第12節 兄貴に歓喜
県大会最終日を翌日に控えた土曜日、FC川越のトップチームの練習場所はちょっとした賑わいを見せていた。理由は遼そっくりの高校生が突然練習に参加してきたからである。
名前は甲本翔、お察しの通り遼の兄貴だ。彼はFC川越のOBで、現在は明和南高校サッカー部で二年生ながら正ゴールキーパーを務めている、バリバリの現役プレーヤーだ。
練習が始まる前、翔は遼の友達らと一緒にリフティングをしている。チビッ子たちの輪の中心に彼はおり、得意気になって華麗な足技を披露していた。
軸足でボールを擦って上げて、更にそれをヒールで高く上げる。そした落下点を見極めて、落ちてくるボールを背中を屈めて首の裏でキャッチした。チビッ子たちはそれに拍手喝采し、翔は「翔くんすげー!」という歓声を浴びて、ちょっとしたドヤ顔を決めている。
翔は卒団してからも時間を見つけてはたまに練習に顔を出しているので、現在の所属選手やコーチたちからもちゃんと顔を覚えられている。だからこうして何の前触れもなく練習に参加しにきたとしても、すぐに溶け込むことができるのだ。
竹下監督は目を細目ながら、その様子を遠巻きに見ていた。
やはり遼の兄貴だな。キーパーとは思えないほど足元の技術がしっかりしている。そしてキーパーだが、遼と同じく身長はそれほど高く無いんだな。これで身長が180センチ以上あったなら、あらゆるユースからスカウトが来て引く手あまたになっていただろうな……。
「竹ちゃん、もうそろそろ9時になるよ」
ボーッと考え事をしていると、隣に立っている薄い白髪頭の年配のコーチから声を掛けられた。
「あ、ほんとだ。ありがとうございます松さん。みんな集合!」
竹下監督は2、3度手を叩きながら大きな声でそう言うと、選手たちがパラパラと走って来て、竹下監督の前に大きな半円を作った。その中には一人高校生も混ざっている。
「おし、明日はいよいよ準決勝と決勝だからな。明日絶対勝つために、お前ら今日の練習から気合い入れていけよ!」
「はい!」
「おし、んじゃいつも通りブラジル体操からアップを始めろ」
「はい!」
竹下監督の問いに、選手たちは相変わらずの大きな声で返事を返した。そして彼らはウォーミングアップのためにまたもパラパラと走っていった。
◇
「翔、今日は部活無いのか? プリンスリーグもインハイ予選も真っ只中だろう?」
練習が始まり、ウォーミングアップをしている選手たちの横でスパイクの紐を結んでいると、竹下監督の隣にいる年配のコーチ・松本武志が話しかけてきた。
「はい、ほんとは今日は午前練なんですけど……この前の試合で手首を捻挫しちまったんです」
翔はゆっくりとぎこちなく紐を結び終えて立ち上がると、右手首に巻かれている包帯を見せながら気まずそうに言った。
「……それは残念だな。だが部活の方に顔出さなくていいのか? 走り込みとかウエイトトレーニングとかできることはあるだろう」
「いや、それなら問題ないっす。医者に行くから今日は休みますって監督に連絡しておきましたから」
それを聞いた松本コーチは腕組みをして軽く溜め息をついた。
「サボりは良くないぞ、まったく……」
「いやサボりじゃないですよ! 土曜は午前中しか医者がやってないから仕方ないんです。それに休んでいても身体を動かさないといけないから、こうして久々にここに来たんですよ」
松本コーチは「そうか」と言って複雑な表情を作った。
彼はかつて翔の代のコーチも務めていたので、翔のことはよく知っている。翔は小学生の頃練習をサボる癖があったので、コーチはそのことを心配していたのだ。
「んで、最近サッカー部はどうだ? 今年は全国行けそうか?」
白髪のおじいさんの横から、小さいおっさんがひょこっと顔を出して聞いてきた。
「調子いいですよ。プリンスは今のところ4位で、今年は頑張れば関東一部に昇格できそうですね。ただインハイの方は……星峰がいるからわかんないっすね……」
「ああそうか、星峰がいるのか……」
星峰とは私立星峰学園高等学校のことである。星峰はU-18日本代表候補を二人も抱えている強豪で、去年は夏のインターハイと冬の選手権のどちらの県予選も制覇したのだ。
県立の明南は近年星峰ら私立の強豪に押され、ここ3年間は夏も冬も全国から遠ざかってしまっている。
「でも頑張りますよ。明日あいつらだって強敵と戦うんですから、兄貴の俺がやる前からビビってたらカッコ悪いですからね」
「おお、その意気だ。頼むぞ、久々に明南を全国に連れて行ってくれ」
「はい」
元プロのOBである竹下監督に肩を叩かれて、翔は少しはにかんだ表情を作った。
選手たちはアップが終わり、監督やコーチの指示の元に練習を始める。
利樹は翔と一緒にキーパー練習をするのを楽しみにしていたようだが、怪我でできないと聞いて残念そうにしていた。だが実技は無理だがアドバイスはできると聞いて、利樹たちキーパー陣は翔を引き連れながら嬉しそうにキーパー練習をする場所へと向かって行った。
遼たちフィールドプレーヤーは、一辺が8メートルのエリアの中で3対1のパス回しをすることから始まった。竹下監督も人数が足りていないところに混ざってやっている。
みんな狭いエリアの中で、ラボーナやルーレットパスといった遊び心満載のテクニックを駆使したりしながら、運命の一戦の前とは思えないようなリラックスした雰囲気のなかで決戦の前の最後の練習は行われていった。
◇
「やっぱフィールドは疲れるな」
「嘘つけ、いくらキーパーとはいえ現役の高校生が小学生の紅白戦でへばるはずないだろ」
校庭の脇にある大きな木の下で、木陰を利用して日光を避けつつチビッ子たちの試合見ながら呟くと、松本コーチからすかさず突っ込みを頂いた。
現在は今日の練習最後のメ二ューである紅白戦が行われている。40人ほどの選手たちを4チームに分けて、人数が足りないところに竹下監督らスタッフや翔が入ってやっているのだ。ちなみに翔はほとんど息を乱してなんかおらず、対照的に松本コーチは汗だくになりながら荒い息をしていた。
「いやあ……みんな上手いっすね」
翔は、遼に似た大きな目を細めながら選手たちの動きを追っている。その言葉は翔の本音を表した物で、決して選手たちを持ち上げるための物ではなかった。
「こいつらなら全国行けると思うか?」
「行けるんじゃないですかね……レッズやアルディージャがどんなものかは知らないですけど、このチームで勝てないんなら、Jのジュニアは相当なチートってことになっちゃいますよ」
「そうか」
そう言うと、竹下監督がピッチの卵たちに向けている視線が少し柔らかくなったように見えた。
本当にそう思う。
翔の代のFC川越は、県大会を勝ち抜き全国大会へ出場した。チームには力のある選手が大勢いて、その中には現在U-17 の代表候補になっている奴もいる。
だが、おそらく今の代はそれよりも強い。竹下監督の代も全国へ行ったと聞いているが、その時よりも強いのではないだろうか。
「よし、次ぎはAチーム対Dチームだ。Bチームの人たちは隣のコートでCチームと試合な」
翔がそう考えを巡らせていると、竹下監督が笛を吹きチームの交代を告げた。
翔のいるチームはDチームで、ABCの3チームに分けて余った選手たちに、翔やスタッフたちを加えて構成されているチームだ。対するAチームはレギュラー組の選手たちで構成されているチームで、遼はそのチームにいる。
遼や光たちはニヤニヤしながら翔の方を見ている。翔はそれを見て自分も笑い返し、キックオフに備えて自分のポジションへ移動して行った。
そして自らもゲームに参戦している竹下監督がピステのポケットから笛を取り出し、試合開始を告げるホイッスルを鳴らし、ゲームが始まった。
◇
海が軽く触れたボールを遼が優磨に落とし、そこからAチームのテンポの良いパス回しが展開していった。
相手フォワードのプレスを回避しながら、ディフェンスラインと中盤で横パスと縦パスを繰り返し、徐々に相手を敵陣に押し込むようにビルドアップをしていく。
そして前線の3人は相手のディフェンスラインに穴を開けようと動き回り、二列目の選手たちも前線にパスを送る機会を虎視眈々と狙っている。
そして遼が中央から左サイドに流れた時にディフェンスが遼に釣られ、中央に少しだけスペースが空いた。優磨はそれを見逃さず、速いゴロのパスをそこに送る。
海が左サイドから走り込んで来て後ろを向いたままそれをトラップした。そしてすかさず前を向いてシュートを打とうとする。
だがトラップした刹那、背後にピタリと張り付くような圧力を受けて海は前を向くことができなかった。
海より2、3センチだけ背の高い大人が海のマークに付いている。
海は持ち前のフィジカルを生かして、強引に前を向こうとしたが、マークが厳しくてそれはできなかった。
当然だ。いくら30過ぎたおっさんとはいえ竹下監督は元プロだし、フィジカルが優れていると言ってもまだ小学生の海とでは明らかに勝負は見えていた。
だが竹下監督はもちろん本気で身体を当てには行っていない。それどころか後ろで手を後ろで組みながら、笑みさえ浮かべているのだ。
大人相手にフィジカルで勝負しちゃだめだろ……俺ならあのくらいのマーク、簡単に突破できるのに……。
遼は溜め息を付きながら海を見ていた。
海は時間を掛け過ぎたせいで敵に囲まれる。やっと強引な突破を諦めた海は、無理矢理ディフェンスの間にパスを通してそれを回避した。
優磨は質の悪いライナーのパスを事も無げにトラップすると、海にディフェンスが引き付けられたお陰でマークが緩くなっている遼にパスを出した。
遼はそのパスを、ドリブル開始時に一歩目で加速できるような場所に正確にコントロールした。
そして一歩目で加速し、二歩目でトップスピードに乗る。
松本コーチが止めようと立ちはだかってきたが、上体をぶらすフェイントであっさりとかわしバイタルエリアに突っ込んで行った。そして右足のアウトサイドでカットインし、ゴールに向けて更にドリブルで進もうとすると目の前に翔が立ちはだかってきた。
遼は一旦スピードを緩め、もう一度右足で中に切れ込む素振りを見せた後、左足のアウトサイドで外に切り返して抜こうとする。
その切り返しは剃刀のように鋭かったが、翔は平然とそれに付いてきた。
同学年の選手が相手なら、急激な切り返しと圧倒的な加速力でぶっちぎれただろう。だが相手は高校生だ。しかも県大会ベスト4に進出するほどのチームの正ゴールキーパー、敏捷性で勝てる訳がない。
竹下監督と同じく余裕を見せながらプレーしている兄貴に、遼は言い様もないほどの憤怒を感じた。
くそっ、絶対に抜いてやる!!
遼はムキになり、あらゆるフェイントを駆使しながら突破を試みようとする。だがボールこそ失わないものの抜くことができず、遼は徐々にゴールから遠ざけられてしまった。
「よくぞ遅らせた翔! 挟み撃ちでボールを奪うぞ!」
手間取っている間に、顔をりんごの様に真っ赤にした松本コーチが迫って来た。
――よし、チャンスだ!
遼は数的不利になったのにも関わらずほくそ笑んだ。
なぜ遼が笑ったのか。それは、ドリブラーにとってディフェンスとの1対2というのは、1対1よりも突破し易い場合があるからである。数的有利になったことでディフェンスに安心感が生まれ、連係がちぐはぐになることがあだ。
それは、ディフェンス同士の実力に差があるほど顕著になる。……松本コーチには少し申し訳ないが。
遼は左足の裏でボールを舐めると右足で内側に跨ぎ、そのまま右足でエラシコを仕掛けた。
逆足でエラシコかよ! こいつ……うまくなったなあ。
翔は笑った。これは遼に対する余裕を見せるための物ではなかった。
あ、松さん! それはフェイントだろ! 簡単に引っ掛かるなよ……
遼のエラシコに松本コーチが引っ掛かり、バランスを崩した松本コーチと翔との間にギャップができる。
遼はしめた、とでも言わんばかりにそのギャップにボールを通そうとした。
翔は慌ててそれを塞ぎにかかる。だが遼は右足の裏で舐めて方向を変え、翔とゴールラインとの間にできたスペースを突破しようとした。
だがまだ翔は食らいついてくる。なんつーステップワークの速さだよ。普通なら絶対振り切れてるって。
そのコースを翔が塞ぎ、さらに松本コーチも体勢を立て直して、みんなが万事休すだと思ったその時だ。
遼は右足の裏で舐めたボールを、左足で素早くラボーナ気味に蹴った。
「マジかよ!」
そのボールは翔の股間を通過していく。完全に虚を突かれた翔は、まったく反応できなかった。
そしてその時、翔はまた笑った。
◇
遼はまた加速して、ゴールに向かってドリブルを始めた。
大事な試合でゴールを決めた訳ではない。たかがドリブルで一人かわしただけなのに、全身に歓喜が溢れて押さえきれない。全身を震わせて、こう思いっ切り叫びたかった。
生まれて初めて、兄貴を抜くことができたんだ!!