物事に冷静で大きく構えなければならないわ。例え…大切な人に何があってもね」
美しい微笑みは、恐ろしい男の顔に取って代わった。
「いいか。お前はこのアルゼラにいる限り死ぬまで私の管理下にいる。お前に感情の自由などないことは常に頭に入れておけ」
二人に重なり様々な大人が同じことを言う。
でもそんな事、言われるまでもなく物心ついた時から自分は理解していた。
感情的になってはいけない。
感情に負けてはいけない。
何故なら、自分の意思は全て彼らに伝わるのだから…。
ゆらゆらと水面ではまだ白い手が揺れている。
オルフェ王子はただ無機質な瞳にそれを映していた。
「ドラゴンとて何も臆することはない!!今こそ奪い取れ!!」
「ドラゴンだ!!ドラゴンを手に入れろ!!」
あちこちで高ぶった声が聞こえてくる。
フェヴリエンスと黒魔女たちはすっかり戦意を喪失した王子を嘲笑った。
「ふっ…お前とて所詮人の子!!あの娘と共に川底へ沈むがいい!!」
「心配せずともそのドラゴン、お前の代わりに私たちが手懐けてやるわ!!」
黒魔女はオルフェ王子の前に躍り出ると攻撃体制に入った。
だが突然今まで殆ど逃げ回っていただけのドラゴンが大口を開けて身も痺れるほどの咆哮を上げた。
「うっ!?」
「な、何を生意気な…」
目の前のドラゴンの雰囲気ががらりと変わった。
今の今まで理性的に見えたドラゴンが、泡が噴き出るほどの唾液を垂らし獰猛に首を振っている。
ギョロリと見下ろす目は完全に野生に帰り、急に制御が外れたかのように暴れ始めた。
己が傷つくのも厭わない暴れ方に黒魔女達は本能的な恐怖を覚えた。
「うっ…このっ!!」
「な、なんだ!?何故急に…!?」
オルフェ王子はドラゴンの首に手を添え、凍るような目で見下ろしている。
「…どうした。手懐けるのだろう?」
抑えた声が逆に恐ろしい。
無気力に見えたオルフェ王子の金色の瞳には、壮絶な怒りが浮かんでいた。
「そんなに欲しいのなら、くれてやるさ」
青いドラゴンだけでなく、コウモリ達が押さえたドラゴンも空に向けて咆哮をあげた。
そして空からはその声に応えた不吉な咆哮が返ってきた。
それは地の割れ目を縫い、目で追えぬほどの速度でコウモリ達の前に現れた。
「な、なん…」
「ま…まさか!!」
獰猛な叫び声を響かせながら現れたのは、新たなドラゴンだった。
「ヴァニギアス!!」
「ヴァニギアス!?あの小柄なドラゴンが!?」
「間違いねぇ!!この辺りに生息するドラゴンの中でも最も残虐な種類だ!!」
「じ、冗談じゃねぇ!!八匹もいやがるじゃねえか!!」
ヴァニギアスは矢のように谷を飛び抜けるとオルフェ王子の周りを一度旋回した。
そしてもう一度けたたましい叫びをあげるとその勢いのまま黒魔女に襲いかかった。
何と言ってもその速度が速すぎる。
黒魔女達は皆応戦することも出来ずに、気がつけば腕ごと噛み千切られていた。
「ぎ、ぎゃあぁああ!!」
「腕…!!腕が…!!」
悲鳴を上げたがその頭も次の瞬間には食い破られた。
フェヴリエンスはその間にありったけの魔力で巨大な竜巻を作り上げた。
「このドラゴンごときが…!!」
放たれた黒い竜巻がヴァニギアスたちに襲いかかる。
小柄なドラゴンは巻き上がる風に抗いきれずに何匹か引きずり込まれた。
フェヴリエンスはにやりと笑ったが、その竜巻が突如として真っ二つに割れた。
その先にいたのは漆黒の光を帯びた剣を持つオルフェ王子だ。
「くっ…、お…のれぇ!!」
解放された小柄なドラゴンは怒りも露わに翼を広げ、一斉にフェヴリエンスを狙い襲った。
「や…やめろ来るな!!たとえこの体を破壊したところで私は死なぬぞ!!」
闇雲に攻撃を放ちながら叫んだが、フェヴリエンスの五体は空の殺戮者とすれ違いざまに全て食い破られた。
「うぐ…あぁ…」
僅かに残った体からポロリと緑の宝石が零れ落ちた。その宝石から黒い霧が一気に吹き出す。
それは螺旋を描くと悪魔の姿に変わりつつあった。
「愚かな!!お前らごときに私を消せるものか!!悪魔を消滅できるのは悪魔のみなのさ!!」
フェベリエンスはぞっとするほど赤い目を光らせ、不気味な笑い声を上げた。
だがそれはすぐに驚愕と苦痛の悲鳴に変わった。
まだ実体化しきれない体が真っ二つに切り裂かれ、悪魔の上半身が斜めに滑り落ちた。
「ぐぉ…お前ぇえ!!」
恨みを込めて伸ばした手にはまた容赦なく漆黒の一閃が入った。
「悪魔を消滅できるのは悪魔のみ、か」
オルフェ王子は剣を振りかぶるとフェヴリエンスの頭を脳天から叩き斬った。
悪魔の姿が揺らぐと最後に緑色に輝いていた宝石を叩き切る。
人の声とは全く異質の悲鳴が谷を揺らしたかと思うと、悪魔の姿は完全に消えた。
「そんな事くらい、とうの昔から知っている」
オルフェ王子は用のなくなった剣を鞘に収めるとまた川を見下ろした。
「だから…俺はお前の事だって本気でどうにかするつもりだったんだぞ」
小さくこぼしたやりきれない言葉は、誰の耳に届くこともなく激しい川の流れに掻き消された。
その瞳からはまだ怒りは消えていない。
ヴァニギアスは縦横無尽に空を飛びながら無差別に人間を襲い続けた。
スピードに物を言わせ鋭い牙と爪で次々と殺戮を繰り返す。
コウモリは目の前の惨劇と、それを冷たく見下ろすだけのオルフェ王子に戦慄が走った。
もう残っているのは緑のドラゴンに群がる自分たちだけだ。
「だ…駄目だ!!ドラゴンを捨てて逃げろ!!」
がたがた震える手から鎖を離すと、仲間と共にドラゴンから飛び降り逃げだした。
「ち、ちくしょう…!!何故あの男だけドラゴンが操れるんだ!!」
「あ、あの男こそ悪魔だ!!」
「みんな…みんな死んだ!!くそっ!!くそぉ!!ドラゴンめ…!!」
土蛇を足場に地上まで滑り降りたが、その途中でヴァニギアスが隣に並んだ。
コウモリは蒼白になった。
「う…ぐぁ、ああぁあ!!」
銃をぶっ放すも当たるはずがない。
コウモリたちはまるで遊ばれるかのように土蛇から叩き落とされると、一人残らず餌食となった。
殺戮竜は王子以外誰もいなくなるとギャアギャアと揃って鳴き声をあげた。
谷の中を一回りすると空へと帰っていく。
オルフェ王子はそれを見送ると、自分が連れてきた傷ついたドラゴンを撫でた。
荒ぶっていたドラゴンは急に大人しくなるともう一匹の元へ羽ばたいた。
モリを打ち込まれたままのドラゴンも王子が近付くとずっと低く呻いていたのを沈める。
オルフェ王子は静かになった谷を振り返った。
残されたのは川で揺れる白い手と大量の赤。
「泣いてください」
すぐそばで聞こえた気がして王子ははっと振り返った。
「貴方だって、普通の人間なのですから」
ずっと昔に言われた言葉が鮮明に蘇えり、藍色の髪をした少年の真面目な顔が浮かんでは消えた。
王子はドラゴンを撫でると悔いるように囁いた。
「お前たちにこんな事をさせて…すまない」
突き刺さったモリから鎖を切り離すと、オルフェ王子はドラゴンを連れて雪の監獄を後にした。