ミリとルシフの交換条件
無事にヨルデンデ小国に入った私は、ハルクの言いつけに従いパビス家でお世話になっていた。
だがミントリオに現れた黒魔女の噂は既にここでも広まり、絶妙のタイミングで訪れた黒髪の私をパビス家の人たちは大いに怪しんでいた。
「い、居辛すぎる…」
私は数日ですぐに音を上げていた。
これなら一人でいる方が断然ましだ。
毎日朝早くから屋敷を出てアルゼラへの行き方を調べるものの、人に聞けば高確率で本気で行く気かと笑われるか哀れな目で見られるばかりだ。
聞けば聞くほどアルゼラなんて本当は話ばかりで存在しないのではとさえ思えてくる。
声をかけることすら苦手な私は、積もるストレスと疲労感で早くも憔悴していた。
それなのに焦りばかりが募り夜もろくに眠れなくなってきた。
「ダメだ。このままじゃまたへたばる」
窓の向こうで登り始めた日を見ながら私は掛け布団をかぶり込んだ。
早く確実な情報を得て動き出さないと。
捨て身でもっと北の国へ行ってみようか。
いやいや、でもお金もないし通行書もないしな。
…非力だ。
非力すぎる。
そろそろ仕事でも探さないと生きていくことさえやばいんじゃないか?
私は危機感に寝転がっていられなくなった。
ベッドから降りるととりあえず身支度を整え始める。
鏡に映った顔はコールと同じとはとても思えないほど暗いものだった。
「これじゃまたハルクさんに怒られる」
肩を落としながら鏡に手をついたが、その時ルーナ国で鏡の中から話しかけてきたルシフのことを思い出した。
…そうだ。
ルシフならもしかしてアルゼラへの行き方を知ってるんじゃないか?
私は腕を組み、しばらく一人で唸った。
今のところすっかり大人しいルシフをわざわざ私から呼び起こすのにはどうも抵抗がある。
でも、悪魔さえ呼ばなければ…。
「呼べば、来るのかな…」
私はごくりと生唾を飲むと鏡に向き直った。
一つ深呼吸をしてから慎重に呼びかけてみる。
「…ルシフ」
特に反応はない。
「ルシフ、いる?」
しばらく待ったがやはり何も起こらない。
私は馬鹿らしくなってため息をこぼした。
「だよなぁ。そんなに都合よく…」
振り返ると目の前に人がいた。
「うわっ!!」
私は驚きすぎて縮み上がった。
上から下まで黒一色の服をまとい、緋く光る目で私を見下ろしているのは間違いなくルシフだ。
「ルシフ!!ほほほ、本当に出た!!」
「お前が呼んだんだろうが」
ルシフはどこかしかめっ面で私の顎をくいと持ち上げた。
「しばらくの間に、随分人間味が増したじゃないか」
「えっ」
「程よく育て上げたというのに…。オルフェめ」
「お、オルフェ王子??」
私はルシフから王子の名が出たことに動揺した。
ルシフは私を引き寄せ目を細めた。
「自ら俺を呼び出したという意味をお前は分かっているのだろうな」
「えっ、ちょっ…」
私は慌ててルシフの肩を押し返した。
「ちょっ、ちょっと待って!!違う違う!!私はルシフにアルゼラの行き方を知ってるか聞こうとしただけで…!!」
ルシフは冷たく笑った。
「お前、俺のことを何だと思っている?アルゼラなどどうでもいい」
「へ!?」
「お前が呼んだこの機を俺が逃すとでも思うか」
私は考えの甘さに青くなった。
前だって助けてくれたのだからと思ったが、ルシフは所詮悪魔の現し身だ。
「ご、ごめんルシフ!!私まだ契約するつもりはないから!!」
「それがいつまでも通用するとでも?少しずつ熟れ始めたその体でも俺は構わない」
「かっ…」
体!!
生々しい!!
私は何だか一気に熱くなった。
こんな時だが思い出したのは何故かオルフェ王子の温かい感触だ。
私は赤くなったり青くなったりしていたが、ルシフは構わず妖艶に微笑んだ。
「諦めて俺と契りを結べ。それがお前の存在意義であり、一番良い選択だ」
「あ、あの…」
「早く決めんと痺れを切らせたアレが今度こそお前を食いに来るぞ」
「うっ…!!」
活路を見出そうとしたのにこれじゃ更に追い詰められてるじゃないか!!
逃げ場のない私は混乱と葛藤の極地に差し掛かると叫ぶように言った。
「わ、分かった!!分かったから!!貴方と契約する!!でも、でもひとつだけ条件がある!!」
私はルシフを見上げた。
「先に私とサクラをアルゼラへ連れて行って!!」
「…」
「どうしても、サクラを仲間のところへ返したいの。それが済めば…貴方と契約…する」
言葉にすると、なんだか喉が干上がった。
取り返しのつかないことを言った感がびしびしする。
だがどうせサクラとさよならをすればもう本当に生きる意味も目標も無くなるのだから。
この際、覚悟を決めなければ。
ルシフは私の手を取った。
「その言葉、偽りはないな?」
「えと。アルゼラに着いても、ちゃんとサクラの事が済んでからだから!!」
「いいだろう。だがそれ以上は待てない。用が済めばすぐに俺の元へ引き戻すからな」
「わ、分かった」
ルシフが両手で私の手を包みぐっと握ると、私の手の中に小さなコンパスが現れた。
「今夜零時。この針が指す方角へ歩け」
「え…」
「アルゼラへの道はそれで見つけられるはずだ」
「わ、分かった」
私はコンパスを見つめながら頷いた。
「あ、ねぇ…」
顔を上げると、そこにもうルシフはいなかった。
部屋はシンと静まり返り、外から小鳥の声だけが僅かに聞こえる。
手の中にコンパスが無ければ夢だったんじゃないかと疑っただろう。
とりあえず、何とかアルゼラには行けそうだ。
その先のことは今は考えないでおこう。
そう結論付けると何だか急に眠気に襲われた。
今日は町に出なくてもよくなったし、今夜に備えてもう一眠りしておくか。
私はベッドに潜り直した。
目を閉じ体を丸めたが、さっき思い出したせいか瞼の裏にオルフェ王子が浮かんで消えない。
「王子…」
私は枕に顔をうずめながら眠りに落ちるまで一人静かに泣いていた。