幼き僕の家
「ん? いつも描いている絵と、違うわねぇ」
美術室で絵を描いていると、後ろから覗きこんだ南部長が、物珍しそうに言ってくる。
「部長。それだとまるで、僕が他の絵を描いていないみたいじゃないですか。練習として、他の絵だって描きますよ」
「まぁ、そうかもしれないけれど、そこまで力を入れないでしょ」
「……力入れているように見えます?」
「見えるわねぇ。練習のときならもっと、ちぃの色の塗り方は雑よ。色合いの実験をしているだけだから」
驚きだ。まさにその通りだった。何気にこの人、僕の絵を、ちゃんと見ていてくれているようだ。
「なんだか、初めて部長が、部長らしく見えました」
「そうか。……なんだか私、馬鹿にされていない?」
引き攣ったような笑みを浮かべながら、部長の手が肩に置かれる。
「……そんなことはないですよ」
「なんで少し考えた」
そう言って肩に置いていた手を握りこむ部長。信じられないほど強い。
「痛い。マジで痛いです。なんですその握力は? ゴリラですか?」
「ったく、こんな可愛い先輩に、よりによってゴリラってのは、本当に失礼だねぇ、ちぃは」
呆れたような溜息を吐いて、後頭部を殴られた。こつんという可愛らしくも軽いものだったのだけれど、手首のスナップがアホみたいに効いていて、地味にめちゃくちゃ痛かった。
「描いているのは、夕日に照らされた教室の絵かな?」
「ええ。この前、部活終わりに教室に行ったら、とても綺麗だったんですよ」
「ふぅん。……綺麗だったのは、ここにいる女の子じゃなくて?」
絵の中に描かれている女子生徒を指差し、ニヤニヤとした笑みを浮かべてくる。
「……まぁ、否定はしませんよ」
僕は不貞腐れたように答えて、あの時の光景を思い出す。
おそらく、あの時に僕は、天谷さんを好きになったのだと思う。
あそこまで、絵にしたいと思った光景は、世界樹の風景以来。なので、早速描き始めているのだけれど、世界樹の記憶よりも、すでに曖昧にしか思い出せない。でも、世界樹の風景に比べれば、現実的な風景なので、描き始めれば思ったより上手く描ける。
なんと言うか、世界樹の風景を描くと、どうしても煮詰まってしまうので、上手く描けているという感覚が楽しくもあった。
「……なぁ、梅子。聞いていいか?」
僕は部長が離れたことを確認してから、隣で絵を覗き込んでくる梅子に、小声で話しかける。他の部員達は、友達同士で話したり、鼻歌を歌っていたりと、様々な態度で描いている。なので美術室は、決して静かなわけでもないので、小声で話す分には特に目立つこともない。
「聞きたいこととは何だ?」
「うん。家で会ったとき、梅子は僕に、頼みがあるって言ってた気がするんだけれど」
「おぉ。聞いてくれる気になったか」
「まぁ、頼みを聞くかどうかはともかく、話だけはね」
「ん~。まぁ、それでも構わないな。私の頼みは三つだ」
「三つ?」
「そう。ひとつは、ちぃの言う悪魔を倒すのを、協力してほしいということだ」
「……悪魔を?」
「そうだ。やつらは世界を渡り、とり憑いた者の負の感情を糧にして成長する悪意の塊だ。悪魔の存在は、この世界だけでなく、他の世界にとっても危険な存在なのだ」
真剣な表情でいう梅子。そんな時の彼女の顔は、とても凛としていて綺麗だと思う。
「協力と言っても、僕には悪魔と戦う力はないよ。食堂で梅子が戦っていたときだって、僕は何もできてないし」
「そんなことはない。私と悪魔のいる空間には隔たりがあって、直接手を出すことができないのだ。けれど、ちぃが認識してくれれば、同じ場所に立つことができる」
「……あの時、無理やり認識させたのは、その為だったんだね」
僕はため息交じりに呟く。
「そうだ。私が戦うためには、ちぃの力が必要なんだ。力を貸してほしい」
梅子は、頭を下げて頼んでくる。彼女の真摯な姿勢に、できれば聞いてやりたいとは思うのだけれど、頷くことはできなかった。
「……正直、僕は悪魔と関わるのは、怖いんだよ」
それが、僕の本音だ。一度、認識してしまえば最後、僕には悪魔から身を守る術がないのだ。それは、腹ぺこの猛獣の前に、武器も持たずに対峙するようなものだ。今時のお笑い芸人だって、そんな無謀なことはしない。どちらかといえば、自分のことをヘタレだと思っている僕には、無理な話だ。
「大丈夫だ。私がちぃを全力で守るし、それに、私としても無理や無茶をする気もない。あくまで、倒せる範囲の悪魔だけを、相手にするつもりだ」
梅子の言葉からは、僕を危険な目に遭わせたくないという思いが伝わってくる。それでも、引き受けるとは言えなかった。僕の中には、人外に対する根源的なまでの恐怖がある。それは実のところ、梅子に対しても同じようにあるものだ。彼女を信じたいと思っても、信じきれない自分がいる。
「……ごめん、梅子。……その答えについては、……少し、考える時間をくれないか?」
迷った結果、僕は保留させてもらうことにした。今の気持ちのまま言ってしまえば、正直断りたい。けれど、悪魔の危険性も知っているので、軽々しく断ることもできなかった。
「ん。いつまでも待っている」
「……ありがとう。……それで、他の二つの頼みはなんなの?」
「ん。ふたつ目の頼みは、ちぃに、私との記憶を思い出して欲しい」
「梅子との記憶?」
「そう。私の中にも明確な記憶はないけれど、ちぃを大切だという思いは残っているのだ。その思いはとても強いもので、失っていいものじゃないと、私は思うんだ。だから、ちぃに思い出して欲しい。そうすれば、私も思い出せるかもしれないから」
「梅子も思い出せる? それは、どういうこと?」
「人外には、思いが形になった者がいるように、私の体も同じ仕組みで構成させられている。だからもし、ちぃが記憶を取り戻すことができれば、その記憶を思いとして受け取り、私も思い出せるかもしれない」
「なるほどね」
僕は頷きながら考える。
思い出すことを怖いと思っている自分がいる。きっと、無くした記憶の中には、思い出したくないことがあるのだと思う。
けれど、思い出せなければ、僕は梅子に関して迷い続けるだろう。
彼女を受け入れるにしろ、拒絶するにしろ、僕には判断するだけの記憶がないのだ。もしも、梅子に関わること事態が危険だとしたら、記憶のない僕には、備えることもできない……なんて言い訳めいたことも考えたけれど、単純な話、僕は知りたいと思い始めている。
長い時の中で、僕と梅子の間に、何があったのかを。
「わかったよ、梅子。思い出せるかはわからないけれど、思い出す努力はしてみるよ」
僕の答えを聞いた梅子は、顔をパッと、明るくさせる。
「そうか。良かった。ありがとう」
「思い出せるか、わからないから期待しないでよ。……それと、三つ目の頼みは、なんなのさ」
僕は自信なくに答えながら、最後の頼みについて尋ねる。すると、梅子は何か言おうとするが、途中で笑みを浮かべて首を横に振った。
「最後の頼みは、秘密だな」
「秘密って、何さ」
僕が眉をよせて尋ねると、彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「ちぃが私のことを思い出した時に頼むから、それまでの秘密だ」
僕が記憶を取り戻した時ということは、記憶がないと、意味がないということなのだろうか?
まぁ、梅子の様子を見るに、深く考えていなさそうでもある。
どちらにしろ、まずは記憶を取り戻すところからだ。
僕は、絵を描きながら、その方法を考える。
次の休みの日、僕は出かけることにした。
本当は一人で行く予定だったのだけれど、向かう先をぽつりと呟いたのを、スガが聞いてしまったようで、一緒に行くと言われてしまった。まぁ、スガにとっても思い出深い場所なので、断るのも悪い気がして一緒に行くことを選んだ。
「いやぁ。行くのは結構久しぶりだな。高校入学の報告に行った時以来かな?」
ホームで電車を待っていると、スガが楽しそうに言った。
「僕もそうだね。美術部は別に、期待されている部活でもないのに、馬鹿みたいに忙しいから、中々行けないでいるよ」
「……まぁ、あの美術部伝統の根性付けってのは、運動部の俺ですら、きついと思うからな」
「だよねぇ。けど、あれに慣れ始めている自分を最近感じるんだ」
「へぇ、良かったじゃねぇか」
「果たして良いことなのかね?」
僕が微妙な顔で言うと、スガは心底不思議そうに、首を傾げる。
「良いことじゃないのか? それだけ、体が鍛えられたってことだろ?」
「まぁ、体が丈夫になるのは良いことなんだけれど、あの根性付けを受け入れさせられているようで、……そう、僕の主義主張を捻じ曲げられている気がするんだ」
「ちなみに、ちぃちゃんの主義主張はなんなのさ」
「動くのかったるい」
「がんばれ、根性付け」
スガは笑顔で言い切りやがった。くそ。こいつも体育会系だということを忘れていたよ。
「ふぉおおおぉぉぉ~」
突如、僕らの後ろの方から、驚いたような素っ頓狂な声が上がる。一瞬、人外だろうかと迷い、振り向くのを躊躇うけれど、スガが怪訝な顔をして振り返ったのを見て、現実で起こっていることなのだとわかった。
僕も遅ればせながら振り返ってみるけれど、今の声の発信源は見つからない。
「何だったの?」
僕より早く振り向いたスガに尋ねるけれど、彼も見つけられなかったようで肩をすくめる。
気になりはしたけれど、電車が来たので、僕らは忘れることにした。
「ちぃ。後を付けられている」
梅子が警戒した声音で、注意してくる。
「人外?」
スガには聞こえない小声で尋ねる。
「いや。どうやら人らしい。けれど、人だって危険はあると、私は思う」
「……まぁ、否定はできないね。……ちなみに、梅子のそれは、どこからの知識?」
「ワイドショーのニュースで見た。今の世の中、子殺し親殺しが普通にある。金の切れ目が縁の切れ目。なんて恐ろしい」
そんなもの見ているのかこいつは。
とはいえ、後を付けられているのは本当だろう。けど、なんで付けられているのだろうか?
恨まれるような心当たりは、今のところない。……石原の顔が一瞬頭を過ぎったけれど、まだ、そこまで恨まれていないはずだ。
といことで、もう一つの案として存在するのが、ストーカー。熱烈な恋愛感情から生まれる、恐るべき犯罪者。
僕には心当たりはないけれど、スガならばいくらでもありそうな気がする。バスケ部期待のホープにして、イケメンで性格も良い。悪いのは頭だけ。好きになる女子は多いだろう。
「付けてきているのって、女の人?」
「そうだ」
確証が取れた。女の人なら間違いなく、スガのストーカーだろう。いやぁ。モテる男というのも大変だぁね。僕は若干の妬みを混ぜて、そんなことを思う。
「でも、あの女、どこかで見たことある気が」
「……それって僕の知り合い?」
「……おそらく」
歯切れ悪く頷く梅子。
僕は不思議に思う。梅子と僕の知っている女子の知人なんて、少ないものだ。
授業中は勉強の邪魔をしてはいけないと、わかってくれているようで、彼女は教室まではやってこない。なので、クラスメイトの女子を、梅子はまず知らない。
共通の女性の知人でまず浮かぶのは、姉さんの顔だけれど、それならば、梅子は覚えているはずだ。ならば、美術部の女子だろうか。それならたくさんいて、梅子が覚えていない可能性もある。
しかし、美術部の女子ならば、僕という可能性も出てきたな。後を付けている理由はわからないけれど。
「なぁ、スガ」
とりあえず、スガに後を付けられていることを教えようと、内緒話をするようにと、手招きする。スガは、一つ高いところにある頭を、腰を曲げて近づいてくれる。だから僕は、耳元に話しかけようとしたら、後ろから声が上がった。
「ふぉおぉぉ~。今のは完全にほっぺにチュウ! やっぱり、あの噂は本当だったんだね」
聞き覚えのある声。僕はその声に、げっそりとした気持ちになる。
推測は完全に間違っていた上に、判断まで裏目に出てしまった。
「ああ、思い出した。ちぃの描いていた、絵の人物に似ている」
遅すぎるよ梅子。
僕は泣きたい気持ちになった。
「で、何しているの、天谷さん」
ちぃくんが、なんだか疲れた顔をして聞いてくる。
「いやいや、偶々だよ。偶々通りがかったら、二人がキスを」
「してませんから」
「えぇ。じゃあ、これは」
私は、スマートフォンの画像を見せつける。そこにはちぃくんが、身をかがめるスガくんの頬に、顔を近づける瞬間が映し出されている。
惜しい。もう少し押す瞬間が遅ければ、決定的なのに。いや、動画にしておくべきだったか。
「あはは。確かに見ようによっちゃ見えるな」
スガくんが、面白画像でも見たように笑う。
「……ただ、内緒話をしようとしただけなのに」
がっくりと肩を落とすちぃくん。
あれれ? 本当に内緒話だったのだろうか? 決定的瞬間だと思ったのに。
「そう言えば、ちぃちゃんは、内緒で何を言おうとしたんだ」
「そうだよ、紛らわしい。思わず、大声を出して、デートの邪魔をしちゃったじゃないか!」
「……デートでもないからね。ただ僕は、後を付けられているって、スガに教えようとしただけだよ」
「うわっ。私の尾行はバレていた」
「まぁ、誰かまではわからなかったけれどね。……それで、なんで付けてきたの?」
なんか、凄く聞きたくないって顔で、聞いてくる。
「それは、二人がデートしていると思ったらつい、好奇心から」
「やっぱりかよ」
打ちひしがれるちぃくん。
「あはは。天谷は面白いな。俺たちは男同士だぜ。あるわけないじゃん。ちぃちゃんが女にでも見えたか?」
笑い飛ばすスガくん。彼は、男同士というカップリングに、需要があることを知らないらしい。つまりは、噂でしかなかったということね。残念だぁ。
「じゃあ、二人でどこに行くつもりだったの」
「ん。児童養護施設だよ。俺たちは、そこの出身なんだよ。天谷も来るか?」
「児童養護施設?」
私は聞き覚えのない名前に首を傾げる。児童養護というからには、子供を預かる的なものだろうか? 小学校の近くにあった、学童みたいな。
「所謂、孤児院だよ」
事もなげに言ったちぃくんの言葉に、私は驚く。
児童養護施設。それが孤児院だというのなら、そこの出身だという二人は……。
不幸自慢ならば、負けない自信はあるけれど、それでもやっぱり、悪いことを聞いてしまったのではないかと思ってしまう。何より、自分の浅ましい妄想で、……というか、本当に浅ましい妄想で、二人の傷を抉りだしたということが、恥ずかしくて仕方ない。
「あの、ごめん。やっぱり私――」
「――天谷さんは、子供は好き?」
私の言葉を遮って、ちぃくんが聞いてくる。
「え? あ、うん。好きだけど」
「じゃあ、良かった。僕もスガも、繊細さとは無縁な野郎共だから、あんまり女の子に合わせて遊んであげられないんだよね。だから、女の子たちと遊んであげてよ。そうしたら、あいつらも喜ぶから」
そう言って、笑いかけてくれるちぃくん。
私は帰ると言うつもりだった。けれど、帰っていたらちぃくんとスガくんの間に、気まずさだけが残ってしまっただろう。
ちぃくんの言葉は、私の気まずさと罪悪感を、救ってくれた。
「ん。じゃあ、がんばろうかな」
私は、ちぃくんの好意を素直に受け取った。
何より、子供が好きなのは本当なのだ。
純粋で可愛らしい存在。それが子供だから。
「お姉ちゃんは、ちぃちゃんとスガさん。どっちと付き合っているの?」
「やっぱ、スガくんじゃない。スガくん、格好いいし」
「そうだよねぇ」
「でも、ちぃちゃんは優しいよ」
「男は優しいだけじゃねぇ」
……最近の子供はマセていた。
私が相手にしていたのは六・七歳の女の子のグループだ。コイバナに興味津々のようだ。
小さくても、やっぱり女の子なんだなと、私は思わず笑ってしまう。
この児童養護施設には、下は赤ちゃんから、上は中学三年生までの子供が暮らしている。建物の見た目は幼稚園のようだけれど、裏の建物には、ちゃんとした居住空間があるそうだ。
子どもたちは働いているスタッフを先生と呼んで慕っていて、私は初めに、院長先生に挨拶したのだけれど、とても優しそうなおばさんだった。
ここには、両親を亡くした子供や、親からの虐待を受けた子供、そして、親から捨てられた子や、親が養えなくなった子供などが預けられるのだそうだ。ここにいる子どもたち全員が、少なからず、心に傷を持っている。
けれど、子どもたちと遊んでいると、そんな傷を感じさせない。どこにでもいる、ありふれた子供たちにしか見えない。
それは、子供たちの強さと、ここの先生たちの、頑張りからなのだろう。
私にも、心に傷がある。けれど、子供たちと遊んでいると、私ばかりが嘆いているのが恥ずかしくて、頑張ろうという気にさせてくれる。
来て良かったと、心から思える。
「あはは。さっきも、院長先生に、どっちの彼女かしらって聞かれたけど、私はちぃくんともスガくんとも、付き合っていないよ」
「うえぇえぇ~、つまんない」
「でも、どっちかは好きだったりするでしょ。テレビで、女と男の友情はないって言ってたしね」
全く、どんなテレビを見ているんだか。……少なくとも私は、二人を友達だと思っているのだけれどな。
「やっぱり、スガくんでしょ。背は高いし、スポーツだって万能なんだよ。本当に格好いいよ」
「だよねぇ」
スガくんは、女の子たちに大人気のようだ。まぁ、わからないでもない。バスケ部のホープだけあって、体はすらりと高く、けれど、弱々しくもない。それに顔立ちだって整っていて、素敵な男の人だ。うちのクラスの女子たちの間でも、とても人気がある。かなり天然なところもあるけれど、逆にそれが、裏表がなさそうで、良いと言う人も多い。
男の人が苦手な私だけれども、スガくんに関しては、結構好意的には思っている。色々と、スガくんで妄想してしまうことだってあるくらいだ。それはもう、……ちぃくんとのカップリングは鉄板だね。
それでも、スガくんを恋愛対象として見れるかと問われれば、私は首を横に振る。やっぱり、どんなにいい人であろうと、男の人というだけで怖いし、何より私は、それほどスガくんのことを知らないのだ。クラスの中で、話し易い男の人だということくらいだろう。
男性恐怖症を誤魔化し、少しでも克服しようと、男の人に自分から話しかけるようにはしているけれども、実際のところ、深く興味を持ったりはしていない。それは、スガくんに対しても変わらない。
……なら、なんで私はここに居るのだろう?
私は不思議に思った。
駅で、ちぃくんとスガくんを見かけ,それを見た私は妄想をふくらませた。
二人が爛れた関係という噂が本当で、これからデートなのかもしれないと思ったのは確かだけれども、普段の私ならば、もう少し自重して、後なんか付けなかった。そもそも、妄想を膨らませるだけなのだから、事実かどうかなんて関係なく、むしろ、変に事実を知った方が、妄想は萎えてしまうものだと思うし。
なのに、なんで私は、後を付けたのだろうか?
興味がないのなら、追う必要なんてなかったはず。
……つまり、それなのに追いかけたと言うことは、二人に興味があったということだろうか?
少し考えて、違うと気付いた。私は二人じゃなく、ちぃくんに興味を持っていたのだ。
なんだか、気になる。……いや、どちらかというと、どこか引っかかっている。
思い返してみれば、話している量だけなら、話かけてくる石原くんに負けるけれど、私の方から一番話しかけているのは、ちぃくんだ。
スガくんのように、話しかけやすい男子生徒は他にも居るのに、ちぃくんにいつも話しかけている。
やっぱり、ちぃくんだって男の人だから怖いとは思うのだけれど、不思議と、他の人ほどじゃないような気がする。
考え事をしていたら、女の子たちの話は、いつの間にかちぃくんの話になっていた。
「ちぃちゃんは優しいけれど、結局、良い人止まりよねぇ」
女の子の一人がそう言うと、周りは靴口に同意
「ちぃちゃんはマザコンならぬ、シスコンだしね」
「甲斐性もなさそだよねぇ」
「わかるわぁ」
甲斐性の意味をわかってて言っているのだろうか、この子たちは。
それにしても、スガくんに比べ、ちぃくんは酷い言われようだ。
別に、彼女たちが、ちぃくんのことを嫌っていると言うわけではなく、そう、見えてしまうのだろう。
施設にある小さなグラウンドといった様子の庭で、先ほどからちぃくんとスガくんが、子供たちと遊んでいるのが見えるのだけれど、スガくんはみんなを引っ張っていくように遊んでいるのに比べ、ちぃくんはまるで同い年のように、一緒になってふざけながら遊んでいる。あれではどう見ても、頼れるお兄さんには見えないだろう。
「それに、ちぃちゃんって、不思議なところがあるって言うしね」
「不思議なところ?」
私は少し気になって尋ねる。
「あれ? もしかして、お姉さんはちぃちゃんが気になるの?」
ああ、しまった。私がちぃくんのことを好きだと、この恋に恋する少女たちに誤解された。
……まぁ、いっか。ちぃくんにさえ誤解されなければ、特に問題はない気もする。
「まぁ、ちょっと、気になってね。それで、不思議なところって?」
「んとね。私たちは見たとことないんだけれど、ちぃちゃんは偶に、一人で話していたり、急に変な動きをしたりするらしいの」
「それはまるで、人には見えない何かが見えているんじゃないかって言われているの」
「ちぃちゃんに聞いても誤魔化されるけれどねぇ」
口々に言うちぃくんの噂。
私は何となく、昔のことを思い出した。
見えないものが見える。それに似た体験をしたことがある。
その時、私は男の子に助けてもらった。
もう、顔も覚えていないけれど、私にとっては、大切な恩人。
なんとなく、その男の子とちぃくんが、似ているような気がした。
ああ、だからなのかもしれない。
私がちぃくんを気にかけるのは。
子供の集中力には驚くべきものがある。大人のように疲れたと思わないのか、自分の体力を限界ぎりぎりまで使い切ることに関しては、天才的だ。へとへとになっているのに、全力疾走するのだ。もう僕にはそこまで、遊びに対して一生懸命さは持ち合わせてはいない。
いやはや、僕も年をとったものだ。
最初は子供に合わせてはしゃいでいたものの、疲れを意識すると、一心不乱に遊ぶことができなくなってしまった。
というわけで、疲れた僕は休憩です。
庭の端にあるベンチに腰かけて、遊びまわる子供たちの様子を眺める。記憶が曖昧な時期と被るとはいえ、全ての記憶がなくなったわけではない。覚えていることだって、たくさんあるのだ。だから、姉さんが大学を卒業する三年前まで、僕が過ごしてきた場所なので、懐かしさが込みあげてくる。
僕の両親は、六歳の頃に亡くなった。原因は自動車事故。対向車線から飛び出してきたトラックとの正面衝突。相手のドライバーは、お酒を飲んでいたのだそうだ。その事故で、両親と僕の乗っていた車は大きくひしゃげて、後部座席に座っていた僕だけは、大怪我を負ったけれど、死ぬことはなかった。
僕には姉さん以外に身寄りはなく、けれど、あの頃の姉さんはまだ高校生で、僕を育てる余裕もない。だから僕はこの、児童養護施設に預けられた。入った当初は、寂しくて仕方なかった。大人になったら、きっと迎えに来るからという、姉さんの言葉を信じて、必死に我慢していた記憶がある。だから三年前に、姉さんに一緒に暮らそうと言われたとき、どれだけ嬉しかったか。まぁ、言われたときは、友達も多くいたので、ここで寂しいなんて思ってはいなかったけれど。
思い返せば、僕が人外を見えるようになったのも、あの事故からだ。あの事故の衝撃で、僕のどこかが変わってしまったのかもしれない。そして、記憶が曖昧になるのは、この施設に入ってすぐのことだ。おそらく、このタイミングで梅子と出会ったのだろう。
「……やっぱり思いだせないや」
懐かしい場所に行けば、何がしかの、思い出すきっかけになってくれるのではと期待したのだけれど、全然、そんな様子もない。
スガを見れば、彼は高学年の子供に人気があって、得意なバスケを教えてあげているのが目に入る。その姿は、どこからどう見ても、頼れるお兄さんにしか見えない。
むぅ、羨ましい。僕も、絵を教えてくれと言われれば、頼れるお兄さんよろしく、がんばって教えるのだけれど、残念ながら、そんな要望はない。
「ちぃくん」
天谷さんが呼びかけてきた。
「ああ、天谷さん。女の子たちとは、仲良くやれた?」
「ん。まぁ、なんとかね。けれど、女の子は幼くとも、女の子だと思い知らされたね」
「……いったい、何があったのさ」
「ちょっと、コイバナをね」
「ふ~ん」
天谷さんは疲れた顔をしている。おそらく、子供たちに根掘り葉掘り聞かれたのだろう。
……それにしても、天谷さんが、どんな風に答えたのかが、とても興味があるところだ。
ちぃくんって最悪だよね。私が男を苦手なのをわかっているのに、話しかけてくるんだよ。マジでキモイよね。
とか言われてたら、僕は現実を捨てて引きこもるね。
危険だ。この会話の中身は危険すぎる。
突っ込んで聞くのはやめとこう。
「男の子たちは、素直に子供らしいね」
未だに元気に遊びまわっているガキどもを見て、天谷さんは優しい笑みを浮かべる。
男性恐怖症の天谷さんだけれど、さすがに子供たちは平気なようだ。
二人でなんとなく、子供たちが遊んでいるのを見ていると、小学校低学年の少年たちが三人ほど、走り寄ってくる。なんだろうか? いい加減遊ぼうぜとでも、誘いに来たのだろうか?
しかし、少年たちは走る勢いそのままに、天谷さんのスカートをめくり、へへ~んと、悪ガキそのものの笑みを浮かべて、逃げ去っていく。
突然のことに、僕と天谷さんはあっけにとられてしまう。
「……えっと、……見た」
さすがに何をとは聞かない。わかりきっていることだから。ベンチに座りながら、近くに立つ天谷さんと話していたのだ。見えないわけがない。
「いや、まぁ、男としては、嬉しいハプニングだったね。ありがとう」
「この、エロちぃが」
罵られてしまった。
「まぁ、ちぃくんが悪いというわけでもないんだけれど、とりあえず、殴らせてもらおうかな。乙女の純情的に」
乙女の純情を、拳で表現されても困るんだけれど。
「まぁ、仕方ないね。天谷さんが望むのなら、喜んで殴られよう」
「……いや、喜ばれても困るんだけどな。……もういいや。なんだか、毒気を抜かれちゃったし。……それより、ちぃくんは見えないものが見えるっていう噂を聞いたんだけれど、それって本当?」
僕は目を丸くする。いったい、誰に聞いたのだろうか? まぁ、ここになら、僕の過去を知る者はいっぱいいるので、知られるのは仕方ないのかもしれないけれど。
「……さぁ、どうだろうね」
「うわぁ。誤魔化そうとしている」
「まぁ、僕は悪意のある嘘は吐かない信念があるけれど、冗談や誤魔化しはいくらでもするのさ。そして、この場合は、明確にしない方が、神秘的でしょ?」
「そう言えば、半分は神秘でできているんだっけ?」
「そう言うことだね」
僕はできるだけ、冗談のように答える。嘘を吐いて、見えていないと答えるのは簡単だったけれど、この件に関しては、嘘はやっぱり吐きたくないのだ。嘘を吐けば、それだけ過去の自分を否定している気がして。
まぁ、かと言って、真実を話すのも怖い。
見えると言った後に、天谷さんがどんな顔をするだろうか?
昔、いじめられた経験から、良い反応は、期待できなかった。
天谷さんは僕の答えに、不満そうな顔をする。
「ちぇ。まぁ、教えてくれないのなら仕方ないねぇ。じゃあ、ちぃくんのちぃってのはなんなの? 名前に、ちって文字があるわけでもないのに。それも秘密?」
「ああ。それは秘密じゃないよ。恐るべき成長期でそうでもなくなったけれど、僕はちょっと前までちぃちゃくてね。だから、ちぃちゃんって呼ばれてたんだ」
「へぇ、そうなんだ。でも、恐るべき成長期って」
「いやいや。急に伸びたもんだから、成長痛が半端ないし、姉さんには可愛くなくなったって言われるし、僕としてはちぃちゃいままで、良かったよ。別に、ちぃちゃいことに、そこまでコンプレックスもなかったし」
「そうなんだ。……それにしても、ちぃちゃいからちぃちゃんか。……面白いね。じゃあ、今は普通だから、何かな」
「……ふぅ……かな? 普通だから」
「かもね、ふぅくん」
満面の笑みを浮かべてそう言ってくる天谷さんは、本当に可愛い。
「でも、ちぃでお願いします」
やっぱり、ちぃのほうがピンとくる。
「いやいや。結局思い出すことはできなかったね」
家に帰った僕は、料理の支度をしながら、様子を窺うように梅子に話しかける。なんだか、先ほどから梅子が、黙りっ放しだったような気がしたのだ。
「昔、育った所に行けば、思い出せるかもしれないって言っていたではないか」
文句を言ってくる梅子。なんだか、彼女はあまり機嫌が良さそうではない。何でだろうか?
「あくまでかもしれないだって、言ったじゃないか。きっかけみたいなのになればと思ったんだけれど、きっかけにもならなかったね」
「ふん。遊んでばかりいたからだ。あんな女と、仲良さそうに話して、私とは全く話してくれなかっただろう」
あんな女とは、天谷さんのことだろうか?
僕はどちらかというと、子供たちと遊んでいることが多く、天谷さんと話していることなんて、それほど多くはなかったはずだ。
いや、まぁ、暇さえあれば、話したいとは思っていたけれど、梅子はなんで、天谷さんを引き合いに出すのだろうか?
「……もしかして、梅子は妬いている?」
「別に、妬いてなど……」
怒ったようにそう言おうとして、梅子は言葉を詰まらせる。
半ば、冗談で言ったつもりだったのだけれど、本当だったのだろうか? 正直、そこまで愛されたことは、姉さん以外でなかったことなので、どうしていいかわからない。正直、気まずい。
梅子はとても悲しそうな顔をする。
「そうだな。私は、羨ましいと妬んだのだ。私はあの女のように、ちぃと対等に話せない。そして、私はちぃに受け入れられてもいない」
「受け入れていない? これでも結構、梅子のことを、信じ始めてはいると思うけれど」
「そうだ。……けれど、昔に比べれば……」
梅子の言う昔。それは、記憶をなくす前のことだろう。
彼女には、詳しい記憶が残っていなくとも、二人の間に、どのような思いがあったのかは覚えているらしい。
確かに、昔の僕に比べれば、半信半疑の今の僕の信頼なんて、脆く、か細いものだろう。
良かった時を知っているから、今の落差を感じずにはいられないのかもしれない。だからこそ、思い出そうと必死に取り組まない僕に対して、苛立ちも覚えよう。
梅子を可哀そうだと思う。けれど、思い出せない僕には、何もしてあげることはなかった。たぶん、見せかけだけで優しく接したところで、彼女にはそれがわかってしまうから。