第17話
昼間の激戦が嘘のように、夜の野営地は静寂に包まれていた。
パチパチと燃える焚き火の音が遠くから聞こえる中、第三部隊の天幕から少し離れた水場で、サラは一人でローブの汚れを落としていた。
ザクッ、ザクッ。
背後から近づいてくる足音に、サラは振り返らずともそれが誰か分かっていた。この数ヶ月、いや、物心ついた時からずっと追いかけてきた足音だ。
「……サラ」
カイルの声は、いつもの自信に満ちたエースのものではなく、ひどく緊張で強張っていた。
サラは作業の手を止めず、冷たい水に手を入れたまま「何でしょうか、第一部隊副隊長殿」と淡々と返した。
「昼間は……本当に、すまなかった」
カイルはサラの背中に向かって、深く頭を下げた。
「俺は、お前の強さを全然分かってなかった。お前が俺の隣に立つために、どれだけ血の滲むような努力をしてきたか……それを見ようともせずに、ただ自分の庇護欲を押し付けて、お前の邪魔をした。本当に、最低だった」
絞り出すようなカイルの謝罪に、サラはわずかに肩を揺らした。
彼が自分の非をこれほど真っ直ぐに認めるなんて、昔のカイルからは想像もできないことだった。
「……もう終わったことです。実戦で怪我がなくて何よりでした」
サラが濡れた手を拭き、振り返って立ち去ろうとしたその時。
カイルが一歩踏み出し、サラの行く手を塞いだ。
その瞳には、これまでに見たことがないほどの真剣な熱が宿っていた。
「待ってくれ。まだ言いたいことがあるんだ」
「……」
「俺は、お前が第一部隊からいなくなって、自分がどれだけお前に甘えていたか、思い知った。ただの幼なじみだって、妹みたいなもんだって、自分の気持ちから逃げてたんだ」
カイルはギュッと拳を握りしめ、サラの瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「俺はもう、お前を『守る』なんて傲慢なことは言わない。これからは……守るためじゃなく、一人の男として、お前の隣に立つ資格が欲しい。俺は、一人の女性としてお前が——」
ドクンッ。
サラの心臓が、痛いほど大きく跳ねた。
ずっと、ずっと欲しかった言葉。彼から「一人の女性として」見てもらうこと。その言葉の続きを想像して、胸の奥に閉じ込めたはずの想いが熱を持って溢れ出しそうになる。
——けれど。
次の瞬間、サラの脳裏に、夕陽に照らされた訓練場でミアの頭を撫でていたカイルの笑顔が鮮明にフラッシュバックした。
(……カイルには、彼女がいるのに)
自分を慕う可愛い後輩と付き合っているはずなのに、どうして今更、私にこんなことを言うのだろう。
サラの頭の中で、冷たく、残酷なまでの「論理」が急速に組み上がっていく。
(……ああ、そうか)
カイルは今日、私の『蒼雷の裁き』を見た。上位魔獣を一撃で屠るほどの、圧倒的な魔力を。
第一部隊のエースである彼は、純粋に「私の魔法の力」が惜しくなったのだ。
強力な後方支援がいれば、前衛である彼はもっと自由に、もっと安全に戦える。だから『隣に立つ男(=前衛の相棒)』なんて耳障りのいい言葉を使って、私を第一部隊に、あるいは自分の手元に引き留めようとしているだけなのだ。
私が「一人の女性として」見られたわけじゃない。
結局のところ、かつては「胸という脂肪の塊」に目を奪われたように、今は「便利な魔道士としての実力」に目を奪われているだけ。
「……なるほど。よく分かりました」
サラはふっと、自嘲するような、ひどく冷ややかな笑みを浮かべた。
「え……?」
カイルは、サラの予想外の反応に言葉を失った。
「高く評価してくださって光栄です、カイル副隊長。私の魔道士としての火力が、部隊の戦力として惜しくなったのですね」
「なっ、違う! 俺は戦力とか魔法の話をしてるんじゃなくて——」
「いいえ、そういうことでしょう? でも、安心してください。今のあなたの隣には、一緒に剣を振るってくれる可愛い後輩がいるじゃありませんか」
サラの口から出た氷のような言葉に、カイルの顔からスッと血の気が引いた。
「私がいなくても、今のあなたと彼女なら、第一部隊の前衛は立派に務まります。……どうかこれ以上、私を期待させるような嘘でからかうのはやめてください。惨めになるだけですから」
「サラ、待て! なんでそうなる!? ミアはただの後輩で、俺が好きなのはお前だけで——!」
「失礼します。明日の任務に響きますので」
カイルの必死の叫びを完全にシャットアウトし、サラは彼に背を向けて足早に暗闇の中へと去っていった。
残されたカイルは、伸ばした手を虚空に彷徨わせたまま、絶望的なすれ違いの深さにただ立ち尽くすしかなかった。




