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三ヶ月限定の偽装婚約者のはずでしたが、冷徹公爵様が離してくれません~元婚約者が地団駄を踏んでいるようですが、もう遅いですわ~

作者: uta
掲載日:2026/03/19

【お知らせ】

この作品は生成aiを用いて執筆を行なっています

あらかじめご了承の上、お楽しみください

「あら、まあ。元婚約者殿? こんなみすぼらしい格好で夜会にいらっしゃるなんて、恥を知らないのかしら」


甲高い嘲笑が、煌びやかなシャンデリアの下に響き渡った。


私――リディア・ヴァレンシアは、その言葉を真正面から浴びながら、内心で深々とため息をついた。


(……恥を知らないのはそちらでは? 婚約破棄の手切れ金すら払わなかったくせに。いえ、それどころか私の持参金の行方すら曖昧なままでしたわね、アルベルト様)


声の主は、赤い巻き髪を揺らし、宝石で過剰に着飾った令嬢。セレーナ・ホルスト。新興貴族の財力を武器に社交界へ乗り込んできた、アルベルトの現婚約者だ。


そして、そのセレーナの隣で薄ら笑いを浮かべているのが、かつて私の婚約者だった男。アルベルト・グランツ伯爵子息。金髪碧眼の整った容姿は相変わらずだが、その瞳に宿る軽薄な光も、半年前と何ら変わっていない。


「セレーナ、あまり言ってやるな。哀れな子爵令嬢なのだから」


アルベルトが芝居がかった仕草で肩をすくめる。周囲の貴族たちがくすくすと笑い声を漏らした。


(哀れ、ね。その哀れな令嬢から持参金を着服したのは誰でしたかしら)


私は表情を変えずに、静かに頭を下げた。


「お久しゅうございます、アルベルト様、セレーナ様。本日の夜会、ご盛況のようで何よりですわ」


「ふん、相変わらず地味で退屈な受け答えね」


セレーナが扇子で口元を隠しながら、わざとらしく溜息をつく。


「ねえ、アルベルト様? この方のどこがよくて婚約なさっていたのかしら。私には全く理解できませんわ」


「だから言っただろう、政略の都合だと。愛情など最初からなかったさ」


(ええ、存じておりますとも。あなたの愛情は、常にご自身だけに向いておりましたものね)


私は微笑みを崩さなかった。崩すものか。ここで感情を乱せば、彼らの思う壺だ。没落寸前の子爵令嬢が、伯爵子息の嘲笑に耐えかねて取り乱した――そんな噂を立てられてたまるものですか。


しかし、周囲の視線は確実に私を追い詰めていた。好奇、侮蔑、そしてわずかな同情。どれも私には不要なものばかり。


「さあ、行こうかセレーナ。これ以上この場にいても、格が落ちる」


「ええ、そうですわね。――ああ、でも一つだけ」


セレーナが振り返り、意地の悪い笑みを浮かべた。


「もう二度と、アルベルト様にお近づきにならないでくださいね? 身の程を弁えてくださいまし、元婚約者殿」


その言葉を最後に、二人は勝ち誇った様子で人混みへと消えていった。


私は一人、シャンデリアの光の届かない柱の陰に身を寄せた。


(……疲れた)


正直な感想は、それだけだった。怒りも悲しみも、もうとうに枯れ果てている。あの婚約破棄から半年。父の病と領地の借金に追われ続けた日々で、私はすっかり感情を磨り減らしてしまったらしい。


今夜この夜会に出席したのも、父の代理として顔を出さねばならなかったからに過ぎない。新しいドレスを仕立てる余裕などなく、三年前の流行遅れを手直しして着てきた。みすぼらしいと言われても、返す言葉もない。


(それでも、来なければならなかった。ヴァレンシア子爵家の名は、私が守らなければ)


病床の父。働き手を失った領地。雪だるま式に膨らんでいく借金。すべてが私の肩にのしかかっている。


でも、不思議と重荷だとは思わなかった。私にはこれしかないのだから。


「――随分と、不愉快な光景だったな」


突然、低い声が降ってきた。


驚いて顔を上げると、そこには一人の男性が立っていた。


漆黒の髪。氷のように冷たい銀灰色の瞳。月光を纏ったかのような気品と、近寄りがたい威圧感。


(……嘘でしょう)


私は息を呑んだ。この人物を知らない貴族など、王国には存在しない。


クロード・ヴァルトシュタイン公爵。王国随一の名門公爵家当主にして、『氷の公爵』と恐れられる男。


なぜ、そのような方が、私のような者に声をかけるのか。


「――失礼いたしました、公爵閣下。お見苦しいところを」


「見苦しいのは貴女ではない。あの伯爵子息とその連れだ」


淡々と、けれども確かな断定。私は思わず目を瞬かせた。


「先ほどの遣り取りは聞こえていた。そして、貴女がそれに対して一言も言い返さなかったことも」


「……私の立場では、言い返したところで状況は悪くなるだけですわ」


「冷静な判断だ」


公爵は無表情のまま、わずかに頷いた。


「リディア・ヴァレンシア嬢。少し、話がある」


「……は?」


「場所を変える。ついてこい」


有無を言わせぬ口調。だが不思議と、不快感はなかった。むしろ、この冷徹な公爵が何を考えているのか、純粋に興味が湧いた。


(……罠、という可能性もある。けれど、今さら失うものなどない)


私は小さく頷き、公爵の後に続いた。


案内されたのは、夜会場の奥にある小部屋だった。応接室らしき調度品が並び、窓からは月明かりが静かに差し込んでいる。


公爵は扉を閉めると、こちらを振り返った。


「単刀直入に言おう。リディア・ヴァレンシア嬢、私の婚約者になれ」


「……は?」


今度こそ、私は間抜けな声を漏らしてしまった。


「聞こえなかったか? 私の婚約者を演じろ」


「いえ、聞こえてはおりましたが……公爵閣下、正気でいらっしゃいますか?」


「正気だ。むしろ、これ以上ないほど冷静に判断した結果だ」


公爵は窓際に歩み寄り、月を見上げながら続けた。


「私は今、親族どもから政略結婚を押し付けられている。王家の血を引く令嬢だの、隣国の姫君だの、煩わしいことこの上ない。それを回避するために、婚約者という盾が必要だ」


「……それで、私を?」


「条件は三ヶ月。社交界シーズンが終わるまでの期間限定だ。その間、完璧な婚約者を演じてもらう。見返りとして――」


公爵が振り返り、銀灰色の瞳が真っ直ぐに私を射抜いた。


「ヴァレンシア子爵家の借金を、全額肩代わりする」


息が止まった。


(……全額? あの、雪だるま式に膨れ上がった借金を?)


「驚いているな。だが、私にとっては大した額ではない。そして、貴女にとっては家を救う唯一の手段だ。違うか?」


違わない。痛いほど、正確だった。


「……なぜ、私なのですか」


「いくつか理由がある。まず、没落寸前の子爵令嬢という立場。婚約が破談になっても、貴女が損をすることは少ない。次に、先ほどの貴女の態度。あれだけの侮辱を受けながら、一切取り乱さなかった。演技ができる人間だと判断した」


(……なるほど。つまり私は、都合がいいということね)


心の中で苦笑が漏れた。けれど、不思議と腹は立たなかった。この公爵は、ただ事実を述べているだけだ。そこに悪意はない。


「そして、もう一つ」


公爵が一歩、こちらへ近づいた。


「貴女の領地経営の手腕。ヴァレンシア領が、あの状況でまだ破綻していないのは、貴女の力だろう」


「……お調べになったのですか」


「当然だ。契約相手を調べるのは、交渉の基本だ」


私は目を見開いた。父の代わりに帳簿を管理し、領地の経営を何とか維持してきたこと。それは、誰にも知られていないはずだった。表向きは、病床の父が指示を出していることになっている。


(この人は……本当に、何もかも見抜いているのね)


「条件を整理しよう」


公爵が淡々と続ける。


「期間は三ヶ月。貴女は私の婚約者を演じる。公の場では私の隣に立ち、完璧な令嬢として振る舞え。私は貴女の家の借金を肩代わりし、必要な衣装や教育も全て用意する。期間終了後、婚約は円満に解消。貴女は自由の身だ。――どうだ」


私は沈黙した。


三ヶ月。たった三ヶ月の演技で、家が救われる。父の治療費も、領民たちの生活も、すべてが守られる。


代償は、私の感情。


(……でも、感情なら、とっくに磨り減っている)


「一つ、確認させてください」


「何だ」


「この契約は、あくまで演技。公爵閣下が私に求めるのは、婚約者としての役割だけ。――それ以上のことは」


「ない」


即答だった。


「勘違いするな。これは契約だ。私は貴女に、演技以外のものは求めない。三ヶ月後、我々は他人に戻る。それでいいな」


(……そう。それでいい。それが、一番いい)


私は深く息を吸い、そして頭を下げた。


「――謹んで、お受けいたします。公爵閣下」


月明かりの中、契約が結ばれた。


三ヶ月限定の、偽りの婚約。


それが、私の運命を変えることになるとは。


この時の私は、まだ知らなかった。




     * * *




契約が交わされた翌日、私はヴァルトシュタイン公爵家の屋敷に足を踏み入れていた。


(……広い。いえ、広いなんてものではないわね)


王都の一等地に構えられた公爵邸は、我がヴァレンシア家の屋敷など比較にもならない壮麗さだった。大理石の床、天井まで届く窓、至るところに飾られた芸術品。歩くたびに、自分の靴音が虚しく響く。


「こちらでございます、リディア様」


案内役の執事に導かれ、私は応接室へと通された。


そこで待っていたのは、銀髪を優雅に結い上げた老婦人だった。皺の刻まれた顔には威厳と、そして鋭い観察眼が宿っている。


(この方が、マルグリット様……公爵閣下の叔母君ね)


「お初にお目にかかります。リディア・ヴァレンシアと申します」


私は深々と頭を下げた。


「顔をお上げなさい」


低く、けれども凛とした声。私が顔を上げると、紫水晶色の瞳がじっとこちらを見据えていた。


「……ふむ」


長い沈黙。値踏みするような視線が、私の全身を舐めるように這う。


(……契約で連れてこられた小娘、とでも思っていらっしゃるのかしら)


覚悟はしていた。公爵家にとって、没落寸前の子爵令嬢など、取るに足らない存在だろう。蔑まれても、冷遇されても、三ヶ月耐えればいい。それだけだ。


「クロードから話は聞いている。三ヶ月の婚約者役、そして婚約者教育を私が担当する、とね」


「はい。よろしくお願いいたします」


「……最初に言っておくわ」


マルグリット様が扇子を広げ、口元を隠した。


「私は甘くないわよ。公爵家の婚約者として人前に出すからには、それ相応の教育を施す。泣き言は聞かない。逃げることも許さない。覚悟はおあり?」


「はい」


迷いなく答えた。


「もとより、泣き言を言う余裕などございません。三ヶ月という期限の中で、公爵閣下のお役に立てる婚約者となること。それが私の契約上の義務ですから」


「……ほう?」


マルグリット様の眉がわずかに上がった。


「契約、契約と。随分と割り切っているのね」


「事実ですから。私と公爵閣下の関係は、利害の一致に基づく契約です。そこに感情を持ち込むつもりはございません」


(……まあ、持ち込む感情すら残っていないのだけれど)


内心でそう付け加えながら、私は静かにマルグリット様の反応を待った。


数秒の沈黙。


そして、意外なことに、老婦人は笑った。


「ふふ……面白いわね、あなた」


「……は?」


「契約で連れてこられた小娘かと思えば、なかなかどうして。その目、その受け答え。只者ではないわ」


扇子が閉じられ、鋭い瞳が再び私を捉えた。


「では、早速始めましょうか。まずは貴族令嬢としての基礎教養から確認させてもらうわ。――歴代国王の名と、その治世の特徴を述べなさい」


「初代アルフレッド王は建国の英雄、その治世は領土拡大と法整備に特徴づけられます。二代目エドワード王は『賢王』と称され、官僚制度の確立と学術振興に尽力――」


私は淀みなく答えた。これくらいは、幼い頃に母から教わった基礎教養だ。


マルグリット様の目がわずかに見開かれた。


「……では、現在の宮廷における派閥構成と、各派閥の主要人物は?」


「王弟派、宰相派、中立派の三派が主要です。王弟派の中心人物はグラント侯爵、宰相派はローゼンクランツ伯爵、中立派は――」


こちらも問題ない。父が健在だった頃、社交の場で得た情報を整理していたものだ。


質問が続く。礼儀作法、舞踏の知識、茶会の作法、刺繍の技術、楽器の演奏。


私は一つ一つ、丁寧に、けれども確実に答えていった。


「……もう一度聞くけれど」


一時間後、マルグリット様は深いため息をついた。


「あなた、本当に没落寸前の子爵令嬢なの?」


「事実でございます」


「教育はどこで受けたの?」


「母からです。母は生前、宮廷にも出入りしておりました。私が幼い頃に亡くなりましたが、基礎は全て母から学びました。その後は独学で」


「……独学で、ここまで」


マルグリット様が椅子の背にもたれ、天井を仰いだ。


「信じられないわ。あなたの教養は、王都の名門学院を出た令嬢にも引けを取らない。いえ、むしろ上回っている部分すらある」


「恐れ入ります」


「なぜ」


「……はい?」


「なぜ、これほどの教養を持ちながら、あの伯爵子息などに『地味で退屈』などと言われていたの?」


私は一瞬、言葉に詰まった。


「……見せなかったから、でしょうか」


「見せなかった?」


「アルベルト様は……元婚約者は、自分より優れた者を好みませんでした。私が知識を披露すれば不機嫌になり、私が社交の場で目立てば『出しゃばるな』と。だから私は、常に一歩引いていました」


声に感情は乗せなかった。事実を述べただけだ。


「……愚かな男ね」


マルグリット様が吐き捨てるように言った。


「宝石を見抜く目がなかったのね、あの伯爵子息には。磨けば光る原石を、石ころと見なしていたとは」


「……恐れ入ります」


「お世辞ではないわよ」


老婦人が立ち上がり、私の前に歩み寄った。


「リディア・ヴァレンシア嬢。当初、私はあなたを『三ヶ月で仕立て上げなければならない素材』だと思っていた。けれど、考えを改めるわ」


「……と、おっしゃいますと?」


「あなたには、すでに土台がある。私がすることは、その土台を磨き上げることだけ。三ヶ月どころか、一ヶ月もあれば十分でしょう」


マルグリット様の唇が、笑みの形に曲がった。


「ふふ……これは楽しみだわ。社交界の連中が、どんな顔をするか」


「……マルグリット様?」


「なんでもないわ。さあ、今日はここまで。明日から本格的な仕上げに入るから、覚悟しておきなさい」


応接室を出ようとしたその時、扉が開いた。


立っていたのは、クロード公爵だった。


「叔母上。彼女の教育は順調か」


「ええ、とても」


マルグリット様が意味深な笑みを浮かべた。


「クロード。あなた、いい目をしているわね」


「……何の話だ」


「この子のことよ。『意外と使える』どころではないわ。なぜこれほどの女性が捨てられたのか、不思議でならない」


公爵の銀灰色の瞳が、一瞬だけ私を見た。


無表情。けれど、その奥に何かが揺らいだように見えたのは、気のせいだろうか。


「……そうか」


短い返答を残して、公爵は廊下へと消えていった。


その背中を見送りながら、マルグリット様が呟いた。


「ふふ……本当に、楽しみだわ」


私にはその言葉の意味がわからなかった。


ただ、一つだけ確かなことがあった。


この公爵家での三ヶ月は、想像していたものとは違う展開になりそうだ、ということ。


(……とはいえ、油断は禁物。これは契約。それ以上でも、それ以下でもない)


私は心の中でそう言い聞かせ、与えられた部屋へと向かった。


窓の外では、夕日が沈みかけていた。


三ヶ月のカウントダウンが、静かに始まろうとしていた。




     * * *




公爵家での生活が始まって、二週間が経った。


毎日がめまぐるしかった。マルグリット様による「仕上げ」は、想像以上に徹底していた。最新の流行を取り入れたドレスの着こなし、髪型の研究、扇子の使い方、視線の配り方。私が既に持っている教養を、いかに「魅せる」形で発揮するか。それが訓練の主眼だった。


「あなたは控えめすぎるのよ」


マルグリット様は何度もそう言った。


「元婚約者に抑え込まれていた癖が抜けていないわ。もっと胸を張りなさい。あなたには、その資格がある」


(……資格、か)


内心では苦笑するしかなかった。資格があるかどうかはともかく、演じなければならない。それが契約なのだから。


そして今日、私は公爵邸の庭園にいた。


「本日は庭園散策を兼ねた作法訓練です。公爵閣下もご同行されます」


侍女にそう告げられた時、正直、緊張した。


この二週間、クロード公爵とは必要最低限の会話しか交わしていない。食事の席で顔を合わせることはあっても、彼は黙々と食事をし、私も余計な口を挟まなかった。


(契約相手だもの。馴れ合う必要はない)


そう割り切っていた。割り切っていた、はずだった。


「……天気が崩れそうだな」


公爵が空を見上げて呟いた。


確かに、先ほどまで晴れていた空に、灰色の雲が広がり始めている。


「お戻りになりますか?」


私が尋ねると、公爵は首を横に振った。


「いや。もう少し歩く。社交の場では、多少の雨でも中断できないこともある。慣れておけ」


「……かしこまりました」


私たちは薔薇園の小道を歩き続けた。


沈黙。けれど、不思議と居心地は悪くなかった。


クロード公爵は、無駄な会話をしない人だ。けれど、それは冷たさからではなく、言葉を選んでいるからだと、この二週間でなんとなく理解できていた。


「……リディア」


突然、公爵が口を開いた。名前で呼ばれるのは初めてだった。


「はい」


「叔母上から聞いた。教育は順調だと」


「はい。マルグリット様には大変よくしていただいております」


「そうか」


再び沈黙。


そして、ぽつりと。


「……なぜ、あの男に捨てられた」


「……は?」


唐突な質問に、私は足を止めた。


「お前の教養、知性、社交の才覚。叔母上が驚くほどのものを持ちながら、なぜあの伯爵子息に『地味で退屈』などと言われていた」


「……見せなかったからです」


「見せなかった?」


「元婚約者は、私が目立つことを好みませんでした。だから私は――」


「隠していた、と」


公爵の銀灰色の瞳が、真っ直ぐに私を見た。


「愚かだな」


「……は?」


「お前が愚かだと言っているのではない。あの男が愚かだ」


公爵が視線を逸らし、薔薇の花に目をやった。


「宝石の価値を見抜けない者は、宝石を持つ資格がない」


(……それは、褒められているのかしら)


私が困惑していると、ぽつり、と冷たいものが頬に落ちた。


雨だ。


「……降ってきたか」


公爵が空を見上げた瞬間、雨脚が一気に強まった。


「お急ぎください、閣下!」


私は近くの東屋を目指して駆け出した。公爵も後に続く。


東屋に駆け込んだ時には、二人ともすっかり濡れていた。


「……申し訳ございません。私が天候の変化に気づいていれば」


「お前のせいではない」


公爵が外套を脱いだ。漆黒の生地が雨に濡れて光っている。


そして、次の瞬間。


公爵は、その外套を私の肩にかけた。


「……閣下?」


「濡れている。風邪を引くぞ」


「で、ですが、閣下のほうが」


「私は構わない」


それだけ言って、公爵は雨の降る庭園に視線を向けた。


私は、かけられた外套の温もりに、戸惑いを隠せなかった。


(……なぜ)


契約相手だ。演技の相手だ。三ヶ月後には他人に戻る。


それなのに、なぜこの人は、こんな――


「……公爵閣下」


「何だ」


「なぜ、私を選んだのですか」


質問は自然と口を突いて出た。


「以前も申し上げましたが……私のような没落子爵令嬢など、閣下の盾役には不釣り合いでは」


「……そうだな」


公爵が呟いた。


「確かに、身分だけで言えば不釣り合いだ。だが」


その銀灰色の瞳が、再び私を捉えた。


「私が求めていたのは、身分ではない」


「……では、何を」


「……それは」


公爵が言いかけた時、雨が弱まり始めた。


「……雨が止んできた。戻るぞ」


結局、その言葉の続きは聞けなかった。


けれど、私の肩には、まだ公爵の外套がかかっていた。


彼はそれを返すよう言わなかった。私も、返そうとは言えなかった。


(……これは、契約。それだけ)


心の中でそう言い聞かせた。言い聞かせなければ、ならなかった。


なぜなら――


この人の、不器用な優しさに触れるたびに。


胸が、痛むようになっていたから。


公爵邸に戻ると、玄関で待っていたのはレオン様だった。クロード公爵の従弟で、陽気な青年。私のことを早くも「義姉上」と呼ぶ、少々困った人物だ。


「おや、従兄上。義姉上。随分と濡れていらっしゃいますね。――ん? 従兄上、外套は?」


レオン様が目敏く気づいた。


「……なんでもない」


「なんでもなくないでしょう。義姉上が着ていらっしゃるそれ、従兄上のですよね?」


「……黙れ」


「やだなあ、照れなくてもいいじゃないですか。従兄上があんなに誰かを気にかけてるの、初めて見ましたよ」


「レオン」


公爵の声が低くなった。レオン様は肩をすくめて笑った。


「はいはい、わかりましたよ。――でも義姉上、覚えておいてくださいね」


レオン様が私にだけ聞こえる声で囁いた。


「従兄上は不器用なだけで、本当は情に厚い人です。言葉より、行動で見てあげてください」


そう言って、レオン様は軽やかに去っていった。


残された私は、肩にかかった外套を、そっと握りしめた。


(……言葉より、行動)


雨の日に、無言で外套を掛けてくれたこと。


私の好物が、いつの間にか食卓に並ぶようになったこと。


教育が辛くないかと、さりげなく叔母上に確認していたこと。


全部、全部――この人の、不器用な優しさだったのだ。


(……駄目。これは契約。三ヶ月後には終わる)


私は自分に言い聞かせた。


けれど、胸の痛みは、消えてくれなかった。




     * * *




社交界デビューの日は、嵐のようにやってきた。


ヴァルトシュタイン公爵家主催の茶会。私の「お披露目」を兼ねたこの催しに、王都の名だたる貴族たちが招待されていた。


「……大丈夫?」


マルグリット様が、最終確認をしながら尋ねた。


「はい」


私は鏡の中の自分を見つめた。


蜂蜜色の髪は、プロの髪結いによって優雅に結い上げられている。深い森を映したような緑の瞳は、適度な化粧で輝きを増している。身に纏うのは、公爵家が誂えた最新流行のドレス。淡い緑のシルクが、私の肌の白さを引き立てていた。


(……これが、私?)


正直、自分でも驚いた。元婚約者に「地味で退屈」と言われ続けた私が、こんな姿になるとは。


「さすがに驚いたでしょう?」


マルグリット様が満足げに微笑んだ。


「でもね、リディア。これがあなたの本来の姿なのよ。あの愚かな伯爵子息が、見ようとしなかっただけ」


「……ありがとうございます」


「さあ、行きましょう。社交界に、本当のあなたを見せてやりなさい」


茶会場に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。


「あの方が……公爵様の婚約者?」

「なんて美しい……」

「没落子爵令嬢と聞いていたが、あれほどの……」


囁きが波紋のように広がっていく。


私はクロード公爵の隣に立ち、完璧な令嬢の微笑みを浮かべた。


「リディア・ヴァレンシアと申します。本日はお越しいただき、誠にありがとうございます」


一礼。優雅に、けれども媚びない態度で。


その瞬間から、私への評価は一変した。


「隠れた名花」「磨かれた宝石」――そんな称号が、あちこちで囁かれるようになった。


茶会は順調に進んだ。私は貴婦人たちと談笑し、知識を披露し、けれども決して出しゃばらない絶妙なバランスを保った。マルグリット様の訓練の成果だ。


そして――予想通り、あの二人も現れた。


「まあ、まあ、まあ」


セレーナの甲高い声が響いた。


「リディア様ったら、随分とお綺麗におなりになって。見違えましたわ」


(……来たわね)


私は心の中で身構えながら、表面上は穏やかに微笑んだ。


「セレーナ様、アルベルト様。ご機嫌よう」


「ああ、リディア」


アルベルトが近づいてきた。その顔には、かつての侮蔑ではなく、別の感情が浮かんでいた。


欲望。そして、焦り。


「久しぶりだな。随分と……変わったじゃないか」


「お褒めにあずかり光栄ですわ」


「いや、褒めてなどいない。ただ……そうだな」


アルベルトが一歩、距離を詰めた。


「やはり君が必要だ、リディア」


(……は?)


内心で、私は耳を疑った。


「君を手放したのは間違いだった。今ならわかる。セレーナより君のほうが――」


「アルベルト様!」


セレーナが金切り声を上げた。


「あなた、何をおっしゃっているの!?」


「うるさい、黙っていろ。これは男と女の話だ」


アルベルトがセレーナを手で払いのけた。その瞬間、周囲の貴婦人たちが息を呑んだ。


「リディア。公爵との婚約を解消して、私のもとに戻ってこい。君の家の借金くらい、なんとかしてやる」


(……今更、何を言っているのかしら。あなたが私を捨てたのは半年も前のことですわ。しかも、借金をなんとかする? 私の持参金を着服した人が?)


私は深く息を吸った。


そして、静かに、けれども明確に答えた。


「お気持ちはありがたく存じますが、お断りいたします」


「……何だと?」


「私には今、婚約者がおりますので。それに――」


私はアルベルトの目を真っ直ぐに見据えた。


「半年前、私を『地味で退屈』とおっしゃったのはアルベルト様ご自身ですわ。お言葉を撤回される理由が、私には理解できかねます」


「そ、それは……」


「もしかして、私が公爵閣下の婚約者になったから、急に価値を見出されたのでしょうか? それは少々、浅はかではありませんこと?」


周囲がどよめいた。


アルベルトの顔が、みるみるうちに赤くなった。


「き、君……!」


「アルベルト」


低い声が割って入った。クロード公爵だ。


いつの間に近づいていたのか。その銀灰色の瞳が、冷ややかにアルベルトを見下ろしていた。


「私の婚約者に、随分と馴れ馴れしいな」


「こ、公爵閣下……これは、その……」


「二度と近づくな。次はないと思え」


たった一言。けれど、それだけで、アルベルトは青ざめた。


「も、申し訳ございません……失礼します……!」


逃げるように去っていくアルベルト。セレーナが「ちょっと、待ちなさいよ!」と追いかける。その姿を、周囲の貴族たちが冷ややかな目で見送っていた。


「……大丈夫か」


公爵が低く尋ねた。


「はい。ありがとうございます、閣下」


「……あの男のことは気にするな。お前には、もう関係のない人間だ」


「ええ。存じております」


私は静かに微笑んだ。


(……関係のない人間。そう、その通りだわ)


かつて私を見下した男が、今、私を欲している。けれど、もう遅い。


私は、あの頃の私ではない。


そして隣には――


私を「宝石」と呼んでくれた人がいる。


(……いけない。これは契約。それ以上のものでは――)


「リディア」


公爵が、珍しく私の名を呼んだ。


「今日のお前は、美しかった」


「……え?」


「……いや、なんでもない」


公爵は視線を逸らし、足早に去っていった。


残された私は、熱くなる頬を、扇子で隠すしかなかった。


(……美しかった、ですって?)


心臓が、痛いほどに跳ねている。


三ヶ月。あと三ヶ月で、この関係は終わる。


わかっている。わかっているのに――


私の心は、もう、言うことを聞いてくれなかった。




     * * *




王宮の大舞踏会。年に一度、社交界シーズンの締めくくりとなる最大の催し。


契約期限まで、あと二週間。


私は、煌びやかな会場の片隅で、複雑な想いを抱えていた。


(……あと二週間で、終わる)


公爵家での三ヶ月。最初は契約と割り切っていたはずなのに、いつの間にか――


「リディア」


クロード公爵が隣に立った。漆黒の正装に身を包んだその姿は、息を呑むほどに美しい。


「一曲、踊ろう」


「……はい」


差し出された手を取る。手袋越しでも、その温もりが伝わってくる。


私たちは、舞踏会場の中央へと進んだ。


音楽が流れ始める。優雅なワルツ。


公爵のリードは完璧だった。私はただ、その流れに身を任せればよかった。


「……緊張しているな」


「いえ、そのようなことは」


「嘘をつくな。手が震えている」


(……バレていた)


私は小さく息を吐いた。


「……少しだけ」


「何を恐れている」


「……わかりません。ただ――」


(ただ、この時間が終わるのが、怖いのです)


その言葉は、喉の奥で消えた。


その時だった。


「――あら、まあ!」


甲高い声が、会場に響き渡った。


セレーナだ。彼女は会場の中央に進み出て、大げさな身振りで叫んだ。


「皆様、聞いてください! あのリディア・ヴァレンシアの正体を!」


私は足を止めた。周囲の視線が、一斉にこちらに集まる。


「あの女は、金目当てで公爵様に取り入った詐欺師ですわ!」


セレーナが勝ち誇った笑みを浮かべた。


「没落子爵家の借金を肩代わりしてもらうために、偽りの愛を演じていたのです! なんて恥知らずな女でしょう!」


どよめきが広がる。好奇の目、疑惑の目、そして――いくつかの同情の目。


アルベルトも、セレーナの隣でニヤニヤと笑っていた。


「ほら見ろ、リディア。お前の化けの皮は剥がれたんだ。さあ、大人しく――」


「騒々しいな」


低く、冷たい声が響いた。


クロード公爵が、一歩前に出た。その銀灰色の瞳が、氷のようにアルベルトとセレーナを射抜く。


「彼女を選んだのは私だ」


「こ、公爵閣下?」


「借金の肩代わり? それが何だ。私が認めた上での契約だ。外野に口出しされる筋合いはない」


「で、ですが――」


「そして」


公爵が、さらに一歩踏み出した。


「アルベルト・グランツ。お前こそ、詐欺師ではないのか」


「……は?」


アルベルトの顔色が変わった。


「何を、おっしゃっているのですか……?」


「リディアとの婚約を破棄した時、お前は彼女の持参金を着服しただろう」


会場が、しん、と静まり返った。


「な……何を、根拠もなく……!」


「根拠ならある」


公爵が、懐から一冊の帳簿を取り出した。


「ヴァレンシア子爵家からグランツ伯爵家に渡された持参金の記録。そして、その金がお前個人の賭博の借金返済に充てられた証拠。全て揃っている」


「そ、それは……!」


「調べさせてもらった。お前がリディアを『地味で退屈』と切り捨てた本当の理由は、彼女に知性があったからだ。いずれ持参金の行方を追及されることを恐れ、その前に切り捨てた。違うか」


アルベルトの顔が、蒼白になった。


「ち、違う……! それは、誤解で――」


「誤解?」


公爵が帳簿を高く掲げた。


「この帳簿の筆跡は、お前自身のものだ。専門家の鑑定も済んでいる」


「そ、そんな……!」


「アルベルト!」


セレーナが金切り声を上げた。


「どういうことよ!? 聞いてないわ、そんなこと!」


「う、うるさい! 黙れ!」


「黙れですって!? あなた、私の持参金も同じように使うつもりだったんでしょう!? 騙したのね!」


「違う、聞いてくれ――」


「聞きたくないわ! 婚約解消よ! あなたなんか、もう知らない!」


二人の醜い言い争いが、大舞踏会場に響き渡った。


周囲の貴族たちは、冷ややかな目でそれを見ている。軽蔑、嘲笑、そして「やはり」という確信。


「……もういい」


公爵が、静かに、けれども確実に届く声で言った。


「アルベルト・グランツ。お前の悪事は、今日この場にいる全員が証人だ。今後、社交界でお前の居場所はないと思え」


アルベルトが、がくりと膝をついた。


「そ、そんな……私は、伯爵家の嫡男だぞ……!」


「伯爵家の嫡男が、婚約者の持参金を着服。そのほうがよほど醜聞だ」


公爵が、私の手を取った。


「リディア。何か言いたいことはあるか」


私は、静かに息を吸った。


そして、かつて私を見下した男を見下ろしながら、言った。


「過去のことは、もう結構ですわ」


「な……」


「私には今の生活がありますので。アルベルト様のことは、もう眼中にございません」


完璧な令嬢の微笑みを浮かべて、私は深々と一礼した。


「どうぞ、お元気で」


それだけ言って、私は公爵と共に、その場を離れた。


背後で、アルベルトの悲痛な叫び声が聞こえた。けれど、もう振り返らなかった。


(……終わった)


長い、長い屈辱の日々が、今、ようやく終わりを告げた。


そして、新しい問いが、私の胸に浮かんだ。


(……公爵閣下は、なぜ、あそこまでしてくださったのかしら)


契約は、あと二週間で終わる。盾役としての役目は、もう十分に果たしたはず。


なのに、なぜ――


「リディア」


公爵の声が、私の思考を遮った。


「庭園に出よう。話がある」




     * * *




月明かりが、王宮の庭園を銀色に染めていた。


舞踏会場の喧騒から離れ、私とクロード公爵は、薔薇園のアーチの下に立っていた。


沈黙が流れる。


私の心臓は、痛いほどに鳴っていた。


(……話がある、とおっしゃっていた。きっと、契約の終了について――)


「リディア」


公爵が、私の名を呼んだ。


「契約期限が近い」


「……はい」


「だから――新しい契約書を用意した」


(……やはり)


私は覚悟を決めた。終わりの宣告。三ヶ月間、ありがとうございました。これからは他人として――


「これだ」


公爵が、懐から何かを取り出した。


私は目を凝らした。そして――


息が、止まった。


そこにあったのは、小さな箱。そして、一枚の紙。


箱を開けると、中には指輪があった。繊細な銀細工に、森の緑を閉じ込めたようなエメラルド。私の瞳の色と、同じ――


そして、紙には。


『契約期間:永遠』


その一文だけが、書かれていた。


「……閣下……?」


「期限を撤回する」


公爵が、真っ直ぐに私を見た。


その銀灰色の瞳には、これまで見たことのない光が宿っていた。


「一生、俺の隣にいろ」


「……っ」


「これは契約ではない。俺の――本心だ」


言葉が、出なかった。


涙が、溢れた。


「最初から、お前だけを見ていた」


公爵が、ぽつりぽつりと語り始めた。


「領地経営の報告書。あれを読んだ時から、お前の才能に気づいていた。没落寸前の子爵領を、たった一人で支えている令嬢がいる、と」


「……閣下」


「契約を持ちかけたのは、盾が必要だったからではない。お前と近づく口実が欲しかったからだ」


「え……?」


「……不器用でな。他に方法が思いつかなかった」


公爵が、珍しく視線を逸らした。その頬が、わずかに赤い。


「雨の日に外套をかけた時から、俺はもう――お前を守りたいと思っていた。けれど、契約という形でしか、その想いを表現できなかった」


「閣下……」


「クロードと呼べ」


「え?」


「契約相手ではなく、婚約者として。――いや、妻として、俺の名を呼んでくれ」


私は、涙を拭った。


そして、震える声で答えた。


「……お受けいたします」


「……本当か」


「はい。クロード様」


名前を呼んだ瞬間、公爵の――クロードの表情が、ふっと緩んだ。


初めて見る、柔らかな笑み。


「……ありがとう」


「いいえ。私こそ――」


私は、深く息を吸った。


「私こそ、感謝しております。私を見つけてくださって。私の価値を、認めてくださって」


「当然のことだ。お前は――」


クロードが、指輪を私の左手の薬指にはめた。


「俺にとって、唯一の宝石だ」


月明かりの下、エメラルドが輝いた。


私たちは、静かに唇を重ねた。


契約は終わった。けれど、私たちの物語は、ここから始まる。


「期限:永遠」


その言葉を、私は一生忘れないだろう。


三ヶ月限定の偽装婚約者。


その契約は、本物の愛で上書きされた。


そして私は――リディア・ヴァルトシュタインとして、新しい人生を歩み始める。




     * * *




――エピローグ 一年後の春――




ヴァルトシュタイン公爵領は、穏やかな陽光に包まれていた。


「奥方様、本日の領地視察の書類です」


執事から書類を受け取りながら、私――リディア・ヴァルトシュタインは、窓の外を眺めた。


緑豊かな領地。活気ある領民たち。一年前、私が提案した農業改革は成功し、収穫量は二割増加した。新たに誘致した工房は順調に稼働し、雇用も生まれている。


「賢夫人」


社交界では、私をそう呼ぶようになったらしい。


(……賢夫人、ね。大げさだわ)


内心で苦笑しながら、私は書類に目を通した。


「リディア」


低い声がして、振り返ると、クロードが執務室に入ってきた。


「視察の件、俺も同行する」


「まあ、よろしいのですか? 本日は国王陛下との謁見が――」


「延期した」


「延期……って、閣下」


「クロードと呼べと言っただろう」


「……クロード」


名前を呼ぶと、夫はふっと笑みを浮かべた。一年経っても、その笑顔は私の心臓を跳ねさせる。


「妻の視察に同行するのに、王との謁見を優先する馬鹿がどこにいる」


「……馬鹿はあなたのほうでは?」


「何か言ったか」


「いいえ、何も」


私は微笑んで、夫の手を取った。


この一年、様々なことがあった。


父の病は、公爵家の支援で最高の医師を招くことができ、今では回復に向かっている。先日の手紙では、「娘に苦労ばかりかけた」と涙ながらに詫びつつ、「幸せそうで何よりだ」と書いてあった。


マルグリット様は今でも私の指導役であり、良き相談相手だ。「最初から、クロードがあなたを選んだ意味はわかっていたわ」と、後から教えてくれた。


レオン様は相変わらず陽気で、私を「義姉上」と慕い、クロードの不器用な愛情表現をからかっては叱られている。


ヴィクトリア嬢とは、今では親友と呼べる仲になった。社交界の情報を交換し合い、時には愚痴を言い合う。彼女もまた、権威主義的な母親との関係に悩みながらも、少しずつ自分の道を歩み始めている。


そして――アルベルトとセレーナ。


彼らの顛末は、社交界の語り草となっている。


アルベルトは、持参金着服の件が公になり、伯爵家から勘当された。賭博の借金は膨れ上がり、今では王都の片隅で、かつての栄光の面影もなく暮らしているという。


セレーナは、アルベルトとの婚約を解消した後、すぐに別の貴族に接近しようとした。けれど、大舞踏会での醜態が噂となり、どこの家からも相手にされなくなった。実家の財力でも、一度失った評判は取り戻せなかったらしい。


因果応報。


私は彼らを恨んではいない。ただ、「あの時、私を見下した判断がどれほど愚かだったか」を、身をもって知ってもらえれば十分だ。


「何を考えている」


クロードの声で、我に返った。


「いいえ。ただ――幸せだな、と」


「……そうか」


夫は無表情を装いながらも、その耳が赤くなっている。一年経っても、愛情表現は相変わらず不器用だ。


「リディア」


「はい」


「俺は、お前と契約して、本当に良かった」


「……ふふ。それは、契約ではなく結婚、でしょう?」


「同じことだ。お前を俺のものにできた、という意味では」


「……もう、本当に不器用なんですから」


私は夫の頬に、軽くキスを落とした。


「私もですよ、クロード。あなたと出会えて、本当に良かった」


窓の外では、春の風が薔薇の蕾を揺らしていた。


三ヶ月限定の偽装婚約者。


それは今、永遠の誓いへと姿を変えた。


元婚約者が地団駄を踏んでいるようですが、もう遅いですわ。


私は今、この世界で最も幸せな公爵夫人なのですから。




――完――

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