第44節 狂熱
川越は両翼を中心にして波状攻撃を続ける。跳ね返されてもセカンドボールを奪い続け、ミドルレンジからシュートの雨を降り注ぐ。
だがゴールは生まれない。川越のシュートはマリノスのディフェンスの体に当たる。マリノスのディフェンスは集中して、いいポジショニングで守れている。そのため川越のシュートやラストパスは、マリノスの選手たちに悉く防がれてしまっているのだ。
もしゴールに向けてシュートが飛んだとしても、キーパーがこれを防ぐ。ディフェンスのお陰でシュートコースが限定されているので、今日当たっているマリノスのキーパーにとってこれを防ぐのは容易なことであった。
センターの位置で独力で崩せる力を持ち、かつ連動して違いを作り出せる選手である遼の不在がここで響いている。
後半ももう半分を過ぎた。川越は攻めども攻めども、中々ゴールへと辿り着けない。彼らはそれでも強引にこじ開けるべく、残りの燃料を必死に駆り立てピッチを駆けた。
海が優磨からの縦パスを受けて、爽太の方へ流す。爽太はシュートを打とうとしたが、ディフェンスが視界に入ってきたため更に外へ流した。ディフェンスを引きつけるだけ引きつけてだした、完璧なパスであった。
そこには山川が走り込んで来ている。長いランをして疲れていた山川だが、力を振り絞ってインフロントでセンタリングを上げた。キーパーが飛び出せない良いところに上げた、絶好のボールである。
「うおおおっ!!」
海が吼えながら、満身の力を込めて飛翔した。マリノスのディフェンスは3人がかりで海を抑えようとするが、無我夢中になった海はそう簡単には止められない。
頭一つ抜け出した海は、眼をカッと見開いたまま眉間でボールを捉える。海の非凡なフィジカルは空中での姿勢制御を可能にし、身体をうねりながらボールを思い切り叩きつけた。
川越ベンチは総立ちになる。ボールはキーパーの逆を突き、ファーポストの隅に向けて飛んでいる。キーパーは一歩も動けず、体勢を崩されたまま、ただただボールを見送っている。
マリノスの選手の一人が、入れさせまいと必死にカバーに入る。だが彼の頑張りを嘲笑うかのように、ボールはゴールネットを揺らした。
海は拳を振り上げて再び吼えた。
「海!! よく決めたぞコラァ!!」
優磨が海の正面に抱き着くように飛び込んだ。海はそれを受け止め、小さい優磨の頭をぐしゃぐしゃと撫でる。
「海すげえぞ! どんだけ飛ぶんだよお前!!」
アシストをした山川が、破顔しながら海の背中を叩く。
「ヤマめっちゃ良いボールだったぜ! あれは決められるわ!」
海は手を出して山川とハイタッチを決めた。大島や望月、光や爽太も寄ってきて海に祝福をする。利樹はグローブを叩き、 ディフェンス陣は歓声をもって海を迎えた。
そして海は自陣に戻ってきた時、ベンチに向かって得意げな顔でガッツポーズをした。視線の先には、松葉杖をついて立ち上がったいる遼がいる。遼も左手をグッと握り、ガッツポーズを返した。
「この流れで逆転するぞ! 時間は少ない! 一気に決めてこい!!」
ベンチから立ち上がった竹下監督が、手を叩いて檄を飛ばす。
「おうッ!!!」
選手たちは応え、マリノスのキックオフ後から再び怒涛のアタックを敢行した。
途中マリノスにボールを奪われ、上郷が個人技で突破してカウンターを仕掛けようとしてきたが、英と光が2人がかりで仕留めた。
光に激しく当たられた上郷はファールをアピールするが、レフリーの笛は鳴らない。
光は顔を上げて、ピッチを斜めに切り裂くボールを、敵陣の右サイド深く目掛けて蹴った。
そこには川越の11番が、軋む脚を懸命に動かしながら走り込んできていた。
爽太は右足で、自身の左斜め前にボールをコントロールする。そしてドリブルでペナルティエリアに侵入を試みた。
そこでマリノスのセンターバックが立ちはだかってきた。爽太はワンフェイク入れた後ほぼ直角に切り返して、今度は縦に進もうとする。センターバックは虚を突かれ、ワンテンポ遅れて着いてきた。
爽太はセンターバックの進路を遮るように中へボールを進める。爽太はゴールライン際に1人抜け出した形となった。
マリノスのセンターバックは、それでも爽太を阻止しようと追いすがり、そして身体を入れようとする。ここで逆転されたら全てが水の泡だ。彼は必死に止めようとした。
しかしセンターバックは、不意にスピードを緩めた爽太の背中に激しく激突してしまった。彼はまんまと爽太の誘いに乗ってしまった。
爽太が芝に倒れ、レフリーの笛がけたたましく鳴り響くまでの刹那が、まるで永遠のように感じられた。
爽太の狡猾さと執念が、マリノスの闘魂を上回った。
「いよっしゃあ!!」
遼がベンチで真っ先に叫び、それを皮切りに川越ベンチが、いや会場全体が一つの生き物のように揺れた。
PKを得た爽太は、チームメートたちからもみくしゃにされる。祝福の渦の中心にいる爽太は、彼にしては珍しく喜色に溢れた笑みを浮かべていた。
「クソックソックソッ!」
ファールを与えてしまったセンターバックは、呪詛の言葉を吐きながら芝を蹴る。策に嵌った己への誹謗が、脳と腸に焼き尽くすような熱を生む。だが彼は突如肩に触れた感触によって冷静さを取り戻した。
「やられちゃったな、あいつに」
マリノスの10番、上郷昌利である。
「マッシー……いや……マジでごめん」
「仕方ないよ由隆、ここまで粘ったんだ。やっぱ甲本がいなくても川越は強かった」
上郷はどこか達観した様子である。由隆と呼ばれたセンターバックは、無言のまま俯いている。
「あとは和光に任せようぜ」
マリノスの選手の一人が、遠野由隆の肩を優しく叩きながらそう言った。近くにいたマリノスのキーパー和光は、笑顔で頷き親指を立てるとゆっくりとした足取りでゴールマウスへ向かう。
爽太はチームメートたちの渦から解放された後、優磨からボールを渡された。
「爽太蹴んなよ。爽太が取ったPKだし」
「ああ」
「それに爽太なら外しても誰も文句ねえよ。だから爽太、頼む」
「でもできれば決めて欲しい」
「……黙ってろバ海」
海の空気を恐ろしく読まない発言に優磨は手厳しく突っ込む。
「決めるよ」
爽太はボールを受け取り、ペナルティスポットへと歩みを進めた。
爽太ほスポットにボールを無造作に置くと、ゆっくりと後退して悠然と構える。
蒼空の下、天下を決めるホイッスルが短く響く。爽太はゆっくりと助走を開始し、そして爆発的に駆けた。
その勢いのままインステップでボールを捉える。爽太のすべてのエネルギーが込められたボールは、爽太から見てゴール左上の隅を強襲した。
そして––––––アディダスの4号球は真っ白なゴールバーに直撃し、金属音を響かせてピッチに舞い戻ってきた。
まさか爽太が外すとは思っていなかったのだろう、川越の選手たちは一瞬セカンドボールへの反応が遅れた。
マリノスの選手、特に遠野はシュートが外れることを信じ、願っていたので対応は川越よりもはるかに早かった。
遠野はヘディングで外へとかき出す。そのボールを上郷が前線へ大きく蹴った。
瀧澤はセンターサークルの右斜め前程で落ちてくるボールを待ち構える。高く上がったボールは、まるで青い空に浮かぶ昼の月の様に見えた。
瀧澤はこの試合で一番フリーな状況になっている。川越は逆転を狙い、キーパーの利樹以外皆ペナルティエリアまで上がっていた。
ピッチやベンチ、そして観客の方から絶叫が飛び交う。瀧澤は幾分心地良くそれを聞きながら、ボールをしっかりとコントロールして前を向いた。
瀧澤が顔を上げると、利樹は思いの外高い位置にいた。
瀧澤はなんの躊躇いも無く右足を振り抜いた。
利樹以外のすべての人が、呆然とした目でボールの行方を追う。
利樹はクロスステップで下がり、必死にキーグロを伸ばした。利樹の身体はほぼ水平に宙へ浮いた。
次の瞬間、ゴールネットが白く泡立った。
瀧澤はその場で膝立ちになり、祈る様な姿勢で絶叫した。彼の腹の底のマグマが沸騰して抑えきれなくなり、それは大きな咆哮となって口から発せられた。
マリノスの選手たちも狂喜の叫びを上げながら瀧澤にむしゃぶりつく。マリノスの選手たちに押し潰され、瞬く間に瀧澤の姿は見えなくなった。
「まだだ! まだ時間はある! 顔を上げろ!」
竹下監督が腕を上に向かって振り、顔を上げろと何度もジェスチャーをする。
利樹は立ち上がってゴールの中に転がっているボールを拾うと、センターサークルに向かって投げた。
レフリーに半ば強引に促されたマリノスの選手たちが、自陣へと引き返す。そして海がボールをセットしたところで、長い笛が三度響き渡った。
FC川越 2 - 3 横浜F・マリノスJr.
天国と地獄が共演しているピッチを、遼は真っ白になった頭で見つめていた。
◇
川越の選手たちが整列を終えて引き上げてくる。ベンチの選手やスタッフは拍手で彼らを迎えたが、慰めにはならなかった。
皆泣いていた。利樹は嗚咽を漏らし、英らディフェンス陣は男泣きに泣いた。望月は俯き、その傍らで望月の背中を撫でている大島は目を真っ赤にして泣くのを必死に堪えている。
「光、胸張ろうぜ」
今にも崩れ落ちそうになっている光を、優磨が抱き抱えるようにして支えている。優磨は泣いてはいなかった。あくまでも普段通り、気丈に振舞おうとしている。しかし震える声が彼の悲しみを物語っていた。
「爽太…………」
海が涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、振り返って爽太を見て呟く。爽太はピッチに立ったまま動いていなかった。
爽太は動かなかったのではない。動けなかったのだ。
爽太は虚空の一点を見つめたまま、まるで立ち往生したかの様に固まっている。
「爽太……頑張ったな」
竹下監督がピッチの中へ行き、爽太の肩に手を置いた。爽太はそこで初めて反応を示した。
「監督……」
振り向いた爽太の目には涙はなかった。優磨や大島のように泣かないようにと堪えていた訳ではない。
「俺たち……負けたんですか?」
爽太の眼は何も見えていなかった。彼は敗北を受け入れられないでいた。
それを見た竹下監督は、胸が張り裂けそうになった。
「…………負けてない……お前らは負けてなんかないよ」
竹下監督は爽太を抱きしめ、頭を思い切り撫でた。
「爽太、お前は頑張った。結果なんていい。お前は俺の誇りだ」
竹下監督の頬を伝った雫が爽太の髪を濡らした。
爽太は竹下監督の胸に顔を埋めたまま、肩を小さく震わせた。
少年たちにとって、世界のどの場所よりも暑い夏があった。そしてその夏は、このような結末で幕を下ろしたのであった。