別人の朝
目が覚めたら、なんとも華やかな王子の隣にいた。
いや、ちょっと待て。
昨日まで確かに自分は城下町のしがない帽子屋でちくちくと針を操っていたはずだ。
何が何だか全く分からないが、逃げ出すなら王子の目が覚めるまでにだ。
私はやたら広く豪華なベッドからそっと抜け出した。
幸いなことに自分も王子も素っ裸でどう見ても…なんてことはない。
まぁそれもそうだろう。
美女揃いの貴族や王族を相手にしているはずの王子が、わざわざ私に手を出すことはないはずだ。
こそこそと豪奢な部屋を横断し、大きな扉へと向かう。
重々しいそれをそっと開くと、大理石の廊下を行き来する人々とばちりと目が合った。
「…し、失礼しました」
蚊の鳴くような声で言うと再び扉を閉める。
いくら私でも、きりりとした身なりの高官の前を寝起きの姿で歩けるわけがない。
どうしたものかと周りを見回せば、部屋の一角にバスルームがあった。
私は抜足でそこに向かうと煌びやかな洗面台の前に立った。
とりあえず顔だけでも洗うべきかと鏡を覗き込む。
「あれ…?」
鏡…、じゃない。
だってそこに映っているのは見たこともない顔だもの。
「こ、こんにちは…」
間抜けながらも挨拶してみる。
だがその人は自分と同じように口をパクパクしただけだ。
手を振ってみる。
相手も手を振っている。
にっと笑ってみる。
相手もにっと笑っている。
どうやらこれは鏡で間違いなさそうだ。
ではなぜ違う顔が映っているのか。
腰まで流れるストレートの黒髪は変わらない。
体は…おぉ、やや女らしくなっている。
ほぼすっとんだった胸も丁度いい膨らみがある。
中々悪くない変身だ。
自分のチェックに没頭していると、部屋から声がした。
「イザベラ…?」
あ、そうだ。
王子がいたんだった。
これは事情を直接王子から聞く方が早いか。
部屋に戻ると、王子は気怠げに体を起こしていた。
「…そこで何してる」
「どちらかというと、それを知りたいのは私です」
いつものように低い声で言うと、王子は妖艶に微笑んだ。
「長旅で疲れているのは分かるが、丸一日寝っぱなしだとは思わなかったぞ」
「丸一日…?」
「それにしても従者の一人も連れずに来るとは思わなかったな。お前の国の習慣はよく分からんが、このスアリザは魔物も寄りつかぬ平和な国だ。安心して過ごすといい」
「…はぁ」
私は王子が何を言ってるのかさっぱり分からず、間抜けなように「はぁ」を連発することしかできなかった。
王子は反応の薄い私に首を傾げた。
「イザベラ、お前はいつもそんなに愛想がないのか?可愛い顔をしてるのに勿体無いぞ」
可愛い顔。
確かにさっき鏡に映っていた自分は可愛いと言われる部類だった気もする。
私はこれ以上ややこしくなる前に口を開いた。
「えと、王子サマ…」
「オルフェでいいぞ」
「ではオルフェ王子。まず私はイザベラではありません。そしてこの顔も体も偽物です」
王子こそ私が何を言い出したのか分からなかっただろう。
不思議そうにまじまじと見てきた。
「…どういうことだ?」
「分かりません」
「…」
それにしてもこのオルフェ王子はとんでもなく整った顔立ちをしている。
それに加え翡翠色の瞳と、さらりと揺れる金茶の髪が流石にお美しい。
男でありながら王宮の華と噂されるのは伊達ではないな。
「イザベラではないというなら、お前は誰だ」
「私は城下町の帽子屋の娘で、ミリフィスタンブレアアミートワレイと言うものです」
「…何?」
「ミリフィスタンブレアアミートワレイ」
文句なら親に言ってくれ。
この名を一度で覚えた者はいない。
だが王子は別のところに反応していた。
「驚いた。黒魔術の継承者か」
これだけで真の正体を看破されるとは、こう見えてもやはり王子としての教育はちゃんと受けているのか。
ちなみに名前が長いからじゃないよ。
王子はどこか楽しそうな顔で言った。
「イザベラはどんな事が出来るんだ?」
「…イザベラではありませんが、とりあえず人を呪えます」
「…。そうか」
引いたか。
引いたのなら早く解放してくれ。
明日までに仕上げなきゃならない帽子がまだ三つも残ってるんだ。
私は無表情のまま王子を見つめた。
「帰ってもいいですか」
単刀直入に聞くと、王子はやや困った顔になった。
「それは困るな。イザベラ姫は北の国から献上された俺の側室なんだから」
「側室…?」
「お前が勝手に消えると、その国との間にいらぬ亀裂が入るかもしれない」
もうなんのこっちゃ分からない。
「失礼ですが、何かの手違いでは?王宮内で調査することをお勧めします。それでは私はこれで…」
さっさと退室しようとしたが、王子は私の手を掴むと力を込めて引いた。
どさりと音を立ててさっきまで横になっていたベッドに押し付けられる。
「イザベラ。勝手なことは許さない」
「…。勝手と言われましても、私がここにいるメリットは?」
淡々と聞くと王子は面白そうな顔になった。
「押し倒されても顔色一つ変えないとは中々珍しい女だな」
「はぁ…」
「イザベラ」
「イザベラじゃありません」
「ではミリ」
「…それは略しすぎでしょう」
王子は小さく吹き出した。
何か面白いことでも言ったかしら。
「なぜミリが間違えて献上されたのか、調べるまでは城を出ることは許さない」
「調べ終えたら帽子屋まで手紙をくれたらそれでいいですよ」
「分からん奴だな。気まぐれにそばにおいてやると言っているんだ」
「はぁ…」
なんて酔狂な。
こんな馬鹿な話に付き合うのもそろそろ飽きてきた。
「ちょっと、そこどいてもらえませんかね」
「逃げないなら、どいてやる」
「逃げるんじゃないですよ。帰るだけです。所在地伝えたじゃないですか」
オルフェ王子は美しく煌めく翡翠のような瞳を細めると、ゆっくりと顔を寄せてきた。
おっと、これはまずいな。
「オルフェ王子。私のことをよく知らずにこういうことするのはお勧めしませんよ」
「…」
王子はぴたりと動きを止めると私の腕をゆっくり離した。
薄く浮かべた笑みに凄みが混ざる。
「なるほど。黒魔女とは確かに恐ろしいらしいからな。やはり身柄を自由にするわけにはいかない」
「は…?」
「これから数日間調査を入れる。ミリは余計なことは話さず周りに怪しまれないようにこのまま側室として王宮にいろ。いいな」
「え、あの、ちょっと…」
王子は勝手に言い渡すとベッドから降り部屋を出て行ってしまった。
「うそ…。だって帽子の納品が…」
小さな店を保つには常連さんの信頼が第一なのに。
いや気にするところは他にも盛り沢山あるのだろうが。
「夢の王宮暮らしってか。冗談じゃない」
危機を感じた私はとりあえずここから脱出するためにそろりと扉に近付いた。