狂人・月詠 ――果てない夢――
『狂人・月詠』の七本目です。
果てない夢
「この世界は夢なのかもしれない」
彼はそんなことを唐突に口にした。それはいつものことなので私は大して驚きもせず、彼の方へ目をやる。すると彼は珍しく視線を宙でなく、自分の手に向けていた。
「たまにね、そんな風に思うんだ」
「……夢、ですか」
いつもの如く唐突で掴み所のない話題を私がさっぱり分からないという心地で反復すると彼は柔らかな微笑を浮かべ、頷いた。
「そう、夢。万物斉同は知っているかい?」
聞きなれない言葉に私は首を横に振る。
「そうか。なら胡蝶の夢の話をしよう」
そう言って彼は微笑を消し、滔々と語り出した。
「胡蝶の夢というのは、ある男が自分が胡蝶になる夢を見るという話なんだ。そして、目が覚めてみてふと思う。もしかしたら、今という現実は胡蝶の自分が人間になっているという夢かもしれない。
つまりね。全ての世界、夢と現実でさえも各々に差異はない、ということなんだ。夢と現実に区別をつけるのは“目覚め”だろう? だから、今この時を現実だと固く信じていても夢ではないと言い切れないし、目覚めたとしても、それは“夢から目覚める夢”かもしれない」
彼はそう言って再び微笑を浮かべる。私はいつもとは少し毛色の違う話題にやや戸惑いながらも彼の言葉に耳を傾け、与えられた知識を咀嚼していた。
「僕はもう長い間、眠ってから夢を見ていないんだ。眠りに落ちて、気付いたら朝が来ている。それがもう何年も続いてる」
彼はまるで夢を見ていた頃を懐かしむような口振りだった。それから、そっと右手で人ならざる者からもらい受けたという目の片方を覆う。
「カルの目をもらってからかな。僕の世界は一つになった」
私の方から見る彼の横顔は彼の手で隠されているので彼がどんな表情で、何を思ってその言葉を口にしているのか、私には見当もつかない。いつものように微笑んでいるのだろうか。それともぼんやりと宙を見つめているのだろうか。ただ一つ分かることは彼の語り口はとても穏やかなことだった。
「そんなこの世界が夢なんじゃないかって、思う時があるんだ」
「どうしてですか?」
脳裏を掠めた疑問に私はようやく声を出した。
世界が一つなら、その世界を疑うことはないのではないだろうかと思う。何故、彼は自分の目の前に広がる景色を夢だと思うのだろうか。
彼は微笑を浮かべながら右手を降ろし、再び宙を見つめる。その目はいつも以上に透き通っていて、どこか寂しげにも見えた。
「夢は覚めるまでそれが夢だとは気付けない。僕は死の間際にこの世界を夢見ているのかもしれない。死に瀕した意識は夢も見ずに眠っているのと、きっと同じだからね」
その瞬間、私の背筋に悪寒に似た違和感のようなものが駆け抜けた。
彼の言葉からは死が余りにも近い存在に感じられた。その目には他者の死が数えきれないほど映る。その上、彼は一度死を覚悟したことがあるのだ。そういった意味では人よりも死が身近な、近すぎる存在なのかもしれない。私には彼の存在感がひどく揺らいでいるように感じられた。例えるなら薄いガラスに隔てられた向こう側で彼が虚ろな何かに侵食されていくような心地だ。
自然と私の口は動いていた。
「月野さん……?」
その存在を確かめるように私は彼を呼ぶ。月野詠司。神とも悪魔とも異なる存在から与えられた目を持つ、人とは違うものを見て生きている人。彼は確かにここに存在している。私は祈るような心地で彼の答えを待っていた。
「なんだい?」
彼はいつものように、私へ視線を向けることなく応じる。その姿は私が今まで見てきた彼と寸分も違わなかった。安堵で胸を撫で下ろすのと同時に私の中にある今まで彼と共有した時間が彼の存在に重みを与える。
しかし、安心したのも束の間。私の胸中には新たな問題が浮上していた。呼んでみたはいいものの、何か明確に言いたいことがあるわけではない。このままでは気まずい、と私は何か言わなければと必死に頭をしぼった。
「えっと……。そ、れなら私は月野さんの夢の登場人物、ですか?」
何とか捻り出した質問を口にする。我ながら、苦しい誤魔化しだと思う。しかし、彼は珍しく戸惑ったように表情を消した。
「……どうだろう。そう考えると君は何者なんだろう」
思ってもみなかったといった様子で彼は考え込むように空を仰ぐ。ふとした思い付きがこんなことになるとは思っても見なかった私はただ黙って彼の様子を見ていた。
彼の目は静かな湖面のように空を映している。白い雲が流れ、風に舞う木の葉がその視界を横切った。しかし、彼は瞬きもせずにじっと空を映していた。その目はまるでガラス玉のようだ。彼だけ時間が止まってしまったかのように微動だにしない。その姿に気付けば私は見入っていた。
「……夢は、記憶の再構成なんだ」
ぽつり、と彼が呟く。その瞬間、再び彼の時間が動き出した。穏やかな光を湛えた目が宙を捉える。その目はガラス玉などではなく、人ならざる者から得たという不思議な目だ。彼はその目で私には見えない何かを見据えながら滑らかに、淀みなく言葉を紡ぐ。
「一度見たもの、体験したことを理解して、眠りの中で再構成する。でも、僕は夢の外で君に会ったことがないと思うんだ」
そう言って彼は私の方を向いた。もちろん、その目は私を捉えていない。私の背後の宙をまっすぐ見つめていた。その表情は淡々としていて、何を思っているのか一切読み取ることが出来ない。それはまるで私の知らない、冷たい月のようだ。
私は突然現れた見知らぬ面影に驚き、身動ぎも出来ず、その月と対峙していた。その様は確かに地上から遥か遠い暗闇に独りで皓々と浮かぶ月のようだ。しかし、それでもそこにいるのは月野詠司その人だと思えた。
「……思い出せないだけかもしれないけどね」
その一言で不意に冷たい月が鳴りを潜める。現れたのは私がよく知る、孤独に寄り添う月を連想させる微笑だ。私は一瞬で変わったその雰囲気にやや面を食らっていた。しかし、そんなことには気を止めず彼はすう、と視線を正面の宙に戻す。
知らない面影とよく知る面影の両方を見た私はただただ驚いていた。冷たい月に関しては話に聞いただけだったので想像出来ずにいたが、先程見た表情は確かにそうだ。まるで彼が二人いるようだと思っていた今までの価値観が一つに纏まった。改めて、不思議な人だと思う。
私がそんなことを考えているなど知る由もなく、彼は静かに宙を見つめていた。それから何の前触れもなく口を開く。
「きっと、この世界は覚めない夢なんだ。覚めず、終わらない夢。誰の夢かも分からない夢」
まるで詩を口ずさむかのように彼は言った。
「もしかすると僕が登場人物で、君が夢の主かもしれない。それとも僕ら二人とも登場人物で、他の誰かが夢の主かもしれない」
その言葉に私は微かに恐怖した。自分が誰とも知れない人間の目覚めによって消えてしまうかもしれない。誰かに自分がここに存在するか否かを握られている。そう考えると自分という存在がひどく曖昧であやふやなもののような気がする。
「だとしたら、その、知らない誰かが目覚めたら私たちはどうなるんですか……?」
私がそう、未知の恐怖に恐る恐る問いかけると彼は微笑を浮かべたまま首を横に振った。
「目覚めないよ。この夢は幸せな夢でも、悪夢でもないから」
「幸せでも、悪夢でもない?」
復唱するように聞き返すと彼は静かに頷く。その表情は凪いだ海のように穏やかだった。
「幸せな夢なら覚めないことを願う。悪夢なら覚めることを願う。そのどちらでもないなら人は覚めることも覚めないことも願わない。だから、この夢は終わらないんだよ」
久々に月野さんが帰ってきましたー。そろそろ志倉さんも帰ってきたらいいなぁ。