第20節 伝説の始まり
ー登場人物FILE ー
◎真島 爽太
趣味は読書。爽太は気を許した人以外とは必要最低限のことしか話さないので、休み時間などは一人で本を読んでいることも多い。
立ち上がったレッズのキーパーが芝に転がっているボールを拾い上げ、センターサークル付近のレッズの選手へと投げた時、審判はこの激闘の終了を惜しむかのように笛を三度吹いた。
「うおおおおおっしゃあ!!」
遼はピッチのほぼ中央で、狂ったように雄叫びを上げながら飛び跳ね始めた。その横ではさっきよりも少し落ち着いてきた爽太が、遼と同じように飛び跳ねたい気持ちを必死に抑えて冷静さを取り繕っている。
遼にはそれがおかしく、ニヤニヤしながら爽太の顔を見ていたら「何だよ」と言われ睨まれてしまった。
どこまでも続きそうな青空の下、それと同じくらい蒼いユニフォームが勝利の喜びに浸っている。
利樹はディフェンス陣とハイタッチを交わし、ガッチリと抱き合っている。その中には涙を浮かべている者も何人かいた。ディフェンス陣にとっては長い苦しみが報われた瞬間でもあった。
望月と大島は肩を組ながらピョンピョン飛び跳ねている。来年、こいつらにはまたこの場所でこうなって欲しいなあと遼は思った。
光は芝に腰を降ろしてぐったりしていたが、遼が声を掛けに行くと幸せそうな笑顔を遼に向けてきた。白い頬はリンゴのように真っ赤になっている。この試合彼女の見せ場はあまりなかったが、慣れないセントラルミッドフィルターの位置で黒子役に徹してくれた彼女は陰の殊勲者である。
ベンチでは、退場になってしまい離れたところで試合を見ていた海に向かって、優磨がブンブンと手を振りながら何やら叫んでいた。海は目を真っ赤にしながら号泣していた。
今、遼の胸中にあるのは「熱戦を制して、自分たちが県のトップに立てた」という気持ちだけだった。試合に勝ったからこそなのだろうけど、「雪辱を果たせた! やったぜ!」という思いはあまり無かった。
最高の仲間と、最高の舞台で、最高の敵に勝つことができたんだ。こんなに幸せなことは、たぶんこの先そう簡単にあるものじゃない。
だから喜ぼう。気持ち良く精一杯喜ぼう。この澄み渡った空のように。
暫く余韻に浸かった後、遼は手を叩き仲間を集める。彼らの緩みきった表情が少しだけ絞まった。
そして彼らは困難な任務を果たすことのできた特殊部隊のように、堂々とした表情の中にどこか満足感を漂わせながら、ピッチの中央に向けて悠々と歩いて行った。
◇
選手やスタッフたちと騒いでいる松本コーチの横で、竹下監督は目を閉じて一人静かに喜びを噛み締めていた。
(おめでとう!)
良くやったぞお前ら――竹下監督は心の底からそう言いたかった。
1ヶ月ほど後には全国大会が始まるのだから、本当なら彼らを天狗にさせないためにも、「あまり浮かれすぎるなよ」と釘を刺すのが良いのかもしれない。
だが自分の少年時代、大会で優勝しても「まだ甘い。気を抜くなよ」と言ってくる監督に何度「うるせーよ」と言いたくなったことか。辛いことや苦しいことを乗り越えて掴んだ栄冠を、もっと誉めてほしいと思ったものだ。
だから今日は誉めよう。誉めて誉めて、誉めちぎってやる。そして次の火曜日の練習の時に今日の振り返りをしよう。その時になったらあいつらも多少気持ちが落ち着いているはずだ。
ピッチ中央に一列に並んだ選手たちが、レフリーの合図に従い一斉に頭を垂れる。そして握手をするために、川越の選手たちがレッズの選手へと手を差し出しながらぞろぞろと流れていく。
竹下監督はそれを見届けた後、ノートやペンなどを片付けるために踵を返しベンチへ戻って行った。
そしてのんびりと荷物をまとめ終えた時、背後から幾多もの足音がバタバタと鳴り響いた。竹下監督は身の危険を感じ、体を硬くして振り向く。
「やったぞー監督!!」
「優勝だぜ優勝! 俺たち勝ったんだぜ!」
「いよっしゃあああ!!」
などと口々に喚きながら、瞳をキラキラと輝かせた選手たちが突進してきた。竹下監督は無精髭の生えた顔を綻ばせながら、倒れることなく無事にそれを受け止めた。
竹下監督は選手時代に感じた歓喜とはまた違った感情をこの時抱いていた。独身で子どものいない竹下監督だが、もし自分に子どもがいたらきっとこんな気持ちになるんだろうと思った。
自分が手塩にかけて育ててきた選手たちが愛しくて、誇らしくてしょうがない。選手たちの喜ぶ姿を見ていると、自分もどうしようもなく嬉しくなってしまう。
(ありがとう)
5年前の4月、あいつらは現役を引退して以降すっかり冷めてしまった俺のサッカーへの情熱を、再び甦らせてくれた。そして今、あいつらのお陰で俺は現役を引退して以来一番幸せな瞬間を迎えることができた。
監督って選手に教えるだけじゃないんだな。選手から色んなことを学び、選手と共に成長していくんだ。
選手たちが自分の周りから散って行った後、松本コーチが隣にやって来た。二人は互いにピッチを見つめながら話始めた。
「勝ったね竹ちゃん」
「勝ちましたね松さん」
少しの沈黙の後、竹下監督は松本コーチの方を見る。松本コーチも同じく顔を竹下監督の方に向けてきた。
「また夢を追いかけられそう?」
「…………はい」
「なら良かった」
ついさっきまで騒がしかったピッチは静まり返っていて、また次の闘いのためにスタンバイをしているように見える。
竹下監督はバックを肩にかけ直すと、松本コーチと一緒にピッチから出て行った。
◇
金銭面で余裕のあるクラブチームとは違い、ボランティアの手で運営されている少年団のFC川越はチーム専用のバスを持っていない。そのため遠征の時は、保護者たちの運転する車に乗り合わせて往き来することになっている。
この日もいつもと同じ様に、駐車場に集まった選手たちは竹下監督から乗る車の割り当てを告げられ、各自荷物を持って乗るべき車へと歩いて行った。遼は両親が車で見に来ていたので、自分の家の車になった。
白のセレナのトランクを開け、チームの荷物の一部や一緒に乗る人たちのバックなどを積んでいく。遼は家が近い爽太と光、そして五年生の大島と乗ることになっていた。
「よし、じゃあ乗ってくれ」
積み終わりトランクを閉めたところで、遼の父が鍵のボタンを押してドアを開ける。爽太はいつも最後列の隅に乗りたがるので、爽太から順に奥えと乗っていった。
そして大島・光と続いて乗り、最後に遼が乗り込もうとした時、遼は下っ腹辺りに張り詰めた物を感じた。
遼は運転席で既にスタンバイを完了している父に気まずそうに話しかけた。
「と、父ちゃん……」
「うん? どうした?」
「おしっこしたい」
遼の父は呆れたようにため息を吐いた。
「出発間際になって……さっきトイレしたい奴はしてこいって竹下監督に言われたばっかだろ。……仕方無い、早く行ってこい」
遼は既に筋肉痛が出始めている足で懸命にトイレまで駆けた。しかしえらいことに駐車場からトイレまでかなりの距離がある。小便器までの道のりがこんなにも遠く感じたのは初めてだった。
遼はトイレに駆け込むなり短パンを降ろし、そのままドアのすぐ近くの便器で溜まっていた不純物を解放し始めた。
「はぁ~~」
遼は頬を緩ませながら至福のため息を漏らした。いつも思うんだが、ギリギリまで我慢した時に出る小便には何とも言えない気持ち良さがある。
「うし」
遼は無事に出し終わり短パンを上げ、手を洗おうと洗面台に向かおうとした。その時だ。
大便器のドアが開き、一人の少年が出てきた。遼はその少年と目が合い、そして二人の間に微妙な空気が漂った。
その少年はまだ赤いユニフォームから着たままで、足首まで下げられたソックスからはレガースが覗いていた。
彼はすぐに遼から視線を切ると、スパイクの底をカチャカチャと鳴らして遼の前を通り過ぎ、洗面台へ歩いて行った。
遼は紐を結んだりする振りをして宇留野が行ってから手を洗おうと思ったが、時間が無かったので仕方無くそそくさと洗面台へ行き、宇留野から一つ離れた所でで手を洗い始めた(洗ったと言っても蛇口に手をかざして指先に少し水を付けただけだが)。
そして短パンで無造作に拭きながらトイレを出ようとすると、背後から突如「おい」と声をかけられた。
「何だよ?」
「俺は負けた訳じゃねーからな」
「……俺たちが勝ったじゃねーかよ」
「うるせぇ。去年と合わせると4-3でまだ俺が勝ってる。今日も俺の方がすげーシュート決めたし」
(このウルトラ負けず嫌いめ)
遼はやれやれと言った感じで笑みを浮かべた。
「最後まで体力持たなかった奴が何言ってんだよ」
「…………ちっ」
宇留野は何か言い返そうとしてきたが、図星だったので舌打ちしか返すことができなかった。
「んじゃ俺行くわ。みんなのこと待たせてるし」
遼が立ち去ろうとすると、「待てよ」とまたも呼び止められた。
「今度U-12の代表合宿がある。その時に俺の方が上だって思い知らせてやるからな」
宇留野がそう言い終えた時、駐車場の方から父が大声で自分を呼ぶ声が聞こえたので、遼は「じゃあな」とだけ言い残しトイレから出た。
「遼ちゃーん早く! おじさん怒ってるよ!」
光が窓から顔を出して叫んでいる。遼の家の車以外は既に出発してしまっていた。
「うわやべえ、すぐ行く!」
遼は重い足を引きずりながら、でもできるだけ速いスピードで車まで走っていった。