それでも
この物語はフィクションです
昔からそうだった。
お金持ちでも貧乏でもない、普通の家で生まれた私。特に頭がいいわけでもなく、運動ができるわけでもなく、特技なんて聞かれても何もない、いわゆる普通の子。
それなのに、どうしていつも私はのけ者にされるのだろう。
初めはわからなかった。だから頑張った。皆と仲良くしようと、皆に好かれようと、色々努力した。でも、結果は同じだった。
そうして中学を卒業して高校に入学した頃、私はようやくその原因を悟った。お母さん譲りのきれいな顔立ち。思い出してみると、中学に入学したての時やクラス替えしたばかりの頃、私に話しかけてきたのは大抵男の子だった気がする。他の女の子達は、何もない私が男の子に人気があるのが気に食わなかったらしい。
そんなの私のせいじゃないのに。私は何も悪くないのに。
でも、それが現実。だから、私は現実を受け入れる事にした。私は生まれつき不幸な運命だった。そう考えて、私は自分を納得させた。
高校を卒業して大学に入った最初の年、私はサークルの合宿でとある山奥の旅館に来ていた。別にどうしても入りたかったわけではないが、クラスの人に誘われたのでなんとなく入ってみただけのサークル。どうでもいい事を話して、何が面白いのか大声で笑い声をあげる人達。私は適当な理由をつけて夜の宴会場を抜け出し、外へ出た。
季節は夏。外の蒸し暑さを心地よい夜風が少し和らげてくれる。都会と違って、夜空にはたくさんの星が輝いていた。
なんとなく旅館の周辺を散歩してみる。辺りは静寂に包まれ、耳に聞こえてくるのは小さな鈴虫の鳴き声だけ。旅館の周辺にある森は真っ暗で、奥に何があるのかは全くわからない。
このまま奥に進んだら、闇の中に音もなく溶け込んでしまうかもしれない。そう思いながらも、私の足は自然と森の奥へと進んだ。
森の中は思ったより足場が悪く、散歩というより探検のようになってしまった。それでも、私は前に進み続ける。いつからか鈴虫の鳴き声も聞こえなくなり、辺りは私の足音以外、一切の音が遮断されている。唐突に、自殺の名所といわれるなんたら樹海の事を思い出した。
どのくらい歩いたのか、自分でもよくわからない。もう足がくたくたになって歩くペースも落ちてきた頃、私はふと森を抜けて開けた場所へと出た。その先は崖になっていて、これ以上は先に進めない。今まで森の木に遮られていた月明かりが私を明るく照らし出す。その時、私は崖のところに人が立っているのに気がついた。私の足音に気がついたのか、その人がゆっくりこちらを振り返る。そして、私の顔を見ると、
「こんばんは。今日はいい月ですね」
と、挨拶をしてきた。
私と同じくらいか、少し年上に見える男の子。男の子は優しげな瞳で黙ったままこちらをじっと見つめていた。
「こんなところで何をしてるんですか?」
居心地が悪くなった私は当たり障りのない質問を投げかける。すると、彼は困ったように苦笑いを浮かべた。
「さぁ……何してるんでしょうね?」
何故か逆に質問を返される。今度は私が困ったような苦笑いを浮かべた。
「あなたこそ、こんなところで何をしているんです?」
「散歩です。サークルの合宿で近くの旅館に泊まってるので……」
「そうなんですか。でも、もう夜も遅い。早く旅館に帰った方がいいですよ。道はわかりますか?」
「あ、はい。多分……」
随分長いこと歩いていた気がするが、一直線に歩いてきたはずなので迷うことはないだろう。
「それは良かった。私ももう帰ります。お互い早く帰りましょう」
「そうですね」
それから別れの挨拶を交わして、私は旅館へと引き返して行った。
翌日の夜、私はまた昨日と同じ場所へ向かっていた。旅館の部屋では相変わらずバカ騒ぎが続いていたが、私は最初だけ顔を出してすぐに抜け出した。彼らとバカ騒ぎするより、静かな森の中にいる方がよっぽどいい。
昨日と同じ道筋を辿って、同じ場所へと辿り着く。すると、また同じ場所に昨日の男の子が立っていた。
「こんばんは」
今度は私の方から挨拶する。彼はその声に振り返ると、少し間を置いてから、
「こんばんは。今日はいい月ですね」
と、昨日と同じ挨拶を返してきた。
「いつもこの時間にはここにいるんですか?」
私がそう尋ねると、彼はまた困ったような苦笑いを浮かべた。
「まぁ、そうですね」
「この辺りに住んでいるんですか?」
「ええ、まぁ……。あなたは?」
「私は昨日と同じく散歩です」
「そうですか。でも、夜ももう遅い。早く帰ったほうがいいですよ」
「昨日よりは大分早いですよ」
「え? ああ……そうですね」
彼は慌てた様にそう言うとまた苦笑いを浮かべた。
その後、たわいもない話をした後、別れの挨拶を交わして私は帰路についた。
ただ一つの違和感を残したまま。
翌日の夜、私は三度同じ場所を訪れた。合宿も今日で最後。どうしても、確かめなければならない事がある。いつもと同じ場所に来ると、やっぱりいつもと同じ場所に彼は立っていた。
「こんばんは」
私は昨日と同じ様に彼に挨拶する。その声に、彼はゆっくりとこちらを振り返った。
「こんばんは。今日は……」
「今日も、いい月ですね」
彼の言葉を遮って、私は彼の本来の言葉を代弁する。彼は一瞬驚いたような顔をした後、いつもと同じ困ったような苦笑いを浮かべた。
「私と会うのは、今日が三度目です」
「そうでしたか……」
彼はそれだけ言うと、黙ったまま夜空に浮かぶ月を見上げた。私も黙ったまま、同じ様に月を見上げる。音も動きもない、まるで時が止まったかのような世界が続いた。
「24時間です」
その世界を打ち破って、彼はぽつりと呟いた。
「24時間……?」
「僕が記憶を保持していられる時間です。今日のことは、明日になれば全て忘れています」
その言葉に、私は何も言い返す事が出来なかった。若年性痴呆症程度かと思っていたのだが、まさかそこまでひどいとは思っていなかったのだ。
「自分がどこで生まれたのか、何故ここへ来ることになったのか、自分の年、名前、何も覚えていません。ここで暮らしていくのに必要な最低限の事だけが書かれたノートと貯金通帳だけが家に残されていて、他には何もありませんでした」
「…………」
「でも、あなたと三度も会っているとは驚きでした。僕は毎日このくらいの時間帯にここに来ているみたいですね。不思議なものです、記憶は残っていないのに……」
「……少し、質問していいですか?」
私は意を決して彼に言葉をかけた。
「僕に答えられることなら」
「そういう病気で、つらいとは思わないんですか?」
「もちろんつらいです。知り合いの一人も作れませんから」
「じゃあ……」
私は彼に最も聞きたかった事を尋ねた。
「死のうと思ったことはありますか?」
その質問に、彼は神妙な面持ちのまましばし考えこんでいたようだったが、やがて静かに答えた。
「昨日の事は覚えていませんが、今の気持ちで言えば答えはいいえ、ですね」
「どうして!? 昨日の事は何も覚えてなくて、知り合いはおろか自分の事すらわからなくて、そんなに不幸なのにどうして!?」
私は思わず声を荒げた。彼の答えは、私の予想と違っていたからだ。もしかしたら、この想いを共感できるかもしれない。そんな淡い期待が、私にはあった。
「……僕は、何一つ権利を持てない人間です。何かを買って所有権を得たとしても、次の日には何故それを買ったのか忘れてしまう。何かに挑戦しようと練習しても、次の日には何に挑戦しようとしたのかすら覚えていない。全て記録すればいいのかもしれないけど、それでは毎日昨日の記録を読むだけで終わってしまう。人生とは積み重ねだという事を、つくづく思い知らされます。積み重ねのない僕の人生は、人生とすら呼べないかもしれませんね。でも、そんな僕にもたった一つだけ与えられた権利があります。それが「死」です」
そう言うと、彼は真正面から私の瞳を見据えた。
「生きている人は、全て平等に「死」を与えられます。それは人だけでなく、この世界に生きる全ての生物に平等に与えられた権利です。こんな僕にでも与えられた、たった一つの権利……」
そして、彼はいつもと同じ様に困ったような苦笑いを浮かべた。
「あっさり使っちゃったら、もったいないじゃないですか」
私はただ、彼の苦笑いを見つめるしかなかった。全ての生物にもたらされる「死」。その悲劇さえも、彼にとっては愛しむべき大切なものなのだ。
「……もう夜も遅い。帰った方がいいですよ」
「……はい」
私は半ば呆然としたまま、そう短く返事を返した。
「あ、そうだ」
すると、彼は上着のポケットから少し小さめの手帳を取り出した。
「これ、あげます」
「え?」
「僕が書いた詩集みたいなものです。どうやら毎日書いているみたいで……。でも、昨日でページが一杯になってしまったみたいなんですよ。だから、あなたにあげます」
「でも……大切なものなんじゃ……」
「いいんです。どうせ見せる人なんていないんですから。あなたに見て貰った方が僕としても嬉しい」
そう言って、彼は私の手にその手帳を乗せた。
「帰ります。お元気で」
別れの挨拶をして、彼が私に背を向ける。私は慌てて彼を呼び止めた。
「あの、私の名前は……」
「いいです。どうせ、明日には忘れますから」
彼は私に背を向けたままそう答えると、暗闇の中に消えていく。私は別れの挨拶を交わすことなく、黙ったまましばらく彼の背中が消えた闇をじっと見つめていた。
翌日の夕方、私は都会へと、元の日常へと戻ってきた。
サークルの仲間と別れ、家に帰る途中の電車の中で、私は昨日彼にもらった手帳をそっと開いた。中には一ページごとに丁寧な字で短い詩が書き綴られていた。
時には朝の陽の光を、時には昼の木々の美しさを、時には夜の闇に生える月と星を。彼はその日に見て感じた情景を、一文字一文字丁寧に言葉に綴っていた。
最後のページを開く。そこには、たった三行でこう書いてあった。
『誰も見てくれない。
誰も聞いてくれない。
誰も教えてくれない。』
その三行を見るのがつらくて、私は手帳を閉じた。
こんなにつらいのに、こんなに苦しいのに、どうして?
ため息をついて、手帳をカバンにしまおうとする。その時、私は手帳の背表紙に何かが書いてある事に気がついた。
『それでも、』
たった五文字。ただそれだけの言葉でも、私には十分だった。
彼はこの点の後に、何を続けようとしたんだろう?
電車の中という事も忘れて、私は嗚咽を漏らしながら涙を流した。