第9話
「……異動願い、ですか。第一部隊からの」
重厚なマホガニーのデスク越しに、騎士団長は眉をひそめて一枚の羊皮紙を見つめた。
その前に直立しているサラは、静かに、しかし決して揺らぐことのない瞳で頷いた。
「はい。私の魔道士としての適性を考えた結果、前衛特化の第一部隊よりも、後方支援を主軸とする第三部隊、あるいは魔導研究班の方がより貢献できると判断いたしました」
すらすらと口をついて出た理由は、昨晩のうちに何度も頭の中で反芻し、完璧に組み立てた建前だった。
団長は鋭い眼光でサラを観察する。彼女が誰のために、何のために第一部隊に固執し、血を吐くような努力をしてきたかなど、古参の騎士なら誰でも知っていることだ。
「カイル副隊長とは、何かあったのか?」
「……個人的な感情は、任務には関係ありません。あくまで、私自身のキャリアを考えての決断です」
サラの声には、微塵の未練もなかった。
あの回廊での出来事の後、サラの中で何かが完全に冷え切って、砕け散ったのだ。
カイルの隣に並び立つために魔法を覚えた。彼に「相棒」として認められたくて、必死に背中を追った。でも、彼が私を見る目は、ただの「妹」か、「体目当ての男」のどちらかでしかなかった。
(これ以上、彼のそばにいたら……私が私でなくなってしまう)
もう、あの無邪気で残酷な優しさに振り回されるのは限界だった。物理的な距離を置き、彼への想いを完全に断ち切るしか、自分が息をする方法は残されていない。
団長は深く息を吐き出すと、羊皮紙を机の隅に置いた。
「……わかった。受理しよう。ただし、正式な発令まではあと数日かかる。それまでは第一部隊としての任務を全うするように」
「ありがとうございます」
深く一礼し、サラは団長室を後にした。
足取りは驚くほど軽かった。胸の奥に空いた巨大な穴から冷たい風が吹き抜けているのに、もう涙は一滴も出なかった。
◆ ◆ ◆
その日の午後。
カイルは、団長室に呼び出されていた。
昨日のサラとの決定的な決裂から、彼は心ここにあらずの状態で、午前の訓練でもミスを連発していた。どうにかしてサラと話し合わなければと思いつつも、彼女のあの冷たく空虚な瞳を思い出すと、足がすくんで前に進めなかったのだ。
「団長、お呼びでしょうか」
「ああ、入れ。カイル」
執務机に向かっていた団長は、カイルの顔を見るなり、大きなため息をついた。
「お前ら、一体何があった」
「……え?」
「誤魔化すな。お前のその腑抜けた面といい、サラの異動願いといい……第一部隊の要であるお前たちが、揃いも揃って何をやってるんだ」
カイルの心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ねた。
「……い、異動願い? サラが、ですか?」
「今朝、私のところに直接持ってきた。第三部隊か魔導班への転属を希望している。彼女の魔法の腕なら引く手あまただが……お前と離れるなんて、今までなら絶対にあり得ないことだったはずだ」
団長の言葉が、カイルの耳を通り抜けて脳に直接響く。
異動。転属。
つまりそれは、サラが第一部隊からいなくなるということ。
出撃の前に声をかけることも、背中を任せることも、祝勝会で隣に座ることも、もう二度となくなるということ。
『どうせ……誰も「わたし」なんか、見ないんだ』
昨日の彼女の言葉が、呪いのようにカイルの頭の中でこだました。
「な、なんで……っ。受理したんですか!? あいつは第一部隊に絶対必要な……っ」
「本人の強い希望だ。魔道士としてのキャリアを積みたいとな。私から見ても、彼女の決意は固かったぞ。すでに受理した」
カイルは目の前が真っ暗になるのを感じた。
足元の床がガラガラと崩れ落ちていくような感覚。
物心ついた時から、サラはずっと自分の後ろをついてきていた。
泣き虫で、少しどんくさくて、でも誰よりも頑張り屋で。
俺が守ってやらなきゃいけない存在で、いつだって俺のそばにいるのが『当たり前』だった。
彼女が自分から離れていくなんて、想像したことすらただの一度もなかったのだ。
(俺が……俺が、あいつを追い詰めたんだ……)
俺の浅はかさが。彼女の心を見ようとしなかった鈍感さが。
最も近くにいたはずの大切な幼なじみを、自分の手で永遠に手放してしまった。
「団長……失礼しますっ!!」
カイルは踵を返し、団長室を飛び出した。
頭の中は真っ白だった。ただ、サラを見つけなければ。彼女の隣という『当たり前』の場所を失うことの恐ろしさが、彼を突き動かしていた。




