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僕の忘れられない思い出

 任せてよと言いながら、正直なところ、僕は困っていた。

 事情のわからない僕は、天谷さんの父親を、どう扱っていいのかわからないのだ。ただの痩せ男ならば、追い払って終わりだけれど、そうはいきそうにもない。そして、目の前の男が、あまり言葉の通じない手合いだということも、残念ながらわかっているのだ。

 僕には、天谷さんたちが気付いていない。もう一つのものが見えていた。

 それは、天谷さんの父親にとり憑いた悪魔。

 見た目は生まれたばかりの毛のないネズミのようだ。のっぺりとした皮膚感が、結構気持ち悪い。それが小さな家ぐらいの大きさでとり憑いていると、尚更に。

 僕からしたら、よく立っていられるなと、天谷さんの父親に、変な感心をしてしまいそうになる。

 どんだけ悪魔を育んでいるんだという話だ。

 この人の悪意が歯止めもなく開放されれば、罪悪感など持たずに、人を殺してしまうだろう。それほどまでに、天谷さんの父親の悪意は、膨れ上がっている。

 それならば、悪魔を取り除けば良いということになるわけだけれど……。

 僕は退治できるかと尋ねるように、梅子を見る。

「正直なところ、ここまで大きくなった悪魔と戦ったことはない。けれど、あの悪魔を倒すことは、天谷という女を助けるのには必要なのだろう? ならば、やるだけさ」

 梅子は気負う様子もなく、どこからか取り出した梅の木を、刀のように構えて見せる。

「……ごめん、梅子」

 僕は、梅子の頼みを何一つ果たせずにいるのに、好きな人のために、危険な頼みをしている。

 それが申し訳なくて仕方なかった。けれど、残念ながら僕に戦う力はなく、悪魔を倒せるのは梅子だけだ。頼らざるを得ない。

「ちぃ。認識をしたら、できるだけ遠くに。守っている余裕はないから」

「……ああ、わかっている」

「さっきから、何をぶつぶつと」

 天谷さんの父親は、苛立たしげな顔をする。見ず知らずの少年に、娘との会話を邪魔され、更には、娘は少年に助けて欲しいとまで言ったのだ。機嫌が良いわけがないだろう。

「あなたには悪いけれど、僕は守ると約束したからね」

 僕はそう言って、意識を持っていく。

 悪魔を認識することに、本能的な恐怖が湧きたつ。

 けれど、僕は認識していく。

 悪魔の足を。

 悪魔の腕を。

 悪魔の体を。

 悪魔の耳、悪魔の口、そして、悪魔の目。

 段々と、現実感を増していく悪魔。

 家のように大きな悪魔は、認識したことで、恐ろしいほどの圧迫感が増していく。

「逃げなさい、ちぃ」

 梅子の言葉に、僕は慌てて後ろに下がる。

 すると、先ほどまで僕の居たところに、ネズミの頭があった。巨体からは信じられない速さで、噛みついて来ていたのだ。

「天谷さん。危ないから、離れるよ」

 僕はそう言って、距離を取ろうとする。

「あ、おい、待て」

 天谷さんの父親が追って来ようとするが、梅子が悪魔を梅の枝で切り離した瞬間、意識を失ったように、ぐったりと倒れる。

 あれだけ悪魔を育てていたのだ。心の奥深くまで、巣食われていたのだろう。とり憑かれて数日の天谷さんならともかく、何年も居座られた天谷さんの父親ならば、引き裂かれたことで、多大な精神的なショックを受けてしまうことだろう。

「あれは、どうなったの?」

「悪魔が離れて、気絶したんだ」

「あの人も、悪魔にとり憑かれていた?」

「悪魔は、人の悪意にもとり憑くからね。たぶん、天谷さんのお父さんには、悪意があったんだ」

「……それは、わかっていたことだよ」

 天谷さんは、諦めたような暗い顔で言った。

「……そっか」

 天谷さんはたぶん、父親によって酷い目に遭わされたのだろう。だから、男性恐怖症になったのかもしれない。

 それは、許せるものではなかった。

 悪魔のせいで、悪意はエスカレートしたのかもしれない。誰もが聖人君子でもないし、悪意はあるものだ。でも、行動さえしなければ、とり憑くこともなかったのだ。つまり、最初に天谷さんを傷付けたのは、どうしたところで、天谷さんの父親の意思なのだ。

 僕は梅子と悪魔の戦いが見えながらも、戦いに巻き込まれないで済みそうなところまで距離を取って立ち止まる。正直なところ、悪魔が本気でこちらに襲いかかってきたら、僕は逃げられないだろう。それでも、梅子を残して、完全に逃げたくはなかったのだ。これは、僕の最後の意地だ。

「お父さんの悪魔は、退治できたの?」

「いや。仲間が今、退治しようとしているんだ。でも、天谷さんのお父さんにとり憑いた悪魔は、今まで見たこともないほど、大きくなってしまっていて、てこずっているんだ」

 梅子の方を見れば、彼女は必死に戦っている。けれど、梅の一撃は、悪魔の体を少ししか傷つけず、逆に、悪魔の一撃は、梅子を軽々と吹き飛ばす。助けたいけれど、……僕には、梅子の勝利を願うことしかできない。自分の無力さが、嫌になる。

「そう。……もし、悪魔が退治されれば、あの人は、普通の父親に戻るの?」

「……いや。悪魔は悪意を大きくするだけだから、少しましになるだけで、心は変わらないんだよ。結局のところ、自分の心を治せるのは、自分だけなんだよ」

 本当に変わるには、とり憑いた悪魔を他人に取り除いてもらうのではなく、自分で取り除けるだけの強い意志が必要なのだ。

「そっか。そうだね。悪魔がいなくなっても、私の根本は変わらない。心を強く持たなくちゃってことだね」

 天谷さんは、僕の言葉を素直に受け入れる。それが、不思議だった。

「天谷さんは、僕の言うことを信じるの?」

「まぁ……ね。私はたぶん、ちぃくんに悪魔を退治してもらうのは二度目なんだよ。……覚えていない? 七年前の病院の屋上のこと」

 七年前ということは、九つの頃だ。僕の記憶が不明瞭な時期は、六歳から十三歳までの間なので、残念ながら覚えていない。

 僕は、天谷さんと出会っていたのだろうか?」

「ごめん。僕は、記憶の多くを忘れているんだ。良かったら、その時のことを教えてもらえないかな」

「えっと、ん。良いよ」

 頷いて話してくれたのは、ある男の子が、僕と同じように悪魔を取り除いたということだった。そこまでだったなら、確かに僕だったのかもしれないと思える。けれど、天谷さんは最後に言ったのだ。男の子は目の前で消えたのだと。

「男の子は、本当に消えたの?」

「うん。薄らと、……そういえば、誰かと手を繋ぐように」

 僕に消えるだなんて力はない。僕の力はただ、人外を認識するだけ。そのはずだった。

 けれど、本当にそうなのだろうか?

 さっきから、わけのわからない違和感を覚える。

 思い出そうとするときに湧き上がる恐怖が、同じように僕を責め立てて、真実から逸らそうとしてくる。

 僕は何かを忘れている?

 僕は、恐怖と向き合おうとする。

 梅子が、命を懸けて戦っている。それなのに、実態のない恐怖に、逃げるわけにはいかない。少なくとも昔の僕は、天谷さんに強くならないといけないなんて、偉そうなことを言ったのだ。

 なら、今の僕だって、強くならなくちゃ駄目だ。

 意地を支えに、拒絶してきた思索を続ける。

 そして、僕は一つのことに気付く。

 それは自らの記憶の違和感だ。

 僕の記憶の不明瞭なのは、悪魔を退治された時にその姿形を覚えていられなくなってしまうのと同じように、梅子を失ったことで、彼女の記憶を保てなくなったからだと思っていた。

 けれどそれならば、梅子の姿形や彼女と話していた記憶は失われたとしても、悪魔から受けた恐怖や悪魔がいたという事実を覚えていられるように、梅子への感情や彼女と過ごしたという事実を覚えているはずだ。

 僕はそれすらも忘れてしまっている。

 ……いや、違う。

 ふと思い浮かんだ。

 忘れてしまったのではなく、自分から忘れたのだ。

 あまりに悲しくて、恐ろしかったから、記憶の奥底に沈めこんだのだ。梅子との記憶を。

 僕は、記憶の奥底に手を伸ばす。

 その手の先に、僕の手を掴もうとする手がある。それは、梅子の手だ。かつて、僕と一緒に過ごしてくれた、彼女の手。僕の最愛の友にして、相棒の……。

 涙があふれ出す。

 僕はすべてを思い出した。

「ちぃくん?」

 心配そうな顔をする天谷さんに、僕は泣きながら笑みを浮かべる。

「……ありがとう、天谷さん。僕は全部、思い出したよ」

「全部?」

「うん。僕が、正義の味方の真似事をして、悪魔退治をしていた時のことを……ね。病院の屋上で、全身怪我だらけの泣いている女の子。あれは、天谷さんだったんだね?」

 僕は、当時のことを思い出す。屋上で出会った、天谷さんのことを。

 あの頃の僕は、天谷さんを救えたのだろうか?

 悪魔にとり憑かれる部分は、人にとって見られたくない暗部でもある。

 今振り返れば、当時の僕は正義感ばかり強く、正しいと思って人の触れられたくないことに首を突っ込んでは迷惑をかけ、周りには心配させてばかりだった。

 本当にただの、正義の味方の真似事でしかない。

 嫌になる。自らの愚かさが。

 僕が賢ければ、梅子を失うことはなかったかもしれない。

「……そう。やっぱりあれは、ちぃくんだったんだね。……ちぃくん。ちぃくんは、正義の味方の真似事って言ったけれど、私にとって、あの時のちぃくんは、正義の味方だったよ」

 天谷さんは笑みを浮かべてそう言ってくれた。

 僕はなんだか、救われた気がする。

「あはは、……ありがとう。……そっか。あの頃の僕は、ちゃんと、人を救えてもいたんだね。……あの後、僕はとても酷い目にあったんだ。本当に大切な友達を、僕のせいでなくしてしまった。だから僕は、全てを忘れたいと思った。覚えているのが怖いから。覚えているのが悲しいから。……でも、友達は今も戦っている。そして、忘れたままじゃ助けることもできない。……だから、僕は行くよ。今度こそ、友達を助けるために」

「うん。……ちぃくん。さっき、あの頃のちぃくんはって言ったけれど、今のちぃくんも、正義の味方だと思うよ」

 天谷さんはにっこりと笑みを浮かべて、元気づけてくれる。彼女の心遣いが本当に有難かった。

 僕は、恐怖に竦む足に力を込め、天谷さんの励ましを背に、梅子のもとへと向かう。

「ちぃくん。戻ってきたら、君の過去の話を教えてね! 私はちゃんと、信じるから」

 嬉しさで、人はこんなに泣けるものだとは、思わなかった。

 人に見えないものを語る僕の言葉は、幻覚、妄想、そして嘘。そんな風に思われる。

 誰一人として、僕の言葉を信じてくれる人はいなかった。

 たった一人の理解者。

 それがどれだけ、僕の心を救ってくれることか。

 僕は心から思う。天谷さんを好きになって良かったと。

「梅子! 僕の手を握って」

 そう叫ぶと、悪魔と戦っていた梅子は驚いたような顔をして、僕のもとへと飛んでくる。彼女の慌てた顔から見るに、僕を逃がそうとしているのかもしれない。けれど、違うのだ。僕は戦いに来た。

 梅子が僕の手を握った瞬間、僕は目を閉じて、彼女にすべてを合わせる。そして僕は、僕の世界から外れた。



 目を開けると、そこは世界と世界の狭間。まだ、僕のいた世界が近いため、周りの景色は、先ほどまでいた住宅街と大して変わらない。良く見れば、他の世界の風景も混ざっているけれど、九割ぐらいは、僕の世界のままだ。

「これは?」

 梅子が戸惑ったように言う。僕が、梅子と同じ世界に居ることに、驚いているのだろう。

 僕の能力は、認識することによって、人外の存在を、僕の世界に近寄らせること。そして、これはその逆。僕の方から、梅子の世界に近寄ることによって、僕の世界の認識から外れたのだ。

 これをすると、元の世界に戻れないという可能性が付きまとうけれど、自分の存在さえ見失わなければ、戻ることはできないわけじゃない。そう、……規格外の化け物にでも遭遇して、精神をやられない限りは。

 この世界では、僕の世界のような、物理的な法則はほとんどなく、精神が全ての強さとなる。

 だから、ここならば僕は、悪魔とだって戦える。

「僕は思い出したんだよ。僕は昔、梅子と一緒に、こうやって戦っていたんだ」

 梅子は驚いた顔をして、そして、嬉しそうに笑う。

「そうか。ちぃの中に、昔の私がいるのだな」

「うん、そうだよ」

 僕は梅子のように、精神力でものを作り出す。それは、梅子の梅の枝。刀をイメージしたはずなのに、そうなったのは、僕の中にいる梅子のためだろう。

 かつての梅子は、存在を保てなくなっても、常に僕の周囲に居てくれたのだ。ただ僕が、恐怖から目を逸らし、気づけずにいただけ。

 あんなに怖がっていたはずなのに、いざこの世界にくれば浮かび上がるのは郷愁ばかり。

 あまりに、この世界で過ごした時間はとても長かったのだ。

 梅子との出会いは、両親が事故でなくなり、人外が見えるようになってすぐのことだった。

 当時の僕には、人外に対する知識もなく、何が危険なのかもわからなかった。それ故に、不用意に悪魔に触れたこともある。そして本当に危険な目に遭ったこともある。梅子は、そんな時に助けてくれたのだ。

 それからずっと、僕は梅子とともに居た。

 その時間だけを見れば、誰よりも長かったかもしれない。何よりも、梅子だけだったのだ。僕が見る人外のことを分かってくれるのは、人外である梅子しかいなかった。唯一の理解者だった。

 姉さんは高校の寮生活のために、あまり会うことはできず、児童福祉施設では嘘吐きとして孤立していた僕にとって、特にその思いは強かった。

 僕にとって、梅子は家族のように大切な存在で、もう一人の姉だった。

 だから、もう二度と、失いたくない。

 例え恐怖があろうと、その思いを持って、僕は悪魔と戦おうとする。

 巨大な悪魔は、僕も敵と認識して、押し潰さんと、体当たりをかましてくる。

 その動きは本当に速いけれど、今の僕ならなんとか知覚できる。

 梅の枝でなんとか防ごうとする。けれど、さすがに巨大な悪魔だけあって、簡単に吹き飛ばされる。狭間の世界では、塀や家に触れることなく突き抜けていくので、打ちつけるようなことはないけれど、防ぎきれなかった衝撃に、体中が痛む。

「大丈夫か、ちぃ」

「超痛いけれど、なんとかね。久しぶりの悪魔退治なのに、強過ぎないか」

 僕としては、取り戻した力を持って、格好良く悪魔退治を行いたいのだけれど、そうはなってくれそうにない。せっかく、梅子を守るんだと頑張っているんだから、花を持たせてほしい。……いや、梅の花は持っているけれど。

 ……まぁ、そんなことを言ったところで、悪魔が話を聞いてくれることはないだろう。だから、できることをするだけだ。

 防ぎきれないとわかったので、できるだけ避けるようにし、なんとか隙をついては、切りかかる。……しかし、その攻撃にしても、体表を傷つけているのがやっとだ。痛みに吠え声を上げるのだけれど、あまり効いている気がしない。この途方のなさを例えるのならあれだね。一万以上のヒットポイントのあるボスに、こっちの攻撃は十しか効いていない的な感じ。

 こちらは梅子と二人がかりなので、梅子が一人で戦っていた時よりも、片方が防御に回れる分、遥かに攻撃の機会は増えているというのに、消耗は明らかにこちらの方が上だし。

 けれど、僕らの戦いには、華々しい必殺技があるわけでもなく、例えるのなら、すべての攻撃が必殺のための一撃なのだ。それが通じないとなると、根気よく攻撃を仕掛け、ひたすら削っていくしかない。けれど、その持久戦も危うい兆ししか見せない。

「……まずいね」

 つい、弱音が出てしまう。じわじわと、絶望的な気持ちが湧き起こる。それでも、諦めるわけにはいかない。そして、諦める気もない。

 僕は、もっと大きな絶望を知っている。

 この世界の狭間のどこかに、今もいるであろう最大最悪の悪魔。世界を喰らう邪悪なる悪魔の王。

 かつて、僕と梅子は、その存在を目の当たりにした。そのひと睨みだけで、恐怖に身動きが取れず、何もできずに梅子を殺されてしまった。そして、今も、刺し貫かれた傷跡が、僕のお腹と背中に残っている。

 僕が生きているのは、奇跡と言って良い。

 梅子を殺された悲しみと、殺されそうな恐怖から逃れるために、僕は記憶の奥底に封じ込めたのだ。それによって偶然、認識を外すことができ、重傷を負っただけで済んだ。

 今だって、いつあいつが現れるかと思うと、怖くて怖くて仕方がないくらいだ。

 あの時の圧倒的な力の差と、絶望感に比べれば、今の絶望感なんて屁でもない。

 僕は、思考を巡らせる。

 少しずつとはいえ、攻撃は効いているのだ。活路は必ずあるはずだ。

 攻撃を一点に集中させて、相手の防御をなんとか打ち破るとか、方法は色々とあるはずだ。……まぁ、さっきから試しているんだけれど、同じところを攻撃するのは、難しいとわかっただけだった。

 そして、僕はあることを思いつく。

「……というか、梅子。ここは逃げるって言うのは、どうだろうか?」

「何を言っているんだ、ちぃ。あの悪魔を野放しにするのは危険だ」

「そうなんだけど、僕としては天谷さんの父親から引き離せた時点で、目的達成なんだよ。簡単に倒せるんならまだしも、このままだと、僕らは二人とも殺されてしまう可能性が高い。……梅子は言っただろう? 無茶はしないって」

 梅子は考え、迷うような顔をする。けれど、手ごたえのある一撃を決めても、あまり効いていないことを実感しているようで、仕方なさそうに頷く。

「わかった。けれど、逃げるにしても危険だ。何か、方法があるのか?」

 人外から逃げるには、相手の視界から消えるだけではダメだ。人外は、人が持つ精神の波長のようなものを感じ取り、どこまでも追ってくることができる。梅子が、成長した僕のもとへとやってこれたのも、そのためだ。

 悪魔にとっては長年の住処を追い出され、更には傷付けられたのだ。その恨みは強く、どこまでも追ってくることだろう。

 それでも、認識したり、とり憑かれるような隙さえ見せなければ、勝手に諦めて消えてくれるのだけれど、一度した認識を消すのは、とても難しい。

記憶をなくしていた頃ならともかく、今はしっかりと理解している。逃げ切ることの難しさを。

「ん。でも、逃げられないわけでもないさ」

 肩をすくめてそう言うと、僕は梅子に近づいて彼女の手を握る。そして、僕の世界からさらに離れていく。

 僕の認識能力はある意味、人外や悪魔よりも上を行く。故に、悪魔の認識できない世界に逃げ込めば、悪魔は僕の波長も感じ取ることもできなくなり、僕を見失ってくれるはずだ。

「梅子。集中するからその間、僕を守ってほしい」

「任された」

 梅子はそういうと、梅の枝から花びらを大量に放つ。

 まるで、花吹雪のようで美しい。けれど、効果は高かったようで、悪魔の体に花びらが纏わりつき、嫌そうに身を捩じらせている。

 僕は、異世界を渡る。

 周りの景色が一変した。未だに世界と世界の狭間でしかないけれど、住宅街の風景はどこにもなく、むしろ、砂に覆われた世界。砂漠のように見えるが、空は紫がかり、砂は赤い。僕の世界ではありえない色合いに、気持ち悪さを感じる。砂の上を歩く影のように真っ黒な存在。あまり、良い世界には見えなかった。

 先ほどまで戦っていた悪魔の姿はないけれど、すぐに追いかけてくるだろう。

「梅子。次の世界に行くよ」

「ああ。……ちぃには、目的の場所があるのか?」

「まぁね。逃げるって言ったのは、実は嘘なのさ」

「嘘?」

「そう。ある世界に行けば、悪魔を倒す方法がある。だから、そこまで、悪魔について来てもらうための、嘘だよ」

 悪魔は決して無知ではない。長い時間とり憑いていれば人の言葉だって理解してしまう。倒すために移動すると言えば、一度引かれて、後日襲いかかってくる可能性がある。だから僕は、逃げると言って、悪魔を誘き寄せようとしたのだ。確かに逃げようという考えがなかったわけではない。けれど、あの悪魔をそのまま放置すれば、波長を覚えている天谷さんのお父さんに、またとり憑く危険性があるのだ。なら、できる限り倒したい。

「……そうか。けれど、悪魔を倒せる世界とは、どこのことだ?」

「それは……来た」

 悪魔が世界を渡って僕らと同じ世界に実体化していく。

 僕は、それを見届ける前に、他の世界へと行く。

 岩だらけの地。水の中。火が噴き出す大地。完全なる闇の世界。美しい草原。

 世界がどんなに重なり合うように存在していようと、その間には明確な壁がある。正面からどんなに重なって見えようと、横から見ればばらばらなのだ。それがもっと高次元で粉割れているような状態なのだ。端から端に、一瞬で行けないように、目的の世界に行くには、その間の世界をいくつも渡らなければいけない。そして、渡るために最も障害になるのが、世界を隔てる壁だ。普段ならば、休み休み移動するので、疲れはするけれど、たいした障害だとは思っていなかった。けれど、連続的に越えようとするとわかる。物凄い負担を強いてくる。

 体が重苦しくなっていく。狭間の世界では呼吸を必要としないのに、長年の習慣からか、少しでも苦しみを逃そうと呼吸を喘がすのだけれど、全く楽になる気配がない。

「ちぃ、大丈夫か。私の負担まで背負っているだろう? 休んだ方が良い。このままだと、自分の世界に帰れなくなるぞ」

 梅子が気遣って提案してくれる。けれど、僕が休んだ分だけ、僕を守るため、梅子が危険にさらされるということだ。そして、悪魔を倒すためには、彼女の力は必要不可欠でもある。だから僕は、首を横に振る。

「大丈夫だよ。……それに、目的の世界まで、後もう少しなんだ。もう一回渡れば、着くはずなんだ」

 梅子の波長と、渡るべき世界の波長を感じとりながら、僕は言った。

「……さっきから、ちぃはどこに行こうとしているんだ」

 彼女が心配そうに聞いてくるけれど、答えている暇はない。悪魔が近付いてきているのだ。

 それに、着けばわかるはずなのだ。梅子自身が何をすべきかを。

 そして、渡り終えたその世界で、僕は疲れも忘れ、魅入ってしまう。

「そうか。確かにここならば私は本気を出せる。それに、仲間だっている」

 嬉しそうに言う梅子。

 それもそのはずだ。

 ここは、彼女にとって本来居るべき場所。

 梅子の生まれた世界だ。

 そして、僕は驚きとともに、この世界を見ていた。

 僕の記憶と被るのだ。

 梅子と出会う前、夢だと思っていた風景。

 水に満たされた地面。規則正しく並び立つ、咲き乱れる木々。そして、地平線の向こうに見える空まで上る大きな木。

 幻想的で神秘的な、恋い焦がれた世界。

 それは、梅子の世界だったのか。

 思ってみれば、梅子と出会ってから、彼女の世界に行ったことはなかった。

 探しものは、思った以上に近くにあったのだ。

 僕の握った手を通じて、梅子の存在感が増していくのを感じる。多くの木々の中のどこかに存在する、梅子の本体である梅の木から、力を送ってもらっているのだろう。彼女から伝わる力に、僕の疲労も癒されていくような気がした。

 僕はそっと、僕の中にあった梅子の欠片を、彼女に返す。

 すると、梅子は驚いたように、僕の顔を見つめてくる。そして、僕のことを優しく抱きしめてくれた。

 梅子の柔らかさと温かさ、そして、梅の香りが伝わってくる。

「ちぃ。すべてを思い出すことができた。大好きだ、ちぃ」

「僕もだよ、梅子」

 僕はそう答えながら、力を使い切った僕は、安心して意識を失った。


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